TOPページ → 教育原理、いじめ、たのしい「生活指導」 → カタちゃんの修士論文について
カタちゃんの修士論文について 「板倉聖宣と仮説実験授業 ─“たのしい授業の思想”はいつ、どのようにして生まれたか」 2004年12月 ガリ本前書き 「カタちゃん」とは、片岡美穂子さんのことです。 中学時代に友だちからそう呼ばれていたとのこと。 可愛らしい彼女にピッタリの愛称で、響きもよく、僕もいつしか「カタちゃん」と呼ぶようになりました。 仮説実験授業研究会の2005年冬の全国大会は鹿児島です。 現地実行委員会では、大会に参加される皆さんへのおみやげとして、彼女の大学院修士論文「板倉聖宣と仮説実験授業」をガリ本にして収めようということになりました。 桜島大根の種やCD「鹿児島と明治維新」もそうですが、おみやげは、できるものならばやはり「鹿児島ならではのものを」と考えた次第です。 板倉さんが書いたり、話したりしていることを鹿児島生まれ・育ちの、まだ20代も半ばに入ったばかりの、とても若いカタちゃんがまとめた作品は、すばらしいプレゼントになるのではないかと思っています。 この修士論文は原稿用紙400字詰め換算で350枚ほどにもなる大作です。 このなかでカタちゃんは、板倉さんの仮説実験的な認識論やたのしい授業の思想がいつ、どのようにして生まれたのか、をとても分かりやすく綴っています。 子どもたちを魅了してやまない仮説実験授業がどうして提唱されるに至ったのか、彼女はその答えを板倉さんの生い立ちや学生時代にまでさかのぼって求めようとしました。その意図は見事に果たされています。 仮説実験授業のことをもっと深く学びたいと思っている人に、僕からも自信をもっておすすめできる論文です。 この論文ひとつで相当なことがわかります。是非ともご一読ください。 ・・・ということで終わっては紹介が短すぎるでしょうか。そこで、少々、カタちゃんのことや論文についてふれます。 カタちゃんは、現代の若者らしく、はっきりとした自己主張がある一方で、他にあわせる要領も心得ていて、じつに自然に人生を楽しんでいます。 まだ仮説実験授業には本格的に出会っていない学部3年の初めでしたが、彼女はクラス名簿の自己紹介欄に、「昼寝好き。不活発。ダルがり。めんどうくさがり。(特技)人様に頼ること」などと記していました。 全体が相当ふざけ気味の名簿ですので、この自己紹介も真に受けてはいけません。 でも、結構当たっています。僕のこの3、4年の「たのしい授業」は、授業感想文の整理、切り貼りしてのプリント作りなどを彼女にやってもらえたからこそできた、と言ってもよい面があり、とても感謝しています。が、彼女は確かに「不活発」「ダルがり」でもあります。 たとえば、それは次のようなことです。 僕はそろそろ作業をしてもらえる時間だと思っても、彼女はなかなか研究室にあらわれません。そこで、しびれをきらして電話をすると「今、起きたところ」と言うのです。 「昼寝好き」なんてものではありません。 「夜寝」「朝寝」が延々と続いてすでに午後になっています。 しかし、それというのも若いから、体力もあり(「寝る」のも体力のうちです)、また毎日気持ち良く生活を送っているから、それだけ寝られるのでしょう(必要な単位は要領よく取り終えていたということもあります)。 でも、人のうわべしか見ない人からすると「ダラダラしている」ということにもなるかもしれません。 そうこうして彼女は午後3時頃になってようやく、ふ〜っと研究室に顔を出します。 それからもけっしてテキパキしているわけではありません。 動きはあまり見えないのですが、それは動きに無駄がないということかもしれません。 いや、間違いなくそうでしょう。さして時間をかけるわけでもなく「ウチザワさん、終わりましたよ」と作業をきちんとやってくれます。ちょっと不思議な感じもします。 この修士論文の執筆過程もそんな感じでした。 後から「カタちゃんはいつそんなに本を読んだんだろう?」「いつそんなに書いたんだろう?」と思うほど、結果は、見事にできあがっています。 この論文のあとがきにあるように、彼女は学部3年の前期に仮説実験授業と出会い感銘を受けます。 その夏は埼玉へ、翌年春休み(4年になる直前)には尼崎、そして東京のグランドフェスティバルへとはしごし、また大学院に進んでからも、川崎、横浜へというように「仮説」へのはまり方は半端ではありません。 では、いっぱい寝ている時間以外は、「仮説」の勉強ばかりだったかというとそんなことはありません。彼女は学部4年のときのクラス名簿には、「(今年の抱負)遊びまくる」と記しています。 実際、親友のユキちゃんと北海道旅行もしていますし、修士論文の執筆直前には、ポール・マッカートニーが来るといって(カタちゃんは大のビートルズファンでもある)東京にも行きました。 遊ぶためにも、「仮説」の講座や研究会に参加するためにも、お金が必要ですからバイトもかなりしました。養護施設でのボランティアも3年半続けました。 そうしたカタちゃんなのですが、いや、そうした存分に遊び、生活を楽しむ彼女だからこそ、修士論文「板倉聖宣と仮説実験授業」をまとめることができました。 板倉さんは、冬の大会のプレ企画の位置づけもあった鹿児島大学での講演会(2004.10.30)で、「普通、勉強の方法は“習うより慣れろ”と言うけれど、違う。そうではない“慣れなくても分かる”方法、道を仮説実験授業は示したんだ」と言われました。 彼女はまさにその線で勉強をし、楽しみながら修士論文を書き上げました。 同じく、学部4年のときのクラス名簿に「(夢)板倉さんにインタビューする」と書いていましたが、2年半後に実現しました。 この修士論文が生き生きとしていて、とても読みやすいものになっているのは、板倉さんへのインタビューを上手にまとめ、随所にちりばめているところにもあります。そのあたりも、楽しんでいただけましたら、と思います。 (カタちゃんが素晴らしいのは、修士論文の出来や平素の生活スタイルだけではありません。彼女は、学部4年のとき教育実習とは別に、研究授業を、「たのしい授業プラン・国語」のなかから「おおかみ」をしています。 やさしくていねいに進められた、ゆったりとした授業でしたが、だからなのでしょう。予想のたびごとに盛り上がり、途中、小2の子どもたちから「おれたち、天才だー!」と声があがるほどでした。ビデオもあり、ご希望の方にはダビングしますので、ご連絡ください。) カタちゃんの修士論文の内容については、第2章の前半のことについてだけ少しふれます。 板倉さんの事実上の卒業論文といってもよい「天動説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析」(1953年)のことです。 この論文は、後に板倉さんが述べているところでは、「仮説実験授業の理論の基礎になった」もので、「理論を発展させるには、“<事実を解釈する>のではなく、<自分の仮説を明確にして新しい実験結果に対決する=仮説実験的な研究方法>を確立することが決定的である”ということに気づき」まとめられたとのことです。 この論文を読むと、これまた板倉さんが後に明言する「科学は大いなる空想をともなう仮説とともに始まり、・・・」ということが、コペルニクスの場合もまさにそうだったということがよくわかります。 科学的な理論とは、事実を重んじ、それをもとに組み立てられるものではありません。 仮説がなければいけません。 事実だけが大事であるのであれば、天動説のほうがよほど事実に即していました。 天動説の核心は、宗教的、神秘的なものではなく、事実や観測を重んじて、数学的計算をおこない、天体の方位についてもより確かに予言しうるものでした。 が、事実も「度はずれ拡大されると誤謬に転化する」。それが天動説でもありました。 コペルニクスの偉大さは、天動説が「同一の原理、同一の仮定、同一の証明」を使っていない矛盾を見て取り、「彼らのよりももっとしっかりとした理論を見出すことができないどうかを研究して」、板倉さんが言う「大いなる空想をともなう仮説」を打ち出したところにこそありました。とくに、プトレマイオスの天動説、つまり地球不動説の根拠への内在的な批判は圧巻です。 プトレマイオスは、もし地球が一日一回転したとすれば、「地球はとうの昔に散りぢりになってしまったであろう。」「またすべての生物や自由に動く他の重い物体は地面に留まることはできないで、振り落とされてしまったであろう。 また自由に落ちる物体はそれが向かった場所へは落ちないだろう。その間に下の物は非常な速さで動くから、また雲やその他の空に浮かんでいる物はすべて絶えず西へ動くだろう」と述べていました。 板倉さんは、「プトレマイオスの“地球が動くこと”に対する反論は、なるほど、慣性の原理の無知にもとづいている。しかし、慣性の原理はガリレイによってはじめて、しかも地動説を一つの根拠として、発見されるのであるから、コペルニクスも勿論知らなかった」と述べ、そのコペルニクスの答え、つまりプトレマイオス批判にもっとも注目しているのです。 コペルニクスは述べています。 「プトレマイオスは、人工から生ずるのとは非常に異なっている自然の働きで生ずる回転によって、地球や地上のものが破壊されることを心配」した。「しかし、天よりも運動がずっと速く地球よりずっと大きい宇宙に関して、なぜ彼は同じことを心配しないのだろうか。」と。 まさに、「大いなる空想」ではないでしょうか。 この板倉論文を収めた「科学と方法」(季節社、1969年)をお持ちでない方は、まずはカタちゃんの修士論文を是非お読みになっていただきたいと思います。 ところで、板倉論文「天動説と地動説の歴史的発展の論理構造の分析」は、50年以上も前のものです。 板倉さんが当時批判をしていた科学史研究のその後がどうなっているのか、気になります。 そこで、大学図書館で天文学史関係の専門書や教科書、事典類にあたってみました。 鹿児島大学の図書館は、建物は立派なのですが本はあまりありません。 それでも、ここ20年ほどの間(最新のものでは2003年)に発刊された、コペルニクスの地動説の意義に言及しているものが10点ほど見つかりました。 でも、読んでみると50年以上も前の板倉さんの批判がそのまま当たりそうなものばかりで、納得がいきません。 たとえば、「深い考察」とか、「鋭い直感と洞察力を備えた天才の思い込みによってもたらされた」といった記述です。これは板倉さんによると「科学史家の敗北の表現」ということになります。 また、「複雑さが減少し、簡単に説明された」とか、「より単純にして明快な宇宙構造を提唱した」といったものがあります。これも昔からあるもので、これではコペルニクスに迫れないどころか、「科学観の深度によって序列を定めるならば」(板倉)、プトレマイオス以下ということになります。 さらには、「コペルニクスのアイデアは、惑星運動を完全に説明できるものではなく、一種の思弁の大系であって、観測天文学に立脚した成果ではなかった」といったものも。 これに類似した評価も以前からあり、板倉さんによると「コペルニクスがほめられるのは、運よくも現在の学説と一致した限りにおいて」ということになります。 板倉さんが論文で述べていた「コペルニクスの“近代科学の父”たるゆえんが、未だ全く明らかにされていない」ということが今も続いているようでしたので、ちょっと付け加えました。 |