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仮説社『たのしい授業ハンドブック』(『たのしい授業』No.101,1991年3月臨時増刊号)170〜182ペ


仮説実験授業と教育学

--大学でも〈仮説〉でたのしくやっています --



 大学の教養部で一般教育の授業科目・教育学(半年で4単位)を担当してきて15年目に入っています。


 教育学部が全学(他学部)に開講する教職課程の授業科目・教育原理(2単位分)も年に一度(半年間)手伝っています。


教育学と聞くと,どんな印象をもたれますか? 肯定的なイメージですか,それとも・・・。教育学を軽んじてはいけませんよ。
だって・・・


板倉さんは教育学者だ!


もう20年以上も前のことですが,板倉聖宣さんが教育学者の梅根悟さん(故人)と対談をして仮説実験授業について語りあったあと,最後に次のようなやりとりをしています。


「梅根 (前略)板倉さん,僕はあなたを物理学者とは思っていまぜん,あなたは物理学者ではなくて教育学者だ,と考えたいのです。
物理学にくわしい,従って理科教育にくわしい教育学者,あるいは教育研究者,というわけです。


教育学という学問は昔は哲学の一部でありましたし,哲学者の片手間仕事でありましたが,今ではそのような伝統のもつ今日的意味を生かしながらも,各方面の専門学にくわしい人たちが教育学者になる,あるいは教育学者的研究を,少なくても片手問にやる,そしてそのような教育研究者が横に手をつないでゆくことが必要だと思うのです。


 板倉 そうです。
じつは,私自身教育学者だと思っているのです。
よく私のことを物理学者などといって紹介して下さる人がいますが,そういうときには,否定することにしています。


しかし,ただ教育学者というといままでの教育学者と混同されるから困るのです。
講壇教育学者ではない,実践的教育学者とでもいいたいですね。(後略)」


(「対談・仮説実験授業をめぐって」『生活教育』1967年11月号。キリン館・ガリ本図書館保存賢料3『仮説実験授業と教育評価』1988年,86〜87ぺ)


板倉さんが片手間で仕事をしているとはとても思えませんし,また自然科学に限らず社会科学についてもくわしいのですが,板倉さんはじつは教育学者なんだと考えると(いや事実そうなんですが),教育学についてもずいぶん違った印象が生まれてくるのではないでしょうか。


 私は教育学担当の教員として,いま大学で仮説実験授業をやっています。以下,私が〈仮説〉とどのようにかかわり,〈仮説〉にどんな思いを抱いているのか,綴らせていただきます。


私が仮説実験授業について少し知るようになったのは大学院のときです。
その後,私が大学に勤めるようになって,正直なところ講義のネタに困って,板倉さんの『末来の科学教育』(国土社)や『仮説実験授業一〈ぱねとカ〉によるその具体化』(仮説社)を読み込み,授業で取り上げるようになります。


授業書〈ものとその重さ〉や〈ぱねとカ〉は,かなり早くから紹介してきました。


しかし,私はしばらくの間,仮説実験授業について,予想イコール仮説と考えていたり,「系統学習」(「問題解決学習」に対して教科の系統的な学習を重視する考え方)の一つと思い込んでいたり,基本的なところで間違った理解もしていました(鹿児島の松田心一さんから,いろいろと教えられました)。


 仮説実験授業の紹介には違いないのですが,私が説明するのではなく,私が教師になって仮説実験授業そのものを大学生にも受けてもらおう,〈仮説〉を体験してもらったほうがよいと考えて授業をおこなうようになったのが3年ほど前からです。



〈月の満ち欠け〉の授業


 きっかけは鹿児島で開かれた楽しい授業入門講座に参加したことでした。
そのとき吉村七郎さんが授業書〈月と太陽と地球〉の第1部〈月の満ち欠け〉をやってくれました。
私自身知らなかったことが授業書と発泡スチロール球でよくわかったのです。


さっそく大学生相手に試してみましたが,結果は大好評でした。
その後毎年,前・後期ともおこなっていますが,今年度前期(法文・教育字部学生対象)の感想文のなかからいくつか紹介します。



●「月の満ち欠けの授業の時は,教室の中のみんなが実際に小学生か中学生にもどったのではないかと思います。


はじめ先生がプリントを配り,本当にある月には○を,ない形には×をつけなさいとありましたが,結構,友だちと本気になって“これは絶対ないね”とか“こんなのあるわけない”とか言いあいながらやっていました。・・・すごく楽しかったです。・・・」


●「私は小学校4年のとき,自由勉強で月を観察していたので,自信があった。
ところが現実は厳しかった。
予想はことごとくはずれた。
さらにどうして月は満ち欠けするのかと聞かれてほんとうに悩んでしまった。
先生が月に見立てた球体をもって教室をぐるりと回ったとき,あまりのわかりやすさに驚いた」


●「“満ち欠けは太陽による地球の影が月に映ってできるものだろう”ともっともらしく考えていた私は,ほんとうのことを知って,今まで私は何を学んでいたのだろうと落ち込みましたが,納得してわかった後はとてもそう快でした」




マスプロ授業もまた楽し


 1コマにおさめるため問題のいくつかは紹介だけで予想はしてもらいまぜんが,読み物「月と暦の話」のところまで100分の授業でいきます。


途中,直径13・の発泡球の半分を黒く塗った月の模型をかざして大教室をひと回りします。


 ある学生は「月がほんとうに満ち欠けしているように見えた」と書き,また別の学生はかなりオーパーなのですが「私の驚きようは言葉であらわせないほどだった。


 思わず“わあ一”という言葉が口から出た。瞬間まわりの学生を見渡すとみんな口をあんぐりと開け,目を輝かせていた」と。


 私が模型をもって大教室をぐるっと回るとき,ほんとうにそうなのですが,ちょっとしたドヨメキがおこるのです。


 こんなときは教養部のマスプロ授業(実出席300人を超える)も捨てたものではない,多人数ゆえの迫力もあってなかなかだとも思うのです。


 昨年10月末から冬休み前まで,教職課程の教育原理の授業(実出席約100人)では,授業書体験講座と銘打って,次のように連続して仮説実験授業をやりました。



 第1回 10月31日開講〈空気の童さ〉(岩波映画製作所のピデオを使用)

 第2回 11月7日〈自由電子が見えたなら〉(第2部の問題5まで)

 第3回 11月14日〈世界の国旗〉(わかば書房のカラフルな国旗を用意して)

 第4回 11月21日〈月の満ち欠け〉(前述)

 第5回 11月28日〈生類憐れみの令〉(第3部の質問1まで。第2部は説明が主)

 第6回 12月5日〈ものとその電気〉(このとき磁石の問題は省略)

 第7回 12月12日〈光と虫めがね〉(第1部の問題4まで)



 休み前の最後の授業(12月19日)のときに,書いてもらった感想文のなかからいくつか紹介します。






授業書体験連続講座の感想


 「世界の国旗がよかったです。私は地理分野は比較的得意で知っているつもりでしたがはじめて聞くことが多かったです。


 それぞれの国旗にその国の歴史や国民の思いがこめられていることがわかってよかったです。それに国旗がとてもきれいでした」(法文字部人文学科)




 「お金が電気を通すか通さないかという授業が一番おもしろかったです。


ことごとく外れましたが,1円玉が電気を通すのなら千円札も電気を通せば面白いのになーと友だちといいながら,思わず“通す”というほうに手を上げてしまいました。


 一般常識を疑われるなーと思いながらもそれを抜きに楽しんでしまいました。
おまけに化学科なのにちっとも分からなかったというのだから皆で大笑い」(理学部化学科)




「月の光を集めたら,月の形に集まってしまう。こんなこと思いもしませんでした。


 それに窓の外の景色が虫めがねによって写し出されたときは,自分の考えがはずれたということより,自然ってすごいんだなという感動のほうが先立ちました。白い紙に桜島が逆さまに写りました」(理学部化学科)




「静電気の実験はおもしろかったです。


きやべつもまわるし,ねぎもまわる。
 ことごとく予想に反してなにもかもまわってしまいました。


ぷつうの授業では答えがはずれると何かいやな気分になりますが,仮説実験授業,特に静電気の実験ははずれても,おどろきがあって,野菜がまわるのを見てるとうれしくなってしまいました」(農学部農芸化学科)




「生類憐れみの令の問題を考えていくにつれて,道徳的なこと,生命観や思いやりといったものが頭に浮かぶようになりました。

 
 授業書にはこうあるべきだとか,こう考えたほうがよいなどということは一言も書いてなかったのに,問題を考えていくにつれて自然とそのことについて考えていました。


 この授業書の優れたところだと思います。教訓じみた感じや強制された感じを少しも受けませんでした」(法文学部人文学科)




 「空気の重さの授業がよかった。普通のテレビの実験では失敗しないという考えがあるのに,失敗して,見ている人に,問題に対して自分の考えを率直にためしてみて失敗したらまたどうすればその失敗をせずにやれるかと考えが出てくる。失敗をしても解決策を積み重ねていけば問題を解くことができる。


 そして誰もがそういうささいな失敗をするのかと安心でき,自分の考えの視野を広げでいくことができると思う」(理学部生物学科)


 



 大学の教員は研究者意識が強いのですが,教員であることに変わりはありません。
教員として,授業がうまくいくとやはりうれしいのです。
 私も授業のあとで感想文を読むのがとても楽しみです。


 「大学生が,出席をとらないこの授業にきているのは,みんな楽しいからだと思う」とか,「大学にきてこんなに面白い授業を受けられるとは思わなかった」などと書かれた感想文に出あうと,今年も仮説実験授業のレパートリーを広げ,楽しくやっていこうと思ったりします。


「“満ち欠けは太陽による地球の影が月に映ってできるものだろう”ともっともらしく考えていた私は,ほんとうのことを知って,今まで私は何を学んでいたのだろうと落ち込みましたが,納得してわかった後はとてもそう快でした」




仮説実験授業と子どもの人権


 さてここで,仮説実験授業の基本的な考え方や思想といったことについても,私がどんなところに注目しているのか,ふれさせていただきます。


 一つは子どもの人権の考え方です。
 いまでは子どもの人権という言葉も,全国的に管理教育が問題になっていてめずらしくはないのですが,板倉さんは早くから,授業のありかたという学校教育のもっとも中心的なところで,押しつけを排除し,子どもの人権を守るという考え方を明確にしていました。


 たとえばある雑誌の座談会で次のように発言しています。



「板倉 (前略)権威ある知識というのがあって,それを教えなけれぱ悪いんだという発想が,民間側にも強いんですね。
 だから,『系統学習』などといって『これだけのことは基礎知識として必要だ』などとされてたくさん教えるでしょう。


 文部省が必要だという知識内容の量と,民間の教育界から出されるそれとは量的にはたいして変わらないようにぼく思うんですけれども。


 その『権威ある知識』を押しつけるという点では,これまで進歩派であろうと体制派であろうと,ほとんど変わらなかったと思います。


(中略)子供というものはどこかへいって,進歩派も体制派も何かいままでの社会を維持するのに一生懸命で,子供の人権というようなものは,どこかへいっちゃうわけですよ。


 子供の人権を守ったら,子供が次の世代を受け継いでいかれないかといったら,そんなことないですよね。


 たいへんりっぱにできるんで,りっぱ過ぎて上のほうは困っちゃうかもしれない。上に対して反抗的になるかもしれないし」


(1972年,座談会「教育への疑問と期待(2)」国土社『国語の教育』未発表原稿。キリン館・ガリ本図書館保存賢料2『科学と思想と教育』1988年,77〜78ぺ)




悪事は善意から


 仮説実験授業の基本は,「わかる授業」ではなくて「たのしい授業」です。


 「わかる」ということは結果としてそうなるのであって,それが先行するわけではありません。
ところが「わからせよう」として,意識的,無意識的に押しつけをしてしまう学校教育がこれまでまかり通ってきました。


 板倉式発想法の一つに「悪事は善意から」というのがあります。
世の人々の多くは善意で動いていますし,学校の教師もそうです。


 最初から悪いことをしようと思って,実際にそうする人はそんなにいるわけではありません。
生徒をたたく教師もそのときは憎くてやっているのですが,「生徒のためを思って」という言葉は,


 言い訳であったり自己の合理化であるとしても,動機としてはほんとうである場合が少なくありません。


「どの子にもしっかりとした学力をつけさせよう」とか「落ちこぼれをなくそう」という善意も,よく吟味をしないと子どもの人権侵害を引き起こしかねないのです。
善意は曲者で注意をしないといけません。


(法学担当の職場の同僚から教えられたのですが,西洋のことわざに「地獄への道は善意で敷きつめられている」というのがあります。“The load to hell is paved with good intentions.”『岩波新英和辞典』『小学館ランダムハウス英和大辞典』などで“pave”を引いてみてください)


 仮説実験授業では,たとえそのことが真理であっても押しつけてはいけない,いや真理だからこそ押しつけてはいけない,押しつけないからこそ人々みんなのものになるのだという考えでやってきています。そこには,子どもたちへの,そして人間への限りない信頼があります。




教育における“子ども主権”


 また仮説実験授業は,「教育の主権は子どもたちにある」という考え方をあらゆるところでつらぬいています(仮説社「仮説実験授業のABC」1977年初版,参照)。


 板倉さんは,授業書を作るときも「一番もとにしているのは,子どもたちが興味を持つかどうか,子どもたちが,おもしろく思って,授業に参加してくれるかどうかということだけです」(季節社『科学と仮説』1971年,296ぺ)と言います。


 実際の授業場面でも,主人公はあくまでも子どもたちであって,たとえば教師が勝手にここは討論すべきであるとか,すべきでないとか考えてはいけません。


 予想の理由の発表ときも,討論のときも,子どもたちは何をいってもよいし,また何もいわなくてもよいのです。


 「発言する権利と発言しない権利の両方を認めることにより,おしつけを排除する必要がある」(季節社『科学と教育のために一板倉聖宣講演集一』l979年,182ぺ)と考えています。


 さらに,〈実験の結果どういうことが分かったか〉などとくどくど言ってはならないことや子どもたちの気持ちを勝手に推測しないで授業後の感想文を大切にすることなど,徹底して,子ども主権の考え方で教育をおこなおうとします。


 このような考え方は,いったいどこからくるのでしょうか。




人権とヒユーマニズム



 仮説実験授業のもっとも根本にある考え方や思想は,人権とヒューマニズムにあると言ってよいと思います。


「わたしたちが仮説実験授業でもっとも基本的としていることは,こういえるのではないでしょうか。一一自分が自分の主人公であるような人間,そういう人間を作る,というよりも守り育てる一一ということです。」(板倉「仮説実験授業への招待」「科学教育研究」No.11,1973年。仮説社「仮説実験授業の研究論と組織論」1988年,16ペ)


 「仮説実験授業はわたくし自身のつもりでは科学教育の問題を解決するためというよりは,むしろもっと広い教育の問題あるいは思想の問題,そういったものを解決するために長らく頭の中にあっためておいたものだ,と言ってよいかと思います。」(板倉「仮説実験授業一一その底にある考え方」1968年講演筆記。季節社「科学と仮説」1971年,268ぺ)


 私の授業では,さきの〈ものとその電気〉について水産学部のある女子学生が「ローソクに静電気が起きたとき,何か,今まで勉強してきたことよりも価値のあることを学んだような気がしました」と感想文で書いてくれました。


 板倉さんの言う「実は科学そのものの教育などあまりたいしたことではない」「科学教育はたんなる知識の教育以上のものと考えている」(『科学と仮説』274ペ)ということが実感的にも少しわかる感じがします。



 人権というのは,一人ひとりの人間が人間らしく生きていくための権利のことで,ヒューマニズムの思想が根本にあります。


 種々の人権論がありますが,こんにちの憲法学では,自己決定権や自律権,つまり自分で自分のことを決め,自分を律していくことが人権の核心と考えられています(佐藤幸治「日本国憲法」青林書院,1981年)。


 それは,板倉さんが言うように「自分が自分の主人公である」ために欠くことのできないものです。
 私は,このような人権思想に強くひかれます。




ルソーと仮説実険授業


 ところで,基本的な考え方や思想といえば,私はもう一つ,ジャン・ジャック・ルソー(1712〜78)の教育思想との関連でも仮説実験授業を注目していますので.最後にちょっとふれさせていただきます。


 板倉さんだけでなく,現場で仮説実験授業をやっている人たちも,その仕事をたくさんの本の中にまとめています。


 そのなかの一冊,東京の小原茂巳さんの「授業を楽しむ子どもたち一生活指導なんて困っちゃうな一」(仮説社,1982年)の序文「子どもたちよ,そのままの君で!」から,その中ほどを次に引用します。


「僕は子どもたちみんなに言いたい。『そのままの君でいいんだよ!』ってね。


 僕は,子どもたちに,そのままの君で,遠慮なく授業に参加してほしいんです。マジメな子はマジメな子なりに・・・。不マジメな子は不マジメな子なりに・・・。にぎやかな子はにぎやかに・・・。


 発表するのが苦手なら,発表せずに・・・。落ちつかない子もそれなりに・・・。劣等生は劣等生なりに。優等生は優等生なりに・・・。
できる子もできん子も,それぞれに・・・。


 みんな,まず,『そのままの君』でいいじゃないですか。


それぞれの持ち味をいかして,1時間1時問を楽しんじゃう。
そして,いつのまにか,みんなでかしこくなっちゃう。僕は子どもたちと,こんな授業,こんなつきあいをいつまでもつづけたいのです」


 私は小原さんの本の内容全体もさることながら,この序文がとても気に入っています。
私の理解では,「そのままの君で!」という考え方は,ルソーが「エミール」(1762年)のなかで展開した「自然」「あるがまま」の思想のとてもわかりやすい具体化なのです。


 なにもルソーを持ち出さなくてもと思われるかもしれませんが,ルソーは子ども本位の教育を唱えた思想家として有名ですし,いまなおそのことが実現していませんので,やはり注目したいのです。


 一般的な建前論議では,多くの人たちが子どもの自主性を認めるのですが,ひとたび具体的なことになると,「あるがまま」の子どもを認めようとはしないのです。


 小原さんが「子どもたちよ,そのままの君で!」と言い切り,しかも「いつのまにか,みんなでかしこくなっちゃう」と書くことができたのは,仮説実験授業があったからでしょう。




近代科学としての教育学がはしまる


 板倉さんは,「教育学をはじめて「近代科学」として確立した思想と方法」と題した論文(初出「たの授」No.49。仮説社「たのしい授棄の思想」1988年,37〜49ぺ)のなかで,「教育学を全面的に改革するために仮説実験授業を提唱し」「まさに「これから近代科学としての教育学がはじまる」その出発点を築きつつある」と述べています。


 またルソーについては「私たちの考えと共通するところが沢山あり」,彼の「教育学上の地位は,近代力学史上でのレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)の役割に似ている」と言っています。


 しかし,「ダ・ヴィンチはその優れた直観でガリレイと同じようなことを沢山いっていますが,近代力学そのものへの第一歩を歩むことはできなかった」ように,ルソーも「思想倒れで,教育内容を着実に変える力にはなっていない」と続けます。


 仮説実験授業によって,はじめて,どの子にも(小原さんの「そのままの君で!」が実証しています)「どのグラスでも適用可能な」教育内容・方法の提示がなされました。


 板倉さんは「近代科学の仮説・実験の精神が教育学の世界でも成果を収めた最初の例です」と言います。


 私の場合,仮説実験授業と出会うことによって,以前とは少し違った角度からルソーをみるようになりました。


 ルソーの学問論や知識論,自由論,模倣論といったものには,仮説実験授業の発想法と共通したものがあり,今後とも注目していきたいと考えています。




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Last updated: 2003.9.14
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