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下記は、2011年5月15日(日)鹿児島市鴨池公民館にて開催された 「登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)」22周年の集いでの内沢達の 講演「自分が自分の主人公! まっ先に幸せになる!」の記録です。 親・市民の会のホームページでは2011年7月に UP !! しています。 この講演は「教育原理」を深めた内容にもなっていますので、 ここでも見られるようにしました。 ご覧ください。 2012/6/7 (中見出しの目次) 1 ものの見方が「360度!」変わった 2 「できない」すばらしい能力がある 3 ちんぷんかんぷんなことはわからないのが当たり前 4 実用ある原則がすばらしい 5 「心配」しないで「信頼」する 6 肯定的な見方・考え方 7 妨げるだけでいい 8 いいこと「なのに」ではなく、いいこと「だから」押しつけない 9 みんな「自分が自分の主人公」 10 時計の文字盤、4時のところは? 11 「犯罪不安社会」の到来? 12 「かつてはよかった」式の見方にだまされない 13 「人の話はわが話。わが話はみんなの話」 14 予想変更が自分の進歩に飛躍をもたらす 15 コンセントの穴 16 まっ先に幸せになる 自分が自分の主人公! まっ先に幸せになる! みなさん,こんにちは。22周年の集いに,ようこそお越しくださいました。 「登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)」の世話人の一人,内沢達です。 大勢お集まりくださってありがとうございます。100人を超えているようです。 10年,10数年ぶりの方もいらっしゃっています。うれしいです。 みなさん,お元気そうですし,僕も元気です。 僕らの会は,明るく元気のでる,たのしい会だとよく言われます。 今日は一段とすばらしい会になりそうです。 初めての方もいらっしゃっています。 今日これからおつきあいくださって,よさそうな感じでしたら,来月以降も是非ご参加ください。 参加者人数の点では,こんなにも大勢な今日は特別で,机も一方向に詰めて並べていますが,日程などは毎月の例会と同じで変わりません。 いつも第3日曜日,午後1時から5時まで,3時前後に15分間ほど休憩をとります。 今日も僕の講演,そして永田俊子さん,森田重則さんからの体験発表の後,休憩時間に入ります。旧交も温めていただきたいと思います。 会場も同じです。いつもは,ここを半分に仕切って,片側で机をロの字型にならべて交流しています。 では,今日の最初のプログラムは,僕の講演です。って,勝手に話を始めています(笑)。司会進行なしに会が進んでいきます。僕らの会は形にとらわれません。したい人がする。したくない人は話であれなんであれ,しないで全然かまいません。僕は話がしたくてたまらなかったものですから,させていただいております。 みなさん,受付のところで他の資料といっしょに,水色のプリント,今日の僕の講演メモを手にされたと思います。手前味噌ですが,これはなかなかのすぐれものです。とても大事なことがいっぱい記されています。「メモ」であっても,小さい印字で4ページにびっしりです。なので,これを全部話そうとすると何時間あっても足りません。そこで,今日はその一部しかお話しません。お聞きになって,「なるほど」と思われましたら,話に出てこなかった「メモ」の他の箇所も注目してくださるとうれしいです。 今日,僕は開会前からマイクでみなさんに「是非,お買い求めください」と宣伝しています。22周年にあたって作成した緑色の冊子『自分が自分の主人公!まっ先に幸せになる!』と大学の講義用の水色の冊子『たのしく学び たのしく生きる』です。この2冊をこのメモに書かれているようなことに留意されて読んでくださいますと,いっそうご理解していただけるものと思っています。 両方とも1冊千円です。じつは,この二つは,目次からもわかりますが,4割方は同じ内容でダブっています。(森田重則さん「じゃ,もう1冊は600円で,いいんじゃない!」)鋭い,ごもっともな指摘です(笑)。でも,いいものは何度読んでもいいですし,諸般の事情もあってのことです。どうかお買い求めのほう,よろしくお願いします。すでにお持ちの方はそれぞれ2冊目もどうぞ。他の方にも勧めていただきたい。そう言える自信作です。 ものの見方が「360度!」変わった さて,僕の話はいつもそうなのですが,今日も「ものの見方・考え方」の話が中心です。 水色の冊子は初めに,3年前,鹿児島市内の伊敷台中学校で3年生231人に講演した「たのしく学び たのしく生きる」を収録しています。資料のなかに,その時の生徒の感想文がプリントされているのがあります。そこに,僕の講演を聞いて「ものの見方が360度変わりました」(笑)というのがありますね。「180度」ではない,「360度」なんです。でも,そのほうがいっそう感じが出ていて,僕はうれしい。もっと刺激的だった,180度の倍も刺激的だったんです(笑)。 感想文はその後「今までビリはだめ,できないことはダメなこと,という考え方でしたが,ビリでもできなくても良い!“できないおかげでできもする”“ビリッかす向きを変えれば先頭に”。とてもためになりました。これほどまでに自分の考えが真逆になるなんて…すごすぎます!!! おそるべし“たっちゃん”!! 」と続けています。 それまで「こうだ」と信じて疑わなかったことが,いつも「こうだ」とは限らないどころか,「こうではない」ということにもなると,これはちょっとした,いやちょっとどころではない大きな発見です。それまで「こうだ」と考えてやってもうまくいかなかった。けれど,「こうではない」と考えて,新しいやり方をしてみると違ってきた,うまくことが運ぶようになってきた。 僕らは,会を22年間たのしく続けてきて,そういうことを確かめてきたわけです。登校拒否や引きこもりは,全然暗い話ではなく,じつは明るい話なんだということを実証してきました。 メモにアンダーラインのある〈ことわざ・格言〉は,「登校拒否は明るい話」と最初に言いきった板倉聖宣さんの発想法の表現です。そのひとつ,中学生も注目してくれた「できないおかげでできもする」について,お話します。これは,ちょっと聞いただけだとおかしな表現としか思えません。 普通「できない」はその通り「できない」でおしまいですから,「できない」ことが,どうして「できる」ことになるのか? と疑問符をつけたくなって当然です。でも,一例をあげると,不登校の子どもは学校に行くことが「できない」のですが,そのおかげで学校に行っている子には「できない」ことがいろいろと「できる」のです。 たとえば,学校の時間割に縛られないで自分の好きな勉強を自分のペースでしたいだけできます。時間がいっぱいあるので,いろんなことに挑戦できます。その結果,料理が得意になったり,パソコンに詳しくなったり,いろいろなことができるようになります。詳しくは冊子をご覧ください。 登校拒否は,こうしたことからだけでも,それ自体が問題なのではない,要は見方・考え方の問題なのだと言えます。見方・考え方次第で,明るくもなり暗くもなるということです。 「できない」すばらしい能力がある 僕自身のことを話します。僕はやっぱり「できない」人間だな〜とつくづく思います。 いろんなことで,つれあいのトモちゃんからも「どうして“○○できない”の?」とよく言われます。 たとえば二人で並んで近くの公園を散歩していますね。途中,トモちゃんから何か話しかけられると僕は途端に立ち止まってしまうんです。そこで「どうして歩きながら話できないの?」(笑)と言われるんです。なにも別れ話を持ち出されたわけじゃないのに(笑),とまっちゃうんです。僕はふたつのことを,どちらも大したことじゃなくても,いっしょに並行してやることができないんです。 そう言うと優しい人は,「たっちゃんはまずひとつのことをしっかりやるタイプなんだ」と反応してくれるかもしれません。そうだったらいいんですが,ぼくは一つのこともできるかどうかあやしい。 でも,「できる能力」ではない,「できない能力」というすばらしい能力が僕にもあるんですね。そんなの屁理屈だ!と思われるかもしれませんが,そうでもありません。 僕は仕事柄,本というか書物をそれなりに読みます。でも,読めないんです。とくに専門書というやつが読めません。それだとだめ,大学教員として失格でしょうか。でも,そうでもない。そういう僕だからこそ「できる」ことがあるんです。以前僕は,本を読めない・読まない自分を否定していました。けれど,30代の半ば過ぎに,板倉さんの次の文章に出会って,とても励まされ変わりました。 「本を読んでよくわからなかったら,自分の頭が悪いと思うな。その著者の頭が悪いと思え」(板倉聖宣『科学新入門 ─ 科学の学び方・教え方』太郎次郎社,1975年,同『科学新入門(下)迷信と科学』仮説社,2007年)。 これは考え方の180度の,いやもっとたくさん360度の(笑)転換と言ってよいかもしれません。悪いのは自分の頭ではなく,著者の頭のほう。著者がほんとうに賢く,わかっているのなら,読者が「なるほど」とわかるように書けるはずです。 ところが,こちらは読んでも「なるほど」とはならないのですから,その著者の研究は本にはしたものの,じつは大したことないんです。そういうことも言えるようになり,自分を認めることが「できる」ようになったんです。自分を認められるって,元気の一番の源ではないか。「できない」能力って,一般にはまったく知られていないけど,このようにとても大事な能力なんです。 メモの冒頭にあるように,僕のバックボーンは,一人は板倉さんで,もう一人はジャン・ジャック・ルソーです。このルソーについては,研究書がたくさん,それこそ山のようにあります。ところが,僕はそれもやっぱり読めない,何冊かなんとか読んでもほとんど理解できない。でも,これがまたすばらしいことなんですね。 僕はルソーをとても高く評価しますが,彼が書き残していることがすべて正しくどれも大事なことだとは全然思わない。ルソー自身もよくわからないまま,いわば勢いで綴ってしまったことも少なくないのではないか。そうしたことには囚われないほうがいいと思っています。 ちんぷんかんぷんなことはわからないのが当たり前 ところが,僕のような「できない」人間ではない,「できる」優秀な,知識もいっぱいある学者・研究者はちがうんですね。「あのルソーが言っているんだから,価値のある大事なことに違いない」と権威的に考えてしまう。そして,いろんな解釈を試み論文や本にしたりします。 それを読んでも僕にはちんぷんかんぷん,まったくわからない。書いた本人もじつはわかっていないのではないか(笑),と僕なんかは思うのですが,本人の意識や主観はもちろん違います。よくわからないことを書いていても「偉大なルソーの思想に少しは近づいた」などときっと思っている。そういうのが学問だと思っているんです。 僕はそんな学問は嫌いだし,したくありません。僕も僕の理解でルソーはすごい思想家だと思う。けれど,同じ人間である僕を納得させられないような文章は著者が誰であれ評価できないし,無視して全然かまわないと思っています。「自分が自分の主人公!」とはそういうありようだとも思います。 僕は,自分に「できない能力」がいっぱいあって,とてもよかったと思っています。僕は自分が納得「できない」ことは,誰が何と言おうとも,やっぱり納得「できない」。人間誰しも,「自分が自分の主人公」であろうとすると当たり前のことだと思いますが,当たり前にはなっていませんね。 研究の世界でも,研究者が自分の研究の主人公には必ずしもなっていない。自分の本当にやりたい研究ではなく,まわりからの評価ばかりが気になって,その方面の権威とおぼしき人や学会の主流に追従するような研究になっても,そのおかしさに気づいていない人が少なくない。そうした研究はおもしろくありません。 僕は,そうしたものは読めませんが,ルソー自身が書いたものは,翻訳ですが,とくに『エミール』はすらすらと読めたんです。もちろん,わからないところもたくさんあったので,飛ばしてもいます。でも,どんどん読めて,30代の初めでしたが,ルソーの主張について「あー,そうなのかもしれない。なるほど,そうなんだ!」と納得できたんです。 ところが,僕がそうだ,大事だと思ったところは,「ルソーの教育論」として研究者からはほとんど注目されていないんです。「できる」優秀な研究者は,僕のような「できない」人間に簡単にわかってしまうことには全然興味がないようです。学問は凡人にはわからない,もっと「高尚」なものでなくてはいけないらしい。僕は,そんな学問や研究を理解することができなくて本当によかったと思っています。 実用のある原則がすばらしい たとえば,『エミール』について,「これは原則を述べた書物であって,けっして実用的な教育法の本ではない」といった解説があります。これも僕にはわからない。たしかに,よく説かれるような「実用的な教育法」はそこにまったく記されていません。けれど,そうではない,それとは正反対の,正反対であるがゆえに常識的ではないけど,ルソーならではの実用的,実際的な教育についての指針が,じつに生き生きと述べられているんです。 なのに,どうして解説は,「原則」と「実用」をまったく別物のように分けてしまうのか。そもそも「実用」とつながらない「原則」というものなどありえるのか。ルソーはいっぱい「実用」的なことを,しかも考え方次第で誰もが容易になしうることを具体的に述べています。たからこそ,その「原則」も実際的ですばらしいものになっているんです。 鹿児島の親の会の「3原則」もそうです。一番目の原則は子どもの状態を異常視しない,否定的に見ないといった,基本的な考え方です。それが二番目,三番目の実際的なこととセットになって全体の「3原則」があります。二番目の原則は,子どもの言いなりにならない,奴隷にならない,三番目の原則は腫れもの扱いしない,特別扱いしない,つまり普通に接するということです。 それにしても,みなさんは,「大学の講義じゃないのに,今日はどうしてそんなにルソーの話をするの?」と思われているかもしれません。そこで,白状します。じつは鹿児島の親の会のベースにある考え方は,ルソーの考え方でもあるのです。いま紹介した「3原則」は,どれも「ない」「しない」で終わっています。また親の会が言ってきた「子どものことを心配“しない”」とか「子どもの辛さに手を貸さ“ない”」といったことも同じです。これらの「しない」「ない」といった「ないないずくし」は,消極的な教育法の効用を説いたルソーの考え方の具体化でもあるんです。 「教育」というと読んで字のごとく「教え育てる」ですから,普通は「しない」ことではなく,積極的になにか「する」ことのほうが大事だと思われています。そして「子どものため」だと思って,実際大人はいろいろしてしまうのですが,それが大概よくない。逆効果です。 「子どものため」に全然なっていない。子どもの支援・応援になっていないどころか,反対に子どもの辛さを助長している。親の会に参加するようになって,「いままで逆のことをしていたな〜」と気づかれる方が大勢いらっしゃいます。 「一般に行われていることとまさに反対のことをするがいい。たいていの場合よいことになるだろう」「あなたがたがなに一つしないで,なに一つさせないでいられるなら」「なにもしないことによって,あなたがたはすばらしい教育をほどこしたことになるだろう」。なんか,どこかで聞いたことがあるような台詞でしょう。そう,僕が親の会でそれに近いことをよく言っています。元はというとルソーが『エミール』のなかで述べていたことなんです。 「心配」しないで「信頼」する 親の会のなかから,いい言葉がたくさん生まれてきました。その一つが「“心配”しないで“信頼”する」です。これは,内園浩二さんの長女・Eriちゃんの指摘がきっかけで生まれました。「心配」と「信頼」,この二つ,音はよく似ていますが,意味は正反対と言ってもよいほどに違います。子どもは「心配」ではなく「信頼」してほしいと思っています。 その信頼が本物かどうかは,まさにルソーのいう,大人が子どもに「なに一つしない」「なに一つさせない」でいられるかどうかにかかっています。子どものことは子どもにまかせ,大人は自分のことに一所懸命になったらいいんです。自分がする場合であれ,される場合であれ,「信頼」は誰にとっても心地よいものです。自己肯定をしていく大きな力にもなります。大人が「しない」と子どもは「する」ようになります。子ども自身も「しない」自分を認められるようになって,やがて自然に自ら「する」ようになります。 鹿児島の親の会の22年間は,僕の関心でいうと,ルソーの考え方の確かさ,「消極教育」の有効性,有用性について,例会を重ねるたびに確信を深めてきた年月とも言えます。 それは,親子の関係だけではなく,学校での教員と生徒の関係においても言えることです。3年前の安倍内閣のときに始まった教員免許状更新講習が民主党政権下でも続いています。昨年夏,僕は一人で選択科目の講習(12時間)を2日間ぶっ通し担当して,大好評でした。水色の冊子のほうに「たのしい生活指導の課題」「ルソーの思想が生きる仮説実験授業」というのが収録されています。是非,読んでいただきたいと思います。僕のホームページでも読めます。 2年ほど前ですが,ルソーの思想を追っかけている一般の方だと思います。「とてもわかり易い文章に出会えて,よかった」と掲示板に書き込みをしてくれました。うれしかったです。僕はひそかに,日本国内はもとより,ひょっとしたら世界でも一番のルソーの教育思想の理解者,継承者ではないかと思っています(笑)。 ルソーはけっして特別な人間ではありません。ルソーは自身も例外にしないで,人間なら誰しもしでかしがちな教育に関する間違いを指摘し,かつ誰もが考え方の転換次第で容易に実行できる教育方法を具体的に提案しました。ルソーは,権威や人をあざむくような学問を否定して,平凡な父親,母親に期待を寄せました。民衆の味方です。あらためてすごいと思います。そう評価できる「できない能力」いっぱいのたっちゃんもすごい!(笑) ルソーの話をもう少し続けます。いま,あそこでビデオカメラをまわしているのが,僕の娘,玲子です。32歳です。9年前,引きこもっているときに「親の会のホームページ」を起ち上げてくれました。僕らの会の功労者です。4年前に家を出て,いま住まいは埼玉です。仕事は東京,小さな弁当屋さんで働いています。「極貧」は言いすぎですが,トモちゃんの娘とはとても思えないつましい暮らしぶりです(笑)。 娘は小さいとき,ものすごく聞きわけの悪い,反抗的な子でした。えっ!? いかに親子とはいえ,そんなふうに,しかもみんなの前で言っていいの? と思われる方もおられるでしょう。いいんです。全然かまいません。ルソーの考え方からは,そうしたことも十分に肯定できます。 肯定的な見方・考え方 僕は,親の会で何回も話し,冊子にも書いています。娘は小1のころ,僕のことを「このジジイ!」と言ったんです(笑)。それはないでしょう。その時僕はまだ40前ですよ。小6のころは「このデブ!」です(笑)。たしかに,そのころ僕は明らかにメタボ気味ではありましたが。 そういうことを聞くと,「玲子ちゃんは何か問題をかかえていたのかな?」「いや,父親のたっちゃんのほうに問題があった?」などと思われるかもしれません。でも,娘も僕も,どちらにも問題はなく,二人の関係もまったく悪くない。 娘は,僕とトモちゃんの子どもだからか,いっそう主体的だった,容易に人の言いなりにならなかったということです。たいしたもんです。また,「ジジイ」とか「デブ」といったことを気がねなしに口にできるほど,僕は娘から認められていたということです。どっちもいいということです。 でも,このような肯定的な見方・考え方は,まだ多くの人ができないようです。 とくに教育の世界で,それが顕著です。なんでも否定的に見てしまいがちです。 ルソーは「子どもの見かけにだまされるな」と言っていますが,多くの大人がだまされます。子どもも,子どもの状態も悪くない,否定的になんかまったく見なくてよい,なのに勝手に悪く否定的に見てしまっています。そして,子どもを否定するだけでは物足りないのか,次には「親の私(僕)がダメだから」などと自分も否定して,落ちこんだりしています。自分だって,子どもの頃は,いつも素直ということはなく,親の言いなりにはけっしてなっていなかったのですが,それは忘れています。 そして,大人は身勝手にも,子どもに従順さを求めます。ルソーに言わせると,それは子どもが「大きくなって,信じやすく,だまされやすい人間になることを望む」ようなものなのですが,気づきません。もちろん,子どものなかには聞きわけのよさそうな子もおります。でも,そうした子も道理がわかっているわけではありません。「ここは親や教師の言うことを聞いて従っていたほうがよさそうだ」という判断があるだけです。 その判断は,大人が発する言葉を理解したことを意味しません。ルソーは,子どもは「一時間じっとしていることによって,一週間勝手なことをさせてもらうことを心得ている」と言っています。われわれの子ども時代はどうだったでしょうか。そんなことも少なからずあったのではないでしょうか。 「子どもが道理を聞きわけるものなら,かれらを教育する必要はない」。これがルソーの考えですが,普通の考え方とは正反対と言ってもよいほどに違います。 普通,多くの人は道理がわかるように教え諭してやるのが教育だと思っています。 実際,人々は子どもが小さいときから道理を説いて聞かせようとします。けれど子どもは聞かず,なかなかうまくいきません。そこで,「教育って,子育てって,むずかしい!」とよく口にするようになります。でも,そうした受けとめ方には,教育というものについて,たいへんな思い違いがあります。 教え諭して子どもに道理をわからせることなど,そもそも誰であれ,できることではありません。なのに,「できる」「できなきゃ」「しなきゃけない」と思い込んでいるんです。恐怖や懲らしめを通して,とにかく服従させることだったらできるかもしれませんが,その場合は手段の不適切さだけの問題ではすまないでしょう。子どもを人としてまったく尊重していないんですから,より大きな問題をはらむことになります。 もちろん,そうではなく「私は,子どもを尊重しつつ,ちゃんと諭すことができますよ」とおっしゃる方もおられます。確かに,その方は手も足も出しません。でも,そうしたとき「あなたの目はどうでしたか。とても怖い目つきになっていませんでしたか。また“諭すことができた”とおっしゃっても,結局のところ“子どものほうがあきらめた”,それが真実に近いのではありませんか」と僕は申し上げたい。道理を聞きわけたのではないのです。 妨げるだけでいい 思い込みや先入観から自由になって,教育のありようを冷静に考えてみると,子どもへのかかわり方は何もむずかしくないんです。誰にでもできることです。 子どもがしてはいけないこと,また子どもにさせてはいけないこと,そうしたことはその場で子どもが「する」のを大人が「妨げる」だけで,まずは十分なのです。 どうして,それがいけないことなのか,子どもにすぐにわかってもらうことは無理なだけでなく,その必要もありません。 いまは,その子とまわりが困るようなことがなくなりさえすれば,それで十分なはずです。 ただ,子どもはしつこいので何度もやらかします。そこで,大人には忍耐が少々必要ですが,何事もなかったかのようにまた妨げればいいんです。やや遺憾な面持ちで「それはだめ。やめよう」と短い言葉をそえて,止めさせればよいのです。 道理はそのうちわかるようになればいい。何歳頃までにといった期限もありません。僕らがそうだったようにやがてはわかっていきます。そういうふうにして行くと,子どもも大人も毎日を気持ちよく過ごしていくことができます。 ところが,よいことを今すぐにもと結果を急ぐと,おかしくなります。道理が「わかるようになる」のはよいことです。でも,急いで道理を「わからせようとする」のはよいことでは全然ありません。言って聞かせようとしても子どもは聞きません。 そこで大人たちは,「どうしてわからないの?!」「何度同じことを言わせるの?!」などと身勝手なことをよく口にします。 後で,そうした言い方のおかしさに気づかれる方は大勢です。 でも,“よいこと”に目を奪われ,その“よいこと”を子どもたちに押しつけている問題には,後になっても,大勢の人が気づきません。 たとえば,勉強のことです。子どもが勉強をするのは,無条件によいことではないのですが,まあ“よいこと”です。でも,その勉強もさせられるのはどうなんでしょう。自分も子ども時代にはしたくはなかったのに,多くの親御さんはそんなことは忘れて,わが子に勉強をさせたがります。そういう勉強は,たとえ自らすすんで「する」ようになったとしても,じつは大した成果をあげていません。 「そんなことはない。おかげで息子は○○高校に入れた」「娘は難関の××大学△△学部に合格した」。そういうことはもちろんあります。それが成果といえば成果なのかもしれません。 でも,そういう成績の良い子も,勉強が相当できるのに自分に自信がありません。いっぱい勉強してきたのに,学ぶことが好きになっていません。もっともっと学びたいとは全然思っていません。そういう勉強って,おかしくないですか。変化の激しいこれからの社会と時代を,主体的に生きていく力にはなっていないのです。 いいこと「なのに」ではなく, いいこと「だから」押しつけない そうした学校の勉強と比べて,板倉さんが提唱した仮説実験授業・たのしい授業には,格段に素晴らしい学びがあります。今日の講演のタイトル,それは緑色の冊子のタイトルと同じですが,初めの「自分が自分の主人公」は板倉さんの文章から借りています。板倉さんは,仮説実験授業がもっとも基本にしていることは,「自分が自分の主人公であるような人間,そういう人間を作る,というよりも守り育てる」ことだと述べています。 あとで,いくつかの問題に予想を立ててもらい,この授業の感じをほんの少しですが体験していただこうと思っています。この授業は学生からも大評判のすばらしい授業です。いい授業は,広がるといいですね。でも,いいからといって,まだいいと思っていない人にまで,これをしてもらおうとすることは,全然いいことじゃないんです。 2007〜2008年に,全国1800以上もの自治体の中で,唯一全国学力テストに参加しなかった愛知県犬山市のことです。国の政策に従わなかったのですから,なかなか骨のあるめずらしい自治体です。同市の教育長さんはとても個性的な方のようで,その何年か前,いろんな取り組みの一つとして,板倉さんを招いて講演会も開催しました。この仮説実験授業を同市のなかで広げようともされたんです。板倉さんは,招かれたので講演しましたが,その中で,そういうことは絶対にされないようにと話しました。 「えっ,せっかく“いい授業を広げよう”としてくれたのに?」と思われるかもしれません。でも,いい授業「なのに」ではなく,いい授業「だから」押しつけをしてもらっては絶対に困るのです。「いや,押しつけるつもりはない」と言っても,まだそれがいいと思えていない人にとっては間違いなく押しつけです。とくに,上から教育委員会がやるとなったら,とても強い押しつけになります。 もともと仮説実験授業自体が子どもたちへのいっさいの押しつけを排除することで成り立っています。この授業が子どもから歓迎される大きな理由の一つは,発言や討論を強制されないことにあります。子どもたちは,授業中なにを言ってもよいし,なにも言わなくてもかまいません。この自由さが子どもたちに喜ばれています。積極的に発言,討論することはもちろんいいことです。でも,そのいいことも押しつけられると形だけになってしまい,子どもたちは発言するのもいやになります。子どもたちに押しつけてはいけないように,教師にも押しつけてはならないのです。 いいこと「なのに」ではなく,いいこと「だから」押しつけない。親子の関係もおかしく悪くなってしまうのは,大概いいことを押しつけるからです。子どもが元気に学校に行くことはいいことです。でも,それが「いいなあ」と思えていない不登校の子どもを学校に行かせようとすることは,押しつけで悪いことです。いいことに目を奪われ,その問題に気づかない親御さんは,子どもに無理強いをし,関係を悪くしていきます。勉強だって,外で元気いっぱいに活動することだって,どれもいいことです。いいことを押しつけて悪い関係になっています。ということは,押しつけをしなければ,逆にいい関係が期待できそうだということになってきませんか。 みんな「自分が自分の主人公」 親子の関係に限りません。兄弟・姉妹,夫婦,友人,恋人同士,職場の同僚,学校での教師と生徒の関係,そうしたどの人間関係においても,押しつけをしないことが大事です。互いに相手を尊重して押しつけをしなければ,いい関係が続きます。みんな「自分が自分の主人公」です。他から強制されたくないんです。 僕のつれあい,トモちゃんはとてもきれい好きです。きれい好きはいいことです。洗濯もいっぱいします。いままで2度も,自分の腕時計まで洗濯機で洗っています(笑)。きれい好きな人はやることが違います(笑)。そのトモちゃん,僕の顔を見るとすぐに「掃除機,掃除機」と言うんです。僕だって,それなりにきれい好きなので,掃除機をいつもかつもかけたくないわけではありません。でも,かけるときは,やらされるのではなく,自分からしたいんです。そういう相方を尊重しないといけません(笑)。みんな「自分が自分の主人公」です。 この「主人公」の考え方はルソーの考え方でもあります。ルソーは1762年,『エミール』と同年ですが,『社会契約論』のなかで「すべての人間は自由であり,自己自身の主人である」と述べています。その著は名前からして社会について論じたものですが,中心は人間のありようです。「各人が,すべての人々と結びつきながら,しかも自分自身にしか服従せず,以前と同じように自由である」とも述べています。すばらしい人間,個人のありようだと思います。僕は,この表現が大好きです。みんなとつながっているけど,自分自身にしか服従しない。 「自分が自分の主人公」だったら,自分自身のこと,自分がかかわることは,自分の考えや気持ちを一番大事にして行っていいんですね。それは「いい」というよりも,そうしないと,そうしないで他人の考えや気持ちを優先させてしまっては,他人が主人公になってしまい,「自分が自分の主人公」とは言えません。そうしたとき,他人は他人で,やはり「自分が自分の主人公」として考え行動していきますから,自分の考えを他人に押しつけていけないんです。 夫婦はもちろん赤の他人ではありませんが,相方であってもやはり他者であることにはちがいありません。今年の2月発行ニュースに,大阪のなおみさんとやっちゃんのことがまとめられています。 「自分の気持ちを一番大切に,でも他に押しつけない」という記事です。なおみさんは,やっちゃんのお母さんとの関係について,どうあってほしいか自分の気持ちを率直にやっちゃんに伝えました。ここに遠慮はいりません。自分が自分の主人公ですし,しかも夫を信頼しているのですから,いっそうです。でも,やっちゃんがどうするかについては,やっちゃん自身が決めていくことです。だから,押しつけはしない。そういう話を1月例会でなおみさんがしました。 鹿児島の親の会に,また一つ共有財産が増えました。自分を一番大切にして,しかも他に押しつけないと,二人の間だけでなく,まわりとの関係もよくなっていきます。 時計の文字盤,4時のところは? だいぶ話してきました。ただし,いままで僕ばっかりでしたので,この先,少し変えます。今日は,4つほど予想問題を用意しています。これからは,みなさんの予想,考えもうかがいながら,話させていただきます。 ちょっとお聞きします。いま腕時計をされている方が多いと思いますが,その時計の文字盤が数字で,それもアラビア数字(算用数字)ではなく,いわゆる時計文字,ローマ数字になっている方はおられませんか? (Nさんが挙手) よかった。 昔は大勢していたのですが,いまは少なく大学の大教室でも一人もいないということがあります。Nさんのは,いま見せていただいたところ今日の話にもピッタリでした。後で,みなさんにも紹介します。Nさん,腕時計をしばらくハンドバックのなかにしまっておいていただけませんか。 (Nさんがしまう) さて,時計文字は12時のところが「]U」,3時が「V」,6時が「Y」,9時が「\」です。そんなこと言われるまでもないことですか。 では,問題です。第1問,最初の質問です。時計の文字盤の4時のところは,どうなっていますか。最初は簡単すぎる問題でしょうか。 (「Yの反対の“W”じゃないですか」「5マイナス1で“W”です」などなど・・・) みなさん,「W」ですか。他の予想はありませんか(返答なし)。 では,答えを発表します。先ほど,Nさんの腕時計がピッタリだと申し上げたのは,ローマ数字が,ひとつの省略もなく1時から12時まですべて刻まれていたからです。では,Nさん,4時のところはどうなっていますか? 見てみてください。 (Nさん「見えません!」笑) Nさんはメガネをお忘れなのか,小さくてよく見えないようです。お近くのかた,ご確認をお願いします。 (「違いまーす。“W”じゃありません。“T”が4つ,4本の“IIII”になってまーす。」) ありがとうございます。答えは「IIII」です。「W」ではなく,時計の文字盤のローマ数字は「IIII」になっています。100パーセントすべてとは言いませんが,ほとんどが「IIII」です。 札幌の時計台の写真を配ります。みなさん,自分の目で確かめてください。4時のところがやはりそうなっています。いま僕が手にしているのは,スイスの高級腕時計ロレックスの新聞一面全面広告です。同じですね。ついで,こちらの新聞写真は,平井堅が歌って大ヒットした童謡「大きな古時計」のモデルとなった時計です。アメリカ・マサチューセッツ州のホテルにあるそうです。 どうして時計の文字盤のローマ数字が「W」ではなく「IIII」なのか。いろいろな説があるようですが,いま大事なのはそのことではありません。時計の文字盤のローマ数字を見たことがない人なんていません。でも,見ていないんですね。意識的に見ようとしなければ,見えているものも見えないんです。「心ここにあらざれば見れども見えず」です。 だから,予想することが大事です。「予想しなければ,予想外のものは見出せないだろう」。これは古代ギリシャの哲学者,ヘラクレイトスの言葉です(板倉聖宣『科学と方法』季節社,1969年,参照)。 いま紹介したように,時計の文字盤のローマ数字についても,事前に「それはWでしょう」と予想を立てたから,「えっ,違う?! IIIIなんだ」と確かめ新しく本当のことを知ることができたのです。それが,事前の予想なしに,僕の話を聞かされただけでは,「たっちゃんは,なんか普通と違う話をしているなー」できっとおしまいです。 時計文字盤のローマ数字のことはあくまでも一例です。それは,ちょっと意外で面白いだけの話かもしれません。本当のことを知らないままでも,どうっていうことありません。でも,そうではない自分自身が直面し係わっている大事なことについては,何が本当のことなのか,確かめるのと確かめないのでは大違いではないでしょうか。本当のことを確かめたければ,予想が欠かせないのです。 「犯罪不安社会」の到来? 次いで第2問です。これは,いわば「社会の本当」にせまる大事な予想問題の一つだと思います。東京秋葉原での通り魔による「無差別殺傷事件」(2008年6月)など,とても怖い事件・凶悪犯罪が時々報じられます。つい先日も指宿で殺人がありました。「日本は治安がとてもよいと言われていたのに,そうでなくなってきている」といった話もよく耳にします。 そこで問題です。もっとも凶悪な犯罪である殺人はかつてと比べて,増えているのでしょうか,それとも減っているのでしょうか,あるいは増えも減りもしていない,さほど変化はないのでしょうか。 比較するのは,今と今から50年くらい前の1960年代の前半です。昭和でいうと30年代の後半です。そのころ日本は,経済の高度成長期に入っていて,1964(昭和39)年にはアジアで初めての東京オリンピックが開催され,東海道新幹線が開業しました。では,みなさん,3択から予想を挙手でお願いします。 ア かつてと比べて,少しかたくさんかはともかく,増えていると思う人 挙手は24,5人です。 イ かつてと比べて減っていると思う人 挙手は少し増えて,27,8人です。 ウ 増えも減りもせず,多少の凸凹はあっても,そう変わらないと思う人 挙手はさらに少し増えました。30人ちょっとくらいです。 僕の人数の数え方はいい加減ですね(笑)。でも,なかなかいい線を行っています。迷っているうちに手を挙げそびれた方もいらっしゃるでしょうから,その方たちも含めると百人ちょっと,今日の参加者人数とだいたいあいます。予想の別れ方も,ほぼ三分で,どなたも心細くなく,いい具合になりました。 さて,どうしてそのように予想されましたか。きっと少年の場合を考えられた方もいらっしゃると思います。「少年犯罪が凶悪化してきている」などとよく言われるから,全体的にも増えてきているのではないかとか。いや,少年は増えてきていても,成人は増えていないので,全体としてそう変わらないとか。両方とも増えている,いや増えていない,減っているとか,いろいろな予想がたちますね。ちょっとインタビューさせていただきます。 (「私の予想はウ。少年は増えているけど,大人は変わらないか少し減っていると思うので,あわせてウです」「僕はイです。少年は減っている。それは自信あります。大人も減ってきているんじゃないかなー」など) インタビューにつきあってくださって,ありがとうございます。 では,答えを発表します。警察庁『犯罪白書』(各年度版)が元データですが,戦後60余年の推移を棒グラフにしたものをお見せします。 まず少年も含めた全体のグラフです。一目瞭然です。明らかに減っています。そこで,第2問の正解は「イ」ということになります。これは殺人犯認知件数ですが,ピークの1954〜55(昭和29,30)年は両年とも3千件を超えていました。いま(2009〜2010年)は千数十件ですので,3分の1くらいに減っています。ピークから6〜9年経過した1960年代前半も,高度成長期に入ってだんだん豊かになってきたとはいえ,いまの2倍以上毎年2千数百を数える殺人がありました。 少年の場合の減り方はもっと歴然としています。こちらは殺人犯検挙人員の推移ですが,ピーク(1951年と1961年が448人)と比べると9分の1,10分の1くらいに減っています(2009年52人,2010年43人)。 予想は3分の1くらいの方が当たりました。当たっても,そこまで減っているとは思わなかった方が多いのではないでしょうか。「少年犯罪が凶悪化,多発化している」「かつてない“犯罪不安社会”の到来だ」,そんな事実はまったくないのです。 「かつてはよかった」式の見方にだまされない いまの第2問が大事なのは,講演メモにある次の記述とも関係しています。 「不登校や引きこもりはじつは明るい話。子どもはもちろん,親も教師も誰も悪くない。子どもたちが“嫌なことは嫌!”と自己主張するようになって,家庭も学校も社会も以前と比べるとよくなってきて,増えてきた。」 僕は,登校拒否の子どもたちが増えてきた「悪い要因」のようなものが,まったく思いつきません。僕は,そもそも登校拒否に理由は要らないと思っています。それは原理的に言って,子どもが元気に学校に通うことに理由が要らないのと同じです。僕がトモちゃんを好きになったことだって,理由なんかあるのかな〜(笑)。 でも,登校拒否が増えてきた理由のようなことを,どうしても言わなければならないとなったら,僕はいいことしか言えません。なんでも物事を因果関係で考えるのはどうかと思いますが,申し上げます。僕などは,子どもが自己主張するようになり,そのことを親や教師が理解するようになったことなど「よい要因」がいっぱいあって,登校拒否という「よい」選択をする子どもたちが増えてきた,と考えます。「明るい話」で,そう考えるのはじつに自然だと思っています。 ところが,これは普通の考え方ではありませんね。専門家の大半の見方・考え方とも違って,正反対です。専門家の多くは「悪い要因」がたくさんあって,「悪い」選択をする子どもたちが増えてきた,という見方をします。それは逆に言うと,登校拒否は「悪い」選択だから,それが増えてきているのも「悪い要因」が増えてきたからに違いない,という見方でもあります。 けれども,悪いことが本当に増えてきているのか。「犯罪不安社会」にしても,かつてと比べてそうだとは絶対に言えません。少年によるものであれ成人であれ,殺人というもっとも凶悪な犯罪は増えていないどころか,明らかに減ってきていることを,いま確かめました。もちろん,今の社会や学校にもたくさん問題があります。でも,かつてと比べてどうかという視点を欠くと,公平とは言えません。 とくにテーマが不登校・登校拒否ですから,学校の問題は考えないわけにはいきません。今も学校には問題がたくさんあります。けれど,かつては今とは比べものにならないほど,問題が山ほどあったのです。「学校に問題があるから,不登校の子どもが増えるんだ!」。もし,この見方が正しいのであれば,かつてのほうが不登校が多くていいはずです。でも,事実は反対です。今から20数年〜40年くらい前の,1980年代,1970年代の不登校は,いまの数分の一から十分の一以下だったのです。 社会のほうでいうと,時代はさらにその前,1950年代の後半,昭和30年代の前半です。その時代を描いた『ALLWAYS三丁目の夕日』はとてもいい映画で,僕も好きです。続編も観て,いっぱい涙しました。この時代ならでは希望も描いていて感動的ですから,映画としては,それでいいのだと思います。でも,この時代は,所得水準も格段に低く,犯罪がとても多い,公害・環境汚染も深刻な時代でもあったのです。よく耳にする「かつてはよかった」式の見方にだまされてはいけません。 それで,学校も社会も全体として悪くなってきているわけではない,ということになると,理由に困ってか,今度は個々に「悪者」探しを始めます。「あの子はああだから」「いや,親がこうだから」「教師もそうだから」と。僕に言わせると誰も悪くないのに,勝手に「悪者」をたくさん作り出しています。どこまで行っても登校拒否を暗い話題にしたいんですね。それというのも,「登校拒否は悪いことに決まっている!」という,思い込みや先入観,固定観念に囚われたままだからです。思い込みから自由になるためには,「当たり前」と思っていることでも,ときに本当に「当たり前」なのか,意識的な問いかけ,つまり予想することが大切なのです。 「人の話はわが話。わが話はみんなの話」 では,3問目に行きます。これは予想問題というほどではない,たんなる質問かもしれません。でも,僕のほうから申し上げたいことがあって,その前におつきあいいただきたいのです。この2枚の写真の絵を描いた人は誰でしょう? ひとつは梅の木や花が描かれています。もう一つは雨中の大橋の絵です。二つとも油絵です。 (「ゴッホ」,「モネ」,「ムンク」) へぇー,ゴッホらは漢字も描くのですか(両サイドや四方の縁に「漢字」がたくさんある)。では,同じ画家の別な絵を1枚。今度はデッサンです。誰でしょう。(返答なし) では,別の画家の絵を1枚,お見せします。タイトルは「種まく人」です。この絵の模写がこちらのデッサンです。この「種まく人」を描いた画家は,他に,こういう絵(「落ち穂拾い」)とかこういう絵(「晩鐘」)も描いています。 (「ミレー」) そう,ミレーです。そしてこのミレーの「種まく人」を模写したデッサンはゴッホです。最初の2枚もゴッホです。歌川広重の浮世絵の模写です。昨年11月,NHK教育TVの「日曜美術館」で紹介されていました。ゴッホは模写を繰り返し,すぐれた画家たちから学び続けて,独自の表現を生み出していったというんです。ゴッホは,ミレーの「種まく人」のだけでも何十枚も模写(デッサン)したそうです。浮世絵の模写もこの2枚だけではありません。そして,これがゴッホの「種まく人」の1枚ですが,これには,両方の要素があわさっています。前面の大きな木の幹は歌川広重の「江戸の梅屋敷」よりも力強い。人の描かれ方も,元々の形はミレーでしょうが,もうゴッホ独自のものになっています。 強烈な個性がほとばしっているゴッホの絵も,このように模倣のなかから生まれました。個性と模倣は矛盾しません。すぐれたものを,真似するに値するものをとことん真似しながら,学んでいく。すると,「真似したんだから(誰かの)二番煎じだ!」ということには,必ずしもはならない。すぐれたものを真似することができたその人は,いっそうその人らしくなって個性も輝いてきます。 じつは,そういうことが芸術やスポーツの世界だけでなく,鹿児島の親の会のなかにもあります。僕らは,月例会を中心に互いに学びあってきましたが,それは,他の人のすぐれた経験を真似することでもあったと思います。「人の話はわが話。わが話はみんなの話」。僕らの交流や学びあいの趣旨を象徴する,とてもいい表現です。普通はケースが違うようだと「人(他人)の話は人(他人)の話」で,参考にならないという考え方です。僕らは,ケースがまったく違うような場合でも大いに参考になる,真似をして学ぶべきものが必ずそこにあるという考え方をします。それが「人の話はわが話」です。そして,自分のことも,けっして特別ではなく,みんなと共通している,という考え方が続く「わが話はみんなの話」です。 どうしてケースがまったく違うような場合でも大いに参考になるのか,どうして特別に見えるようなケースもけっして特別ではないのか。それは,みんな同じ人間だからです。一人ひとり違うということ,各人がそれぞれこの世で唯一無二の個性的な存在だということと,もう一方,みんな同じ人間だからそう違わないということが同時に成り立ちます。 僕だけが,私だけが,ということはじつはほとんどありません。誰だってうれしいときはうれしいし,辛く苦しいときは誰だって辛く苦しいんです。そのうれしさ,辛さのあらわし方には個性による違いがもちろんあります。けれど,そう思った,そう感じた気持ちはほとんど同じで,変わらないと言っていいんです。 個性や条件の違いにかかわらず,大人であれ子どもであれ,登校拒否や引きこもりのことで,各人がどのように元気をなくし,また逆にどのように元気になっていくのか,そこに法則的なことがあります。自分のことが認められなくなって元気をなくし,逆に認められるようになって,また元気になります。だから,自分を,しかも今,現在の自分を認められるようになることが,とても大切なことなんですね。そのすぐれた経験を僕らは学びあっています。 予想変更が自分の進歩に飛躍をもたらす 今日は限られた時間ですが,僕のいい話を聞かれて,みなさん,理解を深めていらっしゃる,と言うのは,手前味噌,自惚れもいいところでしょうか(笑)。 僕は大学で,講義は時間も回数もあるので存分に話せて,学生諸君からいい感想をいっぱいもらっています。「毎回のように新しい発見がある」「すごく勉強になっている」などなど,うれしい感想がたくさんです。 ところで,先日,教職のほうの授業なのですが,ちょっと自信無げな,少し不安げな学生なのか,「初めは疑問だったけど,だんだんウチザワさんの言う通りだと思うようになってきた」と感想を書いてくれました。まあいいというか,悪くないというか・・・。けれど,その続きが問題です。「これからもウチザワさんが言うことを信じて行っていいだろうか」。この感想は放っておけません。次の授業で僕は力説しました。 「たとえいくら僕の講義を評価してくれたとしても,また僕のほうも相当な自信をもって講義をしているといっても,よって“信じていい”・・・とは言えないし,僕は絶対に言いません」。この学生は,「ウチザワさんの言うとおり」と書いてはいても,僕の講義の根幹というか,一番大事なところはまだまったく理解していないんですね。 「僕を信じていっていいか。それだと,主人公は感想を書いたその人自身ではなく,僕になってしまう。もし,信じるのだったら,僕の講義を聞いて,そうだと思った自分自身を信じたらいい」。そういう話をしました。 これは親の会でも同じことです。以下,やりとり風に少し述べてみます。 「親の会のみなさんがおっしゃることを信じていいでしょうか?」 それはいけません。あなたは,みなさんのお話を聞いて,どう思われましたか? 「よくわからないことが多いです」 そうですか。では,ますます信じてはいけません。 「でも,みなさんのお話を聞いていて,たしかにそうだなーと思うこともありました」 それは,どんなことですか? 「もっと自分を大切にしなきゃいけない。その点は,そう思うようになってきました」 それはすばらしいですね。では,誰かに言われたからではなく,また親の会を信じてでもなく,もし信じるのであれば誰よりも,そう思うようになってきた自分自身を一番信じて,これからは,もっと自分を大切にしてみませんか。自分が自分の主人公ですから,自分の意思で自分を一番大切にしていく。そうしていくとあなたの気持ちにどんな変化が出てきそうか,予想を立てて,やってみませんか・・・ 何がいいことなのか。それは誰かがいいと言ったから,またみんながいいと言ったからいいことなのではありません。いいと言っている,言われているだけでは,実際,本当にいいことなのかまだ確かめられていません。自分自身のことに取り組んでみて,たとえまわりは何ひとつ好転していないようであっても,自分の気持ちが楽に自然になっていたら,誰がなんと言おうと,その取り組みは間違いなくいいことです。 でも,他方では,やはり子どものことが気になる「もう一人」の自分もいます。そうした自分も,自分に違いないのですから,否定せずに認めてあげましょう。そして,どうしても気になってしょうがないという場合は,やはり予想を立てて取り組んでみたらいいんです。 そのときは自分のことではなく,子どものことに一生懸命になってみる。その結果を,それも自分の取り組みだったのですから,まわりの状況いかんではなく,事後の自分の気持ちで評価していきます。自分が気持ちよくなっていたら,その取り組みは継続していきます。でも,そうでなければ,自分の取り組みだったにもかかわらず自分のためになっていないのですから,もうやめましょう。予想を変える,いい時期なのです。 予想はまず立てることがすごく主体的なことです。でも,予想ですからはずれることがあります。はずれたのに,それにしがみついていたのでは,間違った予想が主人公になってしまい,自分が主人公とは言えません。予想を立てたのが自分なら,予想を変えるのも自分なのです。板倉さんは「予想を変えるも主体性のうち」(予想変更は裏切りでない),予想変更へのこだわりがなくなれば,自分の進歩に飛躍をもたらすと言っています。 コンセントの穴 では,第4問,最後の予想問題です。 電気回路図で電池は縦線2本,長いのと短いので表わされます。長いほうが+,短いほうが−です。では,コンセントの差込口,二つの穴はどうでしょう? コンセントを見たことがない人なんて,それこそいません。時計の文字盤の比ではない。毎日見ています。でも,まじまじとは見ていません。 こちらは,二つの穴の長さは同じでしょうか,それとも電池記号のように長さがちがうでしょうか? (Kさん「同じですよ。近くのを見ました。」笑) 見ちゃいけませんよ。予想を立ててから確かめなくっちゃ(笑)。 そりゃ,見たらわかります。 でも,それだと「自分が自分の主人公」じゃない。 誰かから問題が出され,すぐ答えを見てみた,それだけの話になってしまいます。 Kさん,本当に同じですか? (Kさん「はい。同じです」笑) だそうです。でも,Kさんは見間違えているかもしれないので,みなさんの予想をお願いします。まず,同じだと思う人,挙手してください(多数)。ああ,多いですね。では,違うと思う人,挙手をどうぞ(少数)。少ないけど,20人くらいはいらっしゃる。迷ってか,挙手されなかった人も多い感じです。 では,みなさん,近くのコンセントを確かめてください。 この部屋,かなりコンセントがあります。壁側に座っている方でもすぐには見えないように,僕は上から紙を貼っておきました。はがして見てください。 Kさんの近くは貼っていなかったようです。さて,どうなっていますか? (「違いまーす!」「わぁ,ちがう!!」など) 席を離れられない方が大勢ですので,コンセントを10個ほど,配ります。 違うでしょう。よく見ると少しの違いではなく,はっきりと違います。 (Kさん「先生,違いました。すみません」笑) Kさん,僕はKさんより先に生まれているけど,「先生」ではありません。 僕は,たっちゃんです(笑)。Kさんは親の会もまだ2回目なので無理ありませんが,よろしくお願いします。 コンセントの穴は左側の長いほうが「接地側」と言って,地面につながっています(アースのほう)。こちらは電気がきていません。検電ドライバーを差し込んでも灯りがともりません。それに対して,短い右側が「電圧側」で電気がきています。差し込むと,こう灯りがともります。いくつか持ってきていますので,後でやってみてください。 それにしても,いつも見ているものだって,こうして,じつは見ていない,見えていないということです。だから,やっぱり意識的になることが,予想をたてることが大事なわけです。このコンセントの場合は,次から間違えませんね。それは,この予想問題を通して,間違った人は,次からは予想を変えるからです。 ところが,予想変更が大事であることに気づかないと,この応用がなかなかできません。 最初の予想が間違っていたことが,もう何度やってもうまくいかないことから,はっきりしてきていても,その間違った予想にいつまでもしがみついています。たとえば,多くの人は,「子どものために」親や教師ができうる限りのことを一生懸命やることはいいことだと思っています。それは,そうやって大人が頑張ると,いい結果が出るだろう,という予想というか期待があるからですね。でも,いい結果は出ていますか? 出ていないだけでなく,登校拒否や引きこもりのことでは特に,大人たちが「子どものために」よかれと思って,すべきじゃない,あるいはしてはいけない余計なことをして,逆に子どもを苦しめている,という悪い結果にさえなっているんです。 詳しくは冊子のほうをご覧いただきたいと思います。 セブン‐イレブン(セブン&アイ・ホールディングス)の鈴木敏文さんは,「“子どものために”と考えるのではなく,“子どもの立場”で考える」という,とても大事な考え方を教えてくれました。 セブン‐イレブンの禁句はなんと「顧客のために」です。どうして,そのよさそうな「顧客のために」がだめなのか。それは,売り手のほうの決めつけや思い込み,都合の押しつけがあるからだと言います。鈴木さんは,その問題に気づいてもらうために,「子どものために」という考え方のおかしさを例にあげたのです。 鈴木さんは「仮説と検証」という商売の仕方を勧めています。前に決めたことでも間違いだということに気づいたらただちに変更する。普通その言葉にいい響きはありませんが「朝令暮改」の発想で仕事をすることが大事だと言っています(鈴木敏文『朝令暮改の発想』新潮社,2008年,新潮文庫は2011年)。 だから,僕らの日常でも,うまく行っていないときは,以前の考え方にしばられないで,新しい考え方を採用して,つまり予想を変えて,自分自身のことに取り組んでいくといいんです。 まっ先に幸せになる 僕らの会の考え方は,ほんとうに申し訳ないくらい簡単です。 子どもであれ大人であれ,みんな「自分が自分の主人公」です。 だから,みんな,自分のことは自分の意思次第でやっていけます。 そこで,もし僕らが一所懸命になるのだったら,みんな自分のことに一所懸命になったらいいというものです。 人は人を変えられません。いや,人が人を変えることはまったく不可能なことではないのかもしれません。でも,それは人間改造や他者の洗脳を企てるようなもので,とても恐ろしいことです。絶対にしてはいけないのではないでしょうか。しかし,自分のことは自分次第でいくらでもできます。 いま,現在の自分の人生をいっぱい楽しんで,自分がまっ先に幸せになる。 これは,何もむずかしいことではありません。今日,明日,明後日を誰よりも自分自身を一番大切にして,過ごしていくといいんです。 フランスの哲学者・アラン(1868〜1951)は,そのことを『幸福論』(1925年,岩波文庫訳など)の形で上手に述べています。 「幸福を自分自身の外に求めるかぎり,何ひとつ幸福の姿をとっているものはない」「今,幸福をもっていなければならない」「自分のなかに幸福があったのに,今まで全然手をつけることがなかったのだ」「幸福は些細なことによっている」などなど。 誰もが幸せになれる,というか,幸せを感じられる,その手がかりもいっぱい記しています。 幸せの反対の不幸については,「本物の不幸については,ぼくは何も書いていない」が,「重大な理由もないのに不幸な人たちのこと」について,「不幸なのは自分が考えちがいをしている」からだと述べています。 この点は,僕らの場合,登校拒否や引きこもりについて,それ自体もそれにともなうことも,じつは否定すべき困った問題ではないこと,多くの人たちが「考えちがい」をしていることを明らかにしてきました。困難なことがまったくないわけではありませんが,その場合も僕らは「解決の道は自分のなかにある」という主体的な考え方をしてきました。 そのことに係わって,アランは「われわれが自分を(が)愛する人たちのためになすことができる最善のことは,自分が幸福になることである」と言っています。わかりやすい言い方です。そして,それはやっぱりむずかしくないことだと思います。自分をもっともっと大切にしていけばいいのですから。 僕自身も,すでに相当毎日を楽しんでいて幸せですが,いっそう自分を大切にしていきたいと思っています。先日,新入生中心の4週目の授業で,はじめて授業感想文を書いてもらったところ,うれしい記述がいっぱいありました。たとえば,「この講義は他の講義と違い笑顔になっている人がいました。自分達で話して笑っているのではなく,講義を聞いていて自然とほほ笑むような良い講義でした。これがたのしい授業なのだと思いました。」といった感想です。 これは,とてもうれしい感想です。僕にとって新しい発見もありました。この授業は,毎期200人を超える大人数です。そこで,同じ学科であったり,サークルであったり,出身高校であったり,知人友人といっしょに受講しているということも少なくありません。ぼくは,それで席も近く,知りあい同士でもあるから,いっそう楽しそうにしていると思っていたら(もちろん,そういうこともあります),違うと言うんですね。 全然知らない学生同士が僕の授業をいっしょに受けていて,仲良くなったと言うんです。うれしいじゃありませんか。 でも,うれしくない感想もあります。僕の授業について「おもしろさにびっくり」とか「こんなに楽しい授業は初めて」とか評価してくれるのはいいんですが,この女子学生は,なんと「たっちゃんみたいなおじいちゃんがほしい!と思いました」(笑)とまで記したんです。 二十数年前,娘の玲子に「ジジイ」と呼ばれても,なんとも思いませんでしたが,これはショックです。トモちゃんからも「現実を直視しなさい」と言われています(笑)。 このところ冊子の作成や,この22周年の集いに向けての準備などで忙しく,山登りにもあまり行けず,スポーツジムからも遠ざかっています。また,トレーニングを再開して,体力年齢テストで「20代」「30代」を目指したいと思います。 これで,僕の講演を終わります。ご静聴,ありがとうございました。(拍手) |