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TOPページ → 教育原理、いじめ、たのしい「生活指導」 → 知覧中事件に関する内沢達の陳述書




鹿児島県知覧町立
知覧中学校いじめ自殺事件(1996.9.18)に関する内沢達の陳述書



2001年2月9日に書証(甲第122号証)として、鹿児島地方裁判所に提出しました。 


現物は縦書きで人名はすべて本名ですが、ここでは、被告少年ら加害生徒名をA〜I、他の被害生徒や知覧中生徒名をJ〜R、知覧中の教員もT1〜T5、U〜Zで表しています。


四百字詰めでは120枚ほどにもなる長文ですが、事件の構造をわかりやすく描き出し、また生徒指導の課題がどこにあるのかについても明確にしておりますので、是非、ご覧ください。




陳述書

(目次)

一 校長の指導力、リーダーシップの欠如

二 暴力、暴行などのいじめについて、問題意識がなかった

三 調査、報告義務を履行せず、防止措置も取らなかった

四 生徒指導の課題には優先順位がある

五 自殺を防ぐための不登校・欠席を呼びかけず、知らせなかった責任

六 被告少年らに反省がないこと

七 親の責任




陳述者・内沢達は、鹿児島大学教育学部の教育学の教員です。
一九七六年に教養部の講師として採用され、一九七九年に助教授、一九九一年に教授に昇任し、一九九七年の組織改組、教養部の廃止等に伴って、教育学部に配置替えとなり、こんにちに至っております。大学院教育学研究科修士課程では、教育学コースの中の学校経営の分野を担当しています。


 陳述者が教育学の立場から、いじめ問題の解決の方途等について、直接、あるいは間接的に論じたものに、


@「いじめにどう対処するか」(随筆かごしま社「郷土雑誌・かごしま」第八八号所収、一九九五年二月)、

A「非行問題と教育法 ─ “荒れる中学”をどうする ─」(エイデル研究所『憲法と教育法』所収、一九九一年六月)、

B「不登校と“教育を受ける権利”」(有斐閣『日本教育法学会年報』第二六号所収、一九九七年三月)

があります。


陳述者は、村方勝己君が亡くなってから、両親をはじめ、同級生や上級生、加害生徒やその保護者、そして教師らから話を聞き、調査をすすめてきました。


その結果、知覧中におけるいじめの事実や特徴、加害生徒や学校の問題点などを相当程度に掌握することができました。


これまでの口頭弁論においても、それらの事実や問題点の多くが明らかになってきています。しかし他方では、未だふれられていない、また少しはふれられてはいても問題の所在などが掘り下げられていない事柄も少なくありません。


そこで、そうしたことに重点を置いて、陳述者自身が関わったことにもふれながら、以下、いくつか陳述いたします。


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一 校長の指導力、リーダーシップの欠如


村方勝己君を死に追いやったものは、間違いなくいじめです。
知覧中の教師たちは、いじめに対して、実効のあることをほとんどしませんでした。


全国的にいじめ自殺のことが大きな問題となっていたなかで、一九九五年三月に(勝己君が中学一年を終える頃です)、文部省は「いじめ対策緊急会議報告」を公表して、「学校を挙げた対応」を求めました(乙イ第六七号証参照)。


しかし、知覧中では全校的な取り組みがなされなかったばかりか、個々にもみるべき取り組みがありませんでした。


その原因の一つに学校経営の最高責任者である校長の指導力、リーダーシップの欠如があげられます。



拙稿@「いじめにどう対処するか」は、今から六年前、愛知県西尾市東部中学校の大河内清輝君が自殺した直後、一九九四年の暮れにまとめたものです。


いじめを人権問題として捉えなければならないことや校長、主任などに求められている説得力のある指導のあり方などについて論じています。


この論文執筆のきっかけの一つは大河内君のことでしたが、もう一つは、その年の九月末にいじめ被害についての相談が私にあったことです。


相談とは、IK中学校一年男子生徒の父親からで、「息子がひどいいじめにあっているのに学校はなにもしない」というものでした。


ところで、IK中の、そのときの校長とは後に知覧中に転任してくることになるZ氏、その人でした。
私は、十月初めに、Z校長に電話をいれています。


「こちらからお邪魔して、学校としてどう対処したらよいのか、具体的にご教示しましょうか?」と申しましたが、校長は「いや、先生にわざわざおこしいただかなくても・・・」と断りました。


甲第七三号証は、被害生徒・S君の生活ノートの写しです。
S君は、同級生八人ぐらいの名前をあげながら、「今日は○○君になぐられた」「たたかれた」「つばをはきかけられた」「ズボンぬがしをされた」「つねられた」などと、連日、訴えていました。


にもかかわらず、担任教諭は赤ペンでの書き込みにあるように、「いつも被害者なんだね!」「相手の方も何か理由があるのかな」「たまには猛反撃したら!」「小さい小さい!」などとまったく取り合いませんでした。


それどころか、「まず、みんなのためにどこかがんばっているという所も必要かも」「行動に積極性を」などと記して、いじめ問題の見方としてはもっとも害がある、「いじめられる子に(も)問題がある」という見方を隠してさえいないのです(この教諭は後にZ校長の申し出もあって教頭に昇任していますので、いっそう問題が大きいと思います)。


S君の父親は、この生活ノートに気づき驚きました。と同時に怒り心頭に発して、こんなにひどいいじめを見過ごす中学にわが子を通わすわけにはいかないと思い、S君と話し合いました。


その結果、S君は登校拒否をして、学校を休んでわが身の安全を守るようになりました。
他方でS君の両親は、学校に対していじめ問題への取り組みを求めましたが、Z校長は「とにかく登校させてください」の一点張りで、必要な調査をおこなったり対策を取ろうとはしませんでした。


その一年半後に、Z校長は知覧中に転任しますが、やはり必要ないじめ対策を講じませんでした。
転任早々、四月下旬には、「下級生に対する集団暴行事件」が発覚します。


二年部の教員を中心とした不十分な調査であっても、やがて、暴力、暴行のひどい実態が明らかになってきます。


しかし、Z校長には「これはひどい、ひどすぎる」という認識がなかったのでしょう。


一般の市民感覚では、「計一七〇発(も)」「数えきれない程沢山うたれた」などといった暴力、暴行が横行している中学は危険きわまりないところで、「なんとかしなければ」と思うのが普通です。


ところがZ校長には、そうした危機意識もなければ、危機管理の発想もなかったのです。
知覧中の「保護者来校相談」という従前からの生徒指導のスタイルを踏襲するだけで、六月六日の講話と謝罪の儀式、若干の注意などですませてしまいました。


この事後処置は、被告少年ら加害生徒に、「見つかりさえしなければいい」「いや、見つかってもたいしたことない」という、間違った学習をさせてしまいました。


その後の彼らのいっそうのしたい放題を助長し、勝己君への暴力、暴行をエスカレートさせていく契機となりました。


私がZ校長と直に面談したのは、勝己君が亡くなってから五ヶ月後の、一九九七年二月一八日、知覧中の校長室においてです。


その前月に理不尽きわまりない体罰がありました。


一月二一日に何ひとつ責められるようなことをしていない一年生R君(その年の秋にまた繰り返された「下級生に対する集団暴行事件」は、被害生徒の一人が彼に話したことから明るみに出ました。現在高校二年生です)が体罰常習教師の一人、T1教諭から「授業中、ニタついた」といって左右の頬を殴られました。


R君はその場で「やめてください」と訴えています。
クラスの女子生徒たちは泣き出すほどひどいものでした。


R君の両親は、「勝己君が亡くなったというのに、反省がない。教師がいじめを教えている。知覧中は“いじめ教育推進校”ではないか」と抗議し、厳重な対処を求めておりました。


そうしたなかで私も含めて両親と学校側の話し合いがもたれたのでした。


学校教育法でも厳禁されている教師の体罰について、校長が指導力を発揮してこれを根絶していくことは、いじめ問題への取り組みのなかでもとくに重要な課題の一つです。


そのことは、文部省通知でも繰り返し強調されています。
二月一八日には、一時間以上話し込み、私はその後も何度か、電話やファックスで体罰の事実、概要を生徒、保護者全員に明らかにしたうえで、事故報告や謝罪をおこなうことなど、対応を求めたのですが、Z校長が取った処置は、ごく限られたものでした。


所属職員の監督にも関わることですので、校長でなければできないことだったのですが、為すべきことをしませんでした。


していれば、「校長先生は本気になって知覧中から暴力をなくそうとしている!」と生徒たちの信頼を獲得することができたでしょうが、そのチャンスを自ら放棄したと言ってもよいでしょう。


これでは、生徒たちは、暴力はどんな場合でも許されないとは、本心から思えません。
Z校長は、勝己君の命という尊い犠牲があっても、なお気づこうとしなかったのです。


前任者のY校長とて同様です。
勝己君が二年のときの、勝己君、J君、K君らへの上級生から暴行や強要、恐喝、またF君、L君らへの同級生からの暴行など、これらを学校は把握していました。


Y校長も、毎週、生徒指導部会に出席していたのではないでしょうか。
しかし、同校長がなにか指導的なことをおこなったとは全然聞きません。


校長が学校のお飾りであっていいはずがありません。その時その時、校長には絶えずリーダーシップが求められているのです。



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二 暴力、暴行などのいじめについて、問題意識がなかった



どうして校長にリーダーシップがなかったのでしょうか。
それは、暴力、暴行などのいじめ行為について、「これはほんとうに大きな問題だ。
なんとかしなくてはいけない」という、あって当たり前の問題意識がまったくなかったことによります。


問題意識のないところに、そもそもリーダーシップを期待することもできません。


第一六回および第一七回の口頭弁論において、勝己君が亡くなる二ヶ月前の七月に生徒会が実施した「いじめアンケート」のことについての証言がありました。


W元生徒指導主任は、生徒会役員から結果の報告が自分にあったこと、職員会議にも全員にプリントが配付され生徒会係から報告があったこと、三年生の集約が非常に少なかったことについて質疑があったことなどを証言しました。


ところが、Z元校長は、いじめアンケートについて「記憶にない」と証言をしました。これは、まったく信じがたいことです。


じつは、この生徒会アンケートの資料は、四〜五年前に知覧中で生徒会副会長を務め、昨春鹿児島大学教育学部に入学したP君(勝己君とは二年のとき同じクラス)が私に提供してくれたものです。


アンケート用紙の作成や集計は彼を中心におこなっていて、プリントの字も彼のものです。


P君によると、W主任に対しては報告していないとのことですが(W元主任は証言前に私に、「生徒会の女子役員が報告にきた」と話してくれました)、生徒会係のT2教諭が結果を見て「こんなにいじめがあるの!」と驚いていたと言います。


W元主任が「生徒会係の女の先生が職員会議で報告した」と証言したことと話が合います。


P君によると、三年の一学期には、いじめに限定した七月のアンケートだけでなく、他にも生徒会アンケートがあったといいます。


最初は、生徒総会の議題を決めるためのアンケートでした。


「五月三一日に、一学期の、第一回生徒総会があります。その議題を決めたいと思いますので、議題にしてほしいものがあれば、自由に書いて下さい。」といった趣旨でおこなったと言います。


P君がその集計もしていて、B4・一枚に手書きでまとめています(甲第一一七号証)。


件数として、圧倒的に多かったのは、校則に関するものでした。「中間服の第一ボタンをあけてほしい(女子)一二一」、「頭髪は自由がいい(男子)一〇五」などです。


校則のように多くはありませんが、「友人・上下関係について」、「先輩と後輩の仲がうまくいかない 一七」、「いじめをなくしてほしい 九」と出てきたのです(「先生方に対して」、「暴力・ひいきをやめてほしい 一一」というのもありました)。


その結果、生徒会執行部は、「生徒総会」資料を配付する一方で、「生徒総会についてのお知らせ」も発行して、そのなかで「このあいだ行ったアンケートで、男子の頭髪の自由化、先輩後輩の上下関係、いじめについて生徒総会で話し合ってほしいという意見がたくさんありました。それぞれの学級で話し合ってください。そして、生徒総会で発表できるように意見をまとめてきてください。」と案内して、そこでまたアンケートをとっています(甲第一一八号証)。


こうしたお知らせやアンケート用紙など、生徒全員に配付する印刷物は、いつも生徒会役員が放課後に全体職員室の席に並べ、翌日の職員朝会で職員全員が見ることができるようになっていたと言います。校長も、もちろん手にしていたことでしょう。


さらに、五月三一日の生徒総会資料・プリント綴りの表紙には、会順が記され、「3 議事」の「(5)生徒アンケートから」のなかに、「頭髪の自由化」「先輩後輩の上下関係」「いじめ」とあります(甲第一一九号証)。


P君によると、生徒総会当日は「いじめ」のところまでは、議事が進まなかったそうです。
「いじめに関しては、今後、話し合っていきたいと思います」ということで持ち越しになりました。


そのような経緯があって、その後、いじめに限定しては初めての生徒会アンケートが七月九日締め切りでおこなわれることになります。


Z校長は、このいじめアンケートのことだけでなく、昨年一〇月二日付けの『読売新聞』の記事(甲第一二〇号証)によると、それに先立つ五月の生徒総会のことも「記憶にない」とのことです。


校長は生徒総会に出席していましたし、「会順 5 講評(校長先生)」とあるほどですので、これも信じがたいことです。


しかし、Z校長の場合は、まったくあり得ないことでもないように思います。
『読売』記事の表現を借りれば、「校長は生徒会活動に無関心だった」ということになりますが、もっと言えば「いじめに無関心」だったわけです。


Z元校長は、第一七回口頭弁論において「(職員に対して)いじめを、見えにくいんだから、アンテナを高く、常にアンテナを、情報をですね、アンテナを高くして、キャッチしてくれというのはよく話ししたつもりでおります。」(調書三八項)と証言しました。


「アンテナを高く」などしなくとも、以上から、いじめの存在は、生徒会の配付物を見るだけでもわかることです。しかも、生徒会役員が生徒総会を準備していた五月の中、下旬は、二、三年部の教員が「集団暴行事件」の調査を進めていた時期と一致します。


大半の生徒は「集団暴行事件」のことを知らなくても、教師たちは知っていました。


事件のことはよくわからない生徒会からも「先輩後輩の上下関係」のことも含めて、問題が提起されていたわけですから、いよいよもって「いじめ」に気づいて当然でした。
しかし、関心や問題意識がなければ、「心ここにあらざれば、見れども見えず」だったのです。


いじめのことに関心や問題意識がなかったのは、校長だけではありません。
X教頭やW生徒指導主任、そして生徒指導担当でもあったV、U元両担任、さらに他の教員も同じです。


勝己君やその他の生徒に対する暴力、暴行、恐喝といったいじめ行為を、教員が個々に、あるいは学年部、さらには生徒指導部会レベルで見過ごしてきました。


一九九七年一月二四日付けの事故報告書(乙イ第七号証)の校長所見欄には、「本校は、これまでの生徒の行動を『点』(一過性)として捉えていたのではないかという反省に立ち、これからは加害者、被害者のメンバーは違っても、何か共通点はないか、グループ化しているのではないかなど、事故を点から線として捉え直す教師側の意識改革が必要と感じる。」とあります。


この反省は一面で正しく当たっていますが、他面で「点から線として捉え直す」という見方は、もっともらしく聞こえるものの、じつは大変間違った、まったく正しくないいじめ問題の見方です。


一面で「正しく当たっている」というのは、勝己君が追いつめられて、直面していた危機的な状況については、「点」に止まらないで、それまでの「点」をつないで「線」として捉えてこそ、いっそう十分に認識しえたというところにあります。


しかし、「線」としての認識までには到達しなくても、たとえば連続三日間の無断欠席や九月一〇日の暴力、暴行がわかった自殺前日の「一点」だけでも、緊急の対応が必要だったことは明白です。


そもそも、勝己君に対してであれ、また他の生徒に対してであれ、被告少年らの行為が「線」として捉え得るまでに至っていたということ自体が大問題ではないでしょうか。


それは、それまでの「点」を見過ごして、対処してこなかったからこそ「線」にまでなっていたのです。そのことは、間違っても誉められることではありません。


本来、いじめは未然に防止すべきですし、また防止措置が十分行き届かずに発生したとしても「点」のところで食い止めなければならないということこそ、教訓、反省点とすべきです。


なのに知覧中の校長、教頭らには、勝己君が亡くなってもなお、この当たり前のことが理解できていないのです。


知覧中の教師たちは、被告少年らの暴力、暴行など、数多くの「点」を見過ごしてきました。その結果、彼らのいじめ行為は、いま述べたように「線」として認識できるほどになっていました。


見過ごした「点」のなかで最大のものは「下級生に対する集団暴行事件」です。この事件は、それ自体が一つの「線」とも言えるものです。


加害生徒らが、グループ、集団で、継続的に暴行を加えたもので、どの角度から見ても「一過性」の事件とは言えません。


鹿児島県教育委員会は、一九九五年八月に「いじめ対策リーフレット」を発行して、いじめ問題の解決に向けて学校、家庭、地域、関係機関の一体となった取り組みを訴えましたが(乙イ第四〇号証および六〇号証)、その表題は「社会で許されない行為は子どもでも許されません」というものです。


知覧中の教師たちは、見過ごしてはならないことを見過ごし、許してはいけないことを許してきました。「社会で許されない行為」とは、ずばり犯罪です。そして、いじめ行為の多くが犯罪にあたります。


「『いじめ』問題に現れてくる具体的『いじめ』行為を検討すると、無視といった形態を除いて、多くは、刑法などに規定されている犯罪類型に形式的にはあてはまる。たとえば、悪口も度を超せば侮辱罪に、脅し言葉も継続したりすれば脅迫罪にあたる。身体に対する攻撃は暴行・傷害罪に、ジュース・タバコを買ってこさせたり、金品を持ってこさせたり、万引きを強要することは、恐喝罪や強要罪にそれぞれあたる行為である。持ち物を隠したり、持って帰って捨ててしまえば窃盗罪に、壊せば器物損壊罪にそれぞれあたる。」(日本弁護士連合会『いじめ問題ハンドブック』こうち書房、一九九五年初版、七〇ページ)


いま鹿児島県内の小、中学校で、少数の教師ですが、いじめ事件についての裁判判例をもとに「いじめ授業」に取り組んでいる実践があります。


鹿児島大学法文学部教授の采女博文さん(民法学)、同教育学部助教授の梅野正信さん(社会認識教育学)らの研究に基づく実践です(法教育研究会「学校における『法的コミュニケーション』確立のためにー裁判資料を活用した『いじめ』授業プログラムー一〜五および最終回」、エイデル研究所『季刊教育法』第一一九〜一二三号、第一二五号参照)。


この「いじめ授業」で注目されることの一つは、授業を通して小、中学生が従前の漠然とした「いじめはいけない」という意識を変化させて、刑法の関係条文とも照らし合わせながら、いじめの「犯罪性」を理解するようになってきていることです。


小、中学生の子どもたちにも十分に可能な、まして大人ならば当然あってしかるべき認識が知覧中の教師らにはなく、「犯罪」を学校の場で放置してきました。



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三 調査、報告義務を履行せず、防止措置も取らなかった



ところで、学校には生徒をいじめから守り、生徒の安全を確保する義務があることは論を待ちません。そして、その義務には欠くことのできない内容がいくつかあります。


第一は、生徒の安全を脅かすいじめについて、その実態を調査する義務です。


知覧中では、教師らによって調査はほとんどおこなわれなかったのですが、「下級生に対する集団暴行事件」については例外的になされました。しかし、この調査は不十分なもので全容解明までは行きませんでした。


とくに、被害生徒が「ちくるなよ、ちくったらうつぞ」「おれたちがやったっていうなね。言ったらうつぞ」(甲第五二号証参照)などと脅かされていたことも明らかになっていたわけですから、他にもあるのではないかという問題意識で調査を尽くさねばならなかったのですが、なされませんでした。


その結果、二年生のQ君は、部室での暴行被害のことは話していても、自分が霜出でもやられたこと(警察調書、甲第四一号証の六)については口にすることができませんでした。


文部省の「調査研究協力者会議報告」にあるような「全教職員がいじめられている児童生徒を必ず守り通すという毅然とした姿勢」(甲第三七号証)が教師らにはなかったことから、Q君は安心して話すことができませんでした。


四月二五日に、霜出防空壕跡地で、Q君が暴行を受けた後に、勝己君に対する凄惨な集団暴行があり、彼はその途中までを知っていたのです。


また、地域や保護者からの情報提供にも対応すべきところ、これも怠りました。勝己君が亡くなった直後(九月二五日)に開催された臨時PTA総会で、霜出事件についても、その一部ですが、四月二五日当日、保護者の一人が学校に電話で通報していたことが明らかになりました。


防空壕跡地に移動する前の、芝養生畑での暴行を目撃し、学校に電話で知らせたのですが、「二〇分ぐらい待っても誰も来なかった」とのことです。(NK元PTA会長陳述書、甲第七一号証参照)


加害生徒に対しても、「他にもあるはずだ」と調査を徹底すべきでした。


同時期に、被告D君がF君に対して、二度にわたって暴行を加えたことを学校は知っていましたし、下級生だけでなく、同級生に対するものも他にないかどうか厳しく追及すべきでした。


学校が調査義務を全うしておれば、勝己君が最後には気絶するほどであった霜出の暴行事件についても把握することができたのです。


第二は、実態や調査結果などを親、保護者、そして生徒に報告する義務です。


知覧中では、この義務も果たしていません。
「下級生に対する集団暴行事件」は、学校が把握していただけでも、じつにひどい連続的な集団暴行事件です。どうしてこの重大な事件を保護者全員に知らせなかったのでしょうか。緊急に臨時のPTA総会を開いてもらわなくてはならないほどの事件です。


PTA会長は知らされたとはいうものの、六月六日の来校相談後のことで、詳しいことではありません。文部省の「調査研究協力者会議報告」には、「いじめは学校だけでは解決できない問題である。いじめの情報を保護者等に提供して理解や協力を求めたり、関係の機関や団体との連携を図るなど、いわゆる開かれた学校づくりは、いじめの問題の解決のために極めて重要なことと言わなければならない。」(甲第三七号証)などとあります。


X教頭のPTA会長への情報提供はきわめて不十分なもので、PTAに対して取り組みの協力要請をおこなったものではありませんでした。


保護者だけでなく、生徒にも知らせませんでした。
「開かれた学校」とは外に対してだけではありません。


内の、生徒に対してこそ、真っ先に情報がオープンにされる必要があります。
生徒たちは、情報を得てこそ、危険からわが身の安全を意識的に守ろうとすることもできます。


第三は、いじめの発生を防止する措置を取る義務です。


この措置には多くの内容があります。


日頃から生徒の動静を観察すること、暴力行為などがないかどうか細心の注意を払うこと、その存在が窺われる場合には関係生徒からただちに事情聴取をおこなうこと、教員間、教員と生徒間における報告、連絡および相談等を密にすること、以前から暴力行為などを繰り返しおこなっている生徒対しては、校長または教頭自らが厳重な注意を与えること、教員らが校内を見回るなどの指導、監督体制を全校的な規模でおこなうことなどです(「十三中学校いじめ負傷事件」大阪地裁判決、一九九五年三月二四日、『判例時報』一五四六号、『判例タイムス』八九三号参照)。


これらの措置は、知覧中においてはまったく取られておりません。


たくさん問題点を指摘することができますが、たとえば「日頃から」「生徒の動静の観察」がなされず、「細心の注意」が払われなかっただけでなく、明らかになった暴力行為についてさえ、「教員間」の「報告、連絡および相談」の体制がありませんでした。


勝己君が一年一学期のときのことですが、早くも被告A君らは同じクラス(一組)のN君を音楽準備室で殴ったり、蹴ったりしています。


N君はこのことを担任のT3教諭に話しています(同君陳述書・甲第一九号証参照)。しかし、W元生徒指導主任は第一七回口頭弁論において「聞いていません」と証言しました(当時、W主任は二年部所属)。


また、加害生徒らのなかでは弱くグループ内ではいじめられることも少なくなかったF君が徐々に力をつけて、勝己君が亡くなる直前のことですが、二年生を叩いて、三年部や二年部の生徒指導係のほうではかなりの問題になっていたのですが(第一二回、U調書一七九項)、これも知らなかったのか? との問いに「はい」と答えました(同前、一年部所属)。


このように学年が違うと生徒指導主任でさえ、暴力行為のことを知らないのです。


加えて同じ学年で、しかも同じく生徒指導係であっても、情報を共有していません。先に述べた三年時四月の被告D君のF君に対する二件の暴行について、U教諭は二件とも「当時聞いたと思います」「聞きました」(第一二回、調書三八七〜三九三項)と証言しましたが、V教諭は自分が目撃した、ベランダでほうきで叩いたことは当然知っていても、体育館と武道館の間で竹刀で叩いたことについては「ちょっと記憶にない」(第一一回、調書三五一項)と言うのです。


なお、Z元校長は、ベランダでのことについては「(報告が)後ではなかったか」と、竹刀で叩いたことについては、「(発覚したことを)そのとき、記憶しておりません」「(報告は)その日、なかったと思います」「その件は、正直言って覚えていません」と証言しました(第一五回、調書二二三〜二三五項)。


教員間がこのような有り様で、まったく「密」ではなかったので、「教員と生徒間」のことになるといっそう問題でした。たとえば、U教諭は「当時、二年のF君が教室で、昼休み、たたかれているというようなことを、二年生の女子がT4先生のほうに相談を持ちかけたことがあった」と証言しました。


生徒たちは暴力行為があることを訴えていたのです。
しかし、教師らはこれに適切な措置をとることを怠りました。


U教諭によると「F君以外にもそういう人がいるんじゃないかということで、各担任、いろいろな生徒に」「聞いて回ったことがありました」「そこで、L君の名前がでましたので、呼んで事情を聞きました」「(しかし本人が)遊びの延長上みたいな言い方でしたので」「まあ、本人が大丈夫だと言うんだったら、ちょっと様子を見てみようかなというような気持ちで、L君への指導は終わりました」「A君には呼び出しを掛ける、掛けられるという関係はおかしいよね」「嫌がっているようなことはしちゃいけないよねという、そういう話をしました」(第一二回、調書一二五〜一五〇項)ということで終わっています。


二年二組の教室でL君に対してなされた暴行は、二学期の終わり頃からですが(第九回、調書一三三項以下)、その前の、九月には被告A君がM君に対してひどい暴行を働いています。


M君は後ろから手刀でいきなり首を打たれ、一時全身が動かなくなって救急車で運ばれるほどでしたから、L君が受けていた被害についても、事情聴取などはまともにおこなわれてしかるべきでした。


被告A君や同D君など、「暴力行為などを繰り返しおこなっている生徒に対しては、校長または教頭自らが厳重な注意を与える」べきでしたが、それもなされていません。


O君の証言(第九回、調書二九四項)やM君の陳述書(甲第一一号証)にもあるように、「教員らが校内を見回るなどの指導、監督体制」もありませんでした。


つまりは、再発の防止も含めて、暴力行為などのいじめを防止する具体的な措置は、知覧中においては何ひとつ取られなかったのです。


そのことは、U教諭が「具体的に家庭訪問を繰り返したりとか、本人を授業の中で何とか学級の中にとけ込ませようとか、なるべく先生方も声を掛けるとか、それ以上の手だてとして何かしようというような話はでませんでした」(第一二回、調書三九七項)と証言したことからも明白です。


「家庭訪問」とか「声かけ」は、そのこと自体は結構だとしても、いじめ防止措置としては、あまりにも無内容です。


福島県いわき市小川中いじめ自殺事件の判決は、「学校側がいじめの全体像を把握する努力をしないまま、表面化した問題行動について形式的で、その場限りの一時的な注意指導を繰り返したのみ」と学校側の対応を批判しました(福島地裁いわき支部判決、一九九〇年一二月二六日、『判例時報』一三七二号参照)。


知覧中の場合は、「下級生に対する集団暴行事件」への対応がまさに「形式的で、その場限りの一時的な注意指導」に終わるものでしたが、他の暴力、暴行事件についてはそれすらなされていないという、驚くべき無為無策の実情にありました。



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四 生徒指導の課題には優先順位がある


どうして知覧中は、いじめに対してかくも無為無策、無防備だったのでしょうか。
また先に述べたように、そもそもいじめの問題に無関心だったのはなぜでしょうか。


私は、〈今の時代に求められている生徒指導とはどういうものであるのか〉を知覧中の教師らがまったく理解していなかったことが大きいと思います。


生徒指導は、漫然と従前からの方法を踏襲しているようでは、その効果を期待できません。
期待できないどころか、いじめを増長することもあります。


生徒指導には重点があり、扱うべき問題や課題には優先順位があることを自覚しなければいけません。


拙稿A「非行問題と教育法 ─“荒れる中学”をどうする ─」は、生徒の問題行動に教師が介入する枠組み、方法を整理した論文です。


生徒指導上の問題には軽重があります。中学校では生徒たちが様々なことをしでかします。


そこには、おおめに見てもよい問題がある一方で、絶対おおめに見てはいけない、厳しく対処しなければならない問題があります。


後者は、ただちに介入して止めさせ、二度とおこなわせないようにしなければならない問題ですが、前者は、必要な場合は注意をして生徒の自覚を促し、時間をかけていってかまわない問題です。


さらには本来注意すらしなくてもよい、問題とは言えない「問題」もあります。知覧中では、これらの区分けや整理について自覚がまったくなく、介入すべきことに介入していません。


反対に、介入すべきではない、またはしなくてもよい、あるいは時間をかけていってかまわないこと、つまりは不要、不急なことに「一生懸命」「熱心」でした。


生徒の命、安全を守ることこそ、最優先されるべき生徒指導上の課題です。
知覧中は、これを二の次にしたどころか、まったくおこなわないで、生徒指導の名において何をし、どういったことに重点を置いていたのでしょうか。いくつかその問題点も含めて指摘します。


第一は、「服装指導」「頭髪指導」など、校則を守らせる指導です。


知覧中が毎月、町教育長宛に提出していた「生徒指導月例報告」(乙イ第一〇〜一二号証)に、「重点指導事項」として、もっとも数多く記載されていることからも、そこに重点の一つがあったことは間違いありません。


しかし、このようなことに力を入れる生徒指導は、守らせようとする校則自体に合理的な根拠がなく、前時代的な生徒指導です。


中学校では一九九三年から実施された現行学習指導要領の基本理念の一つである「個性を生かす教育」にも適合しておりません。


生徒たちも、この指導には不満が強く、生徒総会前のアンケートにもたくさん改善要望を出しています(前出)。


服装、頭髪といったことは、本来一〇〇パーセント生徒個々人の自由意思に委ねてかまわないことですが、少なくとも生徒指導上「重点」が置かれるべきことではありません。


しかも、注意しなくてはいけないことは、校則についての教師の画一的な指導と生徒間のいじめは、根っこが同じだということです。


一九九五年三月の「いじめ対策緊急会議報告」(前出)は、「いじめの問題は、教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる問題である」として、「一般に、いじめは、学校生活において、弱い者、集団とは異質な者を攻撃したり排除しようとする傾向に根ざして発生することが多い」「教師が単一の価値尺度により児童生徒を評価する指導姿勢や児童生徒に対する何気ない言動などに大きな関わりを有している場合があることに留意すべきである」と問題を指摘しています。


実際、知覧中でも生徒総会前のアンケートには、「靴下はみんな好きなものをはきたい(三年生の圧力ではけない)二〇」とあります。


「靴下は白色」という校則が、そうでないものを、つまり「集団とは異質な者を攻撃したり排除しようとする傾向」を増長しているのです。


生徒会副会長をしていた先のP君によると、「ネームをつけていない」「違反ボタンだ」というようなことでも、生意気だといって、上級生が下級生を呼び出すことがあったと言います。


「ネームの着用」「靴、靴下の色は白」などといった瑣末なことに「熱心」な教師たちは、いじめに対してまともな取り組みができるはずもありません。


また、加害生徒グループの一人であったG君は、二年の終わりか三年になった頃、髪を茶色に染めてX教頭に注意され、何度言っても聞かなかったといって、生徒相談室にあった電動バリカンで五分刈りにされることがありました。


額に剃りを入れたときは五厘か一厘にバリカンを入れられました。このことは、先にも述べたように一九九七年二月一八日に校長室でT1教諭の体罰の問題を話し合ったときに、私があわせて指摘しましたが、X教頭はこの事実を否定しませんでした。


強制的にバリカンを入れる行為自体も大きな問題ですが、教頭が優先的に指導すべきはG君の髪型ではなく、彼がなした下級生に対する暴力行為や同級生・I君の眉を剃り落とすといった暴行ではないでしょうか。後者について、X教頭は何もしていません。


第二に、知覧中の教師らが重点を置いていたことは、遅刻や忘れ物を繰り返す、宿題をしてこない、そういった生徒の生活・学習態度に対する指導です。


特に「遅刻指導」は、「服装指導」と並んで「月例報告」にも目立ち、U・V両担任も力を入れていました。しかし、遅刻や忘れ物などは誉められることでなくても、そんなに悪いことではありません。


当人のそれらの行為は、前記の服装や頭髪のことと同様に他人の権利にはかかわっていません。それゆえ、そのこと自体は力を入れて指導するほどのことではありません。


なのに、遅刻が多いというだけで、勝己君に対してその理由や原因を考慮しようともせずに、V担任の場合は体罰を振るい罰当番を課してまで、U担任の場合は特別なノートを作らせ毎日の報告を義務づけてまで(甲第五五、五六号証)、遅刻をなくそうと「熱心」でした。


ここには、体罰など、違法で適切でない手段、方法の問題もあります。
しかし、そのこと以上に、ここでも知覧中の教師たちが生徒指導の重点や優先順位がわかっていなかった問題が大きいことを指摘したいと思います。


U担任のメモ(甲第五五号証)は、保護者宛に書かれています。
それは、「勝己君の遅刻がひどく、改まりませんので生活の様子を一緒に考えたいと思います」という書き出しで始まっています。


そして、「時間に対してルーズなところを今のうちに改める必要と登下校中は何をしているのだろうかという不安から、しばらく、以下の時間を報告してもらいます。ご面倒でしょうが、毎日目を通してください。」ということを結論にしています。


U担任はこれを書きながら、まったく自覚していなかったことでしょう。
生徒指導の重点をそこに置き、「熱心」におこなうべきは、「時間にルーズなところを改める」ことではなく、担任自身も「不安」に思った「登下校中」のことなどをよく調べなければならないところにあったのです。


V担任も同様に、勝己君の遅刻の多さを単純に生活態度の悪さとしか捉えなかったことが問題でした。生徒指導は、そういった表面的な理解では何事もなしえません。


勝己君の足を自然には学校に向かわせない、登下校中のことに止まらない、学校の中で起こっていたことにこそ、生徒指導は重点を置いて「熱心」に取り組まれるべきでした。そうしてこそ「指導」の名に値するものです。


Z元校長は、第一五回口頭弁論において「私が赴任して、知覧中の生徒は、集団行動、全校朝会などの時刻を守る、整然と聞くというような姿からして、ほかの学校よりもしっかりしているなという印象がありました」と証言しました(調書五九項)。


印象とはいえ、校長においても重視していたのは、「時刻を守る」「整然と聞く」といった外見的なことに過ぎなかったのです。


第三は、喫煙を注意する指導です。


たばこ、喫煙のことについては、「生徒指導月例報告」(一九九四年四月〜一九九七年三月)に記載があまりありません。


勝己君が亡くなるまではなんと皆無です。もちろん、それ以前に喫煙がなかったわけではなく、相当あったのに教育委員会への体面上、報告しなかっただけでしょう。その後は、二ヶ月に一度は記載されるようになります。


生徒指導の実情を隠さずに、ありのまま報告するように求められた結果かと思われます。


知覧中の教師たちは、生徒の問題行動と言えば、真っ先に喫煙の問題を考えていたようです。


U教諭は、第一二回口頭弁論において、二年生当時、同級生のなかに問題行動をするグループはなかったのかという問いに対して、「まあ・・喫煙の生徒ということで、特に気を付けないといけないなと思っていたのは、D君、G君、F君、H君」などと生徒の名をあげました(調書三三七項)。


V教諭も第一一回口頭弁論において、「個人的に喫煙ということで指導を受けた生徒はおりました」(調書六〇項)と言い、三年時四月の家庭訪問の際に、勝己君と母親美智子さんに対しては、「喫煙など、そういう生徒とはあんまり遊ばないほうがいいかもしれないねというようなことは言いました」(調書七四項)と証言しています。X教頭は、第一三回口頭弁論において、「喫煙関係で常に私たちは問い掛けをしていました」(調書一〇五項)と証言しました。


ところで、X教頭は、原告代理人からの「いじめ問題と喫煙問題というのはどちらが重要だと思うか」との問いに、「もちろんいじめ問題です」「いじめというのは基本的人権にかかわる問題でもありますし、もしそういうことがあったら、もうそのことの解決が最優先していくわけですので。」(調書五五三〜五五四項)と、当然のことながら、答え方としては正しい認識を示しました。


しかし、知覧中の生徒指導には、「最優先」されるべき課題への取り組みがありませんでした。


もっとも、優先順位としては上位にくるものではなくても、喫煙問題は軽視してよいことではありません。


校外や帰宅してからの喫煙についてまで、学校は責任を負わなくてもよいのですが、校内での喫煙とか、それを裏付ける吸殻の散乱状態は、学校の雰囲気をおかしなものにしますので、あいまいにできません。


ところが、知覧中の対応、指導は、どこでの喫煙であれ、見つかったら「来校相談」「注意」といった、ごく形式的なものに止まっていました。


先の「服装指導」「頭髪指導」などは、「指導」という言葉さえ使うべきではない不要なことですが、喫煙については「熱心」に取り組まれてしかるべきでした。


U教諭は、「いじめでは巡視していないが、喫煙ではよく見て回った」旨の証言をしましたが(調書二四一〜二四三項参照)、教師たちの見回りはごく僅かでした。


第九回口頭弁論において、O君は「僕が知っている限りでは一度も(見回りを)見ませんでした」(調書七二項)と証言しています。O君の証言のほうが、知覧中の取り組みの実際を言い当てているように思います。


彼は、トイレや部室の中、その周辺、体育館の裏側で喫煙を度々目撃し、吸殻がいくつも地面に落ちていたり、窓の溝に挟まっていたと、そして掃除のときは吸殻が見つかる度にU担任に報告したが「またか、しようがないな、みたいなことを言っていた」程度だったと証言しました(調書七三〜七四項、一九一〜二〇四項参照)。


第四は、不登校(気味)の生徒に対する指導です。


毎月の「生徒指導月例報告」のなかで、件数が多く、記載内容の具体性という点でも目立つものは、不登校気味の生徒を励まして、登校を促す指導です(「服装指導」「遅刻指導」は記載の仕方も形式的です)。


たとえば、勝己君と同学年の生徒のことですが、「不登校気味の生徒」「両名については、学級担任が生徒指導部、学年と連携を取りながら、朝迎えに行ったり、昼休み、放課後を利用して登校を促し指導の徹底に努めている」(一九九五年六月報告)、「先生方、担任の努力により、保健室登校から、自分の好きな教科での教室登校ができるようになった」(同年一一月報告)、「二月になって七日登校できた。これは担任のT3先生の努力である。それは車に乗せて地区内ドライブがきっかけと聞く。それに教頭先生、U教諭が係わり、特に教頭先生宅で夜、教頭先生の手作りの料理をごちそうになり、重い口と心を開かせるきっかけとなったらしい。本人も三年に進級したい気持ちは強いようだ。」(一九九六年三月報告)などどあります(同じ生徒のことかどうかは不明です)。これだけでも、とても「熱心」で「一生懸命」だったことがよくわかります。


この点では、知覧中の教師らの取り組みや努力が評価されても良いように思われるかもしれませんが、じつは全然違って反対です。これこそ、不要、不急の生徒指導の典型です。


不登校生に対して登校を促すことは、決して良いことではありません。
不登校自体をどう捉えるかについては考え方の違いがあっても、〈登校刺激を加えてはならない〉ということは、こうしたことに係わっているものにあっては、とうに常識です。いま現在、学校には行けない、行きたくないという不登校の子どもの気持ちをまず認めてあげることが対応の出発点です。


親・保護者の不安に対しては「いまお家で元気にしている。それが一番いいことです」と言ってあげることが肝要です。


そうして時間をかけ、その子が落ちついてきたときには「登校を促す」という考え方をする専門家もおりますが、そのときもきわめて慎重でなければならないというものです。
知覧中には、そうした配慮もありません。


拙稿B「不登校と“教育を受ける権利”」では、親や教師、そして社会一般に広くある不登校に対する誤解や偏見を指摘しています。


そして義務教育も含めて、子どもが学校に行くことは権利であり、それゆえ登校を強制されることがあってはならないと論じています。


不登校自体は問題ではなく、否定的に捉えられるべきことではありません。
学校に行く・行かないは、子どもが選択できることであって、不登校も立派な生き方のひとつです。


もちろん学校に行くことも、無理をして行っているのでなければ、良いことです。文部省の「学校不適応対策調査研究協力者会議」は、一〇年前の一九九〇年に「登校拒否はどの子にも起こりうる」との見方(中間報告、最終報告は一九九二年)を明らかにしました。


それ以前の、「本人の性格」「怠け」「親の過保護・過干渉」など、子どもや家族の問題として捉えがちだった見方を修正したのです。


同会議の主査を務めた千葉大学名誉教授坂本昇一さんは、「登校拒否問題では、しばしば“学校不適応”という用語が用いられる」「しかし、見方を変えれば、学校が子どもに適応していないとも考えられる」と述べ、登校拒否は「子どもに対する学校の不適応問題ととらえて」、「求めるものは、現在の学校の在り方の検討であり、変革である」とも言っています(「登校拒否にどう対応するか」、エイデル研究所『季刊教育法』第八八号、一九九二年春季号参照)。


知覧中には、この視点がまったく欠落していました。
子どもではなく、いまの子どもたちに適応できていない学校こそ、変えていく必要があります。


それは、不登校の生徒が再登校できるようになるためというよりは、いま現在普通に登校している大多数の生徒のためにこそ、なされなくてはなりません。


知覧中は、不登校生にいらぬお節介をやき、子どもと家族を追いつめ、ますます苦しくさせるようなことをしていました。


朝、晩、休日までとは言いません。
勤務時間中の授業がない空き時間や昼休み、放課後に、不登校生宅を訪問することができるくらいなら、その時間、学校においてこそ優先的におこなわなくてはならないことがありました。


以上、知覧中の教師らが重点を置いていた四つの生徒指導について見てきました。


生徒指導上の課題の軽重や優先順位についての自覚がなく、取り組みもすべてが的外れで、ほとんどが不要、不急なものであったことは明らかです。いまの時代に求められている生徒指導は、そのようなものではありません。


学校は、たくさんの子どもが学び生活する場です。
それは、昔からよく聞く「集団生活」の場と言ってもかまいません。


集団生活には、たしかに秩序や規律も必要です。
しかし、それは、かつてのように子どもたちみんなに同じ形、格好、行動様式を強いることではありません。


いまは、子どもたち一人ひとりの多様な学びと生活のスタイルが尊重されなくてはならない、つまりは「個」が大切にされなくてはならない時代です。


学校は子どもが学び、生活する場ですから、彼ら、彼女らの学習する権利と安心や安全が保障されることにこそ、ほんとうの秩序や規律があります。


その意味でも、生徒の問題行動との関係では、他人の学習する権利を侵害する授業妨害や暴力、暴行、強要、恐喝などのいじめを許さない学校づくりこそ、生徒指導の最優先課題です。


一九九五年三月の文部省の「いじめ対策緊急会議報告」(前出)は、新しく「開かれた学校」の観点を打ち出すと同時に、先にも紹介したように「いじめの問題は、教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる問題である」ことを指摘しました。


さらに、勝己君が亡くなる二ヶ月前の七月ですが、文部省の「調査研究協力者会議報告」(甲第三七号証)は、「開かれた学校」に加えて、もう一つ新たに、「子どもの立場に立った学校運営」を基本姿勢とするよう提言しました。


「過度の同質傾向を排除して、個を大切にし、個性や差異を尊重する態度やその基礎となる新しい価値観を育てるという児童生徒観に立ち、これに基づく指導を徹底することがいじめ問題への根本的な取組として極めて重要となる。」「従来の行きがかりにとらわれず、学級や学年経営の在り方を含め、学校運営の在り方をあくまで子どもの立場に立って見直し、改善すべきは思い切って改善していく必要がある。例えば、生徒指導において、なお髪型や制服の規制をはじめ細かすぎると思われる校則なども見受けられる。子供たち一人一人の人格のよりよき発達を支援するという考えに立ち、きめ細やかで『個に応じた生徒指導』を行う観点から、見直していって欲しい。」などとあります。


このように「いじめ問題への根本的な取組として(も)極めて重要となる」「子どもの立場に立った」生徒指導をおこなおうとしなかったところに、知覧中の生徒指導の最大の問題がありました。



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五 自殺を防ぐための不登校・欠席を呼びかけず、知らせなかった責任



これまでに述べてきたことから、知覧中の教師らが旧態依然とした生徒指導を漫然とおこなうだけで、いじめに対処してこなかった責任は明確です。


ここではさらに教師らには自殺を防止する措置も講じなければならなかったところ、これをも怠ったことについて述べます。


その前に、そもそも、勝己君はどうして自殺したのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。


勝己君に対する一年以上もの長期間におよぶ暴行などの執拗ないじめは、彼の精神をずたずたにするのに余りあるものでした。


同級生のJ君によると、二年二組の教室で「勝己君は倒れて床にころがっても、殴られ蹴られていた」「昼休みの初めから最後まで、四〇分ぐらいそれは続いた」、そして三学期の終わり頃には「もう死にたい。三年生からも、二年生からもいじめられて、これ以上打たれたら死ぬ」と言っていたといいます(甲第一四号証)。


このように勝己君は、二年の終わり頃には、すでに「死にたい」と思うほど辛い状態にありました。しかし、それはまだ希望を失っていなかったからこそ、口にすることができた言葉のようにも思います。


いや、そのときだけでなく、勝己君は三年になっても希望を失うことはなかったと思います。霜出防空壕跡地で半殺しの目にあっても、三年三組の教室で朝自習時間に連日やられても、夏休みには自宅にまで押し掛けられても、九月四日に部室前で殴る蹴るの暴行を受けても・・・。その「希望」とは、どういうものでしょうか。


それは、確たるものではなくても「自分に対していつかは、いじめが止むのではないか」という希望です。勝己君は、それまではどんなに辛く苦しくても一人で頑張ろうと心してきたのだと思います。


この「希望」には、十分に根拠があります。


第九回口頭弁論において、L君は、同級生グループからどうして殴られることがなくなったのか、そのきっかけ、理由みたいなものは? と聞かれて、「飽きたんだと思います」「もう僕を殴るのに新鮮味がなくなった、何かマンネリ化したというか」「しょせん彼らは気まぐれですから」と答えました(調書四六八〜四七一項)。


このL君の証言は、いじめる側がいじめをどのように思っているのか、見事に言い当てていると思います。実際、被告少年らを中心とする同級生グループは、二年二組の教室においても、また霜出においても、まったくの遊び感覚で、楽しげに、笑いながら、殴る蹴るの暴行を働いていました。


被告少年らはじつに「気まぐれ」で、遊びやゲームに飽きたらそれをやめるように、いじめも自分に対していつかはなくなる。勝己君がそのような「希望」を失わないことは当然でした。


またM君は、陳述書のなかで、

「校長先生は、勝己君が死んだ時、いじめを見て止められない人も加害者だ。いじめを止める勇気を持とうと、言った。じゃあ、あんたたちは助けられるか。戦争になって、仲間が殺されそうな時どうするのか、自分が助けに敵のオリの中に入っていけるか。自分を守ることもできない時にだ。同じ立場にたったとき助けられるか、(勝己君を)助けられなかったじゃないか、と聞きたい。校長先生や先生達はなにを言ってんだよと聞いていた生徒達は鼻で笑っている。先生達は休み時間は職員室にいる。自分たちは安全な所にいて教室には来ない。そこから見えるのは、教室とベランダだけ。強い集団を組んでいじめたのはわかっていたはずだ。周りには生徒しかいない。相手は強いやつらだ。しかも集団。いじめを止められるのは、いじめている人達だけだ。」(甲第一一号証)

と述べています。


教師らが何もしなかったからなのですが、「いじめを止められるのは、いじめている人達だけだ」というM君の言葉は、子どもたちのいじめの世界の現実を的確についています。


勝己君にもそのことがわかっていました。
「いじめているものが(自ら)いじめを止めること」にしか「希望」を見いだすことができませんでした。勝己君は、いじめが止むまでは、自分が我慢すればと思っていたことでしょう。


ところで、〈そんなに我慢しないでどうして助けを求めなかったのか〉と思われるかもしれません。しかし、思春期にある中学生は、自分がいじめられていることを誰にも言わないほうが普通です。


そして、いじめが長期間に及ぶひどいものであればあるほど、いっそう言わなくなり、助けを求めようとしなくなります。


自ら自分の生命を絶つ。つまり自殺は、この世における自己の存在そのものを自ら否定するという点で究極の自己否定ですが、一つひとつのいじめ行為はいじめられる子に対して「自己否定」を迫るもので、最悪の場合「死」につながります。


初めのうちは自分をいじめる者だけが悪いと思えても、いじめが続くとやがていじめられる自分もどこかおかしいのかと自身を責めるようになります。


そして自分はいつもいじめられる弱い、だめな人間だと思うようにもなってきます。
しかし、他方では、自分はそんなだめな人間ではないという、己を尊ぶ気持ちもあります。
プライドです。


当人にとっては、いじめられていることだけでも屈辱的と思われることなのに、それを誰かに言うことは他者にもそのことを確認してもらうようなもので、二重に屈辱的でプライドが許しません。


勝己君もそうだったと思います。
勝己君は、一方で自分がなぜ執拗ないじめにあわなければならないのか自分自身を責める毎日だったでしょうし、他方ではそれでも明るく元気いっぱいな自分のイメージを大切にして(さすがに学校では以前からの自分のままでいることはできなくなっていましたが)、必死になって耐えていたのです。


加えて、いじめられることがどんなに辛く苦しくても、勝己君の全生活がそうであったわけではありません。


家に帰れば、美味しい晩御飯や家族との語らいがあり、家族みんなでトランプやゲームを楽しんだり、カラオケに出かけることも度々でした。


学校の友だちともゲームの話に興ずることや夏休みには釣りに行くことがありました。


このように楽しい、心地よい生活もあったからこそ、彼はいじめにそれまで耐えることができました。


そう言えば、あの大河内清輝君にも、とくに家族との生活には楽しいことがいっぱいありました。遺書には、「家にいるときがいちばんたのしかった。」「オーストラリア旅行。とってもたのしかったね」「なぜ、もっと早く死ななかったかというと、家族の人が優しく接してくれたからです。学校のことなど、すぐ、忘れることができました。」などとあります。


大河内君は、「けれど、このごろになっていじめがどんどんハードになり、しかもお金もぜんぜんないのに、たくさんだせ、といわれます。もうたまりません。」「もっと生きたかったけど・・・。」と自殺します(一九九四年一一月二七日)。


あの「葬式ごっご」の東京中野・富士見中の鹿川裕史君も、「俺だってまだ死にたくない。だけどこのままじゃ『生きジゴク』になっちゃうよ」と記して自殺しました(一九八六年二月一日)。


勝己君の場合は、九月一〇日のベランダでの暴行が限界でした。
同じ日に一校時終了後だけでなく二校時後の休み時間にも相次いで暴行を受けます。


九月四日の暴行から一週間も経っていません。その間も朝自習時間の暴行が続いていました。それまで抱いていたであろう「自分に対していつかはいじめが止む」とのかすかな「希望」は、完全に失せてしまいました。


もはや、学校に行っていじめに耐えることは、できることではありませんでした。
そこで翌日から学校を休みます。


しかし、自殺前日の一七日に、V担任からの電話で無断欠席が知れ、勝己君はとうとう「A、B、C、Dに打たれた」と言わざるをえなくなりました。


しかも、その夜、D君の母親のすすめで握手までさせられ、いじめっ子本人の前で勝己君の「チクリ」が歴然としました。それまで勝己君が何も言わなくても、難癖をつけては殴る蹴るの暴行の限りをつくしてきたのですから、「チクった」となれば彼らの暴行、制裁がどれほどのものになるのか、霜出での悪夢、いやそれ以上の暴行が勝己君の脳裏に去来したことでしょう。


勝己君の遺書は「生きていたくない」で始まっています。
勝己君は、「死」の恐怖よりも、もっと恐ろしく辛く苦しい「生」の現実があったからこそ、生きることに絶望して自殺したのです。


ここで、知覧中の教師らの責任のことにもどります。


自殺前夜には、V担任はもちろんのこと、X教頭もD君の担任であったT5教諭から連絡を受けて、無断欠席と暴行被害を知りました。


すぐにでも家庭訪問をしなければいけませんでした。
さらに当日朝には、Z校長も報告を受けて知ることとなりました。


今日は学校に来てもいいはずなのにまた来ていない。
Z教頭は勝己君の欠席を朝の話し合いのときに知り、「握手をさせるということが・・・余りいい状態ではないということを、私たちはかねて聞いておりますので、そのことは気になっておりました」(第一三回調書四八二項)というのであればいっそう、すぐにでも母親美智子さんの職場に電話を入れたり、勝己君のところに駆けつけ(させ)なければいけませんでした。


相次ぐ子どもたちの自殺を食い止めるためにも、文部省は一連の通知でいじめ問題への取り組みの徹底を求めていました。


たとえば一九九五年一二月一五日付けの通知には、「児童生徒の自殺を食い止めるためのあらゆる手だてを講じる」「いじめられている児童生徒を必ず守り通す」「全教職員がどんな些細なことでも必ず親身になって相談に応じる」などとあります(甲第三三号証)。


勝己君の無断欠席、その原因としての九月一〇日の暴行、そして「仲直り」、けれどもまた無断欠席、これらはもちろん些細なことではありません。


加えて、これらを「点」のみならず、以前からのことも含めて「線」として捉えれば、勝己君の危機的状況をいっそうよく認識できたはずです。
しかし、「手だて」はなにも講じられませんでした。


X教頭には、「(報復を恐れて出てこれなかったというふうに考えるのが普通じゃないか)そのとおりです。」「(非常に異常な事態だと)今思えばそう思います。」「(家庭のほうに走らせる)はい、そうするべきでしたけれども、そのときはしていません。」「もう返す返すも、それは私たちが後悔することでしかなかったわけですけれども。」「私たちは甘かった」などとの反省もあります(第一三回調書四九三〜五一八項)。


さらに、これまでも度々紹介してきた文部省の「調査研究協力者会議報告」は、一九九六年七月一六日に「いじめを受けている児童生徒には」「緊急避難としての欠席が弾力的に認められてよい」との画期的な提言をしました(甲第三七号証)。


翌日の各紙はすべて一面トップで「いじめられたら欠席を」(『毎日』)「欠席を容認」(『朝日』『読売』)「緊急避難の『欠席』容認」(『南日本』)などとこれを報じました(甲第六三〜六六号)。


前年一二月には、広島県教育委員会がいじめ自殺の防止のために“不登校のすすめ”をしていましたが(甲第一二一号証)、このことが全国の方針になったと言ってよいでしょう。


この協力者会議報告や文部省通知を受けて、鹿児島県教育委員会は八月七日付け通知で、「いじめられる児童生徒に対しては、家庭と十分連携を図りつつ緊急避難としての欠席を認め」と述べ、「各学校においては、校長の責任において二学期当初までに、今回の通知及び文部省協力者会議報告をもとに、いじめの問題についての校内研修又は職員会議を開催し、その趣旨を全教職員に十分徹底すること」としていました(甲第三八号証)。


しかし、知覧中においては「報告」や通知を受けとめた形跡はまったくありません。


これらを受けとめ、まさに校長の責任において二学期始業式などにおいて、生徒たちに不登校を呼びかけていたら、また前夜や当日の午前にも勝己君のところに駆けつけて「欠席しても良い」と知らせていたら、勝己君の自殺を防止することができたのです。


先に、鹿児島大学の采女博文さんや梅野正信さんらの研究にもとづく「いじめ授業」の実践にふれましたが、この授業に注目して欲しいこととしてもう一つ紹介します。


それは、小、中学生が判例(いわき市小川中いじめ自殺事件判決ー前出)などから学んで、「いじめがなくならないときには、登校拒否をすべきだ」と口々に発言し、いじめから逃れる有力な方法を学んでいることです。


子どもたちは、普通、学校は何が何でも行かなくてはいけないところだと思っています。
しかし、教えられれば、そうではないことが容易に理解できます。


全国でいじめを苦にした自殺が、鹿児島県でも鹿児島市坂元中、同武中、出水市米ノ津中、中種子町南界中(甲第五七〜六一号証)というようにいじめが原因と見られる自殺が相次いでいました。


そうしたいじめ自殺がどの学校でも繰り返されることがないように、知覧中でも細心の注意が払われてしかるべきでした。


勝己君も、学校は何が何でも行かなくてはいけないところ、もっと言うと死んでも行かなければいけないところだと思っていました。


そして、実際、いじめがある「学校がいやだ」(遺書の二行目)と記して自殺したのです。
二ヶ月前の文部省の協力者会議報告や夏休み中の県教育委員会の通知を知覧中が受けとめていたら、絶対に防ぐことができたことです。



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六 被告少年らに反省がないこと


これまで述べてきたような知覧中教師らの無為無策が増長させたものとはいえ、勝己君は、被告少年らの集団的で継続的な暴行など、逃れがたい執拗ないじめに絶望して自殺しました。


それゆえ、被告少年らの責任も免れません。ここでは、勝己君が亡くなってからも彼らに反省がないことについて、とくに第一〇回口頭弁論における I君の証言内容に着目しながら述べたいと思います。


(1) I君がどのような証言をするのか。勝己君の遺書には「Iなんか僕以上にかわいそうだ。僕みたい(に)死なないでがんばってくれ」と記されていたことから、事前に期待もあり、非常に注目されました。


しかし、結果は期待を裏切るものでした。じつは彼も、グループメンバーの一人で、しかも「下のほうだった」(調書五六六項)ので、知っていることやほんとうのことを言えなかったのです。


I君は、被告D君からはいじめられていましたので、被害者的側面も確かにあります。


しかし、勝己君との関係では、霜出事件のときに彼も殴っていただけでなく、二年の終わり頃からグループメンバーと行動をともにするようになり勝己君を呼び出したりしていて、加害者側に立っていました。それゆえ、いっそう真実を述べがたい立場にありました。


たとえばI君は、霜出防空壕跡地で勝己君が最後に気絶したのを見て、「怖かった」と証言しましたが(同三四六項)、私にはそれが彼のほんとうの気持ちとは思われません。


気絶した直後だけは勝己君のことを心配したのはたしかでしょうし、さすがに他のグループメンバーも一瞬はあせったと思います。しかし、その前後にはそういった感じが全然ないからです。


被告少年らの警察での供述調書を見ると、霜出のときに限らないのですが、彼らは、「おもしろそうだ。俺も殴ってやろう。という気持ちになった」(A・甲第四一号証の三二)とか、「おもしろ半分で殴ってやろうという気持ちになっていた」(C・甲第四一号証の二七)などと述べ、まったくの遊び感覚で暴行におよんでいたことがわかります。


霜出では、二年生のQ君が生意気だと勝己君の前に殴られ、後で勝己君への暴行を途中まで目撃していましたが、「村方君が殴られたり蹴られたりしていた時、みんなの笑い声が聞こえた」と警察で供述しています(甲第四一号証の六)。


被告B君の警察調書にも、「(E君は)声を出して笑って」いたとあり、深さ一メートル以上もあるコンクリートの水路に蹴り落としても、「(E君は)ハハァー、落ちた」といった感じで(F・甲第四四号証の二〇)、深刻さはまったくありません。


そのような光景は普通の感覚では怖ろしいことこのうえないのですが、暴力に無感覚になっている少年らにはありふれたことだったのでしょう。


第九回口頭弁論において、Y君は、二年二組の教室で「もう自分は死ぬか」と思うほどやられたとき、彼らは「とても楽しそうに、幸せそうな様子で」「喝采」があがるようにやっていたと証言しました。


霜出は校外でしかも人気がほとんどないところですから、いっそう好き勝手にやっていたに違いありません。


また、I君は、原告代理人から「あなた自身も、D君に、わいも殴れ、殴らなお前もやっでねということで、あなたも殴ったんですね。」と尋ねられて、「はい、殴りました。」と証言しましたが(三四八項)、これも理由については真実でありません。


被告町代理人から、「不本意ながらやったのであれば、(後で)勝己君と会ったときになぜ謝らなかったの?」「友達であれば、一言でも、すまんかったなとか、言いそうなもんなんだけど?」と聞かれ、答えにつまりながら、「わかりません」「言ってません」と言わざるをえませんでした(四九六〜五〇五項)。
つまり、やむを得ずしたくもないことをやらされたから、ではないのです。


また、謝っていないのは、勝己君に対してほんとうに悪いことをしたとは思っていなかったからでしょう。


I君は、警察で当初は、「本当に(勝己君を)殴りたいと思ったし、D君に言われなくても殴ったと思います」と述べています。殴りたいと思っていたからこそ、軽くではなく「力いっぱい四発か五発ぐらい」殴ったわけです。


ところが、取り調べの回を重ねるなかで、警察調書も「D君から言われたので、勝己君をなぐった」「言われなかったら見ていただけだ」といった線でまとめられていきます。どうしてそうなったかは、勝己君の遺書に「Iなんか僕以上に・・」とあったことから、警察が彼の被害者としての側面を重視していった結果だと思われます。


じっさい、D君からのいじめに限定するとI君へのそれは、「勝己君以上」と言えることも少なくありません。


いくつか例をあげると・・・、D君からの勝己君への暴力は、二年の二学期以降ですが、I君へは一学期からはじまっていた。


登下校時のいじめ・嫌がらせは、二年の初めからおよそ一年半もの間、勝己君が亡くなるまで続いた。勝己君はすぐにD君を避けるようになっていったが、I君はD君から離れられず、命令にいつも従わされてパシリなどを強要された。


二年の後半からは暴力がいっそうひどくなり、三年になるとそれにタカリが加わった。深夜にD君の家に遊びにくるよう呼び出しが毎日のようにあり、行かなかったら、罰金だと言って五千円、一万円、二万円と要求された。たかられたお金は、合計三〇万円ぐらいにもなった。・・・などです。


このようなD君のいじめから逃れようとして、I君は証言にもあったように、三年の六月に家出までしました。


ですから、D君との関係など、家出の事情もわかっていたであろう勝己君が「Iなんか僕以上にかわいそうだ」と書いたのはもっともなことのようにも思えます。


(2) しかし、I君へのいじめも確かにひどいものでしたが、全体的に見ると「勝己君以上」とはけっして言えません。


I君へのいじめは、ほとんどD君からに限られていました。
勝己君のように、上級生からいじめられていないし、二〜三年を通して、D君以外のグループメンバーからは暴力を受けていません。


「勝己君以上」と言えるのは、D君からのいくつかのケースについてです。


勝己君は、D君からだけではなく、A君をリーダー、番長格とするグループ全体から継続的で執拗ないじめを受けました。


判明している事実だけでも勝己君に対するいじめは、I君の比ではありません。


I君も、そのことはよくわかっていたので、遺書に自分の名前がどうして出てきたのか、わからないと法廷でも言ったのです。


では、なぜ、勝己君はI君の名前を出して「僕以上にかわいそうだ」と記したのでしょうか。 


それは、勝己君の最期のプライドがそうさせたのではないかと思います。


勝己君は、自分が誰よりも一番ひどいいじめを受けていたのに、それをその通りに記すことはプライドが許さなかったのではないでしょうか。


たとえ部分的であっても自分に対するいじめをこえるものがあれば、「僕以上にかわいそうだ」と記すことが、もうこれ以上はプライドを傷つけられたくないという、精いっぱいの最期の「自己肯定」ではなかったのかと思います。


勝己君は、いじめ被害を自分だけではなく、「いままでにパシリにされた人やうたれた人は、何十人もいる。」と全体の問題としてアピールし、「おれが死ねばいじめはかいけつする」という悲しいメッセージを発しました。


勝己君の自殺によって、さすがにグループのいじめはなくなりました。
I君もD君からいじめられることがなくなりました。しかし、それが「いじめの解決」であるとは、誰も思いません。


勝己君が命をなげうってまで訴えたかったこと、それは「おれを殺したやつら」(遺書二枚目二行目)を絶対に許さないということであり、また自分の死を、ほんとうの「いじめの解決」につなげていってほしいという思いです。


遺された勝己君の両親、敏孝さんと美智子さんは、息子の無念を晴らすべく本訴訟をおこしましたが、その一番の目的は、いじめの事実の解明にあります。


事実を明らかにしてこそ、私たちはそこから教訓を得ることができ、勝己君の遺志に少しでも応えたと言うことができると思います。


I君については、勝己君が「僕みたいに死なないでがんばってくれ」と特に名を記してメッセージを送りました。


I君はこれに応えたでしょうか。
応えていません。あるいは、法廷での証言がそのよい機会になるのではないかとも期待されましたが、無理でした。


私は、I君からは以前から何度か話を直に聞いており、証言前も、父親のIさんもいっしょに二度ほど突っ込んで聞きました。


I君は、証言にも少しありましたが、勝己君が自殺したと聞いたとき、怖くてしょうがなかったと言います。


霜出で勝己君を殴っており、遺書があったと聞いて、自分の名前もあるんじゃないかと思って怖かったのです。


なにしろ、勝己君との関係では、加害者側でしたから。
ところが名前がなく「ほっと」します。


加害者として名指しされなかったことに胸をなで下ろすと同時に、予想だにしなかった「僕以上にかわいそうだ」といじめの被害者として名前が記されたことに、当惑するだけでした。


「勝己君がどういう気持ちで僕の名前を書いたのか、よくわかりません」と言うだけです。
勝己君が命をなげうって訴えたことに思いを馳せようとはしませんでした。


(3) I君は、グループの勝己君に対するいじめの事実について、結局、法廷でも肝心なことは何ひとつ言いませんでした。真実から目を背け続けたのです。


彼の証言にあったように、グループのメンバーは勝己君の葬儀があった二〇日の午後、夕方、リーダーであるA君の家に集まり、そこから二キロも離れた人気のない猿山に出かけて、霜出での暴行はすべてD君のせいにしようという口裏合わせをします。


警察の取り調べでなくても、すぐにばれるような嘘で、数日後I君も嘘をついていたことを詫びる作文をもって村方さんの家にきました。しかし、その後は嘘がなかったかというと、基本的には同じ構造です。しかも嘘を拡大させました。


I君によれば、勝己君を殴っていたのは、ばれてしまった霜出事件を除くとやはりD君だけです。遺書に名前があったA君、B君、C君らが、グループの中心であることは認めても、勝己君を日常的に殴っていた加害者として認めることはありません。


二年二組の教室でのことも、証言にあったように、勝己君を殴ったのはD君で、しかもそのことはD君から聞いたという話です。けっして、そこにA君、B君、C君らは出てきません。


三年三組のことも知らないと言います。
法廷でも、「あなたの耳には間接的にも入ってきていなかったのか」という問いに、「いえ、入ってきていませんでした」と答えました。I君はグループのメンバーでしたから、三年三組のベランダにもよく行っていました(警察調書・甲第四一号証の一五、同四一号証の一八参照)。耳にさえ入っていないとは到底考えられないことです。


I君のこのような話が、最初のうそ=霜出のことについての口裏合わせ以上におかしいのは明白です。


彼の話では、勝己君は、二年の時からずっと続いていたとはいえ、たった一人のいじめっ子であるD君のいじめと約五ヶ月前の凄惨をきわめたとはいえ、一回きりの霜出での集団暴行に傷ついて自殺したということになってしまいます。このような話は誰も納得させることができません。


ところで、元同級生計一九人の陳述書のなかで、I君のそれはもっとも分量があります。
それは、彼の父親・Iさんのたくさんの陳述が含まれているからです。


勝己君が亡くなった直後の、初期の事実解明の取り組みにおいて、Iさんと被告C君の父親・Cさんが果たした役割は、とても大きなものがあります。


親として責任を感じてのこととはいえ、Iさん、Cさん(二人は昔からの友人)の協力なしには、原告村方さん夫婦の調査も進まなかったと言ってもよいでしょう。


しかし、「親の心、子知らず」です。I君は、証言前に私と話したときも、「二年二組の教室には行っていない」「九月四日の部室前の暴行のときはいなかった」「三年三組のベランダでは勝己君を見ていない」「ベランダでQ君を打とうという話があったことは知らない」「C君の家には、二、三回しか行ったことがない」など、「知らぬ、存ぜぬ」でした。Q君を打とうという話があったことや学校近くのC君の家によく集まっていたことは、彼自身が警察でも供述していることです(甲第四一号証の一八参照)。


聞き取りの途中、父親のIさんから、「おまえの話はつじつまがあわないことが多すぎる。いったい、どっちなんだ。霜出のことも軽く、軽くしようとする。ふらふらしないで、ちゃんと信念を持って語れよ!」と言われても、変わるところがありません。


今日に至るまで、百パーセント加害者であったC君はもちろんのこと、勝己君から特別なメッセージを送られたI君も、以上のように真実を語っていません。


それは、彼らがグループのメンバーであったということをぬきにして考えられないことです。
勝己君に対する日常的ないじめはD君がしていたことしか知らないというI君の嘘は、勝己君が亡くなってから外されてしまったD君を除く、グループメンバー全体の嘘、偽りと同じです。


(4) 被告少年らは、自分たちがなしたいじめの事実を認めないばかりか、認めざるを得なかった霜出事件についても反省がありません。彼らの警察での供述調書を読むとその無反省ぶりに驚かされます。


たとえば、霜出で、殴る、蹴るの暴行がもっともひどかったと言われている被告E君(I君も「見てても、めちゃくちゃだったので数は覚えていません」と証言した)は、次のように供述しています。


「私は、勝己君を二発位殴ったら終わるつもりでいたのですが、私が殴る時も勝己君は僕がさせた訳でもないのに、後ろに手を組んで 殴りたいなら、何発でも殴れと言わんばかりの態度で立っていましたので、勝己君のその態度に腹が立って、次第に本気になって五発位殴ってしまったのです。・・・勝己君は、殴った時だけちょっとうづくまるだけで、すぐ真っ直ぐ立って、殴りたいならまだ殴れと言わんばかりの態度でしたので、私は最後には勝己君の左脇腹付近に右膝蹴りをかましました。」(甲第四一号証の二〇)


殴った回数などはもちろんこの程度ではなかったのですが、自分の暴行を勝己君の態度のせいにするとは何事でしょうか。


また事実は、勝己君の態度もそのようなものではありませんでした。
被告C君や訴外F君の供述にありますが、何ひとつ謝る必要もない勝己君が「すみません」「すみません」と泣きながら謝っているなかでも、暴行が続いたのです。


このE君の調書は、取り調べも三回目になっているときのものです。
少しは反省の色が出てきてもいい頃なのに、このような調子なのです。


この調書の最後には、「私の取った行動は、人間としてとてもはずかしく思います。・・・勝己君、ごめんなさい 本当に申し訳ないことをしたと深く反省しています。」とありますが、まずもって「はずかしく思い」「深く反省」すべきは、勝己君のせいにするという、とんでもない感覚です。


とってつけたような言葉が反省になっていないことはあまりにも明白です。


他の少年たちはどうでしょうか。


霜出事件と九月四日、一〇日のことが知れてしまい、ある程度は言わなければならなくなったときに、出てくるのがグループ内の関係のせいにする言い訳です。


たとえば、被告B君は「ここで勝己君をたたかなければ、みんなから意気地なしと思われる」と思って、また同C君は「僕自身も殴らないとグループのメンバーから仲間はずれにされそうな気がして」やったと供述しています。


B君、C君はグループの、いわばナンバー・ツーで、力も強く、グループ内で弱い立場にはまったくありませんでした。「下のほう」で弱い立場にあったI君の場合でさえ成り立たなかったことを言うのは、いっそう欺瞞的です。


ナンバー・ワンの被告A君は、さすがにリーダーだけにグループ内のことは言い訳にしません。しかし、E君とおなじく、勝己君のせいにしているところがまず反省になっていません。


勝己君は部室前で僕の靴を踏んだのに、ごめんと言っただけで、その言い方が「誠意がないように感じたので」五、六発殴ったと供述しています(甲第四一号証の三一)。


さらにA君の場合は、嘘のつきかたが断定的、確信犯的です。
初めは「僕が村方君を殴ったのは、九月四日の部室前の一回だけです。」と(同前)。さすがにこの第一の嘘はすぐに見破られてしまいました。


そこで次に、「九月四日の部室前と四月の霜出の二回だけです。」(甲第四一号証の三三)と言いかえた第二の嘘をつき、これをその後通そうとしました。


この第二の嘘こそ、九月一〇日のベランダの件も含めて、計三件の暴行事件については認めるが、他は知らないというグループ全体の嘘の基本です。勝己君が亡くなってから数日のうちに、この三件については判明しました。


その後、同級生からの聞き取り調査を通して、二年二組や三年三組のことなど、日常的なことがかなりわかってきましたが、それらについては誰がなんと言おうが、A君、B君、C君らは、知らぬ存ぜぬを押し通してきました。


(5) A君は、警察でこの第二の嘘をつきとおしましたが、家庭裁判所に書類が送られる前に、地方検察庁で多少きつい追及にあったようです。


その結果と思われますが、地検調書には次の供述があり、第二の嘘も破綻します。


「村方君のことは何度もたたいたことがあったので、警察で話を聞かれたときに、防空壕の前で自分が本当になぐったのかどうか覚えていませんでした。しかし、友達と話をしたり、自分で考えてみたりして、殴っていることを思い出しました。そのことは警察で話したのですが、その後よくよく考えてみると、殴った回数などは警察で話したよりも多いと思います。警察では防空壕の前で殴った回数は二、三発と話しましたが、本当は一〇発より多いと思います。」(甲第四三号証の一三)


冒頭の「村方君のことは何度もたたいたことがあった」、つまり、計三件の暴行事件に止まらなかったからこそ、A君はそう供述したのです。


被告A君ほか三名の答弁書には、「被告らは、現在は、勝己君に加えた暴行等を深く反省して同君の冥福を祈り更正に努めている者らである。」とありますが、「何度もたたいたことがあった」のであれば、そのすべてを自ら明らかにせずして、「反省」はありえません。第一回口頭弁論において原告美智子さんが、「自分のやったことを隠したまま、どういう大人、どういう社会人になれるのでしょうか。」「すべてを話すことが、謝罪であり、反省しているということではないでしょうか。」と陳述した通りです(甲第二三号証)。  


また、このA君の地検調書は、霜出での暴行についても、まだすべてが明らかにされていないことを物語っています。


自分が殴ったのは「二、三発」ではなく、「本当は一〇発より多い」と言うのですから、他の被告少年についても、警察調書を上回るひどさであったと考えるのが自然です。


A君らが「口裏合わせ」をしてD君だけのせいにしようとした、そのD君の暴行については真実に近い供述がなされているでしょうが、他の者の暴行についてはかばいあって「軽く」言っているものと思われます。


しかし、その軽めの警察調書でも、彼らの暴行のひどさは想像を絶するものです。


本訴訟において、被告各少年は、原告の主張には「誇張がある」「暴行の程度、回数等は争う」旨主張していますが、警察調書によって、原告が訴状で述べたことは、誇張どころかむしろ反対に過小であったことが明らかになってきています。


たとえば訴外G君は、「このとき(防空壕跡地で)D君が殴ったり蹴ったりするのは長くて三〇発位だったように思う」と述べています(甲第四一号証の二三)。


C君は、そのD君とE君の暴行の様子について、次のように供述しています。


「D君とE君は交互にTシャツ一枚にした村方君を右手げんこつで下から突き上げるようにして腹を殴ったり、また足や太股等体のあちこちをムチャクチャと言っていいぐらいに、ひどい殴り方蹴り方をしていたです。腹を殴る時は、村方君に両手を後ろに組ませて殴りました。殴られると村方君は、ウウッと言いながら、自分の腹を押さえて前かがみにしゃがみ込みました。見ていてとても痛そうでした。それでも二人は、しゃがみ込んでいる村方君の襟首や肩を掴んでは、上にひきあげるようにして立たせ、そしてまた、両手を後ろに組ませては殴るということを繰り返しました。また、殴られて倒れたり、しゃがみ込んでいる村方君のあちこちを、膝で蹴ったり足蹴りしたりしました。」「D君とE君の殴り方蹴り方は、今言ったようなことの繰り返しでした。どっちかというと、E君の殴り方蹴り方の方がひどかったです。」(甲第四一号証の二八) 


できることならば庇いたかったE君について庇いきれず、「どちらかというと」というような控えめな言い方であっても「E君の方がひどかった」と言うのですから、よほどひどい暴行だったのです。


訴外G君は、「ここでの勝己君に対する暴力は、延々二〇分位は加えられたと思います」と供述しています(甲第四一号証の二二)。「二〇分位」という時間は、「午後五時一〇分ごろから午後五時三〇分ごろまでの間を本件犯行の時間として特定することとした」とする警察の最終的な「暴行被疑事件捜査報告」(甲第四四号証の一一)とも一致します。


A君が地検で改めたように、「本当は一〇発より多い」が正しいとしても、どの程度「より多い」かが問題です。一〇数発程度であれば、A君以上であったであろうE君やD君らの殴る、蹴るの暴行を加え、それらを合計しても、「延々二〇分位」という長い時間には、なかなかならないのではないでしょうか。
ということは、実際はさらに多いことが予想されされます。


じつは、被告少年らのすべてか一部かはともかく、一〇とか二〇とかの数えられるようなものではない、つまりは数えきれないような回数の暴行をおこなうことによって、ふらふらとなった勝己君を最後には気絶せしめたものと思われます。



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七 親の責任


終わりに、勝己君の両親、村方敏孝さん、美智子さんの責任について述べます。


しかし、突然、わが子をいじめで失った両親にそもそも責任があるのか、ということをまず考えないわけにはゆきません。


学校からの情報提供は皆無と言ってもよいほどでしたので、両親は頻発していた暴力、暴行事件も知らなければ、わが子に対するいじめもまったく知りませんでした。


少しでも知っていたのなら、どうして親としていじめからわが子を守ろうとしなかったのかと責任を問うこともできるのですが、知らなかったのですから、それはできることではありません。


自殺前日には、その「少し」がわかったのではないかと思われるかもしれませんが、これも違います。両親においては、「無断欠席」の「理由」として、「打たれた」ということがわかっただけです。このことだけから、「親はいじめに気づくべきだった」とは、とても言えません。


学校の教師と違って、親はわが子の学校での様子も、学校で何が起こっているかも知りません。いつも明るく元気なわが子に対して、「おまえはいじめられているんじゃないか」と絶えず疑ってかかる親がどこにいるでしょうか。


両親の陳述書(甲第二二〜二五、八〇、八一号証)や第一八回口頭弁論における証言に明らかなように、家庭においては、明るく元気いっぱいで、食欲旺盛な、以前からの勝己君のままでした。


亡くなる三日前の敬老の日も、おじいちゃんおばあちゃんのところを尋ねて「長生きしてください」とお祝いの言葉を述べ、午後には弟直己君のピアノ発表会にでかけて、家族みんなで夕食やカラオケを楽しんでいます。


両親が「わが子がいじめられている」などとは夢想だにしなかったことに、不自然さや無理はありません。


五で述べたように、勝己君はいじめに一人で頑張って耐えてきていました。
勝己君は、家族に遠慮して話さなかったわけでもありません。また原告の家庭に話しにくい雰囲気があったわけでもありません。


むしろ原告の家庭は、何でも話しやすい雰囲気のある明るい家庭でした。先に述べたように、いじめられていることは話さないものなのです。


してみると、両親が勝己君へのいじめに気づかず、これを知りえなかったことには何の責任もないと言うことができます。


それでも、親は自分を責めます。親に対しては四日間、学校に対しては三日間「無断欠席」までした深い事情や理由まではわからなくても、学校に行くことを嫌がっていたわが子の気持ちを汲むことがどうしてできなかったのだろうかと。


経過などから、両親において事情や理由がわからなかったことは、もちろん責めることができません。いじめに気づくべきだったとも、決して言うことができません。


しかし、勝己君が学校に行きたくないと思っていることは前夜までにわかりました。
勝己君は学校に行きたくなかったからこそ、「無断欠席」までしたのです。


けれども両親は当日、勝己君を休ませてあげませんでした。遺書の文面で言えば、「親も、おれのことぐらいわかっているはずだが、休ませてくれない」が、ずばりそれです。


後述するように、両親は勝己君が思っていたほどには「わかって」はいなかったからできなかったのですが、事情ではなく勝己君の気持ちを汲んで学校を休ませてあげるべきでした。


特段の事情の有無もわからないままに「休ませてあげるべきだった」とは、原告に対して非常に酷なことと思われるかもしれません。


「事情がわからなくても」認めてあげるということ、と言うよりもむしろ「事情を聞かないで」学校を休むことを無条件に認めてあげるということ、これは簡単なことではなくとても難しいことです。


しかし、それは親を措いて他の人にはできない、親だからこそできる、親に期待され求められる、わが子が学校に行くことを嫌がったときの対応の仕方です。


勝己君もわずか数日ですが、不登校でした。


一般に不登校の子どもは、自分が学校に行きたがらない理由を、その本当のところをまず絶対にと言ってもよいほどに話しません。


もちろん理由がないわけではなく、あります。でも言いたがらないのです。なぜでしょうか。それは言ってしまうと「行きたくない理由」が「行きたくなくても行かなければならない理由」に変えられてしまうからです。


勝己君の場合も同じでした。
前日に、ほんの少しだけ「打たれた」と言わざるを得なくなりましたが、それは「本当の理由」の極々一部にすぎません。


たったそれだけでも、学校を休んでいた理由が、「先生にもお願いしておくから、明日は学校に行くんだよ」と、もうこれ以上は休めない理由になってしまいました。


誤解がないように申し添えますが、それで勝己君は自殺したわけではありません。


親がわが子の不登校を認めなかったことが自殺の原因であれば、子どもたちの自殺は千、万の単位に起こっていいはずですが、そこまでの現実はもちろんありません。自殺の原因は、両親の対応の仕方にあったのではなく、やはりいじめです。


いじめ自殺を防ぐためには、学校からの情報提供が不可欠でした。
加えて、本件では先に述べたように知覧中には、「いじめられたら欠席を」と広く生徒に呼びかけ、個別的にも勝己君に対して「欠席して良い」と知らせなければならない明確な責任がありました。


親はわからなくても、学校は「点」だけでなく「線」として捉えることもできました。暴行がわかった前夜には、これはいわば事件ですので、すぐさま家庭訪問をおこなわなくてはいけませんでした。


当日の午前中も、今日は来るはずの勝己君がまた欠席していたわけですから、当然より深い事情があると考えるべきで、勤務先の美智子さんとも連絡を取り、勝己君のところにかけつけて「堂々と休んでいい」と伝えなければいけませんでした。


学校がそれらをおこなっていたのなら、親の責任を問うこともできますが、教師らは何もしていません。


両親にとって、勝己君の死は、まったくの突然でした。
しばらくは、その事実さえ本当のこととして受けとめることができませんでした。


なぜ、わが子が死ななくてはいけないのか、心当たりもまったくありませんでした。
翌一九日の朝、報道関係者から「背景にいじめがあるのでは?」と聞かされても、父親・敏孝さんは「思い過ごしでないですか」と答えるほどでした。


同日夕方、遺書を見て初めて「いじめ」を意識したことでしょうが、それでも「どんなことをされるのがいじめだろう」といった感じで、勝己君とはなかなか繋がりません。


母親・美智子さんにしても、そうです。二、三日して、霜出での暴行のことなどがわかってきても、あの明るく元気いっぱいのわが子がいじめられていたとは、それが本当のことなのか、なお信じ難いことでした。


勝己君が亡くなってからも、両親はこのようでしたので、まして事前にいじめに気づかなかったことは、まったくもって無理からぬことでした。親がいじめどころか、そのシグナルにも気づかなかったことにも無理がありません。


たとえば遅刻が多かったことは、学校の教師にはわかることであっても、家を出る時間はいつも七時四〇分頃で、十分に余裕があるとは言えないものの遅れるほどではなく、親にはわかることではありません。


勝己君は小学校の頃から、朝一度起こされてから起きバタバタと登校していくという、普通の家庭によく見られる光景が原告宅においても続いていただけです。


自転車の件も、じつは壊されていたのですが、このことも小学校の頃から元気いっぱいで怖いもの知らずの勝己君がスピードを出しすぎたりして、自分でぶつけて壊したのだと思っていました。やはり無理からぬことです。


春休み中、勝己君が電話に出るのを嫌がっていたことも、学校から情報提供がなかったわけですから、ただ単にD君とは遊びたがってはいないと受け止めていましたし、そのことも責められません。


促されてのこととはいえ、勝己君が「打たれた」と親に言ったのは後にも先にも、前夜の一回だけです。敏孝さんは、小学校から同級生だったD君だけは知っていて、以前はスポーツ少年団などでいっしょに仲良くしていたのにわが子を打ったとはショックなことではありました。


しかし、「今度、そういうことがあったら君が止めてくれ」と頼み、D君も「わかりました」と答えて、「一件落着」と思ったことに無理はありません。敏孝さんにしてみれば、時々出会ったときにはニコッと人なつっこい表情をするD君をそれ以上は疑うことはできなかったでしょうし、当日の朝、ふすま越しに「先生にも言ってあるから、ちゃんと学校に行きなさいよ」と登校を促したことも、じつに自然なことでした。


美智子さんの場合も、D君の印象については多少夫と違うところがあっても、やはり「打たれた」と聞かされたのが後にも先にも前夜の「一回」だけであれば、その背後にあった何十倍、いや何百倍、何千倍もの暴力、暴行などを想定することは、まったく不可能なことでした。


両親ならずとも誰が、そのような条件や場面で、そうしたことにまで考えを及ぼすことができるでしょうか。


ですから、美智子さんも無断欠席をした勝己君を学校に行かせることばかりに気が取られていました。当日昼休みに昼食をとりに帰ったとき、公民館近くで自転車を見つけ、車を降りていくと勝己君がいて、美智子さんは「(今日もまた)学校に行かなかったのね。なんでね」と落胆します。


勝己君が「ぼく、自殺する」と言っても、「何をこの子はばかばかしいことを言って、私を困らせようとしている・・・」としか思わなかったのです。


だからこそ、胸騒ぎのようなものがあったにしても、夕方帰宅して公民館のところに、昼、勝己君の自転車があった同じ場所にロープが張られ、パトカーが来ていても、勝己君自身に大変なことが起こったとは思わなかったのです。


警察から氏名などを聞かれ、すぐに夫に連絡を取るように言われても、「勝己が何かしでかした」、警察の厄介になるような何か悪いことをしたぐらいにしか思わなかったのです。電話をもらった敏孝さんにしても「喧嘩でもしたのかな」と同じでした。


このように、両親にとって、勝己君の死はまったくの突然でした。
両親のかかわり方の経緯にも不自然さや無理がありません。いじめのことは何も知らなかった両親に、わが子の自殺についての責任があるとは言えません。


しかし、やはり勝己君を休ませてあげなかったことは悔やまれます。


先にも引用した「親も、おれのことぐらいわかっているはずだが、休ませてくれない」という遺書の文面のことですが、じつは勝己君が思っていたほどには、両親は「わかって」いなかったのです。


美智子さんの場合は、長い夏休みが終わって、二学期が始まり「なんとなく喜んでは学校に行きたくない、面白くないんだ」ろうといった程度の受け止め方でした(甲第八一号証)。


無断欠席がわかった前夜にはもっと意識したでしょうが、それ以上に学校を休んでいたことのほうのショックが大きかったと思われます。


勝己君の様子から学校に行きたくないという感じが比較的はっきりとわかったのは、敏孝さんからも登校を促され、朝食もとらずに出かけた当日の朝です。


一般に、子どもが「親だったらわかってくれているはず」と思っていても、親はそれほどではないということは、これまたどこの家庭にもよくあることです。


「親子だったら当然わかりあっている」などということは、実際にはそうあることではありません。親子といえども別人格です。それゆえ、「わかりあえないことが少なくない、いや多い」と考えたほうが良いくらいなのです。


そこで、本件においても、勝己君が思っていたほどには両親が「わかっていなかった」ことは責められるべきことではありません。


本件から教訓とすべきは、むしろ簡単には「わからない」ことだからこそ、子どもの不登校を親が無条件に認めるという対応がいかに大切であるか、ということです。


繰り返しになりますが、もちろん、両親においてその対応がなされなかったために、勝己君が自殺したわけではありません。


「わかっているはずだが、休ませてくれない」。勝己君は、その理由として、一瞬「この家族はおれをきらっていた」(遺書二枚目三行目)からではないかとも思ったかもしれません。


遺書には、他にも「一生うらんでやる」とか、「うらみながら死んでやる」といった両親を責めるような表現がありますが、これらは勝己君の本当の気持ちの裏返しと言ってもよいものではないでしょうか。「嫌う、嫌われる」「うらみ、うらまれる」といった親子・家族の関係が実際にあったわけではありません。


「死ぬまえに家族にありがとうといって死ねばよかったなと思っている」


「そろそろ終わりにして、good luck!」


勝己君に、このような家族に対する優しいメッセージを遺させた、被告少年らのいじめとそれを放置していた学校の責任こそ、厳しく追及されなければならないと思います。


以上、陳述します。



裁判官 殿




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最終更新 : 2010.5.30

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