「たの研」内沢達のホームページ
TOPへ戻る

TOPページ → 教育原理、いじめ、たのしい「生活指導」 → いじめにどう対処するか



郷土雑誌『随筆かごしま』第88号(1995年2月)23〜28ぺ

いじめにどう対処するか



 子どもたちの間でのいじめの問題が大きな社会問題にまでなってきています。


そこで、いじめを人権問題と捉える考え方やこれまでの教育観・学校観をあらためていくことの必要性、さらには実際のところ、どう対処したらよいのか、とくに学校経営の中心にいる学校長に考えていただきたいことなど、いくつか述べさせていただきます。



なにかの参考にしていただけましたら幸いです。
また拙稿について、御意見、御批判をお寄せくださいますと幸甚です。





「いじめられる子にも・・・・・」という見方の問題点



 暴力・暴行や恐喝はもちろんのこと、嫌がらせやからかい、いたずらなどにより相手に肉体的・精神的苦痛を与えるいじめは、どう考えても人権問題です。


 ところが「いじめられる子にも問題がある」という見方がいまなお相当あります。


 これは、いじめを人権問題としては捉えない、部分的であれ合理化してしまって、結果的にはいじめを見過ごし、放置してしまう考え方です。




 教師がこの考え方に立っている場合がとても多いようです。
いじめる側の子どもが教師のところに相談に行くことは、まず絶対にありません。


いじめられている子やその保護者がなんとかしてほしいと思って訴えたりするのですが、「君のほうにも……」とか、「お子さんがもっと強くなって……」と言われたりしています。



 教育界ではよく、いじめの問題について、子どもたちのなかに「もっと思いやりの心を育てよう」と提言されることがあります。


 こちらのほうは結構なことのように思われますが、この言葉も気をつけないといけません。


 それは相手を思いやった結果が、お節介にも「君のこういうところは直したほうがいい」と、やはり「いじめられる子にも……」という見方とイコールになりかねないからです。


「思いやりの欠如」といった一般的な見方では、子どもたちが何を思いやったらよいのかわかりませんし、いまふれたような有難迷惑な「思いやり」もあるわけです。



 いじめはやはり人権の問題として考えざるをえません。


県教委の通知(「児童生徒のいじめの問題に関する指導の充実について」一九八五年)のなかにも「人権にかかわる問題である」と言及があります。



 人権というのは、人間が人間らしく生きていくうえで不可欠の権利のことです。


「人間らしく」というからには、人それぞれの「その人らしさ」が一〇〇パーセント認められなくてはなりません。


 活発な子、おとなしい子、自己主張のある子、あまりない子、協調性のある子、ない子、……みんな他人を害しない限り「そのままの君で!」でいいんです。


 なのに、生徒一人ひとりの個性と自由=「あるがまま」が子どもたちの間で認められずに、とことん痛めつけられるのがいま問題になっているいじめです。



 また生徒のあるがままを画一的な管理や体罰・暴言によって認めないのが教師のほうからのいじめです。


(同じ県教委の通知は「いやしくも体罰を用いることのないよう」と厳しく戒めています。)





子どもの人権保証の問題として具体化を!


 ですから学校から生徒のいじめをなくそうとほんとうに思うのであれば、教師の悪い手本をまっさきに改める必要があります。


 「自由は、他人を害しないすべてをなしうることに存する」とは、一七八九年のフランス人権宣言第四条のなかの一文句です。


 自由・人権というのは常に具体的な問題として問われます。


 これを教科書の上だけの知識の教授に終わらせずに、子どもたちにおいても、みんなが楽しく学校生活を送っていくうえで自由・人権というものが必要不可欠のものであることがわかるように、早急に具体化する必要があります。



 教師との関係では、子どもたちの頭髪や服装の自由、体罰や暴言、つまり恐怖やはずかしめを絶対に受けない権利などの問題として。


 授業中、急に指名されない、発言を強制されない権利の問題もあります。



 また子どもたちどうしの間では、静かな環境のもとマイペースで勉強する権利、休み時間や放課後のすごしかたの自由、上手下手はあってもそれぞれ部活を楽しむ権利、さらには友達を選ぶ自由……等々の問題として。


 このようにして子どもたちに、「君には、君らしく、自分の自分らしさを大切にして、もっと自由に学校生活を送ってよい権利がある」ことがわかるようにしないといけません。


 そして「君がそうであるように、他の人もおなじくその権利をもっているのだから、他人の自由や権利を絶対に侵害してはならない」と念をおすのです。



いま求められているほんとうの学校秩序とは、こうして子どもたちの学習の権利や彼らが安心して学校生活を送ることができる権利が保障されるようになることです。




「長所は反対側の欠点によって支えられている」


 しかし、自他の権利の尊重が大切であることは(頭のなかでは)理解できるが、子どもたちの日常にも「○○君はわがままだから仕方がない」などと先の「いじめられる子にも……」という見方と同様のものがあり、うまくいくのだろうか? との反応がありそうです。


これまで教育界では、子どもたち一人ひとりに自分の特徴を気づかせて、短所をあらためて、長所を伸ばすようにしてやることが教育の重要な仕事の一つだとまじめに考えられてきました。


 「短所をあらため、長所をのばす」。このような“常識”は、一般論としては否定すべきことではないかもしれません。


 しかし、私などには疑問符をつけざるをえない人間の見方です。
そもそも、長所や短所というものが一人の人間のなかに別々にあるとは思えないからです。


 その人の性格、傾向やある同じ行動様式が見方を変えれば、長所が短所になり、その逆も成り立ちます。


 この子は「自分勝手でわがままだなー」と言えば短所ですが、「自分を大切にしてるなー」と言えば長所なのです。


 「そのままの君で!いいよ」と、子どもの現在、「あるがまま」を一〇〇パーセント認めるということは、そのような理解を前提にしています。



 昨秋刊行された五木寛之さんの『生きるヒント2』(文化出版局)が話題になっています。
さすがは作家、この点にかかわって表現がたくみです。



 「人間的な長所とは、反対側の欠点によって支えられているとも考えられます。」「努力しても直らない欠点は、たぶんその人の最良の部分に根ざしているのではないかとぼくは思います。」と。


教育の世界でもこのような人間の見方が自然にできるようになると学校というところもずいぶん変わってくるのではないかと思います。




今の学校は子どもたちから拒否されはじめている


 また五木さんは、「努力」について、「努力する、ということを立派なことをしているように考えない、というのはどうでしょうか。


そうせずにはいられない自分、努力が好きな自分が勝手に努力している。……努力が好きな人は、努力しないことが苦痛で、耐えられないのです。」と言っています。



 おもしろいと思います。
普通の理解では、努力する人とは困難その他に「耐えることができる」人なのですが、言い方を変えれば「努力しないことに耐えられない」人なんです。



 さてこの「努力」やガンバリこそ、わが国において戦前から今なお学校・教育を支配している価値観の最たるものではないでしょうか。


 戦前の場合は、この「努力」がはっきりと意味をもっていました。
「蛍の光、窓の雪」などと“猛勉”して学歴を得ることがその後の出世をほぼ間違いなく約束していました。


 しかし、高い学歴を持つ人が増えてくると学歴の価値が低下してきます。
「昔は中学(旧制)を出ていれば、必ず部長になれたのに、いまでは大学をでても課長どまり、ときには課長補佐どまり」ではないしょうか。



 
子どもたちはそのへんを敏感に感じとっているといってよいでしょう。
「ウチのお父さんは、○○大学をでているのに、たいしたことないなー」とか、「お父さんは高(中)卒だけどウチの暮らしはちゃんとしてるじゃないか」などと。


 そうすると高い学歴のために「きびしい勉強に耐える」などということは馬鹿らしくもなってきます。


 三〇〜四〇年ぐらいの単位でみると、わが国において国民生活全般の向上に著しいものがあることは、誰も否定できないことでしょう。



 どのようにころんでも人それぞれにそれなりの人生があるのに、「勉強をもっとしろ」とか、また「生活もしっかり、しっかり」とお節介を焼きすぎる今の学校に子どもたちは嫌気がさしています。


 さらに、いじめなどもきっかけとして登校拒否の子どもたちがうなぎのぼりに増えてきています。
学校はいまでは、子どもたちの意識のなかでも絶対的な存在ではなくなってきています。


 「学校に行かないで生きる」という新しい生き方もはじまっています。なのに、依然として従前からの固定的な教育の見方にとらわれている人々が少なくありません。



 社会も変わり、子どもたちの受けとめ方も変わってきているのですから、学校と教育を動かす価値観も変わってしかるべきです。


 その点、新学習指導要領(小学校は一九九二年、中学校は九三年、高校は九四年から実施)の理念は、注目されます。


 従前にはなかった「個性を生かす教育」「社会の変化に主体的に対応できる能力の育成」「基礎・基本の徹底」などが総則にうたわれるようになったのです。



 
いまをもって丸刈り校則にしがみついたり、また「周辺や他校の動向を見てから」などと逡巡している中学校長は、没個性的で、社会の変化にも対応できない、新指導要領がなんたるかをまったく理解していない「教育者」だと批判されても仕方がないでしょう。


「基礎・基本」はどこの学校でも共通ですが、これからの教育の長期的な方向は、公立の小・中学校でも、学校ごとに特色を打ち出し、多様化していく方向なのです。





いじめを隠さない


子どもたちの自殺が相次ぐほど、いじめが深刻になってきているのですから、いじめへの対処は具体的で効果がはっきりと期待できるものでなくてはなりません。


 学校の現状は、まったく無為無策だと批判されても仕方がない状況にあります。


一九八五年、鹿川君の事件の後、文部省通知を添付しつつ、県教委は、第一項目で「関係児童生徒だけの問題としてとらえるのではなく、全ての児童生徒の問題として取り組むようにする」と通知しました。


 しかし、鹿児島市の情報公開条例にもとづいて公開をみた事故報告書などによると、このことがさっぱりなされていないことがわかります。


 報告書が少なく、そのこと自体、いじめを隠しているあらわれでもありますが、その僅かな事例のほとんどが関係者を個別に呼んでの注意程度の対処にとどまっています。


 病院に担ぎこまれるほどの大けがをして、被害生徒の親が学校に怒鳴り込んでくるほどであっても、「穏便に」と加害生徒の親を謝罪に行かせるぐらいですませています。これでは子どもたちみんなの問題になりません。



 中学校あたりでは、いじめはどのクラスでもある(あった)と考えてまず間違いありませんし、またクラス・学年をこえてもあります。


 そうすると把握できた僅かな事例でも、それはとても貴重なものです。具体例に即して、子どもたちにアピールすることが必要です。





「危険から遠ざかろう」「逃げよう!」


 アピールといえば、いじめを苦にした中学生の自殺が相次いでいることなど、学校長や主任から真剣な訴えが必要ですが、子どもたちへの助言が具体的である必要があります(つまらない「訓話」などは、今も昔も誰も聞いていません)。


 その一つは、いじめられそうなったときに、その場からただちに逃げよう!ということです。
ここでまた、価値観の転換が求められます。


 がんばったり、立ち向かうことばかりが、つまり「強い」ことだけが良しとされてきたこれまでの学校的な価値観を見直していく。


 子どもが「弱い」のはあたりまえ、弱い自分をまったく責める必要はない。
いや大人だって暴漢に襲われそうになったとき、ほとんどの場合逃げることが正解なのです。


 “逃げ”は恥じることではなく、いやなことや危険から遠ざかることはあたりまえです。




 このような学校長のアピールが本物かどうかは、職員の体罰を厳禁する指導にもあらわれてくるでしょう。
子どもたちは体罰を受けそうになってもこれまでは逃げることを知りません。



「先生方の体罰が万一あった場合は、黙ってぶたれていないで、たとえ君たちがどんなに悪いことをしたとしても、その場からすぐに逃げておいで」と。


 そこまで言いきる学校長の話には、間違いなく説得力があります。
子どもたちは「校長先生は、僕たちのことをわかってくれている。頼りがいがある。」と思うことでしょう。





いじめている子へも配慮を


 いじめられている子と同時にいじめている子へも配慮が必要です。


 いじめの事実を告げるとこれまでは「チクッた」ということで新たないじめの対象にもなってきたので、知らせた子どもに害がおよばないようにするためにも、いじめた側の子どもたちへも配慮が必要です。


 あらかじめ、生徒みんなに、知らせがあったからといって、いじめた生徒を責めないことを明言しておく。


 教師は、教師なのであって、警察官や検察官でなければ、裁判官でもなく、ましてや刑の執行官であってはなりません。



 いじめた側の話もよく聞き、いじめが事実であれば、やめるように言い、ある子どもに対して、いじめがなくなればさしあたってはそれで十分なのです。


 教師の介入の目的は、いじめをやめさることがであって、いじめている子の人格の変容にはありません。


 問題は、彼らのいじめという行為にあるのであって、性格にあるわけでないことは、いじめられている子に問題がないのと同じです。


 それゆえ、介入にあたっては決めつけを厳に戒め、彼らの人格を無条件に尊重する必要があります。



 このようにしていけば、学校において、少なくても深刻ないじめをなくしていくことは十分に可能です。


 しかし、そのためには教育のありようについての発想の転換とすべての局面で子どもの人権を尊重していく精神が不可欠です。



 残念ながら、いま現在、そうした考え方に立っている学校長は、数少ないと思われます。
それゆえ、教育委員会の指導責任も問われなくてはなりませんが、子どもの現在は待てません。


 学校が子どもたちの安全を保持する責任と義務をまっとうしていない状況のもとでは、親がわが子の命と安全を守るほかありません。


 親と子の判断で、危険から遠ざかる、防衛的不登校をする、しばらくは学校を休むようにする。そのことを誰も責めれないはずです。(了)





このページの一番上に戻る→


知覧中事件に関する内沢達の陳述書へ← / TOPページへ→ / 荒れる中学をどうするへ→



Last updated: 2003.9.15
Copyright (C) 2002-2003 「たの研」内沢達のホームページ(http://tachan.web.infoseek.co.jp/
uchizawa@edu.kagoshima-u.ac.jp