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(講演) たのしく学び たのしく生きる

   ─ 「ことわざ・格言」を知って世界を広げ,自分にもっと自信をもとう ─



2008年11月14日(金) 5,6校時
                              鹿児島市立伊敷台中学校 体育館にて
同中3年生230数人対象
    「生き方を学ぶ」総合的な学習の時間の講演


講演記録は2011年4月にまとめ、
冊子『たのしく学び たのしく生きる─内沢達「教育学講義」題材集』(B5版 全175ぺ)に
収めてましたが、ホームページへのアップは遅くなり、2年近く経た今日になってしまいました。
内容はすばらしいと思っておりますので、是非お読みなってください。
(2013/2/10)


                            講演を聞いた生徒29人分の感想はこちら →


中見出し目次
(クリックすると、その箇所にジャンプします)

伊敷台中の卒業生のことなど
負けるが勝ち
うそから“出る”まこと
マッチ箱での実験
人間の感覚の頼りなさ
人間の感覚のすばらしさ
固有振動の実験
人間は,みんな同じ
ちょうどいいのは俺の足
ビリッかす向きを変えれば先頭に
いい加減はよい加減
質問に答えて
興味や関心を持てる勉強
長所は反対側の欠点によって支えられている



みなさん,こんにちは。ご紹介いただいたウチザワです。プリントを配布しています。そのうちの1枚「2008年度前期『たの授』第14回授業感想文より」というのをご覧ください。僕が大学でどんな授業をしているか,自己紹介にもなると思います。「たの授」というのは「たのしい授業」の略です。授業を受けた学生の感想を縮小してたくさん載せています。

「この授業には驚きや新しい発見がいっぱいあった」とか「授業を受けて自分の視野や世界が広がった」とか,「楽しかった」「ためになった」という評価がたくさんあって,僕はとてもうれしい。僕がうれしいのはそういう評価や感想だけではありません。プリントにあるように,学生が僕のことを「内沢さん」とか「たっちゃん」と言ったり書いたりしてくれることです。僕の下の名前「達」は「たつし」と読みます。子どものころ「たっちゃん」と呼ばれていて,いい年の今でもそう呼んでもらえるとうれしいんです。僕は大学の教員ですから,普通だとやはり学校の「先生」なんでしょう。でも,そう呼ばれるのが嫌いで,「内沢さんとか,たっちゃんがいい!」とお願いしています。

僕は毎年夏休み期間中のオープンキャンパスで高校生に「たのしい授業」を体験してもらっています。今年は8月8日でした。僕はお昼すぎに授業を終え,夕方の飛行機で奄美大島に行く用事があって,午後天文館の空港行きのバス停におりました。そこで,オープンキャンパスに参加した宮崎の高校生たちに偶然会いました。「あっ,たっちゃんだ!」と。彼ら彼女らが「今日はとても楽しかった。勉強になった。ありがとう」と声をかけてくれたんです。うれしいですね。みなさんとは今日だけかもしれません。でも同じ鹿児島市なので,どこかで会うかもしれません。そのときはやっぱり「内沢さん」か「たっちゃん」でお願いします。そういうたっちゃんです。よろしくお願いします。

ちなみに,今日の講演の話を僕にもってきた校長の松田先生にも当然,愛称があります。みなさん,知っていますか? 校長先生の下の名前はどうですか? (何人かにインタビューするも知らない感じ) そうね。みなさんは日頃「校長先生!」で十分だものね。では,僕から紹介します。校長先生の下の名前は「心一(しんいち)」さんです。それで,僕は松田さんのことを「しんちゃん」と呼んでいます。みなさんも,これからはときに「しんちゃん!」と声をかけてみると校長先生もうれしいかもしれません。しんちゃんは僕の25年来の友人です。



伊敷台中の卒業生のことなど


さて,今日僕はみなさんに「ことわざ・格言」の話をします。それは,「たのしい授業」や「仮説実験授業」といって,誰もが科学を好きになる授業を提唱した板倉聖宣(いたくらきよのぶ)さんが作った「ことわざ・格言」です。「ことわざ・格言」をいろいろ知ると「そんな見方や考え方があったのか」と世界が広がってきて,学ぶことがたのしくなります。また,困難や大変そうなことに出あっても新しい考え方でのぞむことができ,たのしく生きていけます。それで,今日の講演のタイトルも「たのしく学び たのしく生きる」にしてもらいました。

小さいB5のプリントをご覧ください。片面に板倉さんの顔写真が載っています。朝日新聞の連載記事で,各界で活躍している人が自分の父親について語った「おやじの背中」シリーズの板倉さんの回です。この板倉聖宣さんは,僕と松田校長二人の,じつは一番の「先生」です。教室で講義や授業を受けたわけではありませんが,僕らは,板倉さんのたくさんの著書や講演からいっぱい学んで,僕は大学で,しんちゃんは中学校で,たのしく教員生活を送ってきました。

その裏面が「ことわざ・格言」集のプリントです。板倉さんの『発想法かるた』(仮説社,1992年初版)という本のなかで紹介されている「ことわざ・格言」について,半分くらい載せ,各たった一行のごくごく簡単なコメントを付けています。このプリントは大学で,学生たちに大好評です。とてもおもしろく,自信になり力づけられる「ものの見方や考え方」がいっぱい,そこにあるからです。

みなさんの7年先輩かな,この伊敷台中の卒業生で,O君という鹿大教育学部の3年生がおります。彼の弟さんは吹奏楽をやって今年卒業したと言いますから,弟さんなら同じ部活の人はもちろん,他にも知っている人がいるかもしれませんね。一昨日,O君に電話して,「伊敷台中に行くので,君の話もさせてもらうよ」と了解を得てきました。O君はこのプリントに感心して,折りたたんでいつも胸ポケットの中に入れて持ち歩いています。いろんなことに出っくわす度に,ここに書かれていることが問題解決のヒントになるんだそうです。

だんだん,「ことわざ・格言」の話に入っていきます。その前に,僕と伊敷台中に関係することをもうひとつ話させてください。今年度から「教員免許状更新講習」といって,学校の教員が10年間に一度は受けないと免許状が更新されない新しい制度(全30時間の講習)が始まりました。鹿児島大学でもたくさんの講習をやっていて,8月中旬に僕の担当した講習(3時間)を伊敷台中ではM先生とS先生が受けてくれました。そのときのレポートをここに持ってきています。M先生は今日おられませんので,おられるS先生のレポートの一部を紹介します。

「今日の講義を受けて,物事を多面的に見ることの大切さを感じました。多面的に見ることで,考え方に変化が出てくることがおもしろく,今までになかった考え方を知ることができました。ありがとうございました。」

うれしいですね。S先生は僕の講義の大事なポイントを押さえてくれました。ものごとの見方は一つとは限りません。「これは,こうだ」という見方だけでなく,「こうとは限らない」「別の見方もできる」という場合がじつはほとんどです。多くの人が「一面的なものの見方はよくない」と言います。ところが,ひとたび具体的なことになると,「これはこうに決まっている」という見方だけで終ってしまっていることが少なくありません。僕らの思い込みや先入観がそうさせちゃうんです。

そこで,あるものごとを「Aである」ととらえるだけでなく,その反対の「Aでない」ととらえる見方や考え方に慣れていくことがとても大事です。その違った見方を状況に応じて使いわけられるようになると,世界が格段に広がってくるんですね。今日はみなさんに,そのような世界や視野の広がりを感じてもらえる話をしたいと思っています。



負けるが勝ち


まず,プリント一番下の「負けるが勝ち」に注目してください。これは,昔から言われてきたことわざです。「負け」なのに,どうして「勝ち」なんでしょう。「負け」と「勝ち」は正反対のことばです。おかしいですね。みなさん,どう思いますか。

スポーツの試合で勝ち負けを争って「負け」たら,それは「負け」ですね。そんなときに「負けるが勝ち」と言っても,負け惜しみである場合が普通です。でも,議論をしているときなんかはどうでしょうか。それぞれが自分の意見の正しさを主張してゆずらないような場合です。自分の意見や考え方に自信があるとき,そして相手ががんとして聞きそうにないときは,無理をして相手を言い負かそうとしないほうがいいのではないでしょうか。

その場では相手に「勝ち」をゆずって,こちらは「負け」のほうが,やがては「勝ち」に,しかも気持ちのいい,本当の「勝ち」につながっていく,ということがよくあります。「負け」が「負け」じゃないんですね。その場かぎりの「勝ち」も本当の「勝ち」じゃないんです。だから,「負けるが勝ち」ということが言えるんです。ものごとは,いつもこうだとは決まっていません。こうでないこともよくあるということです。おもしろいと思いませんか。

そのほかたくさんの「ことわざ・格言」がプリントに並んでいます。みなさんは「どこかで聞いたことがあるな〜」と思われるものもあるかもしれませんが,そうではなくきっと初めてだと思います。いま紹介した「負けるが勝ち」はもちろん知られていますが,それ以外はほとんどが板倉さんの作った「ことわざ・格言」で,まだ一般には知られていないからです。

たとえば,「石橋をたたいて堂々と渡る」です。「聞いたことがある」と思われるかもしれませんが,それは「石橋をたたいて渡る」で,途中に「堂々と」は入っていません。石橋といえば,それは頑丈なもので,ちょっとやそっとで壊れることはありません。そんな石橋でも,万々が一のことを考え,用心に用心を重ね,たたきながら安全を確かめて渡る。なにか実行していくときも,慎重の上にも慎重を期して,念には念を入れて,取り組んでいくというのが普通のことわざです。

それは確実性を重視していて一面結構な考え方ですが,もう一面では,おっかなびっくり,こわごわで腰が引けすぎてはいないか,というところがあります。だったら,検討して確かなことがわかったなら,恐る恐るではなしに「堂々と」自信を持って取り組んでいこう,そういうのがこの新しい「ことわざ・格言」の意味です。



うそから“出る”まこと


「うそから出るまこと」もどこかで聞いたと思われるかもしれませんが,やっぱり違います。普通のことわざは「うそから出たまこと」で,「出た」と過去形であるのに対して,これは「出る」と現在形です。普通のは,うそだと思って言ったことが,そのつもりはなかったのに,偶然にもたまたま結果として,ほんとうのことになってしまったという意味です。

それに対して,「うそから出るまこと」は,初めから意識的,意図的です。この新しい「ことわざ・格言」を作った板倉聖宣さんは,「真理は仮説が元になって発見されます。その仮説の多くは,はじめはまったく嘘のように思えることが少なくありません。嘘のようなことも考えてはじめて,新発見が行なわれるのです」と述べています。

そのひとつの例がコペルニクスの「地動説」です。コペルニクスはどのような主張をして,それまで絶対に正しいと思われてきたプトレマイオスの「天動説」を打ち破ったと思いますか? これが大学で理学部など理系の学生に聞いても出てきません。かく言う僕も板倉さんの本で初めて知りました。コペルニクスの主著『天体の回転について』は,その主だったところが岩波文庫の一冊にもなっていて誰でも読めるのですが,見落とされがちです。コペルニクスの次の主張への着目が肝心です。

「自然にかなったものは無理にされるものとは異なった作用を生ずる。力あるいは無理が働いている物体は必ず破壊され,長く続くことができないが,自然の働きを受けるものは,ふさわしい仕方で受けるのであり,よい位置に留まることができる。そこでプトレマイオスは,人工から生ずるものとは非常に異なっている自然の働きで生ずる回転によって地球その他地上のものが破壊されることを心配する必要はなかった。しかし,天よりも運動がずっと速く地球よりもずっと大きい宇宙に関して,なぜ彼は同じことを心配しないのだろうか。」

これは,プトレマイオスの「天動説」つまり「地球不動説」に対する見事な切り返しです。プトレマイオスがもし地球が動くのなら,24時間で1回転するようなら,それは猛烈な回転で,「地球はとうの昔に散りぢりになってしまっただろう」と述べていたことへの反論です。プトレマイオスは(地球が動くのなら)「すべての生物や自由に動く他の重い物体は地面に留まることはできないで,振り落とされてしまったであろう」「自由に落ちる物体はそれが向かった場所へは落ちないだろう」「雲やその他空に浮かんでいるものはすべて絶えず西へ動くのを見るであろう」とも述べていました。

考えてみれば少し不思議な感じがしませんか。いまでは,誰もが地動説を知っています。でも,「あれっ,どうなっているんだろう?」と思われませんか。地球の全周は4万qです。これを24で割れば,地球自転の時速(赤道付近)がわかります。時速1667q。ジェット旅客機よりもはるかに速い,すごいスピードです。秒速に直すと463mだから,マッハ1.3強です。僕がいま手に持っているチョークを落とします。真下に落ちますね。なんの不思議もありませんか? 地球はものすごいスピードで動いているんです。だったら,落下時間はたとえコンマ何秒かであっても,地球は動いているんですから,落ちるところが真下ではなく少しはずれていいはずなのですが,まったくずれません。

それは,「慣性の原理」によるものです。「地動説」に対するプトレマイオスの批判は,この慣性の原理の無知にもとづいています。でも,慣性の原理は後にガリレオによって初めて,しかも地動説をひとつの根拠として発見されたのですから,コペルニクスも知らなかったんです。コペルニクスの場合は「自然の働き」と言っているのがそれに近い感じでしょうか。

プトレマイオスの天動説は,当時の力学知識の範囲内において,まったく学問的でした。天動説は観測もよくし,数学的緻密さもありました。天動説は,何よりも事実に,太陽や星が動いているという事実!に根拠をもっていました。けっして宗教的なものでもなければ神秘的なものでもありませんでした。

そうした天動説をコペルニクスはどうやって打ち破ったのでしょう。その一つがコペルニクスの空想のすばらしさです。彼は想像をいっぱいに広げました。なるほど,地動説ではプトレマイオスの言うとおり猛烈な回転で地球が壊れるかもしれない。ならば,「地球の大きさに比べて天の無限なること」「小さな部分である地球ではなく無限の宇宙が24時間で空間を回るということは実におどろくべきこと」で,「地球よりもずっと大きい宇宙に関して,なぜプトレマイオスは同じことを心配しないのだろうか」と。

コペルニクスのすごさは,このように大いなる空想をもとに地動説を主張したところにあります。地動説は当時,本当のこととはまったく思われていませんでした。まさに事実に反する嘘のような考え方だったんですね。コペルニクスはもちろんその嘘のような主張を意識的にしました。だから「うそから出た」ではなく,「うそから出るまこと」なんですね。

うそがいつもうそとは限りません。また本当(まこと)も多くの人がそうだと思っているだけでは本当とは言えません。ものごとはこの「うそと本当」のように,「これはうそ(本当)に決まっている」と決めつけてはいけないことが少なくありません。決めつけは一面的です。

このプリントにあるたくさんの「ことわざ・格言」は,ものごとを一面からだけではなく,いろんな面からとらえていくことの大切さを教えてくれています。

そのことをこれから,少し実験もして,みなさんに体感も含めて実感してもらおうと思います。



マッチ箱での実験


ここにマッチ箱があります。マッチ箱は中にマッチ棒が入っているからマッチ箱というんでしょうが,このマッチ箱にはマッチ棒じゃなくて(前のほうの人に確かめていただきますが)十円玉が入っています。そういうマッチ箱がここに三つあります。箱によって入っている十円玉の枚数が違うので,この三つは重さが違います。それと,もう一つ三段重ねにしたマッチ箱が一組あります。この一組は他の三つと条件が違うので,もちろん重さが違うでしょう。さて,どなたかにお願いです。この四つ(バラの三つのマッチ箱と三段重ね一組のマッチ箱)を手で持った感じで,重いと感じた順に机の上に並べていただけないでしょうか。誰かやってくれませんか。

(「はい」。一人の男子生徒が挙手)

うあ〜,これだけ大勢のなかで即挙手! すごいね。ありがとう。あなたの名前は?(「しんやま君です」)自分のことを「君」と言う。おもしろいね(笑)。しんやま君の下の名前は?(「こうへい」です)僕の息子と同じだ。何組かな?(「3組」です)では,3組のしんやまこうへい君にやってもらいます。

マッチ箱を利き手の親指と中指ではさむように持ち上げて,重いと感じた順に並べてください。(しんやま君はそれぞれを持ち上げて比べ,さして迷うこともなく,すぐに並べ終える。)早いね。大学生も早いけどさらに早い。ありがとう。

お礼に,ちょっとプレゼントを持ってきています。しんやま君,受け取ってください。(と言って一冊の本を差し出す)この本がプレゼントではありません。この本を開くと・・・(ゴムをねじねじ巻いたチョウチョウのおもちゃがパタパタと飛び出す。「おー」という歓声) マジックフライヤーというおもちゃです。今日,11月14日が誕生日の人はいませんか。(挙手はなく,いないみたい)今日が誕生日の人にもプレゼントしようと思って,いくつか持ってきています。しんやま君は,好きな色のを選んでください。実験の協力,ありがとうございました。

では,みなさん注目!です。しんやま君が左から重いと感じた順に並べてくれました。三段重ねは一番軽いんでしょうね。右端になっています。さて,各マッチ箱の十円玉の枚数を確かめようと思います。しんやま君の重さの感覚テスト,その結果発表です。

最初は,一番重いと感じた左端です。1枚,2枚,3枚・・・(と机の上に十円玉を1枚ずつ放り投げながら数えていく)・・・10枚,11枚,12枚。最初のは12枚でした。こんな小さなマッチ箱にいっぱい入るもんですね。

次です。ここからが本当にテストです。ジャーン! 最初のと比較できます。何枚でしょうか? ・・・9枚,10枚,11枚。11枚でした(拍手)。

すごいね,しんやま君は。十円玉1枚の違いがわかるんだ。十円玉は1枚4.5グラムです。最初のを基準±ゼロとするとこれは−4.5グラムです。

さて,その次三つ目はどうでしょう。・・・8枚,9枚,10枚。10枚でした(大きな拍手)。

しんやま君はたいしたもんですね。ちょっと持ち上げた感じだけでわかる!
見事なものです。これは2枚少ないから−9グラムですね。



人間の感覚の頼りなさ


テスト結果の発表,いよいよ最後です。しんやま君が一番軽いと感じた三段重ねのマッチ箱には十円玉が何枚入っているでしょうか。前のほうの人に聞いてみます。(「9枚」「8枚」「7枚」といった予想が出される)なるほど,一番軽いんだからね。いままでのよりは十円玉が少ない! 当然の予想ですね。

では数えます。1枚,2枚,3枚,4枚,ひょっとしたらもう終わりかな? いやまだですね。5枚,6枚,7枚,そろそろ終わり?

いや,8枚,9枚。さすがに終わりでしょう。

いいえ,違います。10枚,あらっ,前のと枚数が同じになっちゃった。

そして,それで終わらずに,さらに11枚,12枚!

あれっ? いったいどうなっちゃってるの???

十円玉の枚数は一番重いと感じた最初のマッチ箱と同じです。

加えてこのマッチ箱は三段重ねで,他より入れ物が二つ多いから,じつは一番重いんです。マッチ箱の箱だけの重さは一つが約3グラムです。これは他のより二つ多いので,+6グラムです。4種類のマッチ箱のなかで,これが一番重いんです。

なのに,しんやま君はこれが一番軽いと右端に並べました。
しんやま君,持った感じはどうでした?(「それが一番軽かった」と返事)。

そういうしんやま君の感覚はおかしいのかな〜?
あるいはしんやま君は少し疲れているのかな〜?

いいえ,しんやま君はおかしくなんかありません。
まず,みなさんが拍手してくれたように,こんなに大勢の前でもバラの三つのマッチ箱の重さの違いがわかったんですからたいしたものです。

でも,最後に,一番重いものを一番軽いと感じちゃったんだね。
だから少しはおかしいのかな?

いいえ,しんやま君はちっともおかしくありません。そして,少しも疲れていません。

しんやま君は順番を間違ったのに,そんなこと断言できるんですか?

はい。できます。間違った「のに」ではなく,間違った「から」こそ,しんやま君の感覚はちっともおかしくない,スバラシイ!と断言できるんです。

じつは,これはしんやま君にかぎらないことです。誰がやっても,それこそ疲れていなければ,そして緊張せずにリラックスした状態でおこなえば,同じ順番になります。今ここで,みなさんに4種類を比べてもらうわけにはいきませんが,一番大事なところだけはみなさん全員に体感してもらいます。

ご覧ください。ここに三段重ねのマッチ箱がたくさん(30組以上)あります。鹿児島の人なら誰でも知っている「そば茶屋・吹上庵」のマッチ箱です。僕は何回も通いました(笑)。この三段重ねを前から配ります。みなさん,やってみてください。三段重ねのマッチ箱をまず床に置きます。そして最初はしんやま君がしたのと同じように親指と中指で三ついっぺんに持ち上げてください。次にそれをいったん下したあと今度は一番上のマッチ箱だけ持ち上げてください。何回かやってみてください。全部をいっぺんに持ったときと一番上の1個だけ持ったときを比べてください。どうですか? 1個だけ持ったときほうが重く感じませんか。(「1個が重い!」「重く感じるのは1個のほう!」「不思議?」といった声がいっぱい)しばらく体験の時間にします。・・・

マッチ箱は各列(各クラス)の中ほどまで行っているでしょうか。ここで,前のほうからさらに三段重ねのマッチ箱を配ります。今度は持ち上げるのではなく,手のひらにのせて比べてみてください。三段重ね全部と一番上の1個だけを比べてください。やはり何回かやってみてください。こうしても重く感じるのは,やっぱり1個だけのほうではないでしょうか。

・・・不思議ですよね。みなさん,一番上の1個だけ持ったりのせたりしたほうが重い!と感じました。三段重ねの3個が全体です。全体よりも部分が重い!なんていうことは理屈に絶対にあわないことです。おかしいですよね。

これは一種の錯覚です。この三段重ねのマッチ箱は,すでにお気づきでしょうが,十円玉が入っているのは一番上だけで,下の二段は空箱です。こういう条件でやると誰もがそう感じるんです。それにしても,空箱にも重さがあるんですから,全体のほうが重さは間違いなく重い。なのに部分のほうが重く感じるなんて,人間の感覚ってあてにならないですね。頼りないですね。



人間の感覚のすばらしさ


でも,頼りなさはこのマッチ箱の実験からいえる人間の感覚についての,一面での評価です。それとは反対のもう一面での評価もできるんです。

このおもしろい実験を紹介している板倉聖宣さんは,『科学的とはどういうことか』(仮説社,1977年初版)という本のなかで,「人間の感覚のすばらしさ」という中見出しをつけて,次のように述べています。


この実験には,私たちにいろんなことを考えさせる要素があります。
ある人は,人間の重さの感覚のたよりなさにおどろくことでしょう。そして,「だからものの重さをはかるには,ちゃんとはかりではからなくてはいけないのだな」と思うことでしょう。

しかし,私はむしろそれと反対のことを考えました。「なんて人間の感覚はデリケートですばらしいんだろう」と。

この実験で,人間の重さの感覚がくるうのは,体積や重心の位置のちがいが関係しています。人間のからだは,ものをもったときその重さ全体を感ずるだけでなく,そのものの密度の大小まで,とっさに判断して,「それが何でできているか」およその見当がつくようになっているのです。

私たちは,茶わんなど手でもっただけで,「あ,これは瀬戸物でないな。プラスチックだな」とか,「おや,これは鉄だな」とか,なんとなくすぐにわかってしまうことがあります。これもこの感覚の鋭敏さのあらわれといえるでしょう。人間のからだはあまりにも鋭敏なために,単純なはかりにはならないのです。

人間は手でもった感じだけで,その重さのちがいだけでなく,そのものの質,密度の大小まで感じとってしまうのです。おそらく,大昔から人間にとって,あるものの重さの総量を知ることよりも,そのものの質(密度)を感じてものの種別を知ることのほうが,生きていく上で大切だったのにちがいありません。ですから,そういう感覚がデリケートに発達してきたのです。そこでかえってものの質(密度)のちがうときの全体の重さの感覚があいまいになってしまうのでし
ょう。


いかがでしょうか。板倉さんは,全体よりも部分を重いと錯覚してしまう間違いを否定的にみていません。先ほどもしんやま君のところで言いましたが,間違っている「のに」ではなく,間違っている「から」,人間の感覚はすばらしいと考えられるんです。人間は手に持っただけで瞬時に重さだけでなく,そのものの材質や密度,重心まで感じとっています。そうしたすばらしい能力が人間にそなわっているからこその錯覚なんですね。

みなさんの日常の勉強でも間違えるということはとても大事なことです。
頭のいい人はあまり間違えないと思われていますが,それは記憶した知識を吐き出したり,すでに経験していることを繰り返してやる場合です。未知の新しい問題に出会ったときに間違えるのは当たり前です。問題によっては,関連したことをいろいろと知っていて考えすぎて間違えるということもあるでしょう。

そこで,プリントにあるように「アタマがいいから間違える」ということも言えるのです。いい「のに」ではなく,いい「から」です。こういう「ことわざ・格言」を知っていると間違いや失敗をそれほど恐れなくてすみます。いろいろと考えて間違ったときは,「僕(私)って,じつはアタマがいいんだ!」とも思えるんです。間違いながら学んでいく自分を肯定できます。



固有振動の実験


続いて,もう一つ実験をします。

ここに長さ1mのアルミニウムのパイプがあります。いま僕がナイフでゴシゴシと削り落とし粉にしているのは松ヤニの滑り止めです。この松ヤニを右手の親指と人差し指につけて,左手の親指と中指で中ほどを持ったアルミのパイプをゆっくりこすってやると,キーン! こういう音がします。そこで問題です。

ここに同じアルミニウムなのですが,今度は空洞になっていない中の詰まったアルミの棒があります。アルミの棒を同じようにこすってやると音はやっぱりするでしょうか,それとも今度はしないでしょうか?

音が「する」「しない」の2択の問題です。
みなさん,予想を挙手でお願いします。

(「する」という予想は少数。「しない」が多数) 多数派の人に少し聞いてみます。

君は,「しない」という予想だけど,なにか理由はありますか?

(男子生徒「ないです!」笑) 

君はどうですか? 

(「パイプは中が空洞になっているけど,棒は詰まっているからしないと思います」。他の生徒もうなずく) なるほどね。

では,答えを発表します。多数派のみなさん,残念でした。はずれです。
少数派が正解です。

中が詰まっているアルミの棒でも音がします。答は口で言わないでやってみればいいと思われたかもしれませんが,じつは次の問題がその音の高さで,いっそう注目してもらいたい問題ですから,後でやります。

さて,アルミの棒でも音がするのですが,その音の高さはアルミのパイプのときと比べて高いでしょうか,同じくらいでしょうか,それとも低いでしょうか?

3択の問題です。基準となるアルミのパイプの音をあらためて確認しておきます。キーン! 相当高いですね。これよりもさらに高いか,いや同じくらいか,それとも低いか? ということです。

では,予想を挙手でお願いします。

(「高い」はほんの少し,「同じ」が少し,「低い」が大勢) 

理由を聞かせてもらいたいのですが,時間がだいぶ過ぎているようです。

そこで,すぐに実験して答えの発表です。

アルミの棒をこすります。キーン! 

どうでしょうか。もう1回やります。キーン! 

答えは同じ高さです。

次も音の高さの問題,今度はアルミの六角柱です。がっちりしていますね。同じく3択です。挙手はしていただきませんので,みなさん,自分の予想を心のなかでお願いします。では実験をします。キーン! これも同じ高さでした。次いで,ひらべったいアルミの平版でします。どうでしょう。キーン! これまた同じ高さです。

これは,アルミニウムで長さが同じなら,穴があいていようが,詰まっていようが,がっちりしていようが,平べったかろうが,形には関係なく同じ高さの音を出す,固有振動というものです。くわしく知りたい人は,理科の先生や校長先生・しんちゃんに聞いてください。



人間は,みんな同じ


ところで,いまの実験をたとえにして,僕がここで言いたいことは,人間もじつは同じなのではないかということです。人間は言うまでもなく,一人ひとり違います。A君,Bさんは,それぞれ,この世でたった一人のかけがえのない存在です。みなさん,それぞれ個性的で違います。それは確かです。でも,それは人間のありようの一面です。じつは,一人ひとりの違いを超えて,人間というのはみんな同じ存在なのではないかという,もう一面でのとらえかたも大事だと思うのです。

アルミニウムが形かっこうを問わず同じ高さの音がしたように,人間だって見かけの違いにごまかされてはいけない,じつはみんな同じ人間なんだという見方です。そんなことを言うと,人間を物といっしょにしていいのかと批判があるかもしれません。それももっともですので,アルミニウムの実験はあくまでもたとえです。でも,先ほどのマッチ箱の実験はどうだったでしょう。みなさん,部分が全体よりも重く感じたんです。一人の例外もなく,そう感じたんです。人間の感覚はそうした点ではみんな同じで違いがないと言ってよいのです。

そうしたことが,他にもたくさんあるのではないでしょうか。たとえば,人間だったら誰だってうれしいときはうれしいし,誰だって悲しいときは悲しいんです。たとえば,今日が誕生日の人はいないようですが,みなさん,自分の誕生日に家族や友だちから「おめでとう」と言ってもらえたらうれしくありませんか。また大好きなおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなったら誰だって悲しいことでしょう。その気持ちに違いはありません。ただ,みんな個性的ですから,そうしたときのうれしさや悲しさのあらわし方には違いがあります。はっきりと表に出す人もいれば,少しひかえめな人もいるでしょう。でも,気持ちは同じで変わりないと言ってよいのではないでしょうか。

つらく苦しいときはつい「僕(私)だけが苦しい。しかもこんなにも苦しい」と思ってしまいがちですが,そんなことはありません。誰だって,つらいときはつらく苦しいんです。子どもだけでなく大人だってそうです。なにひとつ困ったことがないように見える人だって,困るときがあるし大変なときはやっぱり大変なんです。みんな同じ人間です。だから,僕らは学びあえるのだと思います。

人間が一人ひとり違うだけでなく,みんな同じというか,じつはそう違わないということを知ると他人についての見方も変わってきます。たとえば,いま現在「あの人とは合わない」と思っていても,ずっとそのままかどうかはわかりません。「以前はあまり仲がよくなかったけど,ある時からとてもいい関係になり,いまでは一番の親友だ」といったことはよくあることです。もちろん,その逆もあります。大事なことは,ものごとを固定的に見ないことです。友だちについての見方だけでなく,自分自身についてもそうです。友だちのいいところは,すぐ気がつき評価できても,自分のことになると思いのほか評価できないものです。自分をもっと認めてあげていいし,もっとほめてあげていいんですね。

今日は,いろいろな「ものの見方や考え方」を知って世界を広げてもらいたいと思っていますが,その世界の中には,自分自身についての再発見も含まれます。



ちょうどいいのは俺の足


そこで,またプリントの「ことわざ・格言」についていくつか見ていきます。

一番上の「ばかの大足 まぬけの小足 ちょうどいいのは俺の足」に注目してください。「ばかの大足 まぬけの小足」まではよく聞かれます。それに加えて「ちょうどいいのは俺の足」とあり,しかもそれが結論になっているのがこの格言の大事なところです。

「ちょうどいい」とはどういうことでしょうか。これは,たとえば足の長さで言うと,「二十何テン何センチから二十何テン何センチのあいだがちょうどいい」と言っているわけではありません。じつは何センチだってかまわないんです。「大きい」「小さい」「ちょうどいい」などと比べているようで,全然比べていません

たとえば,そうはおられないでしょうが30センチをこえる人も,逆に20センチにみたない人も,「自分の足がちょうどいい」と思えば,それがいいんです。長さだけでなく足の幅だってそうです。僕の足は横幅が相当あって「4E」の靴でないとだめなのですが,それでもちょうどいいという考え方です。僕の場合は,幅があるだけでなくさらに扁平足,つまりベタ足です。水泳でプールから上がったときなど土踏まずがないことがすぐわかっちゃいます。

でも,それがいいんです。「扁平足なんて,かっこう悪い」という人には,「陸上競技の末續慎吾選手だってそうなんだ」と言っています。北京オリンピック4×100mリレーの第二走者の末續選手,みなさん知っていますね。他にも有名なスポーツ選手のなかに,扁平足の人が少なからずおります。それをあまり強調すると「末續選手は鍛えた結果で,ウチザワさんとは違う」(笑)と言われたりもします。

それはともかく,そして足に限らずに,自分自身について手前味噌もいいところなんですが,どんな自分であれ,自分個人のありようについてはとことん肯定しようという考え方がこれです。

僕はこれを人とは比べない「絶対的な自己肯定」の考え方だと言っています。みなさん,もっともっと自分を認めていいし,「自分はよくやっている!」とほめてあげていいんです。そのことに意識的になってもらうために,気づいてほしいことがあります。

ここは体育館ですが,総合学習の時間だということもあって,みなさんは筆記用具をもってきています。その入れ物,筆入れ(筆箱)のことです。どうですか,みなさん,自分の筆入れ(筆箱)を気に入っていませんか? かわいいのやら,カラフルのやら,自分のがいいと思っているはずです。見かけよりも,機能性や丈夫さを重視している人もいるでしょうし,とにかく鉛筆や消しゴムが入りさえすればいいんだという人もいるかもしれません。いずれにしろ,みなさんは自分の筆入れを他の人とは比べないで「自分のはいい」と思っているのではないでしょうか。

無意識のうちに「ちょうどいいのは俺の足」の考え方をしているんですね。そこで,その考え方を自分自身のいろんなところに広げて,自分をもっと肯定していくきっかけにしていきませんか,ということです。

ところで,とは言っても,人と比べなくていいのに比べちゃって「自分ってダメだ」などと勝手に落ちこんでしまうのが人間という生き物のもう一面です。そんな比較なんかしなけりゃいいのに,やってしまいます。そこで,そうしたときの対策,つまり比べざるをえないような場合の手だても必要になります。これは,いわば「相対的な自己肯定」をどうやって行ったらよいかということです。それは,比べるときにひとつの基準だけでなく,それとはまた別の基準をたてたり用意するといいんです。その代表的な例が,プリントにある「ビリッかす向きを変えれば先頭に」です。



ビリッかす向きを変えれば先頭に


ビリがビリなのはある基準で見た場合です。その基準を変えるとビリでなくなります。最初の基準と反対にすると,なんとビリでなくなるどころか逆に先頭になります。

何十年も前の僕の高校時代のことを例に話します。その前の中学時代はのんびりとしていて,僕はほとんど勉強はしませんでした。高校に進学してから大学入試に向けて勉強するようになります。でも,したといってもそれは入試合格のためですから,いわゆる受験勉強です。高校3年の時がとくにそうでした。僕は受験勉強はしても,自分が大学入試で選んでいない科目はほとんど勉強しなくなります。

その結果,科目によって中間テストや期末テストがひどく悪く,及第点に遠くおよばず進級や卒業ができるかどうかが心配になりました。そうしたときのことです。僕の友だちの一人は,どの科目もすべてまったく勉強せず10点とか20点でした。たぶん成績はクラスでビリ,一番下ではなかったかと思うのですが,彼は僕のような心配はまったくといってもよいほどにしませんでした。僕に「進級,卒業はできる。絶対!だいじょうぶだ」と言うんです。実際,大丈夫でした。

彼は成績はほとんど最下位であっても,はるかに見通していたし,僕なんか比べものにならないほど自分に自信をもっていました。まさに,「ビリッかす向きを変えれば先頭に」です。成績や順番なんてほとんど気にしない強さを持っていたんですね。

これからの時代はいままで以上に,成績よりも大切なことがあります。多少の知識のあるなしよりも,自分に自信をもって生きていくことのほうがはるかに重要です。自信があれば,必要と思えば,いつでも勉強ができるし技術や技能も身につけることができます。

また別の例をあげます。不登校の子どもたちのことです。
この伊敷台中にも何人か(何人も)いると思います。病気でもないのに学校に来ない,来られない人です。普通,不登校はよくないことだと思われています。学校生活に適応できているかいないかの基準では,適応できていないのですから,不登校の子どもはいわばビリです。

でも,基準を変えてみたらどうでしょうか。不登校の子どもは学校に自分を合わせることよりも,「学校はいまの自分にあわないな〜」と自分の気持ちを優先させています。自分の気持ちを大事にすることは全然悪いことではないどころか,とてもよいことです。自分の気持ちを抑えないで,「いやなものはいや!」と自己主張している。そういう点では不登校の子どもは時代の先頭を行っているとも言えます。

不登校については誤解がたくさんあります。子どもが学校で学ぶことは権利です。権利とは行使してもよいし,またしなくてもよいものです。いま行使していないだけのことを「不登校」といって大騒ぎしている大人たちが少なくないのは困りものです。

「義務教育」という言葉についても誤解が多い。みなさん生徒に何か義務があるわけではありません。義務がないどころか権利があって,小・中学校までは最低限,誰にでも教育を受ける権利が保障されるようにと,親・保護者に課されたもの,それが義務教育です。

関連して別のことわざ・格言「できないおかげでできもする」の例もあげておきます。いま述べた不登校の子どもは学校に行くことが「できない」のですが,でも,そのおかげで他の子(学校に行っている子)にはなかなかできないことが相当に「できる」のです。

不登校で家にいるので,時間はたっぷりあります。そこで,好きなことに夢中になれます。テレビゲームなど遊びたければ,思う存分できます。料理が好きなら,台所に立って腕をふるい料理が得意になれます。パソコンやインターネットにも詳しくなれます。勉強も学校の時間割のようなものには縛られないで,自分のしたい勉強を自分のペースですることができます。

つまり不登校はよくないことだ,困ったことだと普通思われていますが,そうとはまったく決まってはいません。不登校には不登校ならではのよさが必ずあるということです。別のことわざ・格言では「どちらに転んでもシメタ」が当てはまります。毎日たのしく元気に学校に通えていたら,それはそれでもちろんとてもいいことです。でも,学校に通うことがきつくなって不登校になったらなったで,またそれはすばらしいことなんです。

一般にAとBの二つの道があるときの考え方です。仮に,自分が望んでいたのはAの道だとします。結果,望んでいたAの道になったときはもちろんいいですね。けれど,望んでいた通りにはならないということが実際にはたくさんあります。Bの道になっちゃったという場合です。

そうしたとき落ち込んでしまうのが普通ですが,じつは冷静に考えてみると,BにはBの,Aにはないよさが必ずと言ってもよいほどにあります。そのことに気づいていないだけです。

みなさんのこれから先の高校入試ではそんなにないでしょうが,大学入試では高校3年の現役では合格しないということがざらにあります。そうしたとき,予備校に通ったりして「浪人生活」を送るんですね。でも,大学生になってからですが,「浪人」した人は「してよかった」とほとんどの人が言います。「浪人」は「浪人」の,「浪人」したからの良さが必ずあります。他方,現役は現役でもちろんいい。だから,「どちらに転んでもシメタ」です。



いい加減はよい加減


だいぶ時間がたってきましたので,そろそろ結論に行きたいと思います。
いま,いくつか紹介した「ことわざ・格言」からも,ものごとは一方向からだけ見ていてはダメだということが言えるんです。反対方向や,また別の角度からも見ていくことが大事なんですね。

ビリはビリ,先頭は先頭といつも決まっているわけではありません。基準の取り方しだいで変わってきます。「できる」「できない」ということも同じです。板倉さんは「できない能力」にも目をつけ,「何かができないのも能力のうちだ」というたくましい生き方もある,と述べています。「できる」ことだけでなく,「できない」ことのすばらしさにも気づくと,それまでは壁にぶつかってどうしようもないと思っていたことも違ってきます。いままでとは全然別の角度から困難を打開していく,新しい道が広がってくるんですね。

「どちらに転んでもシメタ」もそうです。これは「転んでも,転ばなくても」両方ともOKという考え方と同じです。なにかに取り組んでいるとき,この先転んだりつまずいたりしないで順調に行ってほしいと普通は思います。結果,順調に行ったらもちろんそれでいい。でも,なかなかいつもうまくは行かないものです。ときに転んだりつまずいたりします。そうしたとき,「なんで転んじゃったんだろう」などと嘆かないで,転んだからこそ得られるものを,そこから得て行けばいいんですね。そういう姿勢でのぞむと転ばなかったとき以上の収穫があったりします。どの道もじつはいい道です。

さて,いかがでしたか。いろんな「ものの見方や考え方」をしてみるのは,とても楽しいことではありませんか。これからの時代,たのしく生きていくためには,知識以上に「知恵」のようなものが必要です。「ことわざ・格言」にはその知恵がいっぱいあります。と言っても,それはたくさん知らなければいけないというものではありません。プリントにあるように「少しの知識が役に立ち」(まる暗記のたくさんの知識は役立たず)です。少しの「ことわざ・格言」でも,自分のものにして活用していくことが大事です。

そこで最後に,僕の話を聞いて,そうだな〜と思われたら,ぜひ実行に移してもらいたい格言がありますので,紹介します。それは「いい加減はよい加減」です。

「いい加減」という言葉は不思議な言葉です。書かれた文字をみると「いい」加減なんですから,悪い意味では本来ありません。でも,話し言葉で「あんたは,いい加減だね〜」となると,これはほとんど悪い意味です。「いい加減」は国語辞書を開いても,よい意味と悪い意味の二つが記されています。

みなさん,おうちでお母さんあたりから,それこそ「あんたは,いい加減だね〜」と言われたら,どう答えますか? 「“いい加減”なんかじゃない。僕(私)は一生懸命がんばっている!」などと返答しますか? 僕のアドバイスは,決して言い返さないほうがいいということです。「はい。僕(私)はいい加減です」と答えたらいいんです。

もちろん,その意味は良いほうです。友だちから,責められるようなニュアンスで言われたときも同じです。そんな答えかたに,相手が怒って「人をオチョクッテ,言っているのか!?」と聞いてきたら,「ちがう。ちがう。僕(私)って,本当に“いい加減”なんだ。テキトーなんだ」と答えることです。この「適当」という言葉も似てますね。こちらは辞書的にはほとんど良い意味なんですが,人を形容したときはやっぱり悪い意味が普通でしょう。でも,自分としては良い意味にとるんです。

ことば遊びをしているわけではありません。まじめな話です。もちろんそのような対応がいつもかつもよいと言っているわけでもありません。あくまでもいろんな考え方があり,いろんな対応の仕方がある,その一つとして紹介しています。最初のほうで紹介した「負けるが勝ち」の具体例とも言えます。

自分を大切にしつつ,他の人とも気持ちよく過ごしていく知恵のひとつとでも受けとめていただけたらと思います。

たのしく学び たのしく生きる。みなさんがこれからの生活のなかで,今日の僕の話を活用してくださると,とてもうれしいです。質問があったら,お願いします。
ご静聴,ありがとうございました。(拍手)



質問に答えて


Y君(2組) 僕は僕なりに学校生活は楽しいんですけど,ときどき自分に自信がなくなったりして落ち込むことがあるんです。そうしたとき自分に対するいい考えの仕方とかありますか? あったら教えてください。(内沢 はい。わかりました。あとで答えます。)

K君(4組) 自分には夢があるんですけど,その夢がかなわなかった場合は,その夢はどうなっちゃうんですか。(爆笑)(内沢 どんな夢があるの?) ‥‥‥言えません。(笑)

I君(5組) どのようにしたら楽しく授業を受けることができますか。

O君(7組) 大学は行ったほうがいいでしょうか?

H君(4組) 内沢さんは,中学生の頃たのしく学んでいましたか?

M君(7組) ストレスを感じるときは,どうやったらいいでしょうか?


いっぱい質問,挙手があってうれしいですね。
最後の質問からお答えします。だれでもストレスを感じることがあります。ストレスを感じてしまったときは,もう仕方がありません。ストレスを感じている自分を否定せずに「ああ,自分も大変なんだな〜」と認めて十分に休ませてあげるのがいいと思います。また,ストレスを発散させてくれるような運動・スポーツとか,音楽とか,あるいはゲームとかなにか自分の好きなことをして,気分転換をはかるのもいいかもしれません。ストレスが今まさにかかろうとしている,あるいはこの先予想されるときは,そうしたことはしない,そうしたことから距離を置く,そうしたことにかかわらないといった対応がいいと思います。ことわざ・格言で言うと,「したくないことはせず・させず」がピッタリです。

したくないことをしたり,やらされたりすることほどストレスになることはありません。「したくないことでもやらなきゃいけない」ことがまったくないわけではありません。けれども,冷静になって考えると「やらなくてもよいことがじつは多い」ということに気づきます。とくに「いま,やらなくてはいけない」というわけではないんですね。

「今日できることは明日にのばすな」とよく言われます。それはそれで,もちろん大切な考え方です。でも,それが大切な考え方だったら,それとは反対の考え方があることも知っておくことは有益です。それは「明日できることは今日しない」という考え方です。今日することにこだわらない考え方です。そういうゆとりのようなものがあれば,かえって必要なことは自然に「する」ようにもなると思います。

ともあれ,「いま,しなけりゃいけない」と勝手に自分をだましてやっていることがとても多いと思います。それがストレスになっています。自分に無理をしてやることは自分だけでなく,他の人にもよくありません。「○○君(さん)も頑張っているんだから」と他の人の無理も助長してストレスを広げてしまうことにもなるからです。だから,自分を大事にしてストレスをためないことは他の人にとってもいいことなんです。

それでも,しなければいけないことが,嫌で嫌でしようがないことでもしなければいけないことが時にあります。そうしたときは先ほど話したように「いい加減はよい加減」の考え方で,いいかげんに,テキトーにしてみてはどうでしょうか。そうしたことを一生懸命にやってはいけません。それではストレスを増大させてしまいます。ストレスをゼロにするのはできない相談ですが,増やさない対策はそれほどむずかしくありません。「する」ことと「しない」ことのバランスを意識していく。案外,しなくてもいいことが多いものです。それでも「しなけりゃいけない」ことは,さっさとすませたり,適当にやったり,ときに「したふりをする」というポーズも大事になってきます。参考にしてください。



興味や関心を持てる勉強


僕は中学時代,たのしく学んでいません。僕だけじゃなくみんなそうでした。高校に進学してから,勉強して成績が上がるとうれしいということはありました。けれど,それは,やっぱり学ぶこと自体がたのしいということでは全然ありませんでした。誰もがたのしく学べるような教材がまだ開発されていない時代だったからです。

ただ僕の中学・高校時代は日本の社会がまだまだ貧しく,その貧しさから脱却するために,おもしろくない勉強でも頑張ってやろうかという空気があったと思います。今は時代が違います。おもしろくない勉強は続かないんです。社会が豊かになってきて,大学に行かないと豊かな生活ができないというわけじゃないし,また大学に行ったらそれが絶対保障されるということでもありません。

そこで,「大学は行ったほうがよいのか」という質問への答えですが,僕の考えは「どちらに転んでもシメタ」,つまり大学は行ってもよいし,行かなくてもよい,両方ともOKですよ,ということになります。

どちらかにしないとダメだということはなく,どちらもよい道で,しかも自分次第でいっそうよい道にできるのだと思います。大事なことはその時々に学んでいる中味です。現実には入学試験もあるので,その方面の勉強もしないわけにはいかないでしょうが,一番大事なのは自分が興味や関心を持てる勉強です。

「学んでたのしいな」「もっともっと知りたいな」と思える勉強は,やると本当に自信になります。他人との比較ではありません。そういう勉強はたのしいから続きます。好きな勉強を少しずつでよいから続けるといいんですね。そうやって過ごし,その時になったらその時の気持ちで進路を決めていけばよいのではないでしょうか。

K君の夢はどんな夢なのかわかりませんが,今から「夢がかなわなかった場合」まで考えなくてもよいのでは。そうなったらそうなったで,その時点で考えて十分だと思います。今は自分の夢だと思えないことも,その時にはそれが新しい夢になることだってあるかもしれません。未来は不確実です。将来どうなるか確かなことは誰の場合でも誰にもわからないんです。だから,将来のことをいろいろ考えるよりも,やっぱり今の自分の関心事に一所懸命になったほうがいいんです。

いま現在がどんなに大変でどんなに悩んでいるとしても,現に生きているのだから,いま生きているようには明日も生きていけるんです。だから,「いまを生きる」ということが一番確かなことです。そうした考え方に慣れると,どんな将来の「いま」も確かに生きてゆける。そういう自信が広がってくると思います。

さて,最初の質問です。Y君の質問は「落ち込んだとき,そこから抜け出す“いい考え方”があったら」ということですよね。(Y君「はい」)落ち込んでいるときは,たいがい自分のよくないところに目がいっているんです。「僕(私)ってダメだな〜」って。そうしたとき,自分のダメなところだけでなく,いいところにも目をやればいいと言われたりもするんだけれど,そのいいところがなかなか見えてこない。少し見えても,すぐもどってしまいやっぱり「僕(私)ってダメだ!」ということになりがちです。

そこで,いい言葉をひとつ紹介します。作家の五木寛之さんの言葉です。これは覚えておいて絶対に損じゃありません。「長所は反対側の欠点によって支えられている」(板書)。



長所は反対側の欠点によって支えられている


 自分の長所と欠点を別々に考えない。自分のよくないところ,つまり欠点を自分のいいところ,長所と結びつけて考えるようにする。そうすると,自分のダメさ加減にもそれほど落ち込まないですみます。普通の考え方は,別々に考え「欠点や短所を改めて,長所を伸ばす」というものです。これは,立派な考え方かもしれませんが,そんなことはできるのかな〜と僕なんかは思ってしまいます。

だいたい欠点のない人なんかいません。そんな人はこの世に一人としておりません。たしかに自分の欠点は意識していたほうがよいとは思います。人間,傲慢にならないためにも,ある程度は意識する。でも,欠点だからといって,改めようとすることは,へたをするとその人の長所,良いところまでなくしてしまいかねませんので,注意が必要です。

たとえば「わがまま」はよくない,改めたほうがいいと言われます。けれど「わがまま」は本当によくないことなのか。たしかに,その言葉の響きは,自分勝手とか「ジコチュー」といった感じもあってよくはありません。言葉の感じだけでなく,実際「わがまま」な人にはちょっと困っちゃうということがあります(きっと僕もまわりを困らせている一人です)。

でも,「わがまま」はそのすべてが,ほんとうによくないことなのか? 僕はそうは思いません。「わがまま」はとてもいいことでもあって,「自分を大切に」している個人のありようの大事な一つだと思います。「わがまま」な人は,自分のことを真っ先に考えます。自分の気持ちを第一にして行動します。自分を大切にしようと思ったら,当然のことです。悪いことでは全然ありません。

逆に考えたら,さらに分かってもらえるかもしれません。「わがまま」でない人は,他の人のこともちゃんと考えているという点では,それがその人の長所です。でも,抑えなくてもいい自分の欲求を抑え,自分の気持ちを二の次にしているとしたら,それは長所とはいえず,「自分を大切に」していないのですから欠点なのです。

今日の僕の話は,ものごとを一面的に見てはいけないということで,全部共通しています。これはとにかくこうだとは決まっていないんですね。人間の重さの感覚はなんと頼りないものかと思ったら,それは同時に人間の感覚能力のすばらしさゆえのことだったんですね。人間は一人ひとり違うし,またみんな同じで変りがないとも言えます。そのようにものの見方には違った見方どころか,正反対の見方もあることを意識していくことが大事です。自分のダメなところ欠点って,とにかくダメなところとは決まっていない。いまの例では,「自分を大切に」しているという長所が反対側の「わがまま」という欠点によって支えられている,ということになります。

そういう見方ができるようになると,普通落ちこんでしまうような,否定的に見られがちのことも,そうとばかり言えない,別の面もあって明るくも考えられる,ということになるのではないでしょうか。

クラス役員をしていて,自分はクラスをうまくまとめていないな〜と自信をなくしている人はいませんか。その通りだとしても,それは一面での評価です。そのクラスは役員の人をわずらわせないほど,各自が責任をもってやっているよいクラスなのかもしれません。

また,クラスをまとめるリーダーシップのある人はある人ですばらしいのですが,ない人はない人でまたすばらしいのです。リーダーシップのある人は,行き過ぎると人を押さえつけても平気といった感じにもなりますが,ない人は人を押さえつけることなどまったく「できない」んです。でも,そのおかげで,他の人を尊重することが「できる」のです。

プリントに「親切とおせっかいは紙一重」というのがあります。これも違う反対のことをセットにした考え方です。人の親切はとてもありがたいものです。でも,おせっかいは嫌ですね。それが親切なのかおせっかいなのか,どうして決まるのでしょう。それは実験で決まります。やってみて相手に喜ばれたら,それは親切です。有難迷惑な感じだったら,おせっかいです。その行為をした人の気持ちでは決まりません。喜ばれなかったからといって,「人の親切も知らないで!」と言うのは親切の押し売りです。余計なお世話のようだったら「ちょっとおせっかいでしたね」とさっと引けばいいのです。そういうかねあいがわかってくると親切が本当に生き,喜ばれるようになります。

僕たちはいま現在の自分のありようにもっともっと自信をもっていいと思います。自分個人のありようだけでなく,他の人との関係でも,他の人に害をおよぼすことさえなければ,みんながそれぞれ,その人らしくあってかまわないんです。自分がそうありたいということについて,けっして我慢しない。それはその人にとってだけでなく,みんなにとっても大事なことです。今日の僕の話が,そういう自分のありように自信を持っていくきっかけの一つになれば,とてもうれしいことです。

校長先生のしんちゃんがメモを持ってきました。「まだ答えていない,他にもこういう質問がありましたよ」と書いてあるかと思ったら全然ちがいました。「もう,時間です。」(笑)って書いてあります。さすがに,僕の話はおしまいにしないといけません。

予定の時間を大幅にオーバーしてしまいました。ごめんなさい。これから,今日の講演を聞いての感想を少しお願いします。またおうちでインターネットをしている人は,「内沢達」で検索すると僕のホームページに簡単にアクセスできますので,掲示板に感想を書き込んでいただけるととてもうれしいです。

今日は,体育館の床にすわって長時間,熱心に聞いてくださって,ありがとうございました。(拍手)



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初出: 2013.2.10
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