仮説社・月刊「たのしい授業」1996年4月号(No.167)59〜64ペ
大学でたのしい授業
5年前,本誌に「仮説実験授業と教育学」と題して「大学でも<仮説>でたのしくやっています」と書きました(No.101,1991年3月臨時増刊号)。
その後も授業書やいろいろな教材,小道具などのおかげでたのしく授業ができているように思います。
<おかねと社会>の授業
たとえばということで,板倉さんの『おかねと社会』(1982年,仮説社)を使った授業の1こまをちょっとだけ紹介させていただきます。
問題「中国で唐の時代から使われたおかね,開元通宝(621年)をいまコイン屋さんで買い求めると1枚いくらぐらいするでしょうか?」。
予想「百円くらい,千円くらい,一万円くらい,十万円くらい」。
学生たちの予想はいつも高いほうに,一万円〜十万円に集中します。「とても古いおかねだから価値がある」など,理由を言ってくれます。
次は答えというのが普通の順序(討論はあまりありませんので)だと思いますが,私の場合はその前にワンクッションがあります。
「ヒント。ぼく,いまここに開元通宝を持っています」。するとどうでしょう。
たちまち「先生,予想を変えていいですか」の連発です。
「十万円から百円に変更します」,「先生に悪いから(なんという“やさしさ”でしょう),千円くらい」等々。私が「多少高いものでも,実物を見たり手にするとみなさんが喜んでくれるでしょうから,持っていますよ」などといくら言っても効き目がありません。
では,次の問題「日本最古のおかねとされている和同開珎(708年)1枚の値段はどうでしょうか?」。予想をしてもらったあと,私が言う前に,たいがい「先生,それも持っていますか?」と質問があります。
それで「はい。持っています」と答え,「和同開珎」を実際に手にしてもらいます。
昨年の授業では「大学の予算で購入したんですか?」とまでつっこまれましたが,公費(校費)ではありません,私費です。
答え=「十万円以上」を確かめると教室に感嘆の声があがります。
と同時に疑惑のまなざしもそそがれます。
もちろん答えに間違いがあるわけではありません。
そこで私はただちに「たしかに持っていますが,これは残念ながら本物ではありません。レプリカ(複製品)です。」と正確を期すはめになります。
ちょっとだけでしたが,教室の雰囲気を察していただけたでしょうか。
『おかねと社会』を学ぶと日本史の大きな流れ,時代区分がよくが分かります。
スチール黒板いっぱいに古代から近現代までの代表的な貨幣のパネル(8倍に拡大したもの)を張り付け,他方,古銭の本物(明治初期の1円銀貨など,結構高価なものも用意している)やレプリカ(本物は百万円以上もする皇朝十二銭のひとつ「饒益(にょうやく)神宝」もコイン屋さんで数百円で手に入る)を回しながら授業を進めます。
プリント資料も貴重で,漫画や絵,図などが豊富な,松崎重広さんが以前『毎日小学生新聞』(1989〜90年)に連載されたものを使っています。(国土社『おもしろ日本史入門4〜6』も参照してください),
「“びくびく”じゃなく,“ドキドキ”の授業だから,とっても楽しい」
クラス(授業科目)によって違いますが,毎年,<おかねと社会>だけでなく,<世界の国旗><生類憐みの令>,そして<もしも原子が見えたなら><ものとその重さ><ばねと力><月の満ち欠け><宇宙への道><自由電子が見えたなら><ものとその電気><光と虫めがね><2倍・3倍の世界><程度の問題>などのたくさんの授業書を使い,さらには<おおかみ><ふんすい>の詩の授業もしています。
授業書のごく一部しかやらなかったり,多少問題をとばしたりもしていますが,学生が相手だからといって,授業の進め方に基本的なところで他と違いはないと思います。
はじめに「たのしく授業ができていると思う」と書きましたが,それは私の主観的な評価からだけではありません。大学でも,仮説実験授業・たのしい授業は,学生から圧倒的に歓迎されています。「とてもたのしかった」「たのしかった」という5〜4の評価が,いつもだいたい8〜9割方になります。
昨年の感想文のなかから,いくつか,その一部にすぎませんが,紹介させていただきます(個々の授業書ではなく,全体的な感想です)。
●まるで小学生のころの自分に戻ったように,予想するのに夢中になっていました。
●驚いたこととして,予想がまったくと言ってもいいほど当たらないことです。自分は,バカなのでは? と思ったほどです。
でも,おちこむどころか,「次の問題こそは!」と思わせる仮説実験の授業はすごいと思いました。
●仮説実験授業は頭に知識をつめこむという感じが全然ない。だから普通の授業よりリラックスして受けられる。
それに自分の予想があたってるかなぁという,答えを聞くまでの緊張感がなんともたまりません。“びくびく”じゃなく,“ドキドキ”の授業だから,とっても楽しいです。
●家に帰ると,必ず家族のだれかに問題を出してしまいます。
・・・私がそうすると家族に「授業のことを話すのは小学生以来だね」と言われました。
それではっとして,今まで授業に対する考え方や取り組み方がずいぶん変わってしまっていたことに気づかされました。
●楽しいです。「あーもう,今日は聞きたくない」とか「内職をしないと・・」とかいう時でも,気がつくと授業に参加してしまっています。
●こういう授業だったらガキの頃からちょっとは勉強好きになれたかもしれないし,ちゃんと受けたかもしれない。
ガキの level だと馬鹿にできない,知らないことをいっぱい得ることができた。
●どんな意見でも馬鹿にせず,受け取ってもらえ,とても楽しい授業だと思う。
●授業に参加している,という実感がもてる唯一の講義です。
●毎回この授業には,のめり込んでしまいます。
できることなら,他大学の友達にも受けさせたいくらいです。
いつの日か必ず実行に移します。(実際,ごくたまにですが,「もぐり」があります・・・内沢注)
このような評価や感想をもらうと,「これ以上,自分は何を望むものがあろうか」などと,とても幸せな気分になります。
発言する権利・しない権利
ところで,私は教育学の教員です。その私が「教育学」の授業のなかで,どうして<仮説>にたくさんの時間を割いているのでしょうか。
それは,これまでの教育学がいくら「子ども本位・子ども中心」の教育を唱えてもたんなる理念にとどまっていて実質がないのに比べて,仮説実験授業は,授業という,学校の肝心かなめのところで「子ども本位」の教育を実現しているからです。実質のある優れた教育論に教育学の教員がふれない手はありません。
発言や討論の強制をしない,<子どもたちへのいっさいの押しつけを排除する>というのが仮説実験授業の大原則です。
それは大学でやるときも同じです。
とくに大教室での授業では,予想のとき以外はほとんど手が上がりません。
そこで私がマイクをもって,インタビューして回ることになるのですが,学生たちも,突然,マイクをつきつけられて何かを言わなければならないとなったら,大変です。
ですから,あらかじめ「言うことがないときや,言いたくないときは,何も言わなくてもかまいません。
それなりのしぐさをしてくだされば,また短く“パス”と言ってくださればOKです。
発言することは権利であって,義務ではありませんから」と説明しています。
そうすると「パス」「パス」と続くこともあるのですが,結構「予想の理由」を言ってくれるのです。
発言しない権利がはっきりと認められてこそ,発言する権利も生きてくるのだと思います。
このことは<仮説>のときだけでなく,他の講義のときにも有効で,学生の意見が相次いだりして,一方通行の授業にならなくてすみます。
感想文には,「先生がマイクでインタビューしてまわるのは最初とてもびっくりしましたが,みんなの意見がいろいろ聞けてとてもためになります。
私には想像もつかないようなしっかりした考えをもっている人もたくさんいて,いつもびっくりしています。」とあったりします。
板倉さんは,「〜する権利」だけでなく,「〜しない権利」にも着目するよう早くから注意をうながしていました(板倉聖宣講演集『科学と教育のために』1979年,季節社,180〜182ページあたりをとくにお薦めします)。
板倉さんの考えをもとにした私の「教育学」の講義が,学生にどれほど伝わっているのか,次にレポートの一部を紹介します。
●子ども中心主義の授業は,自分の経験からいって,よい授業運営法だと思った。
手を上げさせるのではなく上げてもらう。感想文を書かせるのではなく書いてもらう。
手を上げなくても,感想を書かなくても,授業には参加している。その通りだと思いました。
小学校のとき,クラス全員が手を上げて発表しようとしたとき,私一人だけが上げなかったことがあります。
答えに自信がなかったからなのですが,そのとき,先生が私の前に来て「どうして上げないんだ。みんな上げているぞ。答えは何だと思う。言ってみろ。」と言うのです。
しぶしぶ自分の考えを言うと「当たっているじゃないか」と頭をぶたれました。
私はそれ以来,手を上げようと思わなくなってしまいました。
手を上げない権利,発表しない権利。
そのときの私にそれらがあったら,どんなにいいだろうと思ってましたので,うれしくなってきました。子どもを尊重すること,それが大事だと思います。
子どもを傷つける権利なんて,先生にはないのだから。・・・
皿回しとルソーの教育論
本誌に何度か皿回しの記事がのりました。
私はなかなかできなかったのですが,「今度こそは,授業をこれでしめくくりたい」と思っていましたので,後期の最終回にまにあわすことができました。
湯沢光男さんは,「皿回しは,生徒指導だ!」(No.156,1995年7月号),「相手にあわせて回す」「人間関係と同じ」と言ってますが,同感です。
私の場合は,ルソーの教育論を引き合いに出します。
ルソーは,『エミール』(1762年)のなかで,じつに気の利いたことをたくさん言っています。
○「子どもの状態を尊重するがいい。そして,よいことであれ,悪いことであれ,早急に判断をくだしてはならない。(岩波文庫版上巻161ぺ)
○「子どもの言いなりになることと子どもに逆らわないこととのあいだには大きなちがいがあることをいつも念頭におく必要がある。」(同79ぺ)
○「かれらの兄弟になるがいい。そうすればかれらはあなたがたの子どもになるだろう。」(同137ぺ)
「皿の状態を尊重して,皿の動きにあわせて棒を回します。
皿の言いなりになってはいけませんが逆らってもいけません。
皿と棒が兄弟のように波長があってくるとよく回ります。どんどん加速します。
棒を手の平に立てるとどうでしょう。今度は皿が棒を回しているではありませんか。」などと,口上を述べながらやっています。
講義最終回は,拍手喝采のうちに終わりました。
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