「朝日新聞」1990年12月15日付け(鹿児島県内面)「研究室ノート」より
子どもの人権
学校再生の思想に ――― 個性を認めて“楽しい授業”
作用があれば反作用もある。自然界の運動法則は社会にもあてはまる。
「なくせ!体罰・丸刈りの強制」というように子どもの人権を守れとの主張が高まると、必ずそれに反対する声も出てくる。
昨今の県内の学校教育をめぐっての世論の中には、そんな感じがある。意識的にかマスコミの一部も、“荒れる中学”を大きく取り上げている。
“荒れる中学”
ところで、子どもの人権の考え方は、実は“荒れる中学”の現実に対してもなかなか有効なのである。
「そんなに子どもの人権、人権と言って良いのか」と、疑問が出されるかもしれないが、言ってよいのだ。
生徒たちの中に、荒れや授業妨害などがあり、中学がまともな学習環境にないとすると、それは子どもの人権が強調されすぎた結果ではなく、反対に人権の考え方がまだまだ弱く、根づいていないことによる。
授業妨害は単に問題行動というよりも、他人の学習する権利の侵害と捉えなくてはならない。いじめにしても人権の問題だ。
髪形であれ、服装であれ、生徒一人ひとりが自分らしくして、そしてみんな自由に生きていく権利を持っている。
ということは「君がそうであるように、他人も同じようにその権利を持っている。」ということだ。他人の権利を害してはならないのだ。
人権は、生徒みんなが楽しく学校生活を送っていく上で不可欠なものだ。よって人権の考え方なしに荒れもなくすことはできない。
仮説実験授業
子どもの人権と並んで、私のもう一つの大きな関心事は“楽しい授業”である。
生徒はどうして荒れるのか。やっぱり学校がおもしろくないのだ。休み時間や放課後は楽しくても、授業が楽しいということはあまり聞かない。
ところが全国各地に、そして県内にも“楽しい授業”をしている教師がいる。
東京の中学教師・小原茂巳さんは、著書(『授業を楽しむ子どもたち』仮説社)のなかで「そのままの君で!」と呼びかけている。
マジメな子も、不マジメな子も、落ち着かない子も、劣等生も優等生も、そのままで。発表するのが苦手なら、発表せずに。にぎやかな子はにぎやかに。
みんながそれぞれの持ち味を生かして、授業を楽しんじゃおう。そしていつのまにか、みんなで賢くなっちゃおう、と。そんなにうまくいくのか。しかし、事実そうなっている授業がある。
その授業は、国立教育研究所の板倉聖宣さんが提唱(1963年)したもので、仮説実験授業という。
科学上のもっとも基本的な概念と原理的な法則を教えるための授業である。
提唱当時は、小中学校の自然科学教材が中心だったが、今日では、社会科学教材の開発もすすみ、その基本的な考え方を数学教育や国語教育、さらには美術教育にまで拡大する研究が進められている。
私も大学で数年前から力を入れてこの授業をしているが、「とにかくおもしろい。こんな授業だったら、ぼくも(わたしも)受けたかった」と学生たちの評価も高い。
ルソーの思想
ところで「そのままの君で!」という考え方は、教育論の古典『エミール』(1762年)のなかで、ルソーが展開した「自然」「あるがまま」の思想の具体化でもある。
相当の荒れのある中学において、教師がそのように言い切る自信と根拠を仮説実験授業は与えた。
ルソーといえば、これまで教育学者が得意としてきた思想家の一人でもある。
いま、教育学は一般的に教育のありようを述べるだけではまったく不十分で、理想や思想を教育内容や方法のレベルで具体化し、人々から確かにそうだと思われる学校再生のみちすじを示す責任を負っている。
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