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仮説実験授業研究会2004年冬の大会(1/4〜6、栃木県那須郡塩原町)発表資料


たのしい「生活指導」の課題
   ─ いつも笑顔でにこにこ ─


はじめに ─ 生活指導はむずかしくない ─


 10年以上前のことである。私が大学で仮説実験授業を本格的におこなうようになって(1988〜89年頃)から間もなく、生徒(生活)指導の課題について小論をまとめる機会があった。そのタイトルは「非行問題と教育法」であったが(エイデル研究所『憲法と教育法』1991年、所収。その抄録は私のホームページで読むことができる)、副題に「“荒れる中学”をどうする」と付けた。当時、非行や校内暴力など生徒の問題行動が頻発していた中学校が“荒れる中学”などと呼ばれ、マスコミで喧伝されていた。



 私は論文で、生徒指導の現状を批判するだけでなく、“荒れる中学”を、ではどうしていったらよいのか、生徒指導の課題を整理し明確なものにしようとした。



 私は大学の教員になって(1976年10月)直ぐにと言ってもいいほど、早くから講義で仮説実験授業を取り上げ学生に紹介してきている。しかし、初めの頃は授業書の一部をプリントし学生に配布しても、口頭でちょっと説明して終わりといったものだった。



 しばらくして、問題に予想を立ててもらい若干の実験もするようになり、学生の好評をえた。だが、まだまだ本気になれなかった。私が本格的におこなうようになるのは、仮説実験授業の入門講座に参加して「授業書」の素晴らしさを実感するようになってからである。



 また、当時「子どもの人権」の問題に強い関心をもっていた私が、板倉聖宣さんの著作を読み始めて、「仮説実験授業は最も子どもの人権を大切にしている授業理論でもある」ことを知ってからである。



 そうこうして十数年前には「たのしい授業」と「子どもの人権」が二大関心事となっていた。そうした私には、とくに難しいと言われていた中学校での生徒指導も、何も難しいことはないと思われた。難しいという人たちにあっては、問題の整理がなされておらず取り組むべき課題が明確になっていないから「難しい」だけの話である。



 私は、上記1991年の論文の中で、教師が力を入れて指導すべきことと反対にすべきでない(してはいけない)こと、また大目にみてもよいことと逆に軽んじてはいけないこと、生活指導をおこなう諸問題には「軽重」があることなどを明らかにしつつ、生徒の問題行動に介入する枠組みと具体的な指導方法について論じた。この論文はいまも私の生徒(生活)指導論のベースになっているものである(一部、表現を改めたほうがよい箇所もあるが)。



 その後、1998年4月『たのしい授業』臨時増刊号(No.196)として、「たのしい生活指導」が刊行された(翌年単行本にもなったので、以下、仮説社『たのしい生活指導』という)。



 これは、私の講義に新たな活力を与えてくれるものだった。なにしろ、題材に事欠かないほど生徒指導の実例が豊富で、かつ「たのしい生活指導」という考え方が素晴らしかった。教職課程の授業では、以前から子どもの人権の考え方をもとに生徒指導のあり方についても講義してきていたが、学生に最初に配布するプリント・講義概要(シラバス)に「たのしい生活指導」と明記するようになったのは、このときからである。



 2002年8月のことであるが、鹿児島県教委から委嘱された教育職員免許法認定講習(2種免→1種免など)の講師(形式は県教委の委嘱だが、担当者は実質的に学部で決まる。他の講習・研修会も含めて、私への行政からの直接の講師依頼はこれまで一度もない)も4年目となり、3日間計15時間の講義(「教育学V」。教育の内容・方法に関する科目)を、「たのしい授業」と「たのしい生活指導」をほぼ半々におこなった。



 「生活指導」について、現職教員に対してまとまった形では初めて講義をしたのである。同じ講義には違いないが相手は学生ではない。はたして現職の人たちに受け入れられるかどうか。



 結果は学生への講義以上に大好評で自信を深めた。
 例年、講習は好評であるが、このときの受講者はちょうど200人で、相当な多人数にもかかわらず講習全体を通した「たのしさ度」「ため度」の5段階評価は、1、2のマイナス評価はゼロ、3は1〜2人、ほとんどの人が5と4という高い、うれしい評価結果であった(詳しくはこちら→2002「生活指導」レポート)。



 「たのしい授業」をおこなっている教師には、生活指導も難しくはない。
 難しくないどころか、これも「たのしく」行なうことができる。
 


 以下は、「たのしい生活指導」について、これまで私が講義で話してきたことをいくつか重点的に紹介したものである。板倉聖宣さんの発想法や仮説社「たのしい生活指導」から学んだことが一番多いが、それらも含め、またルソーの教育論や法律論なども踏まえて私なりに論を展開している。自信はあるが、現時点では私の「仮説」にとどまるものであろうし、また思わぬ間違いもあるかもしれない。そこで、ご感想やご意見、ご批判をいただけたら幸いである。




1 生活指導は「いい加減」がよい ─ 理想を掲げて妥協する ─


 「たのしい生活指導」ということでその事例は?と問われれば、私は真っ先に仮説社「たのしい生活指導」のなかの飯塚英正さん(東京・中学)の記事「服装違反は“キビしく指導!!”」をあげる。



 この記事は飯塚さんが以前の勤務校での話を短くまとめたものであるが、じつに痛快でたのしい。同僚の教師から「あなたのクラスの生徒が服装違反している。あなたから注意してほしい」と言われたらどうするか。



 飯塚さんは「どういう服装をするかは生徒が自分で決めることだ」という考え方だが、職場の人間関係もあるので、「じゃあ、キビしく指導しておきます」と答えた。実際、飯塚さんは「服装違反」の生徒を呼び出し、「違反」の事実などを確かめた後、「キビしく指導」をした。



 「服装違反は、厳しく指導・・・することになっていますので、キビしく指導します。いいですね。キビしく指導しましたよ!」



 生徒はこれに「ハーイ!」と元気に返事する。
 飯塚さんがさらに「深く反省しましたか?」と続けると生徒はやはり「ハーイ!」と元気がいい。生徒は「深く反省した」ので、飯塚さんの指導も「じゃあ、終わり!」と終える。



 この指導のいったいどこが「キビシイ」のか。ちっとも「厳しく」ないと思われるかもしれないが、じつに「キビしく」もある(半分カタカナ、半分平仮名なのも、味わい深い)。



 だいたい、頭髪だとか服装だとか、生徒からすると飯塚さんも言う「余計なお世話」でしかない、くだらない「校則」が学校にはまだまだ多くある。そんなものを生徒に押しつけ強制するのはおかしい。生徒個人のことなので、生徒各人の自由でよいのだ。実際、生徒個々人は、その考え方で頑張ることもできる。



 教師もそれで頑張ろうと思ったら頑張ることもできるが、多くの場合、私は薦めない。生徒と教師の立場は違う。生徒は縛られてはいけないが、教師は「違反には厳しく指導・・・することになっている」学校という組織に縛られている。



 「生徒の服装は自由であるべきだ!」という考え方は、たしかに素晴らしい。文部科学省も相当以前から校則の見直しを指導しているのだから、ときに正面突破もよい。その考え方で労せずしてやれそうなときはやる。



 だが、多くの場合簡単にはいかない。職場には、くだらない「校則指導」に熱心な生活指導主任や同僚が今も少なからずいる。その理屈は、おかしいといえばそうなのだが、まったく説得力がないかといえばそうでもなく、一応の「論」にはなっている。



 「論」と「論」のぶつかりあいは消耗である。へたに頑張れば、生徒たちのことを思った主張であっても、その生徒たちから足元をすくわれることだってないとは言えない。そんなことにでもなれば、同僚だけでなく肝心な生徒まで信用できなくなる。これでは、何のための頑張りだったかもわからなくなってしまう。そんな頑張りはしないで、もともと「校則違反」の指導などは、くだらないことなのだから「いい加減」にやったらいい。



 板倉さんの発想法のひとつに、「くだらぬ仕事は改善せず」とある。「くだらぬ仕事をなくすのはいいが、改善しようとするのは如何か」との問題提起を含んでいる。さして重要でもないことには一生懸命にならないほうがいいということである。



 生活指導は、多くの場合、「いい加減」に「テキトー」にしたらイイ! 「いい加減はよい加減」なのだ。その好例のひとつが飯塚さんの指導である。



 このあたりの私の講義について、毎期、少数だが「そのような指導では、校則違反がなくならないのでは?」との疑問を授業感想文に書く学生がいる。学生時代からすでに、将来一生懸命に「校則指導」をおこなう教師を夢見ている、なんと「真面目な」学生もいたものだ。この場合はそうした学生の「理想」がそもそも問題である。だが、学生のなかにもいろいろな考えがあっていいので、あまり深入りはしない。



 大多数の学生は、自分の生徒時代をふりかえっても「校則指導」に良い印象はない。そこで、自分が生徒の立場でされたくなかったことは、教師になってもしない。「したくない(されたくない)ことはせず・させず」が多くの学生の理想である。



 だが、その理想は簡単には実現しない。学校の教員であるがゆえに、立場上しないわけにはいかないことが少なくない。そこで大切なことは、理想が直ちに実現しそうもない条件のもとでは妥協を否定しないことである。部分的であれ理想を実現するためなら、いくらでも妥協してかまわない。



 飯塚さんは、「キビしく指導」をした。そのような指導をするようになってから、以前は「頭痛のタネ」だった生活指導が「何となくおもしろおかしいもの」になってきたと飯塚さんは言う。ときに生徒のほうから「キビしい指導のリクエスト」まであり、生徒とのイイ関係もうかがえる。「飯塚さんは妥協して見事に理想を実現している」と言える。指導しているようで指導していない。いや、指導していないようで、ちゃんと指導しているではないか。



 でも、また違反の生徒が出てきて同僚から「注意してください」と言われたらどうするか。やはり「キビしく指導」すればよい。それでもまた、言われたら。さらには「先生!本当に注意したんですか?」と言われたら。「おかし〜な? この間、キツク、キツク言ったんですよ。まだ直っていませんでしたか? ワカリマシタ! もう一度、キビしく指導しておきます!」と答えたらいい。



 「キビしい指導」を受け、自分たちが信頼されていることがわかる生徒は、理解ある教師を大きくは困らせない。だいたい、くだらない「校則指導」が大好きな教師は、他の生徒のことにも「熱心」であるから、その生徒のことはやがて忘れる。生徒とはイイ関係ができ、同僚とも関係が悪くならない。こんな「たのしい生活指導」をやらない手はない。




2 生活指導をおこなう諸問題には軽重がある
 ─ 優先順位を逆にしてはいけない ─



 仮説社「たのしい生活指導」に、計100字にも満たない小さな記事であるが、「起立・礼をビシッとやりたいと思っておられる方、号令の後に子どもに「ビシッ!」と言わせるとビシッとなる。これ、妻が実践中。(私は起立・礼はやりません)」とあった(初出「たの授」No.11、1984.2「はみだしたの」)。おつれあいさんが実践中の「ビシッ!」。これを毎日、毎回のようにするのはどうかと思うが、どうしてなかなか楽しそう。とくに、学校全体の雰囲気が整然としていて硬く、それをことのほか喜んでいらっしゃる管理職がいるところでは有効かと思う。



 まじめ腐ったような「起立・礼」の後の「ビシッ!」は笑える。ときに、ここぞというときに、「ビシッ!」とやったらいいと思う。管理職はこれをあてつけと取るかもしれないが、そうしたときは「そうではありません。私のクラスがキチッとしていることをお見せしたかったのです」と真顔で答えたらいい。子どもたちとは、「ビシッ!」を心から楽しんで、これをおこなう。



 先の服装のことやこうした挨拶についての「指導」は、なんらかの形でおこなわなければならないとしたら、たのしく行なう術が他にもいろいろとあるだろう。



 ところで、こうしたことは「まったくどうでもいいことだ」とまでは言えなくても、数ある問題のなかでは、軽いほうの問題である(原理的にはそもそも問題とはいえない「問題」も多い)。
そうだからこそ「いい加減」な指導こそ、「よい加減」の指導だと言うことができる。



 ところが、たとえば「いじめ」問題のように、生徒の「安全」や「安心」にかかわる問題、ときに「命」のことまで心配しなければいけないような問題についてはまったく違う。これは軽んじてはならず、適切に対処しなくてはいけない。こうしたことについて、生活指導を「イイカゲン」「テキトー」にしてはいけないだろう。



 だが、この「軽重」がわからず、取り組むべき問題に取り組まないで、反対に取り組まなくてもよい(あるいは「テキトー」でよい)問題に血道をあげている学校・教師が少なくない。問題には優先順位があるのに、これを逆にしているのである。



 私の場合、以前から「子どもの人権」の問題にも関心があり、1990年代半ばころまで鹿児島県内でも相次いだ中学生のいじめ自殺事件を調査する機会が度々あった。



 なかでも、「知覧中いじめ自殺事件」(1996年9月18日)については遺書が残されていたこともあって、手がかりが多く、調査を通して相当程度に事件の真相に迫ることができた(2001年2月に、書証として鹿児島地裁に提出した同事件に関する私の「陳述書」は、400字詰め約100枚の力作である。なぜ一人の中3男子生徒が死ななければならなかったのか、事実を積み上げ、事件の構造を明確にしている。陳述書はこちらで見れます。→ 裁判は2002年1月に勝訴)。



 この知覧中もそうだった。問題の「軽重」についてまったく自覚がなかった。不要・不急の問題について「余計な世話」をやく一方で、「暴力・暴行」について見て見ぬふりをし、これを学校中に蔓延させた。



 では、問題の「軽重」や「優先順位」について、よく自覚した生活指導とはどのようなものか。私は、仮説社「たのしい生活指導」のなかの小沢俊一さん(東京・中学)の記事を例としてあげたい(「机のイタズラ書きをやめていただくお説教」)。



 小沢さんは、美術室の机へのひどいイタズラ書きをなんとかしなければいけないと思って、小原茂巳さんの「お説教」の仕方に学んで、全校朝礼で話した。



1 まず、多くの人には無関係の話だけどつきあってくださいと言って、「事件に直接関係のない一般の生徒にあやまる」。


2 次に、苦労している、困っていると「率直に教師の気持ちを述べる」。


3 また、自身にも経験があると「イタズラ書きをした生徒の心理にも理解を示す」。


4 でも、みんなで使うもの、でこぼこ机じゃ絵もうまく描けないなど、「まずい点を伝える」。


5 さらに、「キムタクLOVE」とか「小沢先生ステキ」とか、そういうものだったらまだしも、「○○死ね」とか「○○むかつく」というのは人を深く傷つける。「一番やって欲しくないこと」と伝える。


6 最後に、再度やった生徒の気持ちにもふれながら、でも「確実に人を傷つける」し、教師も大変なので「これからはやめてほしい」と結論。



 この話は、途中の「小沢先生ステキ」のところでは生徒から笑いも出たというから、「たのしい」お説教の一面もある。小沢さんの話は、その順序や配慮が素晴らしく、何が問題なのか明確になっていて「会心のお説教!」と言える。同じくイタズラ書きであっても、そこには「まだしも」と大目に見られることと、そうではない「一番やってほしくない」「人を傷つける」ものがあることをはっきりとさせ、優先順位をつけて指導したところが素晴らしい。



 入江洋一さん(広島・中学)の記事(「子どもが窓ガラスを割った時」、初出「たの授」No.122、1992.12)も、「優先順位」の考え方が大切であることを教えてくれている。



 「ガチャン!」
 上の階から窓ガラスの割れる音。あなたならこんな時どうする?
 入江さんは、そのような問題提起に始まって、「さて、現場に到着しました。最初にかける言葉は何ですか?」と続ける。



 ア コラッ!!
 イ どうして割れたんだ?
 ウ だれが割ったんだ?
 エ その他



 入江さんの場合は、その他。そんな時、いつも最初にかける言葉は、これ。
 「ケガはない?」
 「〈子どもたちの安全を優先する〉という原則を最優先するというわけです」と述べている。




3 「子どもとイイ関係」(「悪くない」関係)が生活指導の最大の目標


 仮説社「たのしい生活指導」のなかに、小原茂巳さんが書いた文章がいくつかある。
また小原さんが書いたものでなくても、他の人が小原さんの発言や考えを紹介しているものもある。小原さんは、生活指導の最大の目標は、〈子どもたちとイイ関係になること〉(51ぺ。)だと言う。



 その大前提でもあるが、「〈最悪の関係になることだけは絶対に避ける〉という目標」に従って(20ぺ。107ぺも同趣旨)、おこなうことが大事だと述べる。



 すでに述べたように、生活指導をおこなう諸問題には優先順位がある(小原さんは、「規則違反にも序列をつけて、人に危害を及ぼしたり、人にイヤな思いをさせるものから正していく」とも言う)。



 加えて、優先順位があるのは問題についてだけではない。教師がなんらかの指導や対処をしなければならないとき、なにを目標として生活指導をおこなうのか。その目標にも優先順位があるのである。



 ところが、多くの学校での生活指導はこの点での自覚もない。
 先の入江さんの記事にもあるように、窓ガラスが割れたりすると、即座に「どうして割れたんだ?」「だれが割ったんだ?」と言ってしまいがちである。しかし、このような最初の一言は、子どもたちにケンカを売るようなものだ。〈子どもたちとイイ関係〉にならないどころか、〈悪い関係〉を教師の側から作っている。



 私は大学の講義で、板倉さんの発想法についてよく話す。
 そのひとつ、「イコールは等しくもあり等しくもなし」について、生活指導では「学校=デパート」の例をあげる。



 明らかに違うものであっても、ある点からみるとそれは同じというところにこそ等号の意味がある。学校にはいろいろな教科や部活動、そして種々の施設設備もある。デパートも百貨店という名の通りいろいろなものがある。そこが似ているというだけではない(学校のなかでも大学には、とくにいろいろなものがある。でも、ないものが一つ。それは学問だという、笑える、いや笑えない話もある)。同じくサービス業を営んでいるというところが肝心である。



 教育は間違いなくサービス業である。このことの自覚も学校現場にはあまりないが、ちょっとでも考えれば誰しも疑い得ないほど、これは確かなことである。サービス業はお客あっての商売である。学校のお客といえば、それは生徒、子どもたちである。



 デパートの各売場は、客に対してじつに親切、ていねいである。イイ商品を薦めはするが、けっして押しつけはしない。ところが学校というところは、「イイ」こと「悪い」こと、いろいろと平気で押しつけをする。サービス業ならば、絶対にしてはいけないことである。



 講義をしていて、仮説社「たのしい生活指導」に紹介されている、いろいろな事例に多くの学生が感心する一方で、「ちょっと生徒に気をつかいすぎではないか?」といった、やや否定的な感想も出される。だが、サービス業ならば、客への気遣い・気配りといったことは至極当然のことではないか。



 学生はアルバイトもいっぱいしている。飲食店でバイトする学生も多い。明らかに客の不注意によるものであっても、お皿やコップが割れたりしたとき最初にかける言葉はなにか? 「お客様、おケガはございませんか?」ではないか。まさしく接客業なのでさらに丁寧であるが、学校で窓ガラスが割れたとき入江さんが子どもたちにかけた言葉と基本は変らない。



 「そういえば、ちょっと疑問に思った自分たちもバイト先では同じなんだ」と合点がいったりする学生もいる。教育はサービス業であるという考え方に立てば、子どもたちへの気遣いや配慮は、じつに自然なことである。



 ところで、あらためて問いを発すると、教師はなぜ生活指導をおこなうのか?
 それは、そこに解決をしなければならい問題があるからでる。また問題の解決を通して〈教師と子どもたちとのイイ関係〉や〈子どもたち同士のイイ関係〉を作っていくためにおこなうものである。



 問題の解決であれ、〈イイ関係〉であれ、生活指導には目標があり、そのことを意識することの大切さ、さらにその目標にも問題に応じた優先順位があることを述べておきたい。



 先の小沢俊一さんの「会心のお説教」には、小原さんの「お説教」が手本としてあった。廊下に張り出されていた遠足のスナップ写真の何枚かが誰かのイタズラでなくなり、小原さんが学年集会で話したことがそれだった。小沢さんが真似したくなるほど小原さんの「お説教」はすばらしく、数日後写真は戻ってきて見事、問題も解決した。



 ここで注意してほしいことは、同じくイタズラであっても問題に優先順位をつければ、小沢さんが対処したイタズラ書きのほうがはるかに大きな問題だということである。「○○死ね」とか「○○むかつく」といった落書きは、子どもたちの「安全」や「安心」にかかわる問題で、放っておくことはできない。それに比べると、スナップ写真の問題は小さい。見本の写真がなくなってみんなが困ったことは確かだが、いよいよとなればネガが写真屋さんにはあるし、対処のしようがないわけではない。昼休みをつぶしてまで学年集会を開くようなことではない。しかし、小原さんが不在だったためすでに臨時集会開催のレールは敷かれていた。



 そこで小原さんは、「こうなったらしようがない」「1 喜ばれる話は無理としても、2 できるだけみんながこれ以上イヤな思いをしないようにしたいものです。そして、3 できたら、アノなくなってしまった写真が戻ってくるといいんだけどなー」(126ぺ。13の挿入と太字は内沢)などと考え、学年集会に臨んだ。



 私が番号を付し太字にしたところが、生活指導の目標にかかわるところである。
 1がいわば「イイ関係」、2が「悪くない関係」、そして3が「問題の解決」である。



 小原さんのこの例では、2の「悪くない関係」を最優先し、3の「問題の解決」を「できたら」と目標設定を低めにして、他の目標に優先させなかったことが大事なところである。写真が戻ってくることだけが目標ならば、教師らがいっせいに生徒の持ち物検査をすれば、あるいは出てくるかもしれない。



 だが、それは最初の問題に比べようもないほどの大きな問題をはらんでいて(明らかな生徒の人権侵害!「何人も所持品について令状なしに捜索・押収されることはない」といった趣旨の憲法第35条違反)、そもそも選択肢にあってはならない。



 そうしたことはしないまでも、くどくど長々「写真を返せー」「戻せー」と言うようでは、教師不信や生徒同士の相互不信をつのらせ、〈最悪の関係〉を作っていくようなもので、12の目標の自覚は皆無だ。



 こうしたとき、なかには「生徒になんか好かれなくてもかまわない。嫌われたっていい!」と心底思って、生徒を怒鳴り散らし、しつこく「説教」をし続ける教師もいることだろう。でも、そうした教師はごく一部だと思う。多くの教師の本心は違う。できるものならば、誰しも子どもたちと「イイ関係」でありたいと思っている。



 だが、実際の場面ではそのことを忘れる。ついつい言葉もすぎてしまう。問題への対処のことだけで頭がいっぱいになって、その問題がもたらした以上に子どもたちに嫌な思いをさせてもそのときは気づかない。後から、自分自身も嫌な気持ちになって落ち込んだりもする。それというのも、何のために、何を目標として生活指導をおこなうのかについて自覚がないからだ。



 子どもたちと「イイ関係」を作っていきたいのであれば、最優先されるべきはまず「悪くない関係」だ。指導の場面で子どもたちに嫌な思いをさせてはならない。問題の性質にもよるが、その問題の解決以上に、優先されるべき目標があることも少なくない。そういったことがわかれば、生活指導も変わってくる。見通しもでてくる。




4 他に害をおよぼす問題行動は「即妨げるが、指導は急がない」


 諸問題の優先順位や生活指導の目標が意識されていれば、生活指導は難しくない。
 問題に直面したとき、どうすればよいかもはっきりしてくる。



 これまで紹介してきた飯塚さんや小原さん、小沢さん、入江さんの例をはじめとして、仮説社「たのしい生活指導」にはすばらしい事例がたくさん紹介されている。が、それらの多くは個別的であるので、ここでは一般的に考えてみたい。問題のなかでも軽いほうではなく、重いほうの問題にどう対処すればよいのか。以下、私の考えを述べる。



 生徒の問題行動のなかには、その生徒個人の問題に止まらない他の生徒に害をおよぼすものがある。そうした問題にこそ、教師は介入しなくてはならない。いじめの問題がその典型だ。



 これは見過ごすことはできない。いや、「いじめ」というほどのことではない、ちょっとした「イタズラ」「ふざけ」「からかい」程度といったことでも(じつはそうでもないことが多い。後述)、そのことで困っている生徒が一人でもいれば、介入の必要がある。
 


 授業妨害もそうだ。これは教師への反抗という意味合いが大きいが、他の生徒の学習の妨害でもあるのだから、やはり放っておくことはできない。そうしたときの介入の原則なにか。その一般原則は、他に害をおよぼす問題行動は「即妨げるが、指導は急がない」ということではないか。



 人間は自由だ。自由であるべきだ。子どももそうだ。余計な束縛はあってはならない。しかし、その人間、子どもの行為にも束縛がおよぶときがある。それは、他に害がおよぶ場合だ。誰にも他人の自由を侵す自由はない(フランス人権宣言第4条「自由は、他人を害しないすべてをなしうることに存する」1789年)。



 学校で、ある子どもが他の子どもに害をおよぼしている、あるいはおよぼしそうなとき、教師がこれを即妨げ止めさせる。これは当たり前のことだが、妨げるだけでまずは十分だということが大事なところである。なぜならば、それで他の子は助かり「安心」でき、その場も落ち着く。



 教師の介入や指導の目標は、問題の解決にある。子どもたちの「安心」や「安全」がひとまずではあっても確保されれば、それは問題の解決といってよい。困っている子を助け、その場も落ち着かせることができる教師は、子どもにとって頼もしい存在だ。子どもたちとの、また子ども同士のイイ関係(悪くない関係)にとっても明らかにプラスだ。



 ところで、問題行動は即妨げる「が、指導は急いではならない」とは、どういうことか。多くの生活指導の失敗は、指導を急いだ結果だ。たとえば、ある子が他の子になにか悪いことをしたとする。そうしたとき、その行為を止めさせるべく、「今、何をしたんだ!」「そんなことをしていいのか!」といった注意の仕方をする。こうした対応が「指導を急いでいる」ケースにほかならない(言い方を「優しく」したところで同じだ。ときにいっそう嫌味でさえある)。



 たしかにその子は、悪いことをしたかもしれない。
 でも、した方にも言い分がある場合がある。また、いじめのときには、悪いことをしたのはその子自身の意思というよりも他から仕向けられている場合さえある。さらには、他の子になにかしたのも、そのことが必ずしも目的ではなく、教師の反応を試している場合だってある。そのようにいろいろとあり得るのに、どうして簡単に「悪い子だ!」と決めつけられようか。



 ジャン・ジャック・ルソーは、「エミール」(1762年)のなかで、「子どもの状態を尊重するがいい。そして、よいことであれ、悪いことであれ、早急に判断をくだしてはならない」と述べている。この「早急な判断」こそ、指導を急がせるもので、厳に慎まなくてはならない。



 急ぐのは、他に害をおよぼす行動を妨げることだけでいいのだ。
 ルソーは、「熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ。相手の行動をさまたげる場合を除いて、けっして急いで行動してはいけない」とも述べている。私が一般原則として述べた「他に害をおよぼす問題行動は即妨げるが、指導は急がない」ということも、元はと言えばこのルソー考え方に基づいている。



 問題行動を妨げる際の言葉は、「それはダメ! やめよう!」といった、簡潔なもので添える程度でいい。それだけで大体はわかる。「いや、この子はわかっていない!」と決めつけ、どうしてダメなのか、理由をくどくど言ってはならない。たしかにわかっていない子もいるだろう。でも、そうした子は、なぜ悪い行いなのかわからないからそうしている。その子を責めたてるような説教をするようでは、わかることもわからなくなってしまう。またわかってはいても、先に述べたような事情がある場合もある。そうしたとき、余計な説教はまったく意味をなさないばかりか、事態をさらに悪くしさえする。



 ルソーは、「子どもの言いなりになってはいけないが、逆らってもいけない」とも述べている。このルソーの言葉は、実際場面で「子どもを尊重する」とは、いったいどういうことなのか、そのことの深い理解をうながす名言ではないかと思う。



 子どもが良い行いをしているときは、普通そのことは意識さえしない。問題は、悪い、他に害をおよぼす行いをしているときにも、私たちはその子を「尊重する」ことができるか、ということである。



 その子が悪さをするのは、必ずと言ってもよいほどに事情がある。それはその子個人の事情か、友だちとの関係か、はたまた教師との関係か(さらにはいくつか合わさったものか)は直ちにはわからなくても、何かがあるからそうしている。その子の行為そのものは是認し得ないが、その子にもあるだろう事情を理解しようとする姿勢をもつことが「子どもの状態を尊重する」ということである。



 さて、問題はその先である。その子の「状態」にとどまらず、その子「自身」をも尊重するとは、どういうことか。そのひとつが「言いなりにならない」ことである。何かの事情があってのことでも、他に害をおよぼすようなことはやはり許されない。その子のしたい放題を認めないという対応が当然にも、そのことで困っている他の子を助けるために必要であるだけでなく、その子自身のためにも欠かせない。



 そして、もうひとつが「逆らわない」ことである。これは、その子の行為に対してではなく気持ちに「逆らわない」ということ、その子の気持ちは尊重しようということである。
 


 言い分や事情があれば聞いてあげればいい。たとえ相当おかしな言い分であっても言い返さない。せいぜい「それはどうかなー?」とちょっと言葉をはさむ程度にとどめ、「それで」と続きを聞く。



 このようなとき、教師が生徒に負けているようであっても全然かまわない(「負けるが勝ち」。板倉さんは、これを「極意といえる発想法」と言う)。なにしろ、教師の介入や指導の目標は、何度も述べてきたように問題の解決であって、子どもを言い負かすことではない。時間が許せば、ずっと聞いてあげて「うん。君が言いたいことはだいたいわかった。でも、他の人が嫌がることはやめよう」と、目標に照らした結論だけが通じさえすればよい。



 一番悪い生活指導は、子どもの気持ちに逆らって彼らと言い争いをすることだ。どんどんと「説教」はエスカレートし、はては彼らの人格そのものの否定にまでおよぶ。「おまえらは、どうしようもない!」「クズだ!」「本校のガンだ!」。教師は口だけでなく、手も足も出す。
散々先に殴っておきながら、生徒が一発返しただけで「とうとう本校でも対教師暴力が発生しました」と大騒ぎをし始める。



 職員室への乱入であれ、窓ガラスなど器物の損壊であれ、以前「荒れる中学」の様相をていした、いわゆる「校内暴力」にも、必ず引き金があった。それは教師が子どもの気持ちに「逆らった」結果でもある。



 一般の生徒はもちろんのこと、相当な「ワル」「ツッパリ」と見られがちな生徒らも、学校・教師にとっては大切なお客さんである。小原茂巳さんが述べるように、「“大人に失礼かな”と思うことは、子どもにもしない」(仮説社「たのしい教師入門」1994年、152ぺ)。教師は、他に害をおよぼす問題行動は即妨げるが、彼らの人格の尊厳を損なわない方法でこれをおこなわなくてはならない。



 ところで、これまで述べてきた私の考えに対して「問題行動は妨げるだけでいいの?」「もっと指導しなくていいの?」といった疑問もありそうなので、少し付け加える。



 この疑問は、「たのしい授業」に寄せられる「授業はたのしいだけでいいの?」といった疑問と似ている。そう言う人は、「だけ」と言うけれどその「たのしい授業」ができていない。同じように、「妨げるだけでいいの?」と言う人も、それができていないのではないか。問題行動を妨げ、これを止めさせる。このこと以上に優先させておこなわなければならないことは他にない。



 生活指導の諸課題を整理していけば、教師が本当にしなければいけないことはそう多くはない。仮説社「たのしい生活指導」のなかで、石塚進さん(東京・中学)が述べるように「(教師が)〈行動しない〉という行動にも意味がある」。生活指導には、「しない」ほうがいいことはたくさんあっても、「する」ことはそれほどない。もっとしたいのであれば、生活指導ではなく、「たのしい授業」をしたらいい。生活指導をおこなう際にも「教師と子どもの信頼関係が決定的に大事だ」(石塚さん)。
 その信頼関係を一番確実にするのは、たのしい授業だ。



 同じく佐藤正助さん(福島・高校)の記事のタイトルにも象徴的だが、「授業以前の問題」に見えるようなことも、じつはほとんどが「授業の問題」である。たのしい授業をして子どもたちとイイ関係を作っていく。「たのしい授業」といわないまでも、「イイ授業」をしないで、それこそ生活指導「だけ」で関係を作ろうとすることは、とんでもない思い違いだ。 




5 いじめは人権侵害、犯罪


 子どもたちの問題行動のなかでもいじめはとくに大きな問題なので、一項おこして述べる。いじめもこれを妨げやめさせるだけで十分なのだが、いじめをやめさせるために、また必要があれば急がずに時間をかけて理解をうながしていく、そのために重要だと思われることをいくつか述べたい。



 まず私は、いじめを人権の問題として捉える。
 教育界では以前から、いじめに対処すべく「子どもたちのなかにもっと思いやりの心を育てよう」と言われてきた。「思いやり」それ自体は結構なことだが、相手を思いやった結果がじつはいじめであった、ということも少なくない(「親切とお節介は紙一重」「悪事は善意から」。ときに「いじめの背後に正義あり」)。近年は「心の教育」のキャンペーンも盛んだが、いじめを漠たる「心の問題」にしてしまったのではアプローチのしようもない。これを人権の問題として捉えてこそ、問題の所在や対処法も明確になる。



 子どもたちも小学校6年になれば社会科で日本国憲法について、基本的人権についても学ぶようになる。人権とは、人間が人間らしく生きていくうえで不可欠の権利のことだ。子どもも当然その権利を持っている。生存権や自由権といった言葉も、それは学校生活において具体的にはどのようなことを指すのか、子どもたちにわかるようにしてあげたらいい。それは教師との関係でも問題になるが、ここでは子どもたちの間での権利や自由の問題に限定して話をすすめる。



 すでに述べたように、学校においては子どもたちの「安全」と「安心」が確保されなければならない。たとえば「学校に行くのが怖い」「休み時間や体育の着替えのとき、トイレ付近がとくに怖い」というようなことがあってはならない。当然のことだが、少々堅苦しく言うとそれは子どもの生存の自由が脅かされてはならないからだ。子どもたちの安全確保は学校・教師の第一の義務だ。



 また「人間らしく」と言うからには、こんにちではとくに人それぞれの「その人らしさ」が認められることが大切だ。積極的で活発な子、また反対におとなしい子、自己主張をする子、あまりしない子、協調性のある子、ない子、・・・みんな他に害をおよぼさない限り「そのままの君で!」(小原茂巳さん)よい。それが自由というものだ。個人のありようについては、他人の権利や自由を侵害しない限り、それらすべてに価値がある。その「あるがまま」を自然に認めあうことができる社会や人間関係こそ、真に自由だと言えよう。



 もう少し具体的にしてみる。たとえば、子どもが学校の勉強をする・しないも自由だ。「する」ことは誰もが認めるが、「しない」ことにだってじつは相当に価値あることだ。「学ぶに値する」ものがなければ「しない」ことは自然だし、それで平然としていられる子は大したものだ。それはともかく、勉強に一心不乱になっているからといってその子が「ガリ勉!」などと唱和されることがあってはならない。



 逆に勉強をしない、できないからといって馬鹿にされることもあってはならない。休み時間や放課後の過ごし方も、各人の自由だ。気の合う仲間同士でワイワイガヤガヤもちろんOK.だ。他方では一人で遊んでいてもいいし、ボーっとしていたってかまわない。部活動も各人、上手下手はあってもそれぞれがスポーツや音楽などを楽しむ権利をもっている。



 子どもたちの間では友だち関係がとくに重要だ。そして、この関係は結構変化する。ある時期親しかった友だちとちょっと疎遠になってきて、別に新しい友だちができたりする。大人の人間関係では日常茶飯のことであるし、子どもでも普通はそうしたことに何の問題もない。子どもたちには、クラス内で、またクラスや学年、部活を越えて、友だちを選ぶ自由がある。



 このように子どもたちに、「君には、君らしく、自分の自分らしさを大切にして自由に学校生活を送る権利がある」ことをわかるようにしてあげたらいい。「君がそうであるように、他の人も同じくその権利を持っている」。この他の人の権利や自由を認めないのが「いじめ」だ。それは間違いなく人権侵害だ。



 いじめの問題をこのように捉えると、対処もむずかしくはないと思うが、如何か。教師は個々のいじめ行為を妨げ止めさせるだけでなく、必要があれば急がずに時間をかけて、子どもたちの間に権利や自由の考え方を広め、根づかせていったらよい。(と言うと、「そんなに権利や自由ばかりを強調していいのか?」「義務のほうは何もないのか?」とおっしゃる人もいるかもしれないので一言。他人の権利や自由を侵害しないことこそ、子どものみならず、すべての人間の最も重要な義務だ。)



 とくに問題が起きがちな友だち関係のことについて、もう少し述べておきたい。子ども同士が自然に「仲が良い」のはもちろん結構だが、無理をして「仲良くしよう!」さらには「仲良くしなければ・・・」ということになってくると私は疑問符をつけざるを得ない。大人社会では、「仲が良い」関係だけでなく、「仲が悪い」関係もざらにある。それでも折り合いをつけてなんとかやっているのが、イイ意味での大人の人間関係というものだ。



 子どもだからといって「みんな仲良くしなければならない」と考えるのは、じつは教師らの勝手な思い込みにすぎない。その教師の偏見が子どもたちにも知らず知らずのうちに伝わり、「私たちはこんなにもアノ人のことを考えているのに・・・」といった形で、「仲良くしよう」として上手くいかなかった結果がいじめであったりするのだ。



 食べものの好き嫌いなら誰しも認めるが、じつは人間についても好き嫌いがあってもかまわない。現にあることを、人間の好悪の感情まで否定してはならない。



 示し合わせたような集団的な「ムシ」でない限り、気の合わない人とはつきあわないということがあっても全然かまわないのだ。「友だちを選ぶ自由」とは、そういうことも含んでいる(このあたりは、仮説社「たのしい生活指導」のなかの山路敏英さんの記事「もつれた糸」が参考になる。



 山路さんは、子ども同士の「仲が良い」また「仲が悪い」関係だけでなく、もうひとつ「関係ない」という関係も認め、「もつれた糸」をときほぐした。)友だちがたくさんいることもいいが、あまりいないことだっていい。他を気にせずに数少ない友とじっくり日々を楽しむことができる。さらに、友だちがほとんどいないことだってなにもおかしくない。「一人は良くない。孤独はかわいそう」といった見方も勝手な決めつけでしかない。「一人がいい」という子、一人遊びが好きな子が現にいる。



 このように子どもたちそれぞれの、様々なありようを教師が認められるようになることが決定的に大切なことだ。そうなれば、いじめへの対処も冷静におこなうことができるのではないか。



 ついでながら、いじめは人権侵害であるだけでなく、ほとんど犯罪でもあることも述べておく。日本弁護士連合会「いじめ問題ハンドブック」(こうち書房、1995年)には、次の記述がある。



 「いじめ問題に現れてくる具体的いじめ行為を検討すると、無視といった形態を除いて、多くは、刑法などに規定されている犯罪類型に形式的にはあてはまる。たとえば、悪口も度を越せば侮辱罪に、脅かし言葉も継続したりすれば脅迫罪にあたる。身体に対する攻撃は暴行・傷害罪に、ジュース・タバコを買ってこさせたり、金品を持ってこさせたり、万引きを強要することは、恐喝罪や強要罪にそれぞれあたる行為である。持ち物を隠したり、持って帰って捨ててしまえば窃盗罪に、壊せば器物損壊罪にあたる。」(70ぺ)



 先に子どもの問題行動を妨げる際、その理由をくどくど言ってはならないと述べた。言わなくてもだいたいはわかる。悪いことをしているから、妨げられるのだ。一般社会において許されないことが学校において認められてよいはずがない。そのことは子どもにも十分わかる。人を侮辱したり、脅かしたり、人のものを盗んだりすることがいけないことだということはわかる。けれど、ちょっとした「イタズラ」「ふざけ」「からかい」程度だという気持ちがわからなくさせている。そこで必要なときには、そうではないということを、そうしたことも社会では犯罪になり罰せられることを教えてあげたらいい。



 そのひとつである暴行について言うと、その範囲はとても広い。それは殴る、蹴るといったものだけにとどまらない。「暴行罪の暴行は、人の身体に加えられる力であるが、必ずしもその力が身体に触れる必要はない」「不法な(いっさいの)有形力の行使」を言う(有斐閣『法律学小辞典』)。過去の裁判例(同「判例六法」各年度版参照)なども参考にすると、子どもたちの間での次のような行為がすべて暴行に該当し犯罪にもなる。



・ 着ている服をつかみ引っ張る行為

・ 殴ったり、蹴ったりする意図がなくても、取り囲んだり、押さえつけたりして人を動けなくする行為

・ 驚かせる目的で、物を投げたりする行為(それが当たるか当たらないかは関係ない)

・ 椅子を持ち上げて脅かしたり、指し棒や掃除道具などを振り回す行為

・ 人の耳元で、突然「ワッ」と大声を出して驚かせる行為

・ チョークの粉や消しゴムのかすを振り掛ける行為




おわりに ─ いつも笑顔でにこにこ ─


 すぐ前のいじめの項で述べたように、子どもたちは他に害をおよぼさない限り100パーセント自由だ。「そのままの君で!」よい。「たのしい授業」派の教師は、その授業を通して「子どもたちのそのままの素晴らしさ」に気づくが、教科書の授業しかおこなわない多くの教師は、なかなか「そのままでよい」とは思えない。



 建前ではなんと言おうが、勉強をしない、勉強ができない子は「ダメな子」と本音では思っている。また友だちが少ない子は「かわいそう」と勝手に思い込んでいる。それというのも、そうした教師の視野が狭く、いろいろなところで固定観念に囚われ、これまでの「常識」に縛られているからだ。



 例をあげてみたい。小学校学習指導要領「道徳」の内容の一つに「自分の特徴を知って、悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす」(5・6学年)とある。私も妥協を拒むものではないので、「短所をあらため、長所を伸ばす」という「常識」を一般論としては、これを認め否定はしない。しかし、少しは突っ込んで考えてほしい。子どもの「悪い所」と言うけれど、いったいそれはどういうところ? 私がハッキリそうだ言えるのは「他の子に害をおよぼす」ことだけだ。そういうところがあれば、それは改めないといけない。



 けれど、子どもに限らないが、人それぞれの、その人に特徴的な性格や傾向、行動様式などについて、「ここは良い所、あそこは悪い所」などと捉えてよいのか、ということである。少なくともその評価を固定的におこなってはならないと私は考える。



 たとえば、「わがまま」について考えてみる。
 「それは良くないことで改めなくてはならない」というのが普通の考え方で、いわば「常識」である。でも、本当に良くないことなのか? わがままと言えばイコール自分勝手ということで、普通その言葉によい響きはない。しかし、それは真っ先に自分のことを考え、自分を大切にしている現われでもあることは間違いない。「自分を大切にしている」ことは、悪くないどころか大変よいことではないか(だいたい語源からして、「われ(我)あるがまま」といったあたりか? それは自然なことで悪くない)。



 このようにその評価は視点の置き方次第で変わってくる。一人の人間のなかに、長所と短所が別々にあると私には思えない。それはほとんど背中合わせだ。



 そのことは逆に「わがままでない」人のことも考えれば、いっそうよくわかる。そうした人は、他人のこともよく考えている。その点は長所だろう。けれど、「わがままでない」人はとかく他の人への気遣いばかりして自分を抑え、押し殺しがちでもある。そうなってくるとそれは長所とはいえず短所にも容易に変わりうる。「私はこんなにも我慢しているのにアノ人は・・・」といった気持ちがもたげてくると本当のところ他人を尊重することもできなくなる。



 もちろん「わがまま」がそれだけで十分によいことだと言うつもりはない。いまは、「わがままはとにかくいけないことだ」といった、「常識」に対して何の疑念もさしはさまない見方を問題にしている。子どもの多少のわがままは、それをするにまかせたらいい。「それはいけません!」といった言葉からではなく、子どもたちは経験から、ときに友だちとも衝突し他の人にも「わがまま」があることがわかるようになる。そこから自分を犠牲にしないで一番大切にしてよいということだけでなく、あわせて他人を尊重することの大切さも学ぶようになる。



 作家の五木寛之さんは、「人間的な長所とは、反対側の欠点によって支えられているとも考えられます」「努力しても直らない欠点は、たぶんその人の最良の部分に根ざしているのではないかとぼくは思います」と述べている(「生きるヒント2」文化出版局、1994年)。



 人間について教育の世界でもこのような見方が自然にできるようになると、学校というところもずいぶん変わってくるのではないかと思う。



 毎学期末、担任教師は通知表などの所見欄に、子ども一人ひとりについて記す。もし、「この子の良い所が見つからない」ということがあれば、その子の「悪い所」と思ったことを反対にしてみれば大概は皆「良い所」で、書くべきことは山ほどある。



 「わがまま」についてはすでに述べたが、「自分の気持ちをとても大事にしていて、率直です」と書くこともできる。この子は「でしゃばりが過ぎる」と思えば、「何ごとにも積極的です」でよい。また「おとなしい、もう少し元気が欲しい」と思えば、「感情に起伏がなく落ちつきがあって素晴らしい」とも。さらに「お節介な子」は、「親切で世話好きです」でピッタリ。その他、「まわりを押さえつけがち」な子であれば、「リーダーシップ・統率力があります」。「少しは自己主張があっていいのでは」と思われる子であれば、「協調性があります。他の人の意見もよく聞いています」。「ちょっと無神経、繊細さに欠けるかな」と思えば、「少々のことは気にしない大人の風格があります」。逆に「神経質、繊細すぎる」と思えば、「緻密です。他の人が見落としがちな小さなこともよく気がつきます。感情が細やかです」。等々。



 もちろん、問題は所見欄にどう書くかにではなく、子どもの、そして人間についての見方にある。上のような見方を人によっては、いわゆる「プラス思考」と取るかもしれない。たしかに、マイナス(短所)も視点や見方を変えればプラス(長所)になり得るという点では、そうかもしれない。



 けれど、私が言いたいことは、もともとがそもそもプラスなのだ(「マイナスにもそれ自体に価値がある」という意味も含めて)、ということにこそある。そのことに多くの人が気づいていないだけのことだ。何度も述べてきたように、他に害さえおよぼさなければ、人間の、そして子どものありようすべてに価値がある。



 そのような見方は「たのしい授業」をおこなってこそ、自然にできるようになる。
 そうなれば、私たちは「いつも笑顔でにこにこ」と子どもたちと接することができる。
 生活指導で、教師が本当におこなわなければならないことは、そう多くはない。
 そしてこれも、気持ちよく、たのしくおこなうことができる。



 絵本作家の五味太郎さんは、「子どもたちをどう育てるか、どう導くかなんて考えないで、いっしょに暮らせばいいんだ」と述べている(「五味太郎の教育論」クレヨンハウス「月刊子ども論」1995年3月号)。



 これは、主に家庭での親子の関係についての話だが、学校でも同じだと思う。これからは教師が生徒を教育するとか、指導するとかいったことは、あまり考えないほうがいい。「教育しよう」「指導しよう」などと思っているものだから上手くいかない。



 学校でも「子どもたちといっしょに暮らす」のだったら、なにかできそうな感じがしてこないだろうか。今日一日を、今週を、今学期を、どうしたら「子どもたちといっしょに気持ちよく過ごす」ことができるか、そのことを考えれば自ずと答えは出てくるのではないか。





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最終更新 : 2012.4.29
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