「たの研」内沢達のホームページ
TOPへ戻る

TOPページ → 教育原理、いじめ、たのしい「生活指導」 → 組合は楽しい!?



組合は楽しい!?



以下の一文は、1993年2月に書いたものです。
前年3月から1年間、鹿児島大学教職員組合の役員(書記長)をしてきて、その活動報告をしたものです。これが掲載された組合員ニュース(“組合は楽しい!?”「鹿大教職組」通算1044号)は、他の役員も思い思いに綴っていて、100部か200部増刷するほど、とても好評でした。


相当以前のものなのですが、「何をするにも仮説実験」の考え方でのぞむと、組合活動でも皆さんから喜ばれ、それなりの成果もあげうることを実証した記録として貴重なものと思いますので、ここにUP ! します。


「したくないことはせずさせず」「いい加減はよい加減」「なのにと言ったらだから」「負けるが勝ち」などの<ことわざ・格言>も意識して、組合役員をつとめました。

(2004年12月)


結果として、「新しい組合活動のスタイル」
─ 1992年度鹿大教職組の活動報告にかえて ─


書記長 内沢 達(教養部)


個人的な思いや関心事を述べることから、はじめることをお許しいただきたい(じつは、はじめだけでなく途中も、そして最後の最後まで、個人的な思いで埋まっているのですが)。


ジャン・ジャック・ルソーは、かつて、その著「社会契約論」のなかで、「各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由である」社会と人間のありようを問題にしました。


大は国家から、官庁、企業、大学、そして労働組合も、それぞれ大小はあっても、組織であり、ひとつの社会です。私の、ここ数年の関心事の一つは、とくにソ連・東欧社会の崩壊を前後して、組織と人間(個人)の問題をどう考えるかにありました。組織のなかで個人がどのように自由をつらぬくことができるのか、またどのような組織が真に発展的な組織であるのか、などです。


私は、この一年間、組合の全学書記長をつとめて、一つの実験をさせていただいた、と思っています。そしてその実験結果に、私個人としては満足しています。結果として、「新しい組合活動のスタイル」らしきものが見えてきたのではないかと思っています。


「ちょっと待って!」
「君は、新しい組合活動・・・などと言うが、新しいとか古いとか言う前に、今年度の全学の組合は、何か活動したの? 活動をさぼってばかりだったんじゃないの?」という声が聞こえてきそうです。そのとおりです。活動はあまりしていません。


でも、「あまりしなかった」ということも、そのことを意識的に「やった」(つまり、相当のことを意識的にサボッタ)とするとヤッパリ「新しい」と思っています。そして、いくつかの活動も多少はやったわけですが、そのやり方には明らかに「新しさ」があったと思っています。


はたして、それで良かったのかどうか、何でも新しければ良いというものではありませんので、その評価は、みなさんにしていただくほかありません。きっと、いろんな評価や見方があることと思います。


「新しい組合活動のスタイル」という言い方は、全大教が最近、言いだしていることです。私自身は、「スタイル」という表現には抵抗を感じ、そして全大教が言っている(というか、やっている)ことは、ほとんど「新しく」もなく、未だ中身がないと思っていますが、タイトルとして使わせていただきました。


すでにみなさんお気づきの通り、このような「活動報告」の仕方自体、いままでになかった新しいものです。


何月何日に、何をやった、という活動報告は全くおもしろくありません。活動に対する評価をともなってこそ、活動報告は意味をもつと思うのですが、その評価は人によって違います。違うものを中執の「活動報告」としてまとめようとすると無難な線におちついてきて、これまたおもしろくないものになってしまいます。そこで、今回は、中執の個々人がそれぞれ勝手に思いをつづることにしたわけです。


この拙文もその一つです。書記長でしたので、かかわったことが多く、文章も一番長くなっていますが、内容はもちろん私の個人意見です。どうぞ気楽にお読みになって、ご感想・ご批判をお寄せいただきたいと思います。



「したくないことは、せず、させず」─ 民主主義の前提 ─


だれでも自分で納得できないことは、したくないものです。1年前、書記長としての私の仕事は、新年度の活動方針作りからはじまりました。最初の中執の会議にその方針案を提示したとき、どなたかが「コレ、レジュメ?」と言いました。そうなんです。たった数項目、しかも箇条書き風のもの。そのように受けとめられても仕方がないものでした。


専従書記の笹川さんは、横からやさしく「書記長は、大会の時には、もっと詳しいものを用意するんでしょ」と言ってくれました。私は「いいえ、これが全文です。B5一枚、これっきりです」と。


このことは、前々から思っていたことをタマタマ書記長役が回ってきて実行に移したに過ぎないものです。以前の方針案には、大概、前書きとして国際情勢から、大学をめぐるそれまで、情勢分析というものがまずあり、しかる後、今年度の課題、そして活動方針と続いておりました。


私は、文章を書くのが苦手ということもありましたが、そのような情勢分析をしたからといって、運動が進むとはとても思えませんでした。何よりも、あれは大変な作業です。アレをしないだけで、書記長役も相当楽なものになります。毛利委員長をはじめとして、当時、中執のみなさんは、内心あきれていたのかもしれませんが、今年度はその極めて簡単なやり方でいく(定期大会にのぞむ)ことをお認めいただきました。


一般の組合員の方でも、お気づきかと思いますが、今年度はこれまで鹿大教職組が一貫してやってきた幾つかのことをやっていません。例えば、春闘の全学集会がそうですし、秋闘もそうです。私には私の考えがあってやらなかったのですが、もし、そのことに「君は、鹿大教職組のまじめに闘う伝統というものを、いったいどう考えているのか」などと批判があったら、私の考えをちょっと述べるつもりでした。


それでも、さらに「君の考えは間違っている!」と続けられたら、すぐに「ごめんなさい」と謝るつもりでおりました(この「ゴメンナサイ」は教育の川窪さんから学んだ。むかしから「負けるが勝ち」と言うじゃありませんか)。


そのようなやりとりは、じっさいのところありませんでした。ほんとうは批判したかったのに、「しょうもない書記長だ!」とアキレテ、ものをおっしゃらなかっただけかもしれません。


しかし、私は、組合活動の仕方も何が正しく、何が真理なのか、それは、議論・討論では決まらないと思っています。真理は、実験によってしか、確かめられません。実験は、社会の中でも行なわれるのです。


最初は、いろいろなことをやりたくないのは私だけかなぁと思って、オソル、オソルでしたが、だんだん、私だけではないんだ、ということもわかってきました。他の書記局メンバーも、中執の人もそうなんですね。だいたい自分はやりたくないのに、他人にやらせようというのはイケマセン。


とくに、「君は役員なんだから」ということでオシツケられますと、「役員になると大変なんだ」ということにもなります(実際、いままでそうだった)。自分の意思をどこかにほっぽっちゃって、「みんなで決めた事なんだから、とにかくしなきゃいけないんだ」と考える必要は全くありません。“多数決原理は、最後の奴隷制”とも言いうるのです。


したくないことは、しなくてイイんです。でも、したくないことでもやらなきゃいけないこともありますね。そういうことは最小限にとどめようということです。それが、今年度の書記局・中執の基本方針の一つでした。


「やりたい、やろうと思った人がする」
「したくないことはしなくてイイ」。


「そんなことを言ったら、組合なんかつぶれちゃうじゃない」と心配する方がいらっしゃることでしょう。でも、そうでしょうか。私の前に理学部の坂井さんが全学書記長をされましたが、彼は「組合って、そんな捨てたものじゃない」と言ってました。私もそう思います。


「やりたい、やろうと思った人がする」。


これは、昨年3月の中執会議のときに私が用意したレジュメの中にあった表現です。今年度の組合は、あまり活発ではありませんでしたが、それでもいくつか目立つ活動がありました。前年度を引き継いだ学内のゴミ、環境問題、PKO法案反対の学内集会・デモ、学長選挙のときの公開質問状の取り組みなどです(そういえば、これらはすべてマスコミでも取り上げられました)。


書記局のメンバーを中心に考えると、今年度の活動には、義務感で、役員だから仕方なく取り組んだというものは、ほとんどないと言ってイイと思います(ホトンドと言っているのであってマッタクではない。例えば、書記次長の平井さんの財政問題委員会の仕事などは、前年度を引き継いだもので、書記次長だからやらざるをえなかったという面があるように思います)。


つまり、やりたい、やってもイイ、やろうじゃないかと活動したものがほとんどです。例えば、メーデーですが、書記局で話し合っているうちに、どうせ参加するんだったらちょっとアピールしたほうがおもしろそうだということになってきます。そうすると教養の安東さんが「俺が横断幕を書こう」と買って出ます(「“酷”立大学にもっと・・・・」というやつ)。PKOのときの横断幕も彼の作品です。ああいうものがあると違いますね。


集会やデモに出るときの気持ちが変わってきます。ちょっと楽しみができます。「みんな、この横断幕をどんなふうに見てくれるかなぁ」などと。そのPKO法案反対の集会も通り一遍のものにはしないで、いつ行ったら最も効果的なのかを考え、みなさんには3日前に緊急にお知らせをし、図書館前から農学部まで学内デモを短時間にスカッとおこないました(「教官らが5年ぶりにデモ」と報道されました)。


環境問題も話し合っていくうちに、どうせだったら、もっと根っこを問題にしようということになってきました。北部清掃工場の見学です。法文の柳原さんが工場と連絡を取ります。環境問題委員会の佐藤さん(理)からは、「バスをチャーターしませんか」とどんどん話が広がってきて、これまた柳原さんがバス会社と安く話をつけます。


会議と集会だけが組合活動ではありません。レクレーションとはまた違ったバスの借り上げは、これもまた楽しいものでした(学生・大学院生も参加した)。7月末、夏の真っ盛りに、汗をタラタラ学内ゴミ焼却場めぐりもして、いろいろ新しい発見がありました。


鹿大教職組の環境問題の取り組みは、農学部の坂田さんがまとめ、宮崎での職懇でバッチシ発表しています。


秋の学長選挙に際しての公開質問状の取り組みも、やりたくてやった活動です。今回は、各学部・教養部から推薦された適任者すべて(26人)に、事前に公開質問状の案内を資料を添えてお知らせし、候補者(5人)になった場合には、詳しくお答えいただけますよう、その準備をお願いすることからはじめました。


学長選挙は、学内構成員の大きな関心事であるにもかかわらず、これまでのところ組合の公開質問状への回答のほかに、各候補者の考えを知ることができるものがありません。私は、国際電話をかけたのはこの時がはじめてのことで、書記長ならではの楽しい経験もさせていただきました。号外を発行しましたが、組合ニュースがこれほど学内構成員に読まれたことはなかったのではないでしょうか。


書記局メンバーが中心になって、組合がないところにも、すべての学科・講座などに号外を配布しました。ポスターも各所に掲示しましたが、学部によっては、事務局との間でオモシロイやりとりがありました。


「貼っちゃイカン」と言うんですね。
係長が課長補佐に伺いを立て、課長補佐は課長へ、というふうにして結局、ダメだと言うんです。私たちは、あまりにも四角四面な対応に思わず吹き出してしまいました。組合の「く」の字を聞いただけで、身構える、冷戦の終結を知らない世の中がまだあるんですね。


それで、私たちは、「じゃ、勝手に貼っていきますので、都合が悪ければ、どうぞ、後ほどお剥がしなってください」と。その後は、どうだったでしょうか。なんのことはない、ずっと掲示されたままです(当たり前です。イチイチ剥がして歩くほど、公務員はヒマじゃないでしょう)。これらの活動は、いずれもとても楽しいものでした。学長杯争奪の第一回鹿大囲碁名人戦は、言わずもがなです。


「いい加減は、よい加減」


「いい加減」という言葉は、普通、悪い意味で使われます。今年度の執行部は、中執といったらよいのか、書記局というべきか、間違いないのは書記長ですが、これはもうほんとうに「いい加減」でした。活動をさぼってばっかりで、ちょっとだけやったことは自分が「やりたかった」ことだけです。


この1年間も、全大教からはいろいろな指示があったのですが、無視したり、テキトウにつきあってきました。例年おこなっている国会請願などの署名もほとんど取り組んでいません(今度、人勧の「官民比較方式を改める」要求書名は、タイトルにはっきりそれを掲げている点で新鮮さがありましたので、今年度では初めて各支部に下ろし、ご協力をお願いする次第です)。せっかく全大教が作ったものなのに、それを下ろさず無駄にするとは何事かと批判されそうですが、下ろした場合は、もっと大きな労力と時間の無駄になると判断したからです。


だいたいにおいて、各種の要請に全部応えていたのでは、中執はほんとうに大変になってしまいます。しかし、「役員が大変なのは当たり前ではないか」、「それだからこそ執行部というものがあるんだ」という見方があります。


でも、私はそうは思いません。役員になって1年間は自己犠牲的に頑張る、そんなのが美しいとは、とても思えません。これまでも「役員になってよかった」ということが、なかったわけではないでしょう(学部を越えて友達もできますし・・・)。でも、大概そういうときは「1年間大変だったけど」とオマケがつきます。それよりも「1年間とても楽だった。役員になってよかった」「こんなんだったらまたやってもイイ」ということが、これからはもっとあってよいように思うのです。


私の考え方は、すでに述べたように「やろう、やりたいと思った人が活動する」というのが基本です。役員であろうがなかろうが原理的には違いありません。でも、やっぱり組合は、役員を中心に動いていきます。その活動の中心にいる役員の人たちが義務感で「イヤイヤやる」組合って、やっぱり魅力もなければ、オカシイと思うのです。やりたくなければやらなくてイイわけですし、やらない人を「役員なのに」と言って責めちゃイケナイのです。


今後、組合という組織に未来がある、発展があるとすると、それはどのようなあり方が考えられるでしょうか。それは、中心にいる役員の人たちが、「組合って、結構、楽しいな」「役員なのに(と言うよりも、役員だからこそ)、楽しくやれた」と感ずることができる組合活動です。


そのためには、<活動しない自由>(よりわかりやすくは<活動をサボル自由>)が認められなくてはなりません。<しない自由>が認められて、はじめて、「やりたい」「やろうじゃないか」という<活動する自由>がほんものになってくるのではないでしょうか。今年度の全学の組合活動は、そのことをちょっとだけではありましたが、実験的に明らかにしたと思うのです。当たり前のことなのですが、労働組合ということころも、本来、任意的で、自主的な組織なんです。


こんにち、大学というところを「科学の殿堂」とまで言いうるかどうかは疑問ですが、大学が科学の研究を進めていることは、間違いありません。その大学の組織なのですから、組合活動のありようも、もっと科学的に考えていってはどうでしょうか。


日本語の「科学」という言葉には、百科の学の中の「一科の学」という意味あいがあります。科学は、未知の事柄すべてを一遍に解きあかそうとはしません。対象を限定として、一つひとつ着実に、確かそうなことだけを研究していきます。だから、組合活動においても、課題を主体的に取捨選択して、確かそうなことだけを、取り組むようにしていってイイのです。よくわからないことや自信の持てないことまでやろうとすることは、じつは役員として無責任でさえあるのです。


以前ですと「全面的に諸課題に取り組んだ」ことがスバラシイこととして評価されたのですが、冷静に見てみると、そこには大変な無理があるのが普通ですから、もうそろそろ発想を転換したほうがイイと思うのです。したくないこと、できそうもないことはしなくてよいのです。


他方、すぐれた科学研究には、広い視野が必要です。そこでは、「森羅万象の学」とも言うべき哲学の発想も欠かすことができません。科学研究はすぐれた問題の発見からはじまりますので、組合活動でも、アンテナはできるだけ高くして、自然や社会のいろいろな問題に関心を寄せ、視野を広くしておくことが大切です。


今年度、毎週火曜日の昼休みに開かれた書記局会議は、いつしか「昼食会」と呼ばれるようになっていました(毎回、生協の350円弁当を食べる。月に一度の中執会議のほうは「夕食会」と呼ぶ。こちらは時に、にぎり寿司がでた)。そこでは、実に気楽にいろんなことを話し合いました(ほとんど世間話だったかもしれませんが)。鋭かったかどうかは明言できませんが、いくつかの課題に取り組む、きっかけとなる議論がおこなわれたのです。


「いい加減」は、文面からすると悪くはない、「よい加減」なんです。すでに述べてきたように、いろいろな要請に、書記局は「テキトウ」に(この言葉だって、意味はともかく、文面では悪くない)つきあってきました。あくまでも一般論ですが、誰かが思い通りに他人を動かそうとするとき、各人がそれぞれ自分の判断で「よい加減」にしていくバランス感覚があってよいのではないでしょうか。


手前味噌ですが、「今年度の組合ニュースはとてもイイ」との評判を耳にすることがあります。川窪編集長や笹川さんが“読まれるニュース”をめざして、力を入れました。


とくに昨年5〜6月頃、結構、活動がありまして(「今年の組合は、何もやらないと言っていたが、結構、やるじゃないか」との声もあった)、それが紙面にも反映しました。ニュースは、4〜8月とまあまあ順調に発行したのですが、秋になるとどうだったでしょう。9・10月は合併号でした。11月は学長選挙関係の号外以外に発行していません。12月も発行していません。最近、新年1月号を出しましたが、みなさんのお手元に届いたのは、2月になってからでした。


つまり月に一度のニュースも毎月は出していないのです。「いい加減」ですね。でも、それでイイのだと思います。「毎月出さなきゃイケナイ」と考えなくても。みなさんにこれは是非とも知らせたい、そういうものがあった時に発行すればよいのではないでしょうか。知らせたいことがなければ、発行しなくてもイイと。


「いい加減は、よい加減」。如何でしょうか。
そんな考え方でのぞむと組合の役員になることも気楽に考えていけるようになります。



情報公開、県国公のことなど


今年度の学長交渉は、情報の公開を求めたことに特徴がありました。
その点にかかわって、最後に少し述べます。


私の個人的な関心事の一つでもありますが、我が国では「情報公開法」がまだ制定されていません。自治体レベルでは条例の制定がすすんできていますが、本格的な国民の知る権利の内実作りは、これからの課題でもあります。昔から、行政の秘密主義と権力者よる情報の独占は、「知らしむべからず、由らしむべし」と言われていて、人民支配の常套手段になっています。


昨年2月の学長交渉のときから(私は次年度書記長予定者としてオブザーバー参加)、当局に執拗にデータ提示を求めてきました。6月の交渉でも要求し、秋口にようやく職種別職員数のデータが一部公表されました。平成3年度の学内環境整備特別経費にかかわっても、昨年12月の学長交渉の席上、一部不明だった点が明らかになりました(いずれも1月号のニュースのなかで紹介しています)。


組合はこれまでいろいろな(全国的な、また学内の)要求課題を掲げてきていますが、それがなかなか実現してきておりません。そのことは不当と言えばそう言えなくもないのですが、法律や制度の壁などに阻まれているのがほとんどですので、言わば仕方がないことです。私は、要求がなかなか実現しないことで、残念がったり、落ち込んだりする必要はまったくないと考えています。


要求が実現する場合であれ、しない場合であれ、人員や予算のこと、はたまたそれらの検討過程が明らかにされることが民主主義の前進にとって決定的に大切なことだと思っています。「ともかく改善されたんだ」ということも一歩前進かもしれませんが、それだけでは、言わば力のあるものに「よらしめられた」状態で、そのとき国民が主権者であるとは言えないのです。


昨年12月に県国公の主催で「行政民主化シンポジウム」が開催されました。今回は「安全を考える」のテーマのもとに、空港・道路行政や自然・労働災害などの問題について報告がありました。シンポジウムは、これからもおこなっていくそうです。私は、「行政民主化」を掲げるのであれば、是非、情報公開の問題を取り上げていってほしいと思っています。


さて、県国公のことですが、今年度は中島副委員長が担当になり、いろいろと尽力していただきました。暮れの定期大会には、私も参加しました。議案書の中に「労組役員のなり手がいないといった悩みを少なくない職場が抱えている・・・」とあったものですから、「ああ、やっぱり」と思って、発言した次第です。あまり、ストレートに(これまで述べてきたようなことを)言うのもどうかと思って、まず鹿大の今年度の活動を紹介しながら、組合運動のあり方について意見を述べました。反応はどうだったと思いますか?


無理からぬことなのですが、私が意図したことは全然通ぜず、「今、鹿大の内沢さんも発言されたように、各単組はもっと活発にがんばらなくては・・・」と発言が続きました。「頑張る」ことは結構なことですが、私が言いたかったことではありません。なにしろ、県国公はフルネームですと鹿児島県国家公務員労働組合共闘会議という、勇ましい戦う組織なのですから、私のようなヤワな考えは、まだまだ通用しそうにありません。


しかし、<変わらないのが組合、変わるのが組合>でもあります。
如何でしょうか。


以上、長々と書き連ねてしまいました。
92年度書記長の独断と偏見に最後まで、お付き合い下さいましてありがとうございました。
深く感謝し、お礼を申し上げる次第です。






このページの一番上 →


子どもの人権 →  /  TOPページ→ 




最終更新 : 2012.4.29
Copyright (C) 2002-2012 「たの研」内沢達のホームページ