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エイデル研究所『憲法と教育法』(永井憲一教授還暦記念・1991年)255-270ペ



非行問題と教育法
 ―“荒れる中学”をどうする ―




「非行問題と教育法」というようにテーマが与えられた。筆者は教育学のほうの人間なので、教育法という言葉には、今回、「教育方法」の意味も含ませていただきたいと思う。また筆者には非行問題全般を論じうる力がないので、学校教育のありようとの関連で限定的に述べさせていただきたい。



一 「体罰をやめたら非行が増えた」か


 ― 福岡の“生き埋め”事件・鹿児島 “告訴”事件にふれながら ―                                                   
( 略 )

では、どうすればよいのか。




二 生徒の問題行動に介入する枠組み

 ― 沢登俊雄氏の所説とルソーの消極教育論 ―


刑事法学の沢登俊雄氏が、学校教育の場において、児童・生徒の問題行動に介入する「一定の枠組みが設定される必要がある」として、種々、述べていること(成文堂『少年非行と法的統制』1987年、参照)に着目するところから、検討をはじめたい。


沢登氏は、まず「少年の健全育成」という概念につき、この概念内容には、次の三つのことが含まれているという、荒木伸怡氏の考えを紹介する。(注1)


「その一は、少年が将来犯罪を繰り返さないようにすること、その二は、その少年が抱えている問題を解決して、平均的ないしは人並みな状態に至らせること、その三は、少年のもつ秘められた可能性を引き出し、個性味豊かな人間として成長するように配慮する、である。」


そして、これらは「主として非行少年に対する処遇目標(介入の目的)について言われていることではあるが、学校における生徒指導一般についても妥当する面をもっている。すなわち、学校教育の目標として第三の意味の健全育成が好んで強調されるが、それはそれとして決して誤りではない。しかし学校全体がこの目標だけに気を取られていると、第二の意味の健全育成がおろそかになりかねない。目標を高く掲げることは良いとしても、学校が全体として取り組むべき目標を、むしろ謙抑的に第二の意味の健全育成に置き、その目標の完全達成にまず総力を傾けるべきである。それが成功する見通しの上にたって、第三の目標に進むことが許されるものと思われる。」と述べる。


筆者は、学校教育についての、沢登氏のこのような現状認識や目標設定に同意する。現状は、民主的な教育実践に励んでいるとみられる教師も含めて(いやそうした教師であればなおさら)、どれほど第三の目標を高く掲げていることか。沢登氏は、「謙抑的に」第二の目標を重視し、「それが成功したときに限り」第三の目標に進むことが「許される」とも述べる。この謙抑的な考え方は、後に述べるようにジャン・ジャック・ルソーの消極教育論にも通じるものである。


さて沢登氏は、具体的に、@生徒Aが生徒Bを殴ってBを負傷させた、A生徒Aがカンニングをした、B生徒Aの服装・頭髪が問題になった、などのケースを想定しながら、どのような場合に、学校は児童・生徒の行動に介入することができ、その介入が正当化される根拠や原理は何なのかを提起する。


学校・教師が教育権に基づいて児童・生徒の行動に介入し、かれらの自由を制限できるのは、先の第一及び第二の意味での健全育成を目標とする場合(非行行動を繰り返さないこと、および問題解決と平均的利益の獲得)に限られ、その際の原理は、第一の目標にかかわっては「侵害原理」と呼ばれるものが、第二の目標にかかわっては「正当なパターナリズム」の原理が妥当するという。


 「侵害原理」とは、「A(児童・生徒)がB(他人)を侵害するときに、C(学校・教師)はAの自由を制限できる(Aに対し介入できる)という原理」である


 「パターナリズム」の原理は、「他人に対する侵害ではなくても、本人自身の利益のために本人の自由を制限することを正当化しようとする」ものである。保護される利益が消極的なものである時、介入は正当化されやすい。


また、本人に対する消極的利益の保護が、他人の利益保護に通じる場合も介入は正当化されやすい(カンニングをやめさせることなど)。


 しかし、「積極的なパターナリズム」と「道徳的パターナリズム」(モラリズム)は、正当化されず、否定されなければならないという。前者は、先の第三の目標にかかわって、「平均以上の利益」わ生み出すための介入である。後者は、例えば、服装が良くないとか、異性と交際するのは良くないなどを理由に、本人の「道徳的堕落」という不利益を防止するという意味でのパターナリズムからの介入である。


本人の利益を他者が判断する場合、純粋に本人にとっての利益なのか、それとも他者の価値基準に照らしてそうなのか問題である。「道徳的判断は教師一人一人の固有の問題であり、一貫した教育方針の確立を妨げる結果になる」。


さらに、「侵害原理」などによって介入の目的が正当化される場合であっても、そのために用いられた方法が常に正当化されるわけではなく、手段・方法の問題がある。「目的に照らして、もっとも有効で、かつ人格の尊厳を損なうことのない方法によって、介入を行うことが許される」という。


沢登氏の以上のような所説は、問題を包括的に提起しているだけに、現実の学校現場での問題解決にも基本的な指針をあたえるものになっている。


これまで、個々には言われてきたこともあったが、全体としての「枠組み」が明確になっていなかったため、結果として個々の問題行動への介入の仕方も適切さを欠き、見通しをもてないことが少なくなかった。いわゆる“荒れる中学”における教師たちの苦闘も、まさに闇雲のなかにあった。それにしても、学校現場が困っていた(いる)ことも確かであり、教育学の責任も大きい。


筆者が沢登氏の所説と出会ったとき、教育学のほうの人間としてただちに思い浮かべたものは、ジャン・ジャック・ルソーが『エミール』(1762年)のなかで展開した「消極教育」論である。ルソーは次の通り述べている。


「あなたがたの教育のあらゆる規則を深く考えてみることだ。そうすればそれらがすべて逆になっていること…… がわかるだろう。子どもにふさわしい唯一の道徳上の教訓、そしてあらゆる年齢の人にとってもっとも重要な教訓、それはだれにもけっして害をあたえないということだ。よいことをせよという教訓でさえ、右の教訓に従属していなければ、危険で、まちがった、矛盾したことになる。」(岩波文庫『エミール』上巻、157ページ)


ルソーがいう「だれにも害をあたえない」ということは、沢登氏がいう「侵害原理」に相当する。ルソーが「よいことをせよ」ということも従属的でなければならず、そうでなければ危険だといっていることは、沢登氏が学校教育の第三の目標が「あくまでも他の(第一、第二の ― 筆者注)目標達成の積み上げの上に初めて可能であること、一気にこの目標にとびつくことの弊害を十分考慮すべき」といっていることと共通している。


ルソーの時代から二百年以上を経過しても、教育の基本的な問題のありかは変わっていないようである。教育が組織化・体制化されてきただけに、問題がいっそう顕在化してきている。とくにわが国の場合はそうなのであろう。


こんにちの学校ではどれほど「よいことをせよ」と言われていることか。「学習に励む」「読書をする」「生活習慣をきちっとする」「体を鍛える」「あいさつをする」「学校をきれいにする」等々。みんなどれも良いことだ。少なくとも悪いことは一つもない。ところが良いことも押しつけられ強制されると、途端に、反対物に転化することがわかっていないのだ。


学校教育の第三の「目標が追求される場合、その手段を考えてみると、それはいかなる意味でも強制的なものではありえず、生徒の主体的な要求に基礎を置く任意的な方法だけが妥当する」のに、「すべて逆になっている」。


介入しなくてもよいところに介入し、介入すべきところに介入していない。たとえ、介入しても、怒鳴ったり、罵倒したり、さらには殴ったりではうまくいくはずがない。自分たちの目標設定と介入方法のおかしさには気づかずに、いまの子どもたちが悪いといって嘆き、それではどうすれば良いのだといって開き直ったりする。


もっと冷静になって、そして現実的に考えることだ。教育の目的を、沢登氏がいうように謙抑的なところに、またルソーがいうように消極的なところに置けば、それぐらいだったら自分にもできるかもしれないということになる。


じつは「それぐらい」がとても大切なことだ。「だれにもけっして害をあたえない」という教育の目的や理念が学校・教師において共有されれば、生徒の問題行動への対処もべつにむずかしいことではない。


(注1)荒木伸怡「少年法執行機関による働きかけとその限界についての一考察」 ジュリスト総合特集『青少年 ― 生活と行動』(1982年)参照。




三 具体的な指導のありかた


 ― 人権論や授業論にもふれて ―


それでは、いま学校で生徒の問題行動と呼ばれているものについて、どのように介入し指導をおこなったらよいのかを少し具体的に考えてみたい。




1 授業妨害をやめさせる


典型的な問題行動の一つに授業妨害がある。“荒れる中学”では、一番困っている問題の一つであろう。言うまでもないことであるが、学校は授業を中心にして勉強をするところである。その授業が一部の生徒によって妨害され、成り立たなくなり、中断することもしばしばだとすると、当然にも問題であり、介入しなければならない。他人の学習する権利を侵害しているからである。これは、他の問題行動と同列に論じることはできない。


例えば、校舎内で喫煙を繰り返し、トイレや校庭に煙草の吸殻が散乱しているような状態も、学習の場である学校の雰囲気をおかしなものにしており、問題行動であるが、影でこそこそと喫煙する程度であれば、他人の権利にはかかわっていない。発見したときにはやめるように注意をし、たとえやめさせることができなくても、その点では、学校・教師が教育上の責任を果たしていないとは言えない。当該生徒の自覚を待つより仕方のない問題であるからである。



それに対して授業妨害は、注意してもやめなかったではすまされない。なんとしてもやめさせなければならない。たとえば授業中にラジカセを鳴らすのをやめさせることだ。


鳴らしている本人は普通言ってもきかないから、教師がスイッチをきるほかない。一人でやめさせることができないのであれば、それ限りの目的で他の教師の応援も頼む。その際に留意するべきことは、とにかく授業妨害をやめさせることができれば、それで十分だという考えができるかどうかだ。


介入の目的はそれ以上でもなければ、それ以下でもないのだから。教室が静かになれば、何事もなかったかのように、教師はまた授業を続ければよい。目的が達成されたのに、「どうしてオマエはいつもこうなんだ!」などと、余計なお説教をいっさいしないことだ。


何度言ってもきかないのではなく、言ってきかせようとするからきかないのである。ルソーは言っている。


「一般に行われていることとまさに反対のことをするがいい。たいていのばあいよいことになるだろう。…… 先生は、しかったり、矯正したり、文句を言ったり、きげんをとったり、おどかしたり、約束したり、教えたり、道理を説いて聞かせたりすることを、どんなにはやくはじめてもはやすぎないと考えている。もっとうまくやることだ。合理的にやることだ。そして生徒とは議論しないことだ。」(同前、133ページ)


中学生にもなれば、自分がしていることが常識的に考えてよいことなのかそうでないことなのか、わかっている。悪いことだとわかっていながら授業妨害をしているのだから、通り一遍のお説教に効き目があろうはずはない。


とくに問題行動におよんでいる生徒に対する人格的な攻撃は厳に慎まなくてはならない。「どうしようもないやつだ!」などと言われると、彼らの立場もなくなり、おさまりがつかなくなる。対教師暴力にまでいってしまうのもそういう時が多い。


またルソーは、「子どもの言いなりになることと子どもに逆らわないこととのあいだには大きなちがいがあることをいつも念頭におく必要がある」(同前、79ページ)とも言っている。


彼らの言いなりになって授業妨害を続けさせてはならない。しかし、彼らに逆らって火に油を注ぐようなことにならないように、十分留意しなければならない。


他人の学習する権利を侵害してはならないという介入の目的と生徒の人格の尊厳を損なうことのない方法の自覚が教師に求められる。




2 いじめと生徒の人権



他人の権利の侵害といえば、いじめもそうした問題行動の一つである。ある生徒が別の生徒(達)からいじめられている。そうした現場にはただちに介入し、いじめられている生徒を救出しなければならない。間違っても、いじめられている生徒にも悪いところがあるといったけんか両成敗的な対応をしてはならない。


もちろん、いじめている生徒に弾圧的態度でのぞむことも解決にはならない。この場合もさしあたってはいじめを中止させたことで満足する必要がある。


いじめは、単なるいたずらいやがらせではなく、いじめられている生徒の人権問題であると同時に、いじめている生徒、傍観している生徒、はやしたてている生徒など、彼らの人権意識の問題である。いじめは、生徒一人ひとりの個性の違いやそれぞれの生活の仕方を認めないところからくる人権の問題である。


生徒はだれしも静かな環境で学習する権利をもっているだけではない。休み時間のすごしかたも一人ひとりがそれぞれでよいはずだ。部活をたのしむ権利ももっている。友達も自由に選べるはずだ。そうした権利や自由を認めないのがいじめという問題行動だ。


だから、一般には、そんなに、権利や人権、人権、と言ってよいのかと疑問もだされるが、言ってよいどころか、言わなければならない現実にまさに直面している。


生徒たちのなかに先の授業妨害やいじめなどが頻繁にあり、中学が荒れていてまともな学習・生活環境にないとすると、それは子どもの権利や人権が強調されすぎた結果ではなく、反対に権利・人権の視点から点検されなくてはならない。


たとえば校則などで髪型や服装などが事細かに決められているが、それらは言うまでもなく生徒個人の自由な選択に委ねられなければならない(日本国憲法第13条の個人の尊重・幸福追求権から導き出される自己決定権)。「服装の乱れは心の乱れ」などと言って学校・教師が介入する問題ではない。髪型であれ、服装であれ、生徒一人ひとりが自分らしくして、そしてみんな自由に楽しく学校生活をおくっていく権利をもっている。


人権というのは、一人ひとりの人間が人間らしく生きていくための権利のことだ。自分が、自分の人生の主人公として生きていくために、欠くことのできないものだ。
 「君には自由に生きる権利がある」。ということは「君がそうであるように、他人もその権利をもっている」ということだ。他人の権利を害してはならないのだ。


人権は、生徒みんなが楽しく学校生活をおくっていくうえで不可欠なものである。
よって、人権の考え方なしに中学の荒れもなくすことはできない。




3 指導すべきこととしなくてよいこと


また学校では、問題行動をおこしている生徒だけでなく、普通の生徒も含めて、彼らの遅刻や忘れ物、授業中の居眠りといったことも度々問題になっている。生活・学習態度が悪いということでしばしば体罰もおこなわれてきた。しかし、体罰はやってはいけないということになると今度は「体罰に変わる指導」「体罰によらない指導」が必要だと、筆者からすると実におかしな言い方が学校現場では広がっている。


そういう言い方までして、いったい何を「指導」しようとしているのか。そもそも指導をしなければならないほどの問題なのか。


手段や方法が適切かどうかの問題ではない。
そこには、教育のありようについて勝手な思い込みがあると言わざるをえない。


いまの教育界は、「指導!」「指導!」という言葉が大好きだ。どんなことにも「指導」という言葉が伴わなければ、教育というものが成り立たないとでも思っているらしい。「校門指導」「服装指導」「あいさつ指導」「給食指導」「掃除指導」等々。


たしかに遅刻や忘れ物、授業中の居眠りといったことは、ほめられたことではない。でもそんなに悪いことではない。なによりもそれらは他人の権利にはかかわっていない。


しかし本人にとって良くないのではないかと普通考えられている。だが、はっきりとした事情がなくても、たとえば、「今朝はなんとなく足がすすまなかった」ということだって立派な遅刻の理由だ。


教育を受けることは権利であって義務ではない。ところが「病気でもないのに遅れてきたり、休んだりしてはいけない」といった、事実上、学校教育というものを義務的なものとしてとらえられている社会通念が広くある。


遅刻であれ、欠席であれ、早退であれ、人権論を一貫させて、これらを「教育を受ける権利」の一時的な放棄と考えれば、事情や理由の如何を問わず、別にそれほどの問題ではない。


忘れ物もだれにもありがちなことである。生理現象として眠たくなることがあることもあたりまえだ。


あまりにも頻繁に続くようであれば、時には注意をし、あとは生徒の自覚を待つ。それで十分ではないか。しかし、本人がなかなか気づかず困るのではないか、とまた言う。


困るがいい。ほんとうに困ると思えばしなくなる。
どうして、そうしたことまで生徒を信頼することができないのだろうか。


これまで筆者が種々述べてきたことから、すでに“荒れる中学”での対処の仕方も明確になっていることと思う。


生徒の行動に何から何まで介入し指導をおこなおうとするからうまくいかないのである。頭髪や服装のことなどは百パーセント生徒の自由に委ねるべきだ。


そのようなことはもともと学校・教師が指導をする必要がないことである。いま述べてきた遅刻や忘れ物といったことも、あえて指導をしなければならないほどのことではない。必要な場合は注意をし、あとは生徒の自覚を待つ。


しかし、本人の自覚を待つことではすまされない問題、また生徒達だけにまかしておくことができない問題については、他人の権利の侵害を放置できないので、介入し適切な指導をおこなう。


以上のように生徒指導上の問題について軽重をはっきりさせれば、なにもむずかしいことはない。


生徒指導というものに、もし困難やむずかしさがあるとすれば、それは生徒の側にはなく、従来の発想をなかなか転換することができない学校・教師の側にある。




4 楽しい授業


しかしそれにしても、生徒はどうして荒れるのか。これまでの管理主義的な生徒指導に問題があっただけではない。かれらの学校生活の中心である授業がおもしろくないのだ。


休み時間や放課後は楽しくても、授業が楽しいということはあまり聞かない。
ところが全国各地に、“楽しい授業”をしている教師がいる。


たとえば、東京の中学教師・小原茂巳氏は、自著(仮説社『授業を楽しむ子どもたち ―― 生活指導なんて困っちゃうな ―― 』1982年)のなかで、「子どもたちよ、そのままの君で!」と呼びかける。



「僕は子どもたちみんなに言いたい。『そのままの君でいいんだよ!』ってね。僕は、子どもたちに、そのままの君で、遠慮なく授業に参加してほしいんです。マジメな子はマジメな子なりに……。不マジメな子は不マジメな子なりに……。にぎやかな子はにぎやかに……。発表するのが苦手なら、発表せずに……。落ちつかない子もそれなりに……。劣等生は劣等生なりに……。優等生は優等生なりに……。できる子もできん子も、それぞれに……。みんな、まず、『そのままの君で』いいじゃないですか。それぞれの持ち味をいかして、1時間1時間を楽しんじゃう。そして、いつのまにか、みんなでかしこくなっちゃう。僕は子どもたちと、こんな授業、こんなつきあいかたをいつまでもつづけたいです。」
(同書・序文)



そんなにうまくいくのか。しかし、事実その通りになっている授業がある。この授業は、国立研究所の板倉聖宣氏が提唱(1963年)したもので、仮説実験授業という。科学上のもっとも基本的な概念と原理的な法則を教えるための授業である。提唱当時は、小中学校の自然科学教材が中心だったが、今日では、社会科学教材の開発もすすみ、その基本的な考え方を数学教育や国語教育、さらには美術教育にまで拡大する研究が進められている。


筆者も大学で数年前から力を入れてこの授業をしているが、「とにかくおもしろい。こんな授業だったら、ぼくも(わたしも)受けたかった」と学生たちの評価も高い授業である。(注1)


わが国では60年代から70年代半ばにかけて高校・大学進学率が急上昇してきた。しかし、ここ15年ほど変わりがない(大学進学率の停滞・低下は、直接的には政府の大学新増設抑制政策が原因)。


その間、いろいろな矛盾がたまりにたまってきて、日本の学校と教育制度は行きつくところまできている。もはやこれまでの入れ物に子どもたちを合わせる時代ではなく、学校は、子どもたちの自由と人権を尊重して、そこで子どもたちが学んで楽しいと感ずることができるような、中身で勝負をするよう時代に入ってきているのではないだろうか。



(注1)仮説実験授業について、筆者の実践も含めて教育学の立場から評価したものとして、拙稿「仮説実験授業と教育学」(仮説社『たのしい授業ハンドブック』、『たのしい授業』1991年3月臨時増刊号所収)を参照していただければ幸いである。




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最終更新 : 2012.4.29
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