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ことわざ・格言と登校拒否、引きこもり



2002年7月

内沢 達



 ビリッかす向きを変えれば先頭に(時代の変わり目に生きる)
─ 「うちの子はたいしたもんだ!」 ─



2 馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうどいいのは俺の足(「手前味噌」の論理)
  
─ 大人も子どもも、自分の人生の主人公として生きる ─


 束縛によって得られる自由もある
 
─ 登校拒否について「自由に考える」とは? ─


 自由は必然性の洞察
   
─ 「うちの子は違うんです!」。いいえ、みんな同じです。法則的です ─


 悪事は善意から(親切とおせっかいは紙一重)
   ー教師や親の「善意」が子どもを苦しめる ─



 「なのに」と言ったら「だから」(「なのに」の前提は正しいか?)
   ─ 不登校「なのに」ではなく、不登校「だから」元気! ─


 いい加減はよい加減
   ─ 子どもも親も、「いい加減」がよい ─



 最後にだますのは自分
   ─ 大人も子どもも、「他人の評価の影」におびえない ─



 負けるが勝ち
   ─ 親は子どもに降参し、謝まって、「ありがとう」と言えるか ─



10 石橋をたたいて堂々と渡る
   ─ 引きこもりも「明るい話」、今を大切に生きることは、
    将来の「今」も確かなものにする ─






はじめに



 子どもが学校に行けない、行かないという登校拒否(不登校)そのこと自体には、じつはなにも問題がありません登校拒否は、見方・考え方の問題なのです。



 登校拒否を否定的に見ている限り、子どもはもちろんのこと親も、これはたいへんです。そうではなくて、そうした見方を変えることができたとき、今までとはまったく異なる新しい、明るい世界が開けてきます。そして次には、仕方の問題になっていきます。



 私は、鹿児島の親の会・10周年記念誌『登校拒否は明るい時代の前ぶれ』(1999年)のなかで、板倉聖宣(いたくらきよのぶ)さん(科学史・科学教育の専門家でたのしい授業・仮説実験授業の提唱者)の登校拒否についての見方・考え方を紹介しました。子どもたちの登校拒否について、これまで、それはなにもおかしいことではないと言った人は大勢いますが、ずばり「明るい話」だと言った人は、板倉さんが初めてです。



 板倉さんは科学者ですが、同時に哲学者です。とても視野の広い方です。私は、板倉さんの著作などから、いろいろなことを教えられました。哲学とはわかりやすくは、〈ものの見方や考え方〉のことです。さらにくだいて言うと、〈ことわざや格言〉にもあらわれている〈発想法〉とも言ってよいようです。



 〈ことわざ〉は、とても広くいろいろなことに当てはまり、「さまざまな問題について、じつに鋭く問題点をついている」と思われることも度々です。しかし、〈ことわざ〉にはあいまいさやいい加減さがつきまといます。



 どんなとき、どんな場合に適用したらよいのか、はっきりしていません。「大は小を兼ねる」ということわざがある一方、「といえども、お玉は耳かきにならず」ということわざもあります。



 つまり、あることわざが当てはまる場合もあれば、そうでないときもあるのです。そのことは十分に承知のうえで、具体的なことで〈ことわざ〉を思いきって使ってみると、いままであまり見えていなかったことがとてもよく見えるようになります。「当たらずといえども遠からず」といった、おおよその確かさを自分のものにすることができるようにもなります。



 以下は、板倉さんの著書『発想法かるた ─ 発想を豊かにすることわざ・格言集』(1992年、仮説社)、『新哲学入門 ─ 楽しく生きるための考え方』(同前)に登場する数々の〈ことわざ・格言〉について、そのいくつかを私なりに登校拒否に当てはめてみたものです。これまで鹿児島の親の会でお話ししたものもあれば、初めてのものもあります。



 全体的には結構な分量になっています。初めから順番にご覧いただかなくてもかまいません。目次をみて、「面白そうな〈ことわざ〉だなぁ。どんな意味なんだろう? 登校拒否に即しては、どういうことになるのだろう?」と興味を持たれたところから、お読みいただいてかまいません。とくに中ほどから後のほうにかけては、不登校や引きこもりの仕方など、具体的な場面についての説明が多くなっています。どこか一つでもお読みになって有益だと思われましたら、全体を通してお願いします。



 これまでの固定観念や偏見をあらため、多くの方々が登校拒否や引きこもりについて、新しい、明るい見方をされていく一助になればと思います。


 


1 ビリッかす向きを変えれば先頭に(時代の変わり目に生きる)
    ─ 「うちの子はたいしたもんだ!」 ─




 登校拒否を否定的に見る人たちには、不登校の子どもは学校教育についていけない、取り残された「不幸で」「かわいそうな」子どもたちとしか見えないことでしょう。いわば、ビリッかすとでも言うのでしょうか。



 しかし、そうなのでしょうか。だれが薦めたわけでもないのに、嫌なことは「イヤ!」と学校を拒否したのが不登校の子どもたちです。意識的に言葉を口に出さない場合でも、気持ちや身体で学校を拒否しました。



 一世代、二世代前の子どもたちは、とても従順でした。かつて従順だった子どもたち、つまりいまの大人たちには及びもつかなかったことを、それぞれがたった一人で(あとから兄弟、姉妹でということもありますが)不登校をし始めました。たくましいことではないでしょうか。私は、いまの子どもは強いと思います。



 もっとも人によっては、私と正反対の評価をすることでしょう。「この頃の子どもは、ちょっとしたことにも耐えられない」「弱々しい」などと。しかし、そのような台詞はいつの時代にもありました。「いまの子どもは、豊かな時代に育って貧しさを知らないから我慢ができない」などと言う人たちも、子ども・青年時代には「戦後世代で、戦時中や敗戦直後の苦労を知らないから駄目だ」と言われなかったでしょうか。その前の世代だって「(戦争は知っていても)軍隊経験がないからだらしない」と言われたのです。



 嫌なことに耐えることもたくましく、強いことですが、他方、嫌なこと、おかしいこと、問題があることに耐えないで、それらを拒否することもたくましく、強く、素晴らしいことではないでしょうか。嫌なことを「イヤ!」と拒否することを「たくましい」と考えるか「弱々しい」と考えるかは、考え方の違いです。



 そこで、向きを、見方を変えれば、自分を大切にして自分らしく生きようとしている今の不登校の子どもたちは、時代の先頭に立っていると言うことができます。不登校のお子さんをもったことは、嘆くようなことでは全然ありません。「うちの子はたいしたもんだ!」なのです。



 もちろん、無理をして頑張って学校に行っているのではなく、自然に元気に学校に通っているのであれば、そうした子どもたちも素晴らしい。大人が子どもに無理をさせたり、頑張らせたりして、学校に行かせようとすることが一番いけないことです。



 ところで、不登校と並んで高校中退についても、その数の多さを心配する大人たちが少なくありません。しかし、当の子どもたちは、なんと「やめてよかった」と思っているのです。



 10年も前のデータですが、大阪府教委は追跡調査の結果「中退後の生活は充実している」との答えが8割近くもあってショックを受けていると報じられたことがあります(『読売新聞』1991年7月25日大阪版)。熊本県教委の調査も同様な結果でした(『熊本日々新聞』1993年2月16日)。相当まえの調査でもこのような結果ですので、大人たちの「不登校や高校中退の子どもたちはかわいそう」という見方は、こんにちではいっそう勝手な思い込みと言わざるをえません。



 不登校であれ、高校中退であれ、子どものありようにかかわる勝手なマイナスイメージは、やはりこれまでの固定観念や偏見がもたらしたものなのです。


 


 馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうどいいのは俺の足
        (「手前味噌」の論理)
     ─ 大人も子どもも、自分の人生の主人公として生きる ─




 普通のことわざは「間抜けの小足」まででストップですが、板倉さんの発想法がおもしろいのは、もう一つ「ちょうどいいのは俺の足」と付け加わっていることです。たとえば、足の長さでいうと20何センチとか、幅でいうと3Eとか4Eとか、とにかくどんな長さでも大きさでもかまいません。「ちょうどいいのは俺の足」と思えるかどうかが、この発想法のポイントです。



 自分のことについては、自分が主人公なのだから、自分の基準を持とう。そしてそれを一番大切にしていこう。世間や他人が主人公ではないのだから、まわりの基準には縛られずにやって行こうという発想法です。



 この発想法は、大げさにいうと日本国憲法の核心の一つである「個人の尊重」ということにかかわっています。誤解を恐れずに言えば、「手前味噌」や「自分勝手」なしには、「個人の尊重」は実現しないということです。



 自分を抑え、犠牲にしていたのでは、「自分だって我慢しているのだから、他の人も我慢すべきだ」ということになってしまい、ほんとうのところ他人を尊重することができません。



 私の場合について述べますと、大学の職場で同僚からよく「内沢さんは、昔から好き勝手、したい放題、言いたい放題だよなー」と言われます。これは一面あたっていますが、他面では当たっていません。当たっていないというのは、30代、40代の頃の僕は、うわべとは違って結構、いや、かなり自分を抑えていました(ホントです)。そうでなくなったのは50代になってから、しかも、「ほんとうに自分勝手でわがままな人間になってきたなぁー」と思うのは、ここ2〜3年のことです。



 「わがまま」ということは、単純に否定すべきことではありません。それは、「自分を大切にしている」という良いことでもあるのです(この点でも、いまの子どもは素晴らしい)。 



 わがままになってくると、他人に対してもかつてなく「やさしく」なれる自分がいるように思います。まだまだホンモノではないかもしれませんが、私がそのように変わることができたのは、登校拒否との出会いや親の会なしには考えられません。



 僕は、僕の基準で、好き勝手をして(たとえば授業には力を入れても、くだらない会議には適当につき合うなど)たのしく大学教員生活を送っていますので、僕とは波長が全然あわない同僚の好き勝手に対しても、僕と他(とくに学生)に害がおよばない限り寛容になれます。かつての僕はそうではなかった。



 ふりかえると、教授会で何度も発言し、正義と正義を闘わせたものでした。
いくら会議に時間をかけても大学はよくなりません。大学も変わるときは、そのようなことには関係なく変わっていきます(「変わらないのが社会、変わるのが社会」ということわざ・格言もあります。「社会」を学校とか、家族とか、人間とか、いろいろ置き換えることもできます)。



 このことは、他の職場についても言えると思います。仕事がうまくいくときにはいくし、いかないときにはいきません。後者の場合は、全体のことを考えてつい、「課長(係長、主任)の自分がもっともっと頑張らなければ…」などと思いがちですが、特定の誰かが自己犠牲的に頑張ってもうまくはいかないのが普通です。そうしたときは、自分のペースを大切にして、適当(テキトー)に仕事をする。自分が無理なくできそうなことで確かに成果を上げられそうなことには打ち込む。それで十分だと思います。そのような個々人のありようが、やがては、全体の歯車がかみ合ってより大きな成果を上げることにもつながっていきます。



 親の会では、よく「子どもだけでなく、親、大人もゆっくりしていいんだと思えるようになってきた」と語られることがあります。大人が会社や世間にあわすことだけを考えているようでは、会社や世間が主人公になっていて、自分が自分の人生の主人公になっていません。



 みなさん、最初は、学校に行かない、また行き渋るわが子の問題だと思って、親の会に顔を出したのですが、じつはそうではありませんでした。登校拒否で問われているのは、子どもではなく、子どもの状態でもありません。私たち親をはじめとする大人の見方、考え方、そして生き方こそが問われているのです。



 月例会では度々、「わが子の不登校のおかげで、自分自身の、一人の人間としての生き方を考えさせられた」「もっと大人もゆっくりしていいんだ」「そのことを気づかせてくれたわが子に感謝したい」といった発言があります。



 世間や他人の基準にふりまわされることなく、自分の基準をもって、それを大切にして生きていく。「ちょうどいいのは、俺の足」。とても素敵な発想法ではないでしょうか。


 


 束縛によって得られる自由もある
   ─ 登校拒否について「自由に考える」とは? ─




 「自由」と「束縛」の二つのことを比べると、「自由のほうが断然いい」と思う人が大勢ではないでしょうか。誰だって束縛はあまりあってほしくありません。でも、〈私たちが一切なにものにも縛られないということはありえない〉ということも確かなことです。そこで「自由がいい」のであれば、ある程度の、しかも理にかなった束縛があることを意識したほうが、より自由に生きていくことができると思います。



 人間が実際に行動するとき、いろいろな束縛があることは誰しも認めるところです。行動ではなく「考える」ことだったら、自分の頭のなかのことですから「いっさい束縛がない」かのようですが、そうではありません。じつは「考える」ときにも束縛があることを意識できているかどうかが、人間がより自由であるためのポイントなのです。



 ここでは、まず板倉さんが述べる「自由に考えるための原則」について紹介します。
 板倉さんは、

 これまで、どんなに多くの人々が「自由に考える」ことを願いつつ、そのことに失敗してきたか、じつはいくら「囚われずに考えたい」と思っても、そんなことはできない、それは、もともと「ものを考える」ということ自体が、「ある筋道、原理・原則に従って考えること」に他ならないからで、それらなしに、ただ漫然と考えようとしても、考えを進めることはできない


と述べ、次の一文に続けています。以下、少し長くなりますが、大事なところですので引用します。



「自由に考える」とは、「新しい原理に囚われて考える」こと



 それなら、自由に考えようとしたら、どのように考えたらいいのでしょうか。それには、「これまで多くの人々が考えてきた筋道、原理原則」とは違う筋道、原理原則に従って考えるようにすればいいのです。こういうと、「そんなことをしたのでは、自由に考えたことにはならない」という人がいるかも知れません。そういう人は、考えることを止めるほかないでしょう。



 よく「いくら自由に考えようとしても、自由に考えられない」という人がいますが、そういう人は、それまで自分の考えを支配していた原理原則を否定するのが怖くて、「自分は自由に考えることを欲しているのだ」という憧れだけを示しているに過ぎないといってもいいでしょう。



 私たちがときとして「自由に考えたい」と思うのは、「何もかもの束縛から脱したい」というのではありません。これまで自分を支配していた考えの「束縛」から自由になれれば、それでいいはずです。



 そして、「それとは違う新しい筋道、原理原則に基づいて考えてもやはり駄目だ」ということがわかったら、今度はそれとも違う筋道、原理原則で考えることにすればいいのです。ある筋道で考えを進めるようにすることと、それに最後まで束縛されることとは違います。



 ですから、「自由に考える」というのは、「これまで多くの人々が考えてきたのとは違う原理原則に基づいて考えること」をいうので、デタラメに考えることではありません。だから、「自由に考えたい」と思ったら、「これまでの原理原則とは違う、もっと確かな、確かそうな原理原則」に基づいて考えるようにすればいいのです。



 そういうことに気づかずに、いくら「自由に考えよう」と思っていても、ますますこれまでの考え方のとりこになってしまうだけです。「どんな考えにも囚われずに考えたい」と考えるのは、結局のところ「考えるのを止める」ということに等しくなってしまいます。

(『新哲学入門』130〜131ペ)



 この「自由に考えるための原則」を登校拒否のことに適用すれば、どうなるでしょう。これまで多くの人々が考えてきた「子どもは学校に行って当然」という考え方には束縛されないで、その束縛からは自由になって、新しい原理・原則である「子どもが学校に行かないことは何もおかしいことでない」ということに囚われて考えるとよいのです。



 ところが、そのことを少し聞き知っても、新しい原理に基づいてとことん考えて、ことにあたろうとしないものですから、また以前の考え方のとりこになってしまい、登校や勉強を強いたりして、わが子を苦しめることになる親御さんが少なくありません。



 たとえば、わが子の不登校をしぶしぶ認めざるをえなくなった親御さんのなかには、子どもの気持ちがわからずに、「うちで好き勝手し放題。テレビゲームなどで遊んでばかりいる。少しは勉強してくれたら」などと思う人がおります。



 遊んでばかりであっても、うちで元気にしている。それは、とても良いことなのではないでしょうか。それとも、毎日元気がなく、青白い顔つきでも、とにかく子どもが学校に行ってくれたなら、それでよいのでしょうか。



 物事を考えるときの原理・原則は、一つだけではありません。いくつかあります。そしてそれらには、優先順位があります。より大切にすべき上位のものとそうではない、優先順位が下位のものとがあります。



 学校に行く・行かない、勉強をする・しないという原理よりも、子どもが元気かどうかの原理のほうがはるかに大切ではありませんか。



 行きたくもない学校に、必死の思いで登校し、保健室や相談室などの別室で他を気遣いながら一日を過ごす。そんな状態よりも「うちで元気にしている」ほうがはるかにイイに決まっています。ところが、下位のしかも古い原理に囚われて考えることを止めてしまっている人には、その当たり前のことがわからなくなっているのです。



 さらに、この問題を考える際の原理には、もっと上位の、しかも決定的な原理があります。わが子が元気であるかないかということ以上に、「生きている」ということ、「命がある」ということが当然にも最優先される原理です。



 不登校の子どものなかには、まわりの大人たちの無理解のために、自己否定を強めて、引きこもったり、ときに家庭内暴力におよんだり、また拒食・過食などをして苦しんでいるケースも少なくありません。でも、そうしたわが子も生きている、親の手が届くところにいるのです。普通、不登校以上に否定的にしか見られていない引きこもりにしても十分意味があり、親も子もこれを肯定し、存分に引きこもりきれたときに、引きこもりは力となり、やがて我が子に笑顔がもどってきます。



 このように子どもの元気な笑顔や命という、なにものにも代え難いより上位の原理も含めて、「不登校はなにもおかしいことではない」ということが、新しい原理・原則なのです。
そのことに囚われ、束縛されて考え、ことに対処していくことにこそ、自由があります。


 


4 自由は必然性の洞察
   ─ 「うちの子は違うんです!」。いいえ、みんな同じです。法則的です ─




 続けて、自由の問題をさらに考えてみたいと思います。
 「自由は必然性の洞察」(ドイツの哲学者、ヘーゲルの言葉)とは、えらくむずかしい格言のように思われますが、そうでもありません。必然とは、必ずそうなる、例外がなくそうなるということです。



 必然的なことは、洞察、つまり見通し、見抜いていたほうがいいということです。必ずそうなることを見抜いていなければ、どだい無理なことに力を使って消耗してしまい、他方で難なくやれそうなこともやれなくなってしまいます。



 必然性は「法則性」という言葉に置き換えてもいいでしょう。法則に逆らってはなにごともうまくいきません。法則を知ってこそ、いらぬ束縛を受けることなく、よりよく対処することができます。そのことが自由だというわけです。



 さて、この格言の登校拒否への適用です。
 まず大きなことから言いますとこの四半世紀、1970年代の半ば頃から不登校は一貫して増え続け、今後とも増えることはあっても減ることはないという必然的な傾向について洞察することが大切です。



 板倉さんが述べ、私も別に書きましたが、不登校が増えることは「明るい」ことです。学校が前より悪くなってきていて、不登校が増えているのなら「暗い」のですが、そうではありません。いまの学校にもたくさん問題がありますが、以前の学校のほうがもっとひどかったのです。



 かつての子どもたちはそれに我慢して耐えていたのですが、不登校の子どもたちは「嫌なことは嫌」と我慢せずに自己主張しているから、素晴らしく明るいことなのです。2000年11月に、NHKが2回に分けて「子どもたちの危機」と題する特集(「不登校13万人」「引きこもり」)を放映しましたが、これは、そういう特集をくむNHKのほうがよほど危機的だと思います。



 私は、ときどき同僚から「内沢さんのように、そんなに不登校を認めたら、これからの学校は成り立たなくなるのではないか」と言われることがあります。しかし、そうではありません。むしろ、逆です。不登校を認めてこそ、学校が学校らしくなっていきます。そして、学校がよくなれば、不登校はさらに増えていきます。「不登校13万人」なんて、驚くような数ではありません。反対に、今、現在、一千万人以上もの小中学生がほとんど休まずに学校に行っていることに驚いたほうがいいくらいです。



 大学生(四年制)は250万人以上いますが、「年間30日間以上」休んで授業に出てこない学生がどれほどいることでしょうか。それを示す全体的なデータはありませんが、私の授業(受講学生の8〜9割が「たのしかった」「ためになった」とよい評価をしてくれる授業でも欠席が少なくない)への出席状況から考えても、どんなに少なめに見積もっても数十万人は下らないことでしょう。



 でもそんなことで大学が成り立たなくなるということはありません。大学の、いい意味でのいい加減さが小、中学校、高校にもあれば、そもそも子どもの不登校は、問題にすらならないことなのです。



 ともあれ、不登校の子どもが増えてきている、今後とも増えるだろうということは、学歴価値の低下も顕著ななかで、ほぼ必然的な傾向です。時代の大きな趨勢や流れを見通すことが大切です。



 ところで、以上のような時代の大状況についてだけではなく、個々の子どもにも必然的、法則的なことがたくさんあります。たとえば、不登校の子どもは、よく「明日は学校に行く」「来週からは」「2学期からは行く」といったことを口にします。



 初めて例会に参加された親御さんは、他の例を知らないので無理からぬことでもあるのですが、なかには「うちの子は他のお子さんと違うんです。『行きたい!』と言っているんです」と発言される方がときどきおられます。



 じつは何も違わないのです。親がわが子の不登校を認めることができずに、学校に行かせようとしている限り、そういう言葉を子どもは法則的に発します。でも、その日になると行けないというのも、これまた法則的です。



 ときに無理をして行って、学校では結構元気だったということ、とくに夕方学校から帰ってきたときには笑顔いっぱいということもあり、そこで親御さんはまた「この子はやっぱり行きたいんだ」と誤解してしまいます。ところが、次の日は、行けないのですね。どうしてそうなるのでしょうか。



 子どもの本心は「学校に行きたくない」のです。「行かねばならない」と思っているだけで、親を気遣っているのです。ときに行くことができた日は、親に心配をかけずにすんだということで明るく、そして夕方帰ってきたときは嫌な学校から解放されたということで明るいのです。後者の明るさは本物ですが、前者は違います。



 親が以前の考え方に縛られることなく、新しい原理・原則に従って、本心からわが子に「学校はしばらく休もうよ!」と言えたとき、子どもは「ほんと!」と言って、どれほど芯から明るくなることか、このことは私たちの親の会のメンバーの多くが体験している法則的事実です。



 文部科学省は、相当まえに「登校拒否はどの子にも起こりうる」と、その点ではまったく正しい見解を明らかにしています(「学校不適応調査研究協力者会議報告」1992年。その2年前の「中間報告」で明らかにしたのが最初です。その見解はよかったのですが、こんにちに至るまで不登校を否定的にみる見方を変えていないことは、もちろん問題です)。



 「どの子にも」ですから、〈登校拒否になる子どもの特性、傾向には法則はない〉という法則です。ですから、わが子の性格などと絡めて「どうしてこの子は登校拒否になってしまったのだろうか」と考えることは無用のことですし、親のそれまでの子育て傾向とも関係ありませんから、自分を責める必要はこれっぽっちもありません。



 ですが、わが子が不登校、あるいは不登校気味になってからは違います。子どもが学校に行かないという不登校それ自体にはなにも問題はないのですが、親をはじめとして、まわりの大人たちに理解がないとき、子どもが学校に行けない自分自身を責めて多かれ少なかれ自己否定的になっていることは問題です(このことも法則的です)。



 人間誰しも自己否定をして元気にやっていくことはできません。つまり、その前には親にまったく責任はないのですが、その後については責任がはっきりとあり、親が最大の加害者になっている場合も少なくないのです。



 そこで、親御さんにおいては、よくよく必然的なこと、法則的なことを洞察していただかなくてはなりません。ちょっと聞くと「うちの子とは全然違う」と思われるケースでも、よく考えてみると親のありようとしてはまったく変わらないのです。



 私たちの親の会はとても明るく、初めて参加された方は、「これが不登校の子どもをもつ親の集まりか!?」と驚かれます。他の方の経験からも、とくに法則的なことを学んでいただけたらと思います。


 


5 悪事は善意から(親切とおせっかいは紙一重)
     ─ 教師や親の「善意」が子どもを苦しめる ─




 悪事、悪いことは悪意からも確かに起こります。でも、そのときは相手が悪意をもって向かってきていることがわかるので、こちらも構えることができます。たとえ、十分な対応ができずに望まぬ結果になったとしても、悪いのは相手側だと了解することもでき、さほど傷つかなくてすみます。また、悪意をもっているほうも、自分は悪いことをしているという後ろめたさがあるので、そう無理なことはできません。



 ところが、善意は違います。これは、たちが悪いのです。「良かれ」と思ってしているので、悪いことをしているという自覚がなく、相当無理なこと、通常では考えられないようなことも平気でします。



 たとえば、以前よく聞いた、教師による強引な登校刺激がそれです。他人の家をいったい何と思っているのか。土足で踏みにじるように上がってきて、子ども部屋に直行し「何を甘えているんだ!」と怒鳴ったり叩いたりして、力ずくで連れていくのです。子どもを学校に行かせたいのにそうすることができない親にかわって、いいことをしていると思っているのです。人権蹂躙もはなはだしいのですが、善意ゆえ、そのことに気づかないわけです。



 善意が二重になったソフトな登校刺激はさらにたちが悪い。クラスメート全員に「○○君が教室にいなくてさびしいよ」「みんな待っているよ」などと手紙を書かせ、学級委員や近所の友だちを迎えに行かせるような登校刺激です。これは、子どもにはとてもしんどいことです。「先生はやさしい。友だちも心配してくれている」。なのに、学校にいけない自分は、「とても悪い子なんだ。だめな人間なんだ」と自己否定に陥ってしまいます。



 でも、そうした他人の「善意」への対処は、親の立場からは、さほどむずかしいことではありません。それらは、いわば「小さな親切、大きなお世話」で、きっぱりとお断りをしてご遠慮いただけばよいのです。



 むずかしいのは、親自身のわが子に対する「善意」です。親御さんは、自分の善意がかっこつきのものであっても、そのことの問題に気がつかないことが少なくありません。



 「子どものため」を思わない親はおりません。「子どものため」を思って「善意」から、親は、すべきでないこと、してはいけないことをいろいろしてしまうのです



 たとえば、初期の段階ではよく、「頑張って学校に行こう」とか、「少しは家でも勉強をしたら」とか、言ってしまいます。口には出さなくても、表情や態度から、そうして欲しいことがありありです。そうした親の対応は、そうしよう、そうしなければいけないと思ってはいても、することができないわが子を深く傷つけます。



 不登校の期間が長くなってくると、今度はカウンセリングや心療内科・クリニックなどに連れて行こうとすることも「善意」からです。子どもが無理をして行っても、長時間心理テストを受けさせられたり、答えたくないことをいろいろと聞かれたりして、その結果はというと「あなたに欠けているのは勇気です!」と言われ、挙げ句の果ては「お母さん、お父さんをあんまり心配させるんじゃない!」と説教されたりもして、子どもはさらに落ち込みます(鹿児島での事例です)。



 ところで、不登校も本格的になってきて、子どもが家から一歩も出なくなってくると、親の対応は以前とは違ってきます。でも、「善意」からという点では同じで変わりません。以前は、親のほうがいろいろと子どもにさせようとしていたのですが、今度は子どもから、親がさせられ、親が「善意」からしてしまうのです。



 子どもは、辛さをいろいろな形で表し始めます。言葉は乱暴になり、ときに実際の暴力にもおよび、また親に対して無理難題を突きつけたりします。それらは、親に対する、「俺(私)の辛さ、苦しさを分かってくれ!」という無意識の訴えで、額面通りに受けとめてはいけないのですが、親にはそのことがわかりません。「この子も苦しいのだろう」と、少しでもその意に添えたらと思って、まさに「善意」から、わが子の「要求」をかなえようとします。



 以前は、親の意向に従わせ、意のままにしようとしていたのに、今度は反対に子どもに従い、子どもの奴隷になるのです。子どもは、ほんとうのところ、自分が求めていることは、そんなことじゃないとさらに苛立ちます。



 佐賀バスジャック事件の両親だって、善意の人だったのです。母親はわが子にカウンセリングをすすめ、父親はこの子も苦しいんだろうと思って、言われるままに深夜の長距離ドライブを(大阪・名古屋までも)何度もおこない、また「専門家」の薦めがあったとはいえ、「楽になってほしい」と願って保護入院もさせたのです。バスジャック事件の少年が起こした悲劇は、まさに「悪事は善意から」です。



 「子どものために」と思っていることと、実際そうなっていることとは、もちろん違います。板倉さんは、「善意の人が一番怖い」「日本では、行動の結果よりも動機のほうに重きをおいて善悪を判断することが多いので、とくに意識的に問題にしておきたい」と述べています。



 よい結果にならないのは、「子どものため」と思い込んでいるだけで、「子どもの立場」になって考えようとしていないからです。



6 「なのに」と言ったら「だから」
   (「なのに」の前提は正しいか?)
    ─ 不登校「なのに」ではなく、不登校「だから」元気! ─




 これは、「なのに」と言ったら「だから」と言い換えてみると、今までは気づかなかった新しい発見があるかもしれないという発想法です。



 「……なのに」と言うときは、「本当はこうであるはずなのに」(そうではなくてオカシイ、あるいは不思議だ)という思いが前提にあります。その前提に当てはまらない事実が出てきたときに、使う表現が「なのに」です。そこで、そういう言い方があったときには、まず前提になっていることが正しいのかどうかを疑って、次には「だから」と言い換えてみると、今までとはまったく違った世界が見えてきますよ、ということになります。



 たとえば、「あの子は不登校なのに元気だ!」という言い方はどうでしょう。
 不登校を親子ともども肯定することができている家庭では、不登校の子どももとても元気です。そうした子どもを外で近所の人が見かけたときに、「あの子は不登校なのに元気だ!」と言ったりします。



 この言い方は、「不登校の子どもは暗く、沈んでいて、元気であるはずがない」という、まったく間違った認識が前提にあるからこそなされる表現です。事実、元気がない不登校の子どももおります。それは親やまわりの大人たちが否定的な見方をし、本人も不登校の自分を肯定できていないからです。ところが、不登校はなにもおかしいことではないと肯定できるようになってくると違うわけです。



 「なのに」と言ったら「だから」と言い換えてみる。不登校なのに……、不思議だ! ではなく、「不登校だから元気だ!」なのです。全然、見方が、世界が違うと思われませんか。不登校についての評価が180度違ってきて、いっそう肯定的になります。



 例は他にもたくさんあげることができます。「不登校なのに」日中出歩いている。これも違います。「不登校だから」学校に縛られることもなく、好きなところに行きたいところに行ったりすることができるのです(ウィークデーに家族で出かけると道路の渋滞もなく、動物園や遊園地もすいていて、サイコー!)。



 私たちの親の会も、不登校の子どもを持つ親の集まり「なのに」ではなく、「だから」とても明るいのです。



 中学校からずっと不登校だったK君は大検をへて、センター試験も受け、昨年某国立大学入試に合格しました。けれども、彼は入学しませんでした。別にその大学、学部が嫌いだったわけではありません。せっかく「合格したのに」もったいないと思われるかもしれません。しかし、彼は「合格したから」それで十分だったのです。その方面での自分の力を確かめることができました。もっと「上」をめざそうとしているわけでもありません。大学で学ぼうとする人にとって、いつどこで何を学ぶかは、じつは選択の問題でしかありません。K君のように、「合格したのに」ではなく、「合格したから」大学には行かないということもあるのです。学校とつながっていようがいまいが、大学に入ろうが入るまいが、自分は自分なのです。



 さらに例をあげれば、子どもが不登校になったことで親が落ち込むのは、どうかと思います。「あんなにイイ子だったのに」「しっかりしていたのに」ではなく、「いい子だったから」「しっかりしていたから」不登校になったのです。視点を変えると、お子さんの過去だけでなく、いま、現在も肯定的に見ることができるようになります。



 親が学校にしがみついていたのでは、子どもは元気になりません。子どもの気持ちを考えずに、親の思いだけで行動していると、「お母さんは、お前のことを思って、こんなにも一所懸命なのに……」となってしまいます。「なのに」ではなく、お母さんがそう「だから」子どもは安心できないのです。


 


 いい加減はよい加減
     ─ 子どもも親も、「いい加減」がよい ─




 「いい加減」という言葉は、不思議な言葉です。それは、ふつう悪い意味で使われます。しかし、文言だけをみると「いい」加減なのですから、よい意味に使ったほうがいいようにも思えます。そこで、板倉さんは、「いい加減はよい加減」ということわざは、その矛盾をついたものだと言います。



 わが子が不登校になって、県や市などの教育相談に行くと、決まったように、学校に来られなくても「家では規則正しい生活をさせてください」と助言を受けます。毎日が日曜日なのに、どうして子どもに「規則正しい生活」が必要なのでしょうか。やはり、再登校を考えているのでしょう。学校は、きちっとしたことが大好きで、「いい加減」を嫌うところですから。普通に学校に行っている子に対してだって、夏休みの終わり頃には「そろそろ早起きの生活習慣を」なんて言ってきますもの。



 しかし、私たちの親の会の経験では、子どもたちには「規則正しい生活」を求めないで、「いい加減」に毎日をすごしてもらうのがいい、それが「よい加減」だ、ということになります。朝だからといって起きてこなくてもよい。何時まで寝ていてもかまわない(もちろん「昼夜逆転」もOK)。ご飯は食べたいときに食べる。テレビを見たければ、見たいだけ無制限に。TVゲームをしたければ、これまた存分に。



 どうして、そんな「イイカゲンニシロー!」と言われかねないような生活が「よい加減」なのでしょうか。



 板倉さんが作った別のことわざ・格言に「できないおかげで、できもする」というのがあります。



 私を例にしますと、大学教員として「自分は能力がある」と思ったことは一度もありません。僕は、他の人が書いた論文や学術書といったものをスラスラと読んでいけないのです。でも、そのおかげで、ちんぷんかんぷんな難しい講義ではなく、8〜9割の学生諸君が「楽しかった」「ためになった」と評価してくれる授業ができるようになったと思っています。板倉さんは、「何かができないというのも能力のうちだ」という、たくましい生き方もあると言います。



 不登校の子どもは、学校に行くことが「できない」のです。でも、そのおかげで、学校に行っている子には「できない」、たくさんのことが「できる」のです。



 時間はありあまるほどですので、不登校の子どもたちは、家でいろんなことをします。たとえば、共働きの家庭では、両親が出かけた後に起きてきて、朝お母さんが用意していったものを食べたりもしますが、そのうち自分で料理をはじめたりします。不登校をきっかけに料理が得意になる子は少なくありません。



 時間はいっぱいあるのでテレビをよく見ます。アニメやバラエティ番組だけではありません。ワイドショーやニュースも見たりして、世界や日本の社会の動きにも詳しくなってきます。親は忙しいのでそんなに見ていられませんが、子どもから「ああだった」「こうだった」と教えられたりもするのです。



 不登校の子どもには、普通に学校に通っている子にはない世界が広がっているのです。パソコンやインターネットにも強くなっていきます。漫画に夢中になることもあるでしょうし、テレビゲームでも存分に遊びまくります。「そんなに遊んでばかりでイイの?」と思われるかもしれませんが、いいのです。全然、心配はいりません。



 絵本作家の五味太郎さんは、「だいたいの親は子どもに集中力をつけさせたいと思っているのですが、ファミコンに関しての集中力は認めません」と皮肉っています(講談社『大人問題』)。そうではないですか?



 子どもは(いや、大人だって)面白いことには集中できるのです。もし、つまらない勉強に「集中」できているとしたら、そちらのほうを心配したほうがいいくらいです。ゲームをクリアするためには、頭脳を活発に働かせなくてはいけません。精神を集中すること、創意・工夫や冷静さ、そして根気も必要となってきます。とても大事な能力を培っていると思いませんか。



 もちろん、ボーっとしている時間も大切です。そうしたときもあるから、集中するときには、集中することができるのです。



 家で、時間などにしばられずに好きなようにすごす。ゆっくりと休みたいときには休み、存分に遊びたいときには遊ぶ。そんな「いい加減」な生活がよいのです。「規則正しい生活」(いったいどこが正しいのだろう?)では、家でも息がつまりそうになってしまいます。子どもの気持ちは安らかになりませんし、明日への英気も養われません。



 子どもだけでなく、親も「いい加減」がよいのです。「わが子がとうとう不登校になった。親の私がしっかりしなければ……」などと思うようではまだまだです。しっかりしなければいけないのは、「そういう子どもの状態はいけませんよ」という外からの余計なお節介に対して、わが子を守らなくてはならないということだけです。



 五味太郎さんは、「子どもたちをどう育てるか、どう導くかなんて考えないで、いっしょに暮らせばいいんだ」と言っています(「五味太郎の教育論」クレヨンハウス『月刊子ども論』1995年3月号)。



 親がわが子を経済的に養っていることは当然ですが、もし「子育てもすることができる」なんて考えているとしたら、ちょっと違うのではないでしょうか。ましてや「教育する」「導く」なんていうことでしたら、「とんでもないことをお考えですね」と思ってしまいます。



 でも、「いっしょに暮らす」ことなら、誰にでもできます。親子が、家族がどうしたら楽しく気持ちよく、毎日を暮らすことができるのか。その秘訣はなんでしょう。「いい加減はよい加減」、ではありませんか。


 


 最後にだますのは自分
     ─ 大人も子どもも、「他人の評価の影」におびえない ─




 「他人にだまされる」ことがありますが、板倉さんは、それはよくよく考えてみると、「それを信じたい自分が、それを疑おうとする自分をだました」というのが普通だと言います。
自分をだますのは他人だけではありません。自分が自分をだますのです。しかも、「最後にだますのは自分」なのです。そこで、自分にだまされないようにすることのほうがよほど大切だということにもなります。



 親御さんのなかには、親の会に何度か参加するようになって、「今では不登校も認めることができます。不登校のわが子を受け入れています。でも、おじいちゃんやおばあちゃん、そして親戚や近所の人たちがうるさいんです。困っています」とおっしゃる方がおられます。たしかに、そういうことは少なくなく、ちょっと困ってしまうこともあるでしょう。



 でも、ちょっとではなく、そのことでとてもお困り、お悩みということでしたら、どうしてそうなのか、少し冷静に考えてみる必要があります。



 そうした場合は、親御さん自身が本当に不登校を肯定的に認めきれているのかどうか、どうもそうではない、ということが必ずあってのことではないかと思います。


 一方には、いろいろと勉強をし、他の親御さんの考えや体験も聞いてきて、「不登校もOK!」という自分がおりますが、もう一方には、まわりの大人たちと同様に、「不登校はオカシイ」「やっぱりできるものならば、わが子も学校に行ってもらいたい!」という自分もおりませんか?


 その二つの間で、親御さんが揺れているわけです。


 「学校に行ってもらいたい」という(かつては100%そうだったでしょう)後者の自分が頭をもたげて強くなってきたとき、すでに無意識のうちに、「学校には行かなくてもよい」という前者の自分をだまし始めているのです。



 そうしたときは、まわりからの「お節介」がとても気になってしまい、「私だって子どもが行けるようにと努力してきたし、いまだってそうだ。誰も私の辛さがわかってくれない!」と深く悩んでしまうのです。



 しかし、この場合は明らかに、軸足を子どものほうに置いていません。まわりと事実上いっしょになって、わが子の現状を嘆いています。



 そうではなくて、「うちの子は学校に行きたくないんだなー」「私だって、もし今、子どもだったら、行きたくないだろうし、行かないかもしれない」とわが子と同じ立場に立つことができれば、まったく違ってきます。



 まわりの「お節介」もさほど気にならなくなり、さらりと「無視する」こともできるようになります。親である自分だって理解するのに時間がかかったのだから、わが子に「おじいちゃん、おばあちゃんも、もう少し時間がかかるかもねぇー」と言って会話することもできるでしょう。



 人は誰しも、自分に対する他人の評価が気になります。「まったく気にならない!」などと剛毅なことを言う人もいるでしょうが、実際のところはどうかあやしい。私たちは、いつも他人の視線が気になるのです。



 たとえば、ある方が、相談の折りに「私のところは田舎なので大変なんです。近所が不登校なんてとんでもない!という雰囲気で、とても辛いんです」とおっしゃっていました。きっと、「あすこの家はオカシイ」とか「親も子も問題だ」などといったうわさもあるのでしょう。



 そのようことで辛く感じられているのでしょうが、ここで考えてみたいのは実際のところはどうなのかということです。立場を逆にしてみてはどうでしょうか



 じつは、私たちもときに他人のことを噂したりすることがあります。でも、それはほとんどが一時のことで、しかも深く考えてのことではありません。自分のことはずっと思い考え続けたりもしますが、他人のことでそうなることはめったにありません。田舎であろうがどこであろうが、当人と他人は違うのです。当たり前の話ですね。でも、その当たり前のことが「最後にだますのは自分」で、わからなくなってしまうことが往々にしてあります。



 つまり、ここでも、「田舎だから大変」と思いたい自分が、「田舎であっても他人は他人」と思う、もう一人の自分をだましているのです。


 板倉さんは、「私たちは、他人の評価の前におびえているようでありながら、本当は自分で勝手に思い描いた「他人の評価の影」におびえているに過ぎないことが少なくない」と言います。何に「おびえている」のかと言えば、それは「他人の評価」そのものではなく、「自分で勝手に描いた他人の評価」つまり「影」だと言っているところがみそです。



 不登校の子ども自身についても、そのことで悩んでいる場合には同じことが言えます。
 「みんなは、僕(私)のことをイイと思っているはずがない!」という自分自身の意識に一番苦しめられているのです。今は情報化社会ですので、子どもも、「不登校は悪いことではない」という考え方をまったく知らないわけではありません。しかし、そう思う自分をそう思わない自分がだまして、「やっぱり自分はダメな人間なんだ!」と自分を責め苦しめているのです。



 ところで、他人はどうかというと、たしかに不登校に理解がある人は多くはないのですが、「○○君も学校に来られるようになったらいいのにねぇー」といった程度で、少しは「彼は弱いのかな」くらいには思ってはいても、「○○君がダメな人間」とまでは全然思っていないわけです(不登校を治療の対象にしている「専門家」は違いますが)。



 このように他人はそうではないのに、子どもも自分をだまして、「他人の評価の影」におびえているのです。



 そこで、「他人の評価の影におびえない」という発想法が、大人のみならず子どもにとっても大切なものになってきます。



 私自身は不登校や引きこもりの経験はないのですが、相談にのるようになってから、じつは「自分も高校時代などは同じだったなぁー」とよく思い出すようになりました。親御さんを通してですが、子どもさんの状態を「今は家で、こうです、ああです」と聞く度に、忘れていた僕自身の少年・青年時代の記憶がよみがえってきます。僕も、気にしなくてよいことをどんなに気にしていたことか、「うまくいかない」と言ってどれほどイライラしていたことか、そしてそういう自分自身に一番腹を立て、ときに切れていたことか。



 不登校であろうがなかろうが、引きこもっていようがいまいが、同じく人間ですから、考えたり行動したりすることに、基本的なところで違いはありません。違いがあるとしたら、多少の程度の違いだけです。そして、それはどこからもたらされるのかと言えば、やはり「不登校はオカシイ」「まして引きこもりなんてトンデモナイ」といった、自分自身のなかにもある偏見と色眼鏡からです。



 「他人の評価の影におびえる」ことがなくなれば、また「最後にだますのは自分」ということに気がついていけば、そういった「程度の問題」が解決するのも時間の問題と言ってよいでしょう。そのポイントは、自分も他人もそう変わらない存在だと思えるかどうかにあると思います。



 板倉さんの文章を一部引用して、この節を終えます。



 そういえば、私たちは「いつも他人を意識しながら生きている」と言っていいようです。
「こんなこといったらみんなに笑われる」などと考えて、私たちはどんなにか自分の言葉や行動を慎んでいることでしょう。



 ところが、私たちが「他人はみんなこう考えている、こう思っている」と思い描いている他人というのは、必ずしも本当の他人の姿とはいえません。私たちは他人のことを思い違いしていることが少なくないようです。たとえば、とかく〈他人というものは自分のようにデリケートでない存在〉のように思い描きがちですが、他人だって自分とはあまり変わらない存在なのです。そういうことを知ると、私たちはそれまでよりもずっと自由に、自信をもって振る舞えることができるようになります。
(『新哲学入門』198〜199ぺ)


 


 負けるが勝ち
    ─ 親は子どもに降参し、謝って、「ありがとう」と言えるか ─




 「負けるが勝ち」とは、昔から言われてきたことわざです。
 私は、このことわざについて、「大人は子どもに負けたっていいじゃないか」というふうに、不登校のことで考えてみたいと思います。



 大人が子どもに勝とうとしている限りダメです。「いや、べつに子どもに勝つなんてことは考えていない」とおっしゃるかもしれませんが、本当ですか? 



 いろいろと言い聞かせたりもして、かなうものならば、わが子には「こうあってほしい」「ああなってほしい」と思っていらっしゃいませんか? そうだとしたら、それはまさに勝とうとしていることです。



 学校に行く・行かないも、そして不登校にともなう生活のありようも、子ども自身のことなのですから、それらはすべて子どもの意思と選択に委ねなければなりません。



 子どものしたい放題、なすがままで、基本的なところは全然かまわないのです。そのことを認めることができずに、親がいわば勝とうとして、親の考えや期待を子どもに押しつけるようでは、ことがうまく進んでいきません。



 そうしたことのうち、まず学校に行く・行かないという点で、板倉さんは、「登校拒否は明るい話」なのだから、このへんで「もう子どもたちに降参したらどうですか」とも問題を提起したのでした(板倉聖宣『教育が生まれ変わるために』仮説社、1999年参照。初出論文は1997年)。



 ここでは話を先に進めて、不登校後の子どもの状態について、よく聞く親御さんの悩みなどにお答えする形で私の考えを述べます。



 親の会に何度も、また何年も参加するようになって、親御さんのなかには、「もう自分はかつての自分とは違う。学校や学歴などにはまったく囚われなくなった」とおっしゃる方がおられます。実際、その言葉は本物です。その点では揺らぎもありません。しかし、「でも」とおっしゃって、「子どもがなかなか元気になってくれないのです」「いつになったら……」などと続けられるのです。



 このようにおっしゃる親御さんは、不登校自体を肯定できるようになったという点では大きな進歩なのですが、子どもさんの今、現在の状態を否定的にみているようでは、じつはまだまだなのです。



 板倉さんの別の〈ことわざ・格言〉に、「どちらに転んでもシメタ」というのがあります。



 AとBの二つの可能性があって、Aに「なってほしい」と思っていたときに実際Aになれば、ただ「よかった」ということで気づかないのですが、「なってほしくない」と思っていたBになったときも、じつは多くの場合、残念に思うようなことではないのです。BにはBの良さが、必ずと言っていいぐらい、そこにはあるのです。そのことに気づかないだけです。



 不登校もその好例の一つで、学校に行っても行かなくても、それぞれに良いことがあります。「どちらに転んでもシメタ」とは、どんな変化のときにも(変化がないことも含めて)、自分にとっていいチャンスになっている、「シメタ」と考えられるはずだという発想法です。



 上の例でいえば、子どもさんが元気になったのであれば、もちろんそれは結構なことですが、まだそうなっていなくても、それはそれでまたよいことなのです。親も子どもも、まだまだ味わうべき課題がそこにあるということです。



 だいたい、先の親御さんの話は悩みとはいうものの、じつは虫のいい話です。「お父さんやお母さんは変わった。だから、お前も変われ!」「もう学校なんかに囚われないで、元気になれ!」と言っているようなものです。それは、子どもの側からすると、「以前は、さんざん学校に行け!勉強しろ!と言っていたのに、今度は学校、勉強なんかどうでもいいから、元気になれ!と。親なんて、勝手なものだ」いうことになります。まったくその通りで、親の考えを子どもに押しつけているという点では、全然変わっていないわけです。



 たとえ、そうではなくて、親がもっと変わりもっと進んで、わが子が「今、元気でない」という状態も肯定的に見られるようになったとしても、では、子どもが元気になるのかと言えば、そう簡単にはいきません。



 「親が変われば、子どもも変わる」とは言うものの、そうは問屋が卸さない。



 人は他人から変えられてはなりません。が、しかし、人は変わることができます。それは、自分自身でそうなるのです。親もそうだったように、変わるときは子どもが自分自身で変わっていきます



 子どもは、今、「このままでいい」と思う自分が、「いや、いけない」と疑っているもう一人の自分と闘っています。その闘いは、どんなに辛く苦しいものであっても、子ども自身の課題です。親であれ、誰であれ、代わってあげられません。



 でも、親にはできることがあります。それが、子どもに「負ける」ということです。(子どもの言いなりになるということではありません。)



 かつて、学校に行かせようとしてそうさせることができなかったことばかりでなく、その後も、子どもの状態をどうにかしようとしたのですが、やはりできなかったのです。そうした親のいわば「敗北」をはっきりと認め、子どもをどうかしようとし、子どもに何かさせようとしていた、それまでの親の数々の悪行を「謝罪」することです。



 と言うと、「もう何度も謝った。それなのにわが子は、しつこく、しつこく言ってくる……」といった答も返ってきたりします。でも、それは、謝ったことにはなっていません。ここに至っても、なお、子どもの問題として捉えている発想が抜け切れていません。たしかに、子どもの問題、というよりも子どもの課題でもあるのですが、それは子どもが答をだすことです。親が子どもに答を求めることでは絶対ありません。親は、親自身の課題に取り組めばよいのです。



 「今のままの君で、いいんだよ!」と親が言ったところで、子どもはますますイライラをつのらせるだけです。子ども自身がそう思えていないときには、どんなにいい言葉も、やはり押しつけとお節介でしかありません。



 そうではなく、親自身の課題とは、子どものことではなく、自らのことを声にして、また形にして表し、自己確認の作業を続けることです。子どもには聞こえていようがいまいが、また見えていようがいまいが、わが子のおかげで、自分自身が変わることができたのですから、そのことを明らかにし、何度も自分自身を確かめていくのです。子どもと話す場合でも、子どものことではなく、親自身のことを一人称で語ることになります。



 そうすることができるようになったとき、親は、今度こそ本当に心から、かつての自分のありようを「謝罪」することなります。そこには、もちろん見返りの期待はありません。そして、そのときにはあわせて、子どもに、「お父さん(お母さん)は、変わることができた。ありがとう。君のおかげだ」と感謝の気持ちを必ず伝えてほしいと思います(最初、声に出して言えないのであれば、手紙やメモでもいいでしょう)。



 それに対して、子どもは、「なにを言っているんだ! どこが俺のおかげだ!」と怒りをあらわにすることもあるでしょう。しかし、親が以前とは確かに変わってきたことを感じとることは間違いありません。自分のこともかかわっているとはいえ、親のことですから、それほど腹も立たなくてすみます。



 毎月の親の会での他の親御さんの話を、家でも堂々と夫婦で話題にしたらよいと思います。なにしろ子どものことではなく、親自身のことなのですから、遠慮はいりません。「そんなことは、家で話さないでくれ!」と言われても、「あなたのことではなく、お父さん、お母さんのことだから」と言って、さらりとかわすこともできます。私たちの親の会が明るいように、夫婦の会話がこうしたことでも明るくなったとき、「俺の辛さや苦しさも知らないで、この親どもはいい気なものだ!」とも思っているかもしれません。



 でも、そうした親のありようは、子どもが自己との闘いを存分におこなううえで、最大の支援になっています。



 これは引きこもりについての偏見との闘いでもあります。その偏見は子ども自身のなかにもあります。不登校を否定する不登校ならば、いくら学校を休んでも自分自身を休ませたことにならないのと同じで、引きこもることを否定する引きこもりは力になりません。



「家から一歩も出られないような自分はおかしい」と自身を疑っているもう一人の自分と、「いや、そうでないかもしれない。引きこもりは大切なことかも…」と思う自分がいま闘っているのです。



 存分に引きこもり、闘ってもらったらよいのだと思います。励ましの言葉などは、いっさい無用です。親は子どもに対して、子どものことでは何もしないということが、何よりの信頼の証しで、じつは大変なことをなしたことになっています。することと言えば、美味しいご飯をつくってあげれば、それで十分です。



 明るく、楽しいことだけが、我々に元気を与えてくれるわけではありません。辛く、苦しく、悲しいことだって、そのことを素直に自分が受け入れることができたとき、力に変わっていきます。



 作家の五木寛之さんは、喜ぶのと同じように、本当に悲しむことが大事なのです」「本当の悲しみを悲しむ、泣くべきときに泣く、心痛むべきときに心痛む、そのことで自分の〈体〉と〈心〉をいきいきと活性化していくことができる」「足もとに目を落としたとき、そこにくっきりとした濃い影がのびていれば、自分が背後から強い光に照らされているということに気がつくでしょう。上を見ることだけが光を探す手段ではないのです。同じように、胸を張って遠くを見ることだけが希望を見つけることではない。悲しいときやつらいときには、うなだれて肩を落とす。深いため息をつく。そうすることによって、自分を照らす希望の光の存在を、影が教えてくれるということもまた、ありうるのではないでしょうか。」と述べています(『大河の一滴』幻冬舎、1998年)。


 


10 石橋をたたいて堂々と渡る
     ─ 引きこもりも明るい話。今を大切に生きることは、
        将来の「今」も確かなものにする ─




 これは、昔からのことわざ=「石橋をたたいて渡る」に「堂々と」を加えたものです。



 板倉さんは、「何か始めるときは、十分に検討した上で、確信をもてるようになったら、恐る恐るではなしに、堂々と自信をもって始めたほうが、周りの人を勇気づけるにも効果的というものです」と述べています。



 主に引きこもりを例にして、そのことについて述べてみます。



 板倉さんは、ある講演の最後に、若者の引きこもりについても「明るい話に決まっている」「自分の息子や娘がフラフラしているのをちょっと見ていられないというのですが、あれは、見ているに値する、素晴らしいことかもしれない」「私はアンテナを張って、〈引きこもり〉の若者たちがどういうふうにして素晴らしい若者たちになっていくのか、一度には素晴らしくなりませんが、何人かの若者たちが素晴らしくなっていくことを、そういう生き方も出来るのだということで見ていこうと思っております」と話されました。



 引きこもりを主題とした講演ではなかったので、話は少しだったのですが、「時代が変わると素敵な社会というのも変わる」といった見方など、「なるほど」とうなずくことが多々あるお話でした(「今どきの教育を考える視点」『仮説実験授業研究会ニュース』2002年6月号)。



 では、どうして、引きこもりも「明るい話」なのでしょうか。



 板倉さんは、同じ講演のなかで「今の若者は幸せです。いつまで就職しなくても親が食べさせてくれるし、いつまでフラフラしていても大丈夫なのです。そういうなかで5年たち10年たつと、生きがいを見つけるということになるかもしれない。そういう社会が本当の社会であるかもしれないのです」と話していました。



 ところで、今の日本社会についてよく、「物質的には豊かになったけど、人々の心は貧しくなった」などと論じる人がおります。しかし私は、そうは思いません。まず、中卒でもすぐに働かなければならなかった、かつての時代と今の時代とではどちらがいいのでしょう。それは、経済的な暮らしの面では今の時代のほうがいい、というだけでしょうか。



 板倉さんが作った別のことわざに「衣食足れば、他人の笑顔」というのがあります。貧しかった時代には、みんないやでも働かなくてはなりませんでした。そして、いくら働いても食べられないときは、働くことがいっそういやになりました。しかし、今はそれなりの労働でも衣食が足りるという豊かな時代になってきました。板倉さんは、「余裕が出てくれば、多くの人々に喜ばれたいと思うのが人情というものです。物質的な喜びはある程度保証されれば、それ以上は食べたり着たりしてもあまり楽しくなりません。それよりも、他人に喜ばれたほうが楽しくなるのです」「(昔からのことわざである)’衣食足りて礼節を知る’よりいいと思いませんか」と、このことわざを説明しています。



 不登校は、まさに豊かな時代がもたらしたものです。子どもが元気に学校に通っていることも、もちろんいいことですが、親も子も不登校を肯定できたとき、家族にはどれほど笑顔があることでしょうか。家族はもちろん赤の他人ではありませんが、自分からみると確かに他者といっしょに暮らす生活の単位です。



 私たちの会では、8周年(1997年)の集いのときに「登校拒否でわが家は幸せ!」という題で二家族に体験を発表してもらったことがあります。その後も「不登校で幸せ!」といった家族がたくさんあります。



 不登校を肯定できたとき、「家族みんなが幸せを実感できる!」、これは本当に確かなことです。そして、そうした家族は文字通りの他人に対しても勇気をあたえ、多くの人たちから喜ばれるようになっているのです。人々の心も、豊かになってきていることの証拠のひとつではないでしょうか。



 引きこもりも同じことです。不登校に比べて偏見がいっそう広範にあるとはいうものの、不登校の子どもたちが「学校に行かないことは何もオカシイことではない」と偏見を打ち破ってくれたように、引きこもる若者たちも、今、社会に大きな問題を提起してくれているのです。



 人間、大人も子どもも、本来自由で、個人のありようについて、じつは「……しなきゃいけない」「……でなくちゃいけない」なんてことはないのに、多くの人がどれほど「こうでなくっちゃ」という固定観念に囚われていることでしょうか(若い人は、それほどでもありませんが)。



 「いい年になっても働かない」「いつまでも家にいる」「しかも外に一歩も出ようとしない」などと、否定的にしか引きこもりを見ていないのです。では、「働いてもらわないとお父さん、お母さんの収入ではやっていけないのですか?」と聞くと、「そうではない」とのこと。



 学校を終えたら働く、いい年になったら家を出る、といったことは、じつは貧しかった時代の社会常識にすぎません。豊かな時代になり引きこもりも可能になったという点からだけではなく、若者の引きこもりが、新しい個人の生き方、新しい家族のありようを提示してくれているからこそ、「明るい」のです。



 子どもが大きくなり家から出て行ってしまった後の、夫婦二人の生活も(また新婚時代にもどったようで)よいのですが、大きな子どもといっしょの生活もこれまた素晴らしいのです。それぞれが互いを認めあった生活は、じつに心地よいのです。



 わが家の場合は20代前半ですが、娘がいるのといないのでは家の活気が全然違います。いまの若者ならではの新しいセンスも実感できます。子どもたちが小さかった頃の家族も楽しかったけど、成長してきて大人になったわが子といっしょの生活がこれまたとても楽しいのです。



 「今は、それでいいかもしれない。しかし、将来はどうするのだ!」
 そうしたよくある問への、H君の答はというと、「将来のことは、その時になったら考えればいい」と。なるほど、若者の表現は、じつにあっさりとしていて、しかも的をついています。



 ところが、多くの人々、とくに大人は、なかなかそのようにはすんなりと考えられないようです。でも、「そんな状態で、将来はどうするのだ!」という言葉こそ、親や教師が家庭や学校でたびたび発し、要らぬ不安を与えて、子どもたちを苦しめてきた言葉の最たるものではないでしょうか。



 ジャン・ジャック・ルソーは、すでに二百数十年もまえに、そうした親や教師の対応を「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育」と批判しました(『エミール』1762年)。洋の東西を問わず、いまも昔も、大人が犯す間違いには変わりがないようです。



 未来は誰にとっても不確実です。確かなことは、いま、現在、私たちが生きているということです。私たちは、今日、今をよりよく生きるほかないのです。これは、なにも「明日の命も知れず」といった悲愴なことを言いたいのではありません。未来のことは、「明日は明日の風が吹く」と考えたほうがいい。それが正解ということが少なくないのです。



 板倉さんが作ったことわざに、「先の見えすぎお先まっくら」というのもあります。



「世の中には未知の事柄がたくさんあります。それなのに、自分の手持ちの知識だけで将来が見通せると思いすぎる人たちが少なくありません。先がまったく見えないと心配ですが、見えないはずのことまで見えているように思いこむと、たいていの人は「お先まっくら」に思ってしまいがちです。未知のことを楽観しすぎて用心を怠ってはなりませんが、「見えると思うことのほうがもっといけないこともある」というわけです。」



 ルソーが言った「わざわいなる先見の明」というのも同じでしょう。ルソーは、「一人の人間をいつか幸せにしてやれるというおぼつかない希望にもとづいて、現実をみじめなものにしている」と言いました。



 幸せは、遠くの未来にではなく、今、ここに、足元にあるものなのです。そうであるのに、板倉さんが言うように、「見えないはずのことまで見えている」と思い込んで「お先まっくら」と今を嘆き悲しんでいるのです。



 引きこもりも素晴らしいことなのに、その素晴らしさに気づかない人が今は大勢です。



 そういえば、1995年1月の阪神大震災のとき、丸4年も自室に閉じこもっていた息子さんが、その時を境に動き始めたということがありました。「家具が重なり合い、全部倒れた隣の部屋をかき分け2階から降りてきた。丸4年ぶりである。すべてに大きくなっていた。」「息子は、給水に、自転車で何度も行ってくれる。いちばん冷静な判断をして動いてくれたのは、何年も閉じこもっていた子。やさしく、たくましい。」(『登校拒否を考える会・通信』No.95、1995年3月号)



 人間、動くべきときには動くのです。



 不登校について理解を深めるイイ本があります。そのうちの1冊、『笑う不登校』(教育史料出版会、1999年)も素晴らしい本です(タイトルからして魅力的です)。不登校の子どもさんをもつ20人の親御さんが、本の副題に「こどもと楽しむそれぞれの日々」とあるように、それぞれの体験や思いを綴っています。肩肘を張ったような感じがまったくなく、じつに自然に不登校を楽しんでいる各家族が描かれています。それぞれの家庭状況はもちろん異なるのですが、「共通点がある」と前書きには次のように記されています。



 「私たちは、学校に行かずに家を中心に過ごしている我が子とともに暮らしている」「子どもを大人になるための通過地点としてとらえるのではなく、一人のひととして子どもを受け入れている」「あまり未来を思い煩うことなく、今、子どもと共にいることを大事にして暮らしている」「今を大事にすることは、将来どんなことに出会っても、その今を自分で受けとめていける心が育っていることだと思う」「いつも先のことばかり考えて、足元にある石ころにつまずいたのではちょっと悲しい感じがしますよね。」と。



 子どもが学校に行かないと将来が心配だと思う親御さんが少なくありませんが、この本は、「今を大切にしよう」と。今、家で子どもといっしょに楽しく暮らそうと。今を大事にして、そのときどきの今を積み重ねて行ったら、もっと先の「今」にも子ども自身がしっかりと関わっていける。



 これほど、確かなことはありません。
 確かなことがはっきりしてきたならば、板倉さんが言うように、「おそるおそる」ではなしに、「堂々と」自信をもって、この道を歩み進んだらよいのだと思います。






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最終更新 :  2012.4.28
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