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 以下の文章は、2003年8月17日、愛知県豊橋市で開催された「仮説実験授業提唱40周年」のシンポジウムの折に、内沢達が「世界の教育改革・教育思想と仮説実験授業」と題して報告したレジュメ資料の一部です。



 ルソーの思想が生きる仮説実験授業


 ジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)の教育思想は、彼の民主主義的な社会思想と密接不可分のものである。


 ルソーは「エミール」(1762年、「社会契約論」も同年)のなかで、一人ひとりの人間が「支配」「服従」の観念の虜になって、「暴君的」であるか、また反対に「奴隷的」であっては、民主主義社会の実現はおぼつかないと、教育の問題をたくさん指摘した。


 その指摘は、洋の東西を問わず、また時代を越えて今も、人々が教育について犯す間違いを的確にとらえている。


 たとえば、ルソーは貴族社会での子どもに束縛をくわえ苦しい勉強を強いている教育の様子を「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育」と批判したが、このことはいまでは広く当てはまる。


 多くの親や教師たちが「あなた自身のためだ」と言って、つまらない勉強を押しつけている。勉強しない子どもに向かって大人たちが度々発する「そんなことで将来はどうする!」といった言葉は、子どもの今、現在を否定し、かれらにいらぬ不安をどれほど与えていることか。


 また、ルソーは、
 「あなたがたの教育のあらゆる方針を深く考えてみるがいい。
 そうすればすべてが逆になっていることがわかるだろう。
 子どもにとって唯一の道徳上の教訓、そしてあらゆる人にとってもっとも重要な教訓は、だれにもけっして害を与えないということだ。よいことをせよという教訓も、この教訓に従属していなければ、危険で間違ったことになる」
とも述べている。


 いまも逆になっていることはやはり同じだ。
 学校や家庭でどれほど「よいことをせよ」と言われていることか。
 勉強、読書、スポーツ、あいさつ、ボランティア活動等々。


 あたかも「よいこと」をしかも口先だけですすめることが「教育」だと思い込んでいるふうでもある。
 そんな教育がうまくゆくはずもない。


 ルソーの教育批判は、ラディカル、根本的だ。
 人々の教育についての思い違いを根底から問うている。
 彼の教育論の基本は、「消極教育」である(「初期の教育は純粋に消極的でなければならない」「もっとも崇高な美徳は消極的なものだ」など)。


 仮説実験授業は世界で初めてたのしい授業を実現し、これを子どもたちにたくさん提供している点で、もちろん消極的とはいえない。
  しかし、授業場面での教育のありようはじつに消極的でもある。
 子どもたちを励ましたり、褒めたり、または叱ったり、といった余計な世話は一切やかない。


 子どもをいじくりまわすことが好きな、仮説実験授業にある種の満たされない思いを抱く「熱中・熱血教師」には、ルソーの言葉をまったく理解することができない(「熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ。相手の行動をさまたげる場合をのぞいて、けっして急いで行動してはいけない」)。


 教師が一方で子どもたちが喜ぶことをしても、他方で嫌がることをしていたのでは元も子もない。
 ものごとを考えて行く際の原理・原則には、優先順位がある。


 「子どもとイイ関係」の原理よりも、消極的ではあるが「悪くない関係」の原理のほうが優先される(それは「イイ関係」をつくっていく大前提である)。
 小原茂巳著「たのしい教師入門」(仮説社、1994年)のなかの「この4つで、子どもたちとちょっぴりイイ関係」に、1 授業を延長しない、2 急に指名しない(恥をかかせることはしない)、3 注意するときはしつこくしない(過去の例を持ち出さない)、4 「大人に失礼かな」と思うことは、子どもにもしない、とある。これらのないないづくしは、ルソーの消極教育論の具体化とも言える。


 ルソーは、「一般に行なわれていることとまさに反対のことをするがいい。たいていのばあいよいことになるだろう」「それは訓戒をあたえずに指導すること、そしてなに一つしないですべてをなしとげることだ」と述べていた。「しない」ということは子どもを信頼していることの証にほかならず、じつは逆説的にたいへんなことをしているのだ。


 またルソーは、子どもの「自然」「あるがまま」を徹頭徹尾尊重する。
 「子どもの状態を尊重するがいい。そして、よいことであれ、悪いことであれ、早急に判断をくだしてはならない」「だれよりもあなたがたと一緒にいるのが子どもには楽しいということになるようにするがいい」と述べた。


 「子どもを尊重する?! おおいに結構なことだ! しかし、子どもの“あるがまま”なんて認めていたら、授業にならない」というのが、普通の常識的な教育論である。


 それに対して、教育活動の周辺的なところではなく、もっとも中心的なところで、授業という組織的かつ意図的な、明らかに教師の指導性が不可欠な営みにおいて、子どもの自由や“あるがまま”をなんと「非常識」にも認めるのが仮説実験授業である。


 小原茂巳「授業を楽しむ子どもたち」(仮説社、1982年)の序文には、
「そのままの君で!」「マジメな子はマジメ子なりに、不マジメな子は不マジメな子なりに・・・。みんな、まず、そのままの君で、いいじゃないですか。」「そして、いつのまにか、みんなでかしこくなっちゃう。」とある。
 (内沢「仮説実験授業と教育学」「たの授」No.101、1991年3月号、参照)


 このように、ルソーの教育思想は理想にとどまることなく、仮説実験授業において初めて「子ども中心の教育」が実体をもつようになった。


 さらにルソーは、こんにちの課題でいえば「たのしい生活指導」にかかわっても示唆的である。生活指導の場面でも「自由」と「束縛」の問題がある。
 ルソーは、「人はあらゆる手段をもちいるが、ただ一つだけはもちいない。しかし、これだけが成功に導くものなのだ。それはよく規制された自由だ」と述べている。具体的にはどういうことか。


 教師が子どもを束縛しなければならないときが確かにある。
 それは、子どもが他の子どもに害を及ぼしている、あるいは及ぼしそうなときだ。
 そうしたときは、当然にもその行為を即妨げる。
 ただし、妨げるだけで十分だ。
 他の子がそれで助かり安心できる。


 「それはダメ! やめよう!」と、添える言葉は簡潔でなくてはいけない。
 どうしてダメなのか、理由をくどくど言ってはならない。
 なぜ悪い行いなのかわからないからそうしている。
 わかっていても他から仕向けられている場合もある。


 「悪い子だ!」といった決めつけや熱心な教師たちが好んでおこなう余計な説教は禁物だ。長々とした説教に、子どもは悪意を感じとる。
 それは悪いことを禁じながら、悪いことを教えているようなものだ。


 子どもの言いなりになってはいけないが、子どもに逆らってもいけない。
 妨げるだけで本当に十分なのだ。でも、また悪さを子どもは繰り返すのではないかと人は言う。繰り返すがいい。教師はまた妨げればいいのだ。何事もなかったかのように。


 教師は、「できることとできないこととの必然」「事物の力」だけで子どもを柔軟にし、従順にしていく。「あなたがたと一緒にいることがたのしい」という子どもたちは、「あなたがたを手本として、知らず知らずのうちに正しくなるのだから、注意してやる必要もない」「かれらの兄弟になるがいい。そうすればかれらはあなたがたの子どもになるだろう」ともルソーは言っている。

 このようなルソーの思想は、「たのしい生活指導」の実践のなかに生きている。




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最終更新 : 2012.4.29
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