TOPページ → 山(花)・旅 目次 → 震災遺構・大川小学校
10/5、この日は前日から予報もよくなく、朝もその通りだったので、登山以外の行動日だった。 旅先の予定というと普通は観光だが、今回はちがう目的でどうしても行きたいところがあった。 3・11で、そのとき学校にいた子どもたちが74人も亡くなった宮城県石巻市立大川小学校である。 助かった子どもはわずか4人、教職員も10人が亡くなり、助かったのは1人だけだった。 池上正樹・加藤順子『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』(青志社、2012年) 池上正樹・加藤順子『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する』(ポプラ社、2014年) 河北新報社報道部『止まった刻(とき) 検証・大川小事故』(岩波書店、2019年) 以上3冊が、大川小学校の事故や悲劇について詳しい。 3.11の大津波がいかに大変なものであったかは言を待たない。 が、学校管理下での、これほどの犠牲は他に皆無だ。 地震発生から、50分もの間、学校は何をしていたのか。 人災の疑いが濃厚だ。 裏山に逃げたら十分助かったのに…… それは結果論ではない。現実的にも十分に可能なことだった。 そのことを実感したくてレンタカーを走らせた。 岩手・一関からは県をまたぐが、Google Map で確かめると76㎞ほどだから、 いつも僕らが霧島に山登りに出かけるのと同じくらいで、そう遠くはない。 1時間半あまりで大川小学校に着いた。 |
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10:45 大河・北上川。目的地手前2㎞ほどの右岸道路より。写真中央が大川小の裏山。 その向こう側に学校があったが、河口(海)から直線で3.7㎞。 |
まず、震災遺構・大川小学校にあった震災前後の写真各1枚紹介します。 | ||||
この写真の撮影角度に注目してください。次の震災直後の写真とおなじです。 後ろの北上川の写り方、3~6年生教室・校舎の角度など、そして後で紹介する僕が裏山から撮ったのも同じです。 |
この写真は、津波到達から90分後に地域の被災者が裏山から撮影したものです。 |
ポイントは、右下の点線のところから裏山になぜ逃げなかったか、です |
子どもたちの「山さ、逃げよう」の声が無視された! |
震災遺構・大川小学校の周りは、ほとんど更地になっています |
体育館跡 |
校舎跡 |
校舎跡 |
ねじり倒された体育館との渡り廊下。津波の凄まじさを物語る |
教室跡 |
1~2年生教室跡 |
裏山の雰囲気が少しわかる震災前の写真です。傾斜がきつそうですが… |
いま現在の様子。左端から難なく上っていけます。 |
中央に白い服を着た人が立っています。あそこまでは、左端から回り込むように上がっていきますが、 ゆっくり時間をかけても2~3分です。人の右斜め下に白いのが津波到達点です。 |
校舎の屋根の高さと同じです |
僕もここから撮ったし、震災前後の大川小学校の全景などはここから撮られたものが多いと思います。 さて、白い服を着た人の写真の説明と同じことですが、ここには… |
体育館の後ろのほうから… |
…山に入って、上がってきます。 3・11の前年6月、3年生が裏山に上って写生したと言います。この場所だったのではないでしょうか。 大人でも100人程度なら、十分にくつろげる場所です。ここに、なぜ逃げなかったか… |
水曜日は休館日でした。 大川小の児童・教職員も含めて、大川地区では計418人が亡くなられた。 |
南浜祈念公園概要図 |
震災前の南浜 |
震災翌日 |
震災前の南浜 |
震災翌朝 |
この看板、新聞などで見た覚えがあります |
今はこのように置かれています |
東日本大震災メモリアル「南浜つなぐ館」 上の写真は、ほとんどこの中で撮りました。 |
初出:2022.10.26 最終更新: 202210.26
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