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登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)15周年記念誌
『登校拒否も ひきこもりも 明るい話』
(2004年10月発行)
より、抜粋して
1996年9月18日、当時知覧中学校3年、いじめで亡くなった村方勝己君の
ご両親の手記を紹介します。




勝己は私達のなかで生きています


村方 敏孝


今でもはっきり覚えています。子どもの人権を守る鹿児島県連絡会(当時)のスタッフが、遠い片田舎、そして迷路のような集落の中で、葬儀中だった私の実家を訪ねてきてくださったときのことを。

そこで初めてお会いして‥・、それからもうすぐ9年目を迎えるんですね。その人たち達こそが、どん底だった私たちの救世主でした。

早朝だろうが、深夜だろうが、台風が接近していようが、勝己に関する事実、情報収集に惜しげもなく労力と時間を費やして下さいました。私たちや、同級生、加害生徒の話を聞きながら、私たち以上に涙を流して下さいました。

私は今も悔やんでいます。たぶん死ぬまで悔やむでしょう! 私が勝己に最後にかけた「勝己、学校に行きなさい」の一言を。

私がもう少し我が子に関心を持ち、早く勝己の変化に気づいて、そしてこの会の存在を知っていたなら、勝己を死なせずにすんだのに。

そして今ごろ私は、「私の長男勝己は、中学3年の9月18日から学校に行きませんでした。今年22歳になります。今は毎日を楽しく、幸せに一生懸命生きています」と毎月の例会で言っていたかも‥・。

今もふと勝己のことが頭をよぎると、9月18日のことを思い出して、胸の鼓動が激しくなり息苦しくなります。ただボーッとしたまま、そして何も手につかなくなります。

でも私たち家族は、登校拒否を考える親・市民の会の皆さんのお陰で毎日明るく生きています。ほんとうにこのスタッフの方々を信じてついて行ってよかった‥・。

我が子に真剣に向かい合う親の会の例会は貴重な教訓だらけです。生きていればこそ、その先には喜びや笑いや感動が‥・。

これからも会のスタッフ、そして会員の皆さんと一緒に泣き、怒り、悔やみ、笑い、そして感動を味わっていきたいです。






今、私は強く優しく


村方美智子


梅雨のさなかであることを、あらためて実感させるように、しばらく強く降り続いた雨が今日は中休みです。からりとしたさわやかさはないが、この時期の晴れ間は貴重です。今日は仕事も休みだし、窓という窓を開け、洗濯を繰り返し、夏の夜具をひっぱりだして干しまくりました。引越ししてきてから迎える夏は初めてで、あれやこれやの植えてみた夏野菜の中では、青じそが我こそはと栄えています。この前初めて摘んだしその葉は柔らかくて、みずみずしくて・・・まっ先に、勝己に食べさせてあげました。


勝己が逝ってしまった夏の夏休みのことを、時がだいぶ経ってから、私の階下に住んでいる奥さんが話してくれたことがあります。集合住宅の共同花壇にある青じそを「勝己君が少し恥ずかしそうに『おばちゃん、青じそを少し下さい』って。『あれは皆のだから採っていいんだよ』って言ったのよ」と。そんなこともあったのかと、そのときの勝己の話しぶりや様子がパッと私の目の前に映し出され、泣いてしまいました。その奥さんも泣いてくれました。


勝己は青じその天ぷらも好きだったもんね。勝己の笑顔そっくりなひまわりも、もうすぐ咲くよ。


私の結婚生活は町営住宅で始まり、家族も4人に増えました。「狭いながらも楽しい我が家」がそのまま元気で楽しい我が家でした。・・・あの日までは。今から8年前の、9月18日までは。


私は長男勝己が中学校でいじめにあっていることを知りませんでした。毎日、毎日、学校で激しいいじめにあっていたなんて。上級生と同級生からの恐喝、暴力。私は全くいじめに対して無知で愚かな母親でした。小さい頃から手を焼くほど元気で物怖じせず、人見知りもなく誰にも人懐こかった、誰とでもすぐ友達になっていました。


私の目には、ずっと明るい元気なままの勝己でした。まさか、学校でそんな辛い日々を送っていたなんて、夢にも思いませんでした。現実には、勝己は学校生活の中で日々神経をすり減らし、疲れきり、プライドを汚され、ボロボロになって帰路についていたのでした。


そんな勝己を私は学校へ、ともかく学校へと追い立ててしまっていました。
本当にごめんなさい。勝己、ごめんなさい。
もう今さらどんなに悔やんでも、悔やみきれないです。


あの日、あの時に戻してやり直したい。
「学校は行かなくてもいいんだよ。うちでゆっくりしなさい」と、強く強く抱きしめてあげたいのです。


ここにいたら今年は22歳、どんな青年になっているでしょう。想像もつきませんが、背の高い夫に似た優しい若者に違いありません。時々夢に出てくる勝己は、いつも4歳頃のめっちゃかわいいさかりです。赤ちゃんの頃から女の子と間違われ、まわりの人たちが、「かわいい、かわいい!」と連発していたよね。


そんな勝己と直己と夫と、こんな私と14年間生活できて本当に、良かった、狭いながらも楽しい我が家、最高でした。


私は、勝己の死、そして裁判を通して、たくさんの人たちの善意をプレゼントされました。また、事実、真実に勝るものはないこと、何よりも大切なことは、ここに生きているということだと分かりました。生きているだけでとっても素晴らしいと気づかせてくれたのは、勝己です。


そしてあの当時、すぐに「登校拒否を考える親・市民の会」(子どもの人権を守る連絡会)が駆けつけてくださり、知覧の片田舎に住んでいる私たちを、顔さえ知らない勝己を助けてくださり、今こうして私は強く優しく生きています。


あたたかく私たちを迎えてくださった地域の人たちに囲まれ、自分を一番大切にしながら生きています。





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最終更新 : 2012.4.29
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