TOPページ → 2005年秋のこと




2007年5月2日(連休の谷間)。

バイパス用に静脈をとった左足に、しびれがなおある。
開胸手術の跡、胸の傷のところがつっぱっている。


この二つ、どうやらしばらくは離れてくれないようだ。
他の友達は去っていったがまだ僕のそばにいてくれる。
僕のことを忘れないでいてくれる友達なので、大事にしていきたい。


手術から 1年1ヵ月ほど経過した昨年(2006年)11月末頃、
深呼吸が自然にできるようになった。
それまで少しずつ上にあがってきた感じがしていたが、
とうとうその胸のつかえがとれたような感じだった。


毎日朝晩測り記録している血圧。
昨年暮れから高いときはほとんどなくなった。
(薬のせいかもしれないが。現在4種類の降圧剤服用中)
このところ、4ヶ月以上、ずっと調子がいい。


下の一文は、昨年10月末にUP!した「あれから 1年」に加筆したものである(修正を含む)。
「あれから1年」は手術前までのところで終わっていたが、続きを書いた。


生死の境をさまよったのだから、僕の人生のなかで、他にこれほど大きなことはない。
概略であっても記録に残して、いまとこれからを大事に生きたいと思う。


これまで僕の病気のことを心配してくれた皆さんに
心からお礼を申しあげます。
おかげさまでとても元気になってきました。
本当にありがとうございました。
感謝しています。





2005年秋のこと


(2006/10/27UP「あれから1年」改題、加筆・修正)


2007/5/2

内沢 達


2005年秋、僕は命拾いした。
「助かるべくして助かった」ようにも思うが、
それは少し、いや相当に傲慢な考え方だ。


僕は、2005年9月30日に心筋梗塞で倒れた。
倒れたところが家でも職場でも外出先でもなく、なんと病院であったというのがまず大変な幸運だった。
以前から高血圧を診てもらっていた市内下荒田の有馬新一クリニックだった。
ニトログリセリン舌下錠で痛みを和らげてもらい、谷山の生協病院にピーポピーポと救急車で搬送された。


すぐにカテーテル検査をした。
その後安静を保ったからなのか、いったんは落ちつく。
入院3日目からの10月2日、3日は楽だった。
しかし、4日の夜から再び具合が悪くなり、5日未明に2度目の心筋梗塞。
その後、どんどん病状が悪くなっていった。
が、僕にはその自覚がなかった。


10月10日に鹿大病院に転院し、翌11日に心臓冠動脈バイパス手術をおこなう。
もちろん、この手術がうまくいき、その後もクリアできたからこそ、いまの僕がいる。
が、手術前、「自分が危ない」とは思わなかった。
「危なかった」とは、術後も、しばらくは知らなかった。


術後1週間ほどして、病室で妻・トモちゃんが僕に言った。
「大学から電話があったので、授業の交代や開講中止をお願いしておいたからね」
トモちゃんは、ゆっくり養生してもらいたくてそう言ったのだが、僕は怒った。
「僕の授業のことなのに、僕に相談なしに、どうしてそんなお願いをするんだ!」
開胸手術後間もないので、声はあまり出ない。それでも、声を絞り出すようにして怒った。
僕の存在が無視されたように思ったからだ。
そこでトモちゃんは説明を始めた。


「たっちゃんは、講義ができるような身体じゃないでしょ」
僕は「いまはできなくても、開講時期を遅らせて冬休みや春休みの集中講義と組み合わせる方法もある」などと言って、なかなか納得しない。
トモちゃんはとうとう涙をためて言った。


「たっちゃんは、危なかったの!! 命を落としかねなかったの!!」
「いまはだんだん良くなっているけど、まだ不安定なの! たっちゃんは死にたいの?!」
愕然とした。


僕だって、手術前に「命の危険」をまったく思わなかったわけではない。
なにしろ悪いところは心臓だ。場所が場所だ。
「不安がなかった」と言ったら、それは絶対にうそだ。


入院まもなくトモちゃんがネット検索をして持ってきてくれたプリントには、バイパス手術の死亡率のデータもあった。全国各地の病院のデータである。0%のところも少なからずあるが、3〜4%というように高いところもある。大概はコンマ以下であったり、せいぜい1〜2%台だ。
つまりめったにないことであるが、稀ではあってもときにバイパス手術は失敗する。
少ないほうでは「100例中1例あるかないか」なのだが、そこはやっぱり、たとえ「万が一」であっても心配だ。


「まさか自分がその1例になることはないだろうな?」
そういった不安や恐れはたしかにあった。
でも、これは一般的な心配だ。しかも、確率は非常に低い。
僕は、幸せにも自分の病状を深刻なものとは思っていなかった。
その僕が、トモちゃんから「じつは危なかったんだよ!」と、
そのとき初めて知らされたのである。
ショックだった。しばらく言葉がでなかった。


当初、僕の病名は、@急性心筋梗塞であり、A不安定狭心症だった。
これは生協病院の医師の説明により、およそのところ、僕にもわかった。
9月30日のカテーテル検査の結果、心臓を冠状に覆っている3本の動脈すべてに狭さくがあることが判明した。しかも、狭さく率90%〜99%というように、とても狭くなっている箇所が3本それぞれに複数ある。冠動脈が3本ともすべて悪い場合を「三枝病変」という。
1本だけが悪く(一枝病変)1箇所だけ異常があっても大変だというのに、僕の場合は「三枝病変」で、しかもそれぞれ複数箇所が、本来太くあってよいはずのところがガクッと細くなっている。それが血管造影写真から、僕にもわかった。


わかったけど、自分が深刻な病状にあるとは、なぜか思わなかった。
「そんなにも狭くなっていて、そんなにもたくさん悪い箇所があるのか!!」
あきれて、現実を受け止めかねていたのかもしれない。
また、「知らぬが仏」ということもある。


後に、手術が成功し、術後も順調に経過し鹿大病院を退院してクリニックにもどると、有馬新一ドクターが造影写真を見ながら「ほんとうに幸運でしたね!」と言ってくださった。
言われてみれば確かにそうだ。9月30日の心筋梗塞は、冠動脈のかなり先っぽのほうだが、それが狭さくのひどい手前や根元のほうで起こっていれば、それだけで僕は一巻の終わりだった。


一方で「無知の恐ろしさ」ということもあるが、このときの僕には「知らぬが仏」が幸いしている。
知識もなく知らされもしないと、自分の病状がどれほど危険なものか自覚しようもない。
それでよかったと思う。
「三枝病変」と言われても実感がなかった。実感としてあるのは、一方での、胸の痛みや息苦しさ、身体全体のだるさや頭のボーっとした感じなど、その時々の感覚であり、他方での、倒れる前の健康で元気いっぱいの(と思っていた)自分だ。
実際、入院して3日目くらいには、落ちついてきて元気も取り戻し、「病変もあるのだろうけど、自分の健康のほうが優っているのではないか」とさえ思うこともあった。


10月4日の夜から、また状態が悪くなるのだが、「元気で健康な自分がなんでこんなにも苦しくなるんだ?!」などと不思議には思っても、わが病状を深刻なものとはほとんど疑っていない。
5日未明の2度目の心筋梗塞(それが2度目であったことを僕が知るのも術後である)は、最初のときよりも、はるかに息苦しく、痛みも激烈だった。ベッドの上で長時間(2時間か3時間)のたうち回るほどだった。でも、その途中も治まってからも、自分が「危ないかもしれない」などとは、これっぽっちも思わなかった。


が、以降、明らかに元気もなくなっていき、病状が一段と悪化していく。


10月8日の深夜から9日未明にかけて、トモちゃんによると僕は苦しがり、3度ほどケイレン発作を起こして身体は硬直してしまい、病室(個室)は大騒ぎになったという。
看護士さんが入れ替わり立ち代わりあらわれては、血圧を測ろうとするのだけれど、「この血圧計もダメ!」「それもダメ!」といった感じで、なかなか測ることができない。ようやく測れた血圧は 50/35 しかなくものすごく低い。
脈もなかなか取れなかったとのことだが、これも37というありさまだった。
僕はいわば失神状態だったので、もちろん覚えていない。


9日の午前中に、2度目の失神である。トイレに行って病室にもどったことまでは覚えているが、その後はやはり気を失っていてわからない。


僕の病名は、@心筋梗塞、A狭心症のほかに、もうひとつあって、
それがB「完全房室ブロック」というやつである。
これは合併症である。2度の心筋梗塞で壊死してしまった心筋の範囲も広がったからなのか、心房から心室に刺激が全く伝わらない状態になった。刺激が伝わらなくても、心室だけでも20〜40の遅い脈は起こるという。これは心不全の状態である。
この日の2度の失神は、「完全房室ブロック」という合併症が引き起こしたものだった。
不整脈も始まっていた。


生協病院は、鹿大病院と連絡をとって、9日夕方、頸静脈から電極を挿入する体外的ペースメーカーの処置をおこなう。
これによって、ボーっとした、意識が遠のいていくような感じはひとまずなくなった。
4日の夜からあれこれずっと調子が悪かったのだが、ペースメーカー処置後のこのときが、一番気持ちがよかった。


本当に「知らぬが仏」だ。悪い意味ではない。
この日の2度の失神だって、トモちゃんにしてみればたまったものではない。
が、僕は「ちょっと気を失ったのかな?」といった感じで、まわりの心配を知らない。


9月30日のカテーテル検査は痛くてたまらなかったが、この日のペーシングの挿入はまったく苦にならなかった。1時間ほどで終わった。病室にもどって休んでいると、手術室(処置室)でいろいろと面倒をみてくれた若い元気いっぱいの看護士さんが来てくれた。1時間かそこら話がとてもはずんだ。イイ気なもんだ。


10月10日、手術の前日である。午前9時すぎに救急車で鹿大に転院。
病室で主治医と二言三言あいさつ程度の言葉を交わした。
その後すぐに、かなり時間をかけた心エコー検査があった。心臓の働き具合を入念にチェックしたものと思う。その結果、前日のペーシング挿入によっても心機能の低下は防ぎきれていない、と判断したからなのだろうか。新しい処置が緊急にとられることになった。


お昼、病室で一口か二口昼食を取り始めたところでストップがかかり、看護士さんから伝えられた。
「いまから集中治療室(ICU)に移っていただきます。それから手術室で緊急に処置するそうです。」
僕にはなんのことかわからない。前日のペーシングだってそうだったが、言われるままにするほかない。それでよい。


緊急の処置とは、「大動脈内バルーンパンピング法」(IABP)といって、低下した心臓のポンプ機能を人工的なバルーンの力で回復させる処置である。大動脈内に先端にバルーンをつけたカテーテルを挿入し、心臓の収縮活動にあわせてバルーンを膨らませたりしぼませたりして、心臓機能をバックアップするものだ。
術後、主治医から「この処置がなければ手術はもたなかったでしょう」と、トモちゃんは聞かされた。


書類の写しにある、この処置への同意書のサインはトモちゃんのものだ。
僕には説明がなかった。それは、大手術を翌日に控えている患者本人に言っても不安を与えるだけでしようがないということだったのか。また、まさに緊急で、心不全状態が深刻な患者に必要なのは説明ではなく、一刻も早い処置そのものだったということかもしれない。


僕に対してあったのは、麻酔担当医師からの処置前の麻酔についての説明だけである。
集中治療室で、僕は「ハイ! ハイ!」とそこだけ聞くととても良さそうな返事をしながら説明を受けた。返事の良さはわかったことを意味しない。説明はほとんど、右の耳から左の耳へと流れただけだった。


僕はとても緊張していたと思う。
緊張して「ハイ! ハイ!」と、機械的に反応していたにすぎない。
と同時に、どんな説明があっても「ハイ! ハイ!」。それは、「今、自分がどうなっているのかわかりません」「それで今は、わかっているあなたに託すほかありません」「どうかよろしくお願いします」といった僕なりの意思表示でもあったように思う。


ところで、つくづく思うのだが、人間というものは「いま、現在を生きる」存在だ、ということだ。
どんなに大変な状況にあっても、いや、大変な状況にあればあるほどいっそう、「いま、現在」を必死に生きようとする。このときの僕もそうだった。
「明日は手術!」ということが頭から消えたわけではもちろんなかったと思う。
でも、より大事なことは、そのときの「いま、現在」だった。


転院するなりの長時間の検査、そして病室で休む間もない集中治療室への移動。大学病院は広い。大事にゆっくりと運ばれたのだろうけど、僕にはものすごく早く感じた。ストレッチャーは向きを変える度に「ガチャッ、ガチャッ」と冷たい金属音を立てる。ただならぬ雰囲気が緊張をいやがうえにも高める。集中治療室(ICU)なんていうところも、もちろん初めてだ。いま、自分がどんなところにいるのだろう? それを確かめたいと思っても、ストレッチャーの上であれ、ベッドであれ、寝かせられているので、天井とか蛍光灯とか上のほうしか見えず、よく分からない。


それでも必死に「いま」に適応しようとしていた。
麻酔についての説明はほとんどわからなかったが、担当医師の表情や話し方はとても気持ちがよく、僕は可能な限りコミュニケーションをとろうとした。ネームプレートで下のほうの名前を確かめ、「あっ、では、あなたは“マーちゃん”ですね。僕は“たっちゃん”って言います。どうぞよろしく!」などと軽口をたたいたりしている。


午前中の心エコー検査のときも臨床検査技師の方に盛んに話しかけた。
いい迷惑だったかもしれないが、僕のホームページを紹介しているカラー刷り名刺も受け取ってもらった。
少しでも楽しめる余地があれば楽しみ、苦しければ喚くなり叫ぶなりしながらもその苦しみに耐える。
そのときそのときの「いま」を必死に生きようとする。


事実は麻酔によって眠りについたのだろうが、緊張状態が続いて頭がボーっとし、その前から意識が遠のいていったようにも思う。僕はそれから足掛け3日意識がない。


僕が眠りにつく前なのか後なのか、IABPの挿入や翌日の手術について、トモちゃんは主治医から説明を受け、同意書にサインをしている。説明を行った日時について、「平成17年10月10日14時20分」および同「40分」との主治医による記録(写し)がある。輸血に関する説明と同意書にも、「患者が意思を表明できない場合」に当たるのであろう、同日、代理人欄にトモちゃんが署名している。


僕のバイパス手術は、「倒れたその日に手術」というような超緊急手術ではないものの、やはり緊急の手術だった。10月6日に決まった「10日に転院、11日に手術」という日程も、それ以上の遅れは絶対に危ない、もう一度心筋梗塞があれば心臓は止まるとの判断から、急きょ割り込んで鹿大病院の手術計画のなかに入れてもらったものだ。


もちろん、僕には「危ない」というその切羽詰ったところが、幸せにも全然わかっていなかった。
それで良かったと思う。自分の「生」を疑っていない。
そのことが無意識のところで大きな力になったとも思うからである。


普通、ゆとりがある待機手術の場合は、事前に腹式呼吸や痰の出し方の練習など、術後に備えて患者に対する指導が行われる。が、僕の場合は、「完全房室ブロック」にもなって心不全の状態にあるようでは、その余裕もあろうはずがない。


先にバイパス手術の死亡率は低く1%もあるかないか、またあっても1〜2%だと記したが、それはあくまでも平均値だ。いまネット検索をしてみると、「死亡率は手術を受ける患者の重症度によって異なる」とのページにアクセスできる。たとえば『読売新聞』(2006.2.27)は、日本胸部外科学会の調査(2004年)を「バイパス手術の死亡率は、安定した病状の患者を対象にする待機手術で1.7%、病状が切迫した患者に急きょ行う緊急手術は12.1%だ。(緊急手術は全体の17%を占める)」と報じている。これだと全体の平均も2%を超えるくらいに上がりそうだがそれはともかく、緊急手術の場合は危険度が格段に増すということが大事なところだ。


僕はそういうことは知らなかった。知らなくてよかった。
不安や心配を大きくしないで手術にのぞむことができる。
もっとも、僕には「いよいよ手術だ!」と心する間もなかった。
前日午後から意識がなかったからだ。


僕はすでに集中治療室に運ばれていた。その日、IABPの処置後も病室にもどることはなかった。
そうした手術前日の午後、トモちゃんは主治医から、僕の病状や手術方法などについて説明を受けた。
一般に事前の説明はそういうものとはいえ、手術の危険性が、これでもかこれでもかというほどに並べ立てられた。


「麻酔から覚めないかもしれません」「呼吸器がはずせないかもしれません」「出血が止まらないかもしれません」「脳梗塞の心配もあります」などなど・・・


「たっちゃんは、大丈夫だろうか? とっても心配だ。」
「知らぬが仏」の僕とは違って、トモちゃんの心配は転院前から尋常でなかった。
でも、だからこそいっそう手術に期待し、その成功を願わずにはおれなかった。
「大丈夫! きっと大丈夫!」


少しもどると、10月6日のことである。
前日5日の2度目の心筋梗塞で一刻も早いバイパス手術が必至となっていた。
6日、鹿大への転院手続きなどにトモちゃんは奔走していた。
その日、母・小野房子の訃報が入る。
数日前から危ないことが知らされていたが、いかんともしがたい。


享年94歳。天寿を全うしたとはいえ、実の母親の葬儀にも行けない。
「母さん、行けなくてごめんね。今はたっちゃんのことで精一杯なの。」
「ごめんなさい。母さんも天国からたっちゃんが助かるように祈って・・・」



10月11日、手術当日。いよいよである。
朝、トモちゃんは看護士長さんから「ご心配ですね」と言葉をかけられ、涙がとめどなくあふれたという。
手術前に集中治療室で面会を許されたトモちゃんは、僕から「あなたが泣くのは仕方ないね。こんなに大きな手術なんだから・・・」と慰められたともいう。
けれど、僕にはそんな覚えはまったくない。
なにしろ僕は、前日の午後からずっと「眠り」の中にあり、手術翌日の昼前まで足掛け3日「意識がなかった」というのが僕の「意識」だ。


手術は午前10時から午後8時まで、10時間にもおよんだ。
バイパスは計6本も数える。この本数は、僕にもわかっていた。9月30日の生協病院でのカテーテル検査の結果について、医師から翌10月1日「やがて手術をしなければいけなくなります。バイパスは6本になるでしょう」との説明があった。
でも、この本数がとても多いと感ずるようになるのは後からである。狭窄箇所が多ければバイパス本数も多くなるのはあたりまえだが、初めは結びつかなかった。
いまネット検索をするとバイパスの平均本数は「2.81」とか「3.50」とかいうように、いろんな数字がでてくる。いずれも僕よりかなり少なめだ。


バイパスの本数の多さは、接合箇所の多さともイコールであり、当然にも手術に要する時間が長くなる。
前日トモちゃんに対して、バイパス用の血管としては伸縮性があって長持ちする動脈をすべてに用いたい旨の説明があった。
が、2本分は内胸動脈を用いたものの、他(4本分)は間に合わず左下肢静脈を使ったという。
脚の静脈といえば、昔はバイパス用血管の代名詞のようなものだったらしい。


手術が終わり、集中治療室にもどされる。トモちゃんは入室を許された。
僕はもちろん意識がない。身体中がチューブや包帯だらけで、顔もむくんで変わっていたが、触るとあたたかい。たしかに呼吸をしている。
「たっちゃん、がんばったね。えらかったね。」
力が抜けてしまい、しばしその場にしゃがみこんでしまった。


家族待機室に場所をかえて、二人のドクターがていねいに説明してくれた。


「手術は乗りこえました。心臓も止めないで人工心肺も使いながら乗りこえました。」


手術を乗りこえたとは、うれしい! うまくいったんだ!


「けれど、手術前の診断よりも心臓の状態が悪く、1〜2週間しないとちゃんと動くかわかりません。今までのダメージが大きいんです。」


エッ?! どういうことですか?


「血管の状態がひどく悪いんです。血管の中がかゆ状、粥腫(じゅくしゅ・アテローム)になっていてひどいんです。鹿大の症例で年に数例あるかないかのひどさです。」


そんなにも悪いんですか。夫は大丈夫ですか?


「心臓がうまく機能するかどうかは五分五分です。判別はつきません」


五分五分?!
でも、助かりますよね。(と、わらにもすがる思いで・・・)


「やるべきことはすべてやりました。じゅく腫がひどい状態なのにバイパス手術は成功しました。あとは、心筋が酸素をとりこむ力がどれだけあるか、本人の生きる力にかかっています。」


手術が成功したのは間違いない。たっちゃんだったら絶対に助かる! はずだ・・・


「これからひとつひとつクリアしていきましょう。まず出血が止まるかどうか。もし止まらなければ、もう一度胸を開かなくてはいけません。次に、目が覚めるかどうか。3番目は、心臓の機能、血圧がしっかりするか、4番目はおしっこがでるかどうかです。今晩はそうしたことを心配していきましょう。明日は呼吸器をはずせるかどうか、3日目は感染症にならないようにIABPのバルーンをはずせるかどうかです。」


翌12日の朝、7時半頃、病院で一夜を明かしたトモちゃんに、ドクターが言われた。


「一番心配していた最初の難関を越えましたよ。脳梗塞の危険はないです。麻酔からもだんだん覚めてきています。これからもひと山越えた、ふた山越えたとやっていきましょう。」


うれしい!! ありがとうございます!!
気がつけば、やさしく声をかけてくれたドクターの手を握りしめていたという。
涙があふれた。


その後、またひと山越える。午前中に呼吸器がはずれた。
僕にその覚えはない。そもそもからして呼吸器がつけられていたことの覚えがない。
後日、一般病室にもどってから、鼻の穴のところに一部傷があることに気づく。そこで「ああ、ここから呼吸器のチューブが入れられていたのか。きっとこすれて化膿したんだ。」などと想像した次第である。


僕はその日の昼前に意識がもどったようだ。
トモちゃんのノートに、「午前11時、面会できた。意識あり。話しかけたことを理解してくれた。(僕が)右手指でOKサイン」とある。
僕はこのとき、看護士さんの声(「奥さんが見えてますよ」)で眠りからさめたように思う。


足掛けでは3日だが、実時間では前々日の午後2時か3時頃からだから、丸2日にも満たない44〜45時間の眠りだ。ところが、僕には2日や3日どころではない、何日間もの眠りから覚めた感じがした。
意識がもどって間もなくか、僕は「あー、自分は生きている! 助かったのではないか」と思った。
意識がもどったからこそ、そう思える。ありがたいことだ。
その気持ちが右手指のOKサインにもあらわれたのだと思う。


が、そう思った、というよりも、そう思えたのは、ほんのちょっとの間だったと思う。


その時点では、客観的には「ほとんど助かっている」と言ってもかまわないと思う。
けれど、そのときの僕には自分の「生」を確かめ、その喜びにひたる余裕など、まったくなかった。
そのときも、「いま、現在を生きる」ことに必死だった。
意識がもどるということはそういうことでもある。
生協病院、大学病院あわせて計28日の入院期間のなかで、僕にとってはもっとも苦しい数日間の始まりでもあった。


何が苦しかったか。一番苦しかったのは、身体が拘束されていたことである。
大きな手術後なので、拘束は当然のことなのかもしれないが、身動きできないことがこれほど苦しいとは!


開胸手術をおこなった上体や足(バイパス用に静脈を採った左足)を動かせないのはわかる。
気がつくと手首が縛りつけられていて手や腕も動かすことができない。
さらには、「そこまでやるの?」と思われるかもしれないが、手袋まではめられていて指の自由さえない。この手袋は親指以外の4本がいっしょになったものだ(僕の郷里・北海道では「ぼっこの手袋」という)。
1日2回(午前1回、夕方1回)の各10分ほどの面会のときにだけはずされる。


そこまでするのは理由がある。指に自由があると動かして、手首を縛っているひもをはずすようにもなる(実際、僕は一度はずした)。僕が苦しくなって暴れ、心臓を保護しているバルーンのカテーテルを自由になった手でどうかしようものなら、大動脈を傷つけて大変なことになる。


僕はだんだんと力がなくなっていくのだが、手術後しばらくは相当に腕力もあったようだ。
僕が覚醒して暴れないようにと軽い麻酔をずっとかけ通しだったという。
弱く麻酔が効いていたからなのか、夢をよく見た。
悪い夢が多かったと思う。


トモちゃんが面会のために集中治療室(ICU)に足を踏み入れたところ、甲高い声が聞こえてくる。
「なに? この奇声は?」「動物がいるはずもないのに」と思いながら近づいてみると、なんと声の主は僕だったという。悪い夢を見ていたからだ。
半ば覚醒しているときは、幻覚がしょっちゅうだった。


呼吸器ははずれていたが、酸素マスクははずせない。
息ですぐに蒸気がいっぱいのようになるのだが、拘束されているので、手を持ってきてちょっと外気を入れるということもできない。


拘束されていて、身体が動かせない状態が続き、背中が固まって鉄板のように重く冷たかった。


集中治療室では、苦しく辛いことがたくさんあった。
が、それらは間違いなく「生」への確かな一歩、一歩だった。


術後5日目に一般病棟の回復室(TCU)に移り、その後2日で一般病室にかわることができた。
順調そのものだった。けれど、その傲慢な考え方は正されなくてはいけなかった。
冒頭まもなく紹介した、トモちゃんからの衝撃の一言(「たっちゃんは危なかったんだよ。命を落としかねなかったんだよ」)は、一般病室にかわったその日だった。


退院はその10日後、10月27日だった。
とても天気の良い日だった。秋風が気持ちよかった。
娑婆にもどれたと思った。とてもうれしかった。
これ以上の喜びはない、と言ってよかった。





皆さんに改めてお礼を申し上げます。
お見舞いやメールをいただいたことが、またホームページ掲示板への書き込みも
どれほど僕を勇気づけ励ましてくれたことかわかりません。
ありがとうございました。


退院後もいくつも波がありました。
頭痛や顔の火照り、不安定な血圧、昨年正月半ば過ぎからの「過呼吸」「不安神経症」、時々ある不整脈、「感染症」での入院等々・・・


でも、これらも皆さんのおかげで無理せずにすみ、のりこえることができました。
初めに記したように、このところずっと快調です。


感謝!しています。
本当にありがとうございました。



このページの一番上→


僕の「過呼吸」や「不安神経症」の体験については、こちら →「親の会」HPの記事 「不安を否定しない」


僕の手術直後の「幻覚」などについては、こちら →「ダメな自分も・・・」


2005年秋・トモちゃんの掲示板書き込みはこちら →


TOPページ → 




最終更新 : 2012.5.2
Copyright (C) 2002-2012 「たの研」内沢達のホームページ