「たの研」内沢達のホームページ
TOPへ戻る

TOPページ → たのしい授業・仮説実験授業 → 学生による大学の授業評価



「北海道大学大学院教育学研究科紀要」第85号
(2002年3月発行)49〜65ぺ
原稿執筆は、2001年11月


学生による大学の授業評価
--私がおこなっている「仮説実験授業」について--




 この秋、2001年10月1日で、私が鹿児島大学に勤めるようになってから、ちょうど25年が経過した(19年半教養部在職後、同部廃止にともなう組織改組により教育学部に配置替えとなって4年半)。


 本報告は、最近の私の授業に対する学生の評価の概要を紹介するものである。
ご存じの方は、私が以前から何度か、同種の報告をしてきているように思われるかもしれない。


 一回一回の授業についての学生の評価や感想については、これまでもたしかに紹介してきたが、一つの授業について、半年間計13回ほどの授業全体に対する数値も含めた学生の評価を報告するのは、今回が初めてである。


 現在、私は、年間10コマ(前期5、後期5)の授業を担当している。
うち4コマが全8学部の学生を対象とした教養科目である。


 「たのしい授業と教育の諸問題」と「仮説実験授業」という2種類の授業を前・後期に各1回おこなっている(それらがどのような授業内容であるのか見当をつけていただくために、末尾にシラバスを掲載した)。


 この2科目ともう一つ、教育学部以外の教員免許取得希望者に対して開講している教職科目の一つ「教育学・」の、計3科目について、今回は主に終講時の学生の5段階評価を報告する。


 後に見ていただくように、いずれの科目も学生からとても高い評価を得ている。
二百数十人という相当な多人数授業においてもである。


 どうして良い評価を得ることができているのか。


それは、私の授業の中心に板倉聖宣氏が提唱した仮説実験授業があり、毎回学生が〈学び考えるに値する問題を用意している〉と同時に、授業運営法としては学生に発言を強制しないことなど〈授業における押しつけを排除している〉から、と考えられる。


 いまでは、大学における学生による授業評価はめずらしいものではない。
これを自然におこなっている教員が多いとはまだまだ言えないだろうが、学部や大学全体で組織的に取り組むところも増えてきた。


 しかし、それも近時のことである。
仮説実験授業の場合は、38年前の1963年に提唱された当初から、授業を受けた子どもたちから必ず評価を聞くことが求められてきた授業である。


 仮説実験授業の評価基準は、明確である。
その授業の良し悪しは、子どもたちの評価が決めるという考え方が一貫して基本にある。


 提唱者である板倉聖宣氏は、1968年の講演のなかで、授業の成功失敗の基本的条件として、次の3点をあげた。




@“クラスの過半数の子どもがこの授業をおもしろい、たのしいということ─少なくとも「つまんない」「いやだ」という子どもが例外的にしかいないこと”


A“子どもたちの圧倒的多数が、この授業がわかるということ”


B“先生が、またこれをやってみたいと思うほどのたのしさ、おもしろさがあるということ”
(板倉聖宣『仮説実験授業のABC』第4版、仮説社、1997年、43ぺ参照)




 Bも、@Aでの子どもたちの肯定的な評価があればこそのものである。


そこで、仮説実験授業提唱時からの授業実践者の一人である西川浩司氏は、自著のタイトルを『授業のねうちは子どもがきめる』(仮説社、1986年初版)としているほどでもある。


 私の場合は、12〜13年前の1988〜89年頃から、本格的に仮説実験授業をおこなうようになった。


 これまでの教員生活の半分ほどの期間であるが、トータル25年という節目に、私自身の到達点として以下に記させていただく。


 個々の仮説実験授業が大学生からも強く支持されていることは以前の報告でも明確であるが、一つの授業を終えたところでの全体を通しての評価はさらに高い。


 仮説実験授業は、その授業内容においてだけではなく、授業評価を必須のこととしておこなっている点でも、もっと注目されてしかるべきものであろう。




1「たのしい授業と教育の諸問題」についての終講時の全体評価


 教養科目「たのしい授業と教育の諸問題」についての、今年度(2001年度)前期末、終講時の学生の5段階評価は、表1の通りである。


 評価項目の@は、仮説実験授業の考え方から当然にも、「たのしかった」かどうかである。


 Aは、調査アンケート用紙の表現では「この授業は〈発想を豊かにすることわざ・格言〉や〈ものの見方や考え方〉についての講義にも力をいれてきましたが、受講してみて『ためになった』と思える授業でしたか?」と聞いたものである。


 私の場合、〈登校拒否〉や〈いじめ〉といった教育の諸問題について学生諸君に考えてもらうときにも、仮説実験授業を提唱した板倉氏の発想法などを適用して講義をおこなってきている。
その意味あいで、このことも広義の仮説実験授業に対する評価といってもよい。


 Bは、「この科目の受講を友人、知人、後輩などに『薦めたい』と思いますか?」と聞いたものである。


<表1>「たのしい授業と教育の諸問題」の全体評価(2001年度前期 268人)

5 4 3 2 1 無記入 5と4の合計%
@ とてもたのしかった(とても興味深かった) たのしかった(興味深かった) たのしかったともつまらなかったとも言えない(どちらでもない) つまらなかった まったくつまらなかった
人数 90 145 30 3 0 88%
A とてもためになった ためになった ためになったともためにならなかったとも言えない(どちらでもない) ためにならなかった まったくためにならなかった
人数 132 120 16 0 0 94%
B 強く薦める 薦める どちらとも言えない 薦めない まったく薦めない
人数 92 153 21 0 0 2 92%




 表にある通り、評価はとても高く良い。
 5と4の合計は、@は88%、Aは94%、Bは92%にも達する。


 否定的な評価をした学生は、@で「つまらなかった」と答えたわずか3人にすぎない。
この結果に、私は一段と力を得る。


 ただし、少し注釈も必要である。
 じつは、この終講時の評価・アンケートは、記名式でおこなった(今年度前期は、開講時に学生に約束していた出席調べの回数の関係で、授業の最終回におこなった全体を通しての評価であっても、記名してもらわなければならない経緯があった)。


 そこで「な〜んだ、記名式か。それでは本当のことはわからない!」とお考えの方がおられるかもしれない。
 たしかに、学生のなかにはどこかで良く思われたいと考えて適当にマルをするものも皆無とは言えないだろうし、疑わしさがその点では残る。


 しかし、記名式では本当の評価はわからない、と私は考えない。
記名式の評価も全体としては、十分に信用するに足るものである。


 その理由の第1は、後に教職科目「教育学T」のところで数値を紹介するが、無記名でも、同じく200人を超える多人数授業であるにもかかわらず、やはり高い評価(項目によっては記名式以上の良い評価)を得ているからである。


 第2は、同じ教養科目「たのしい授業と教育の諸問題」について、3年前(厳密には2年半前)の1998年度後期に無記名でアンケート調査をおこなっているが、同様に高い良い評価を得ているからである。


 表2は、そのときの結果であるが、これは早くから学生による授業評価をおこなってきた大学の一つ、慶応大学湘南藤沢キャンパス(いわゆるSFC、総合政策学部と環境情報学部)の授業調査用紙をそのままプリントさせていただいておこなったものである。





<表2>慶応SFC評価項目にもとづく「たのしい授業と教育の諸問題」の全体評価(1998年度後期 132人)

強くそう思う そう思う どちらとも言えない そう思わない 全くそうは思わない 無回答 5と4の合計%
@この授業の内容は体系的だった 4 61 46 10 2 9 53%
Aこの授業で使われたテキスト、配布資料などは有益だった 33 78 18 2 0 1 85%
Bこの授業では、黒板、OHP、ビデオ、スライドなどの使い方が効果的だった 10 55 44 18 2 3 50%
C抽象的な観念・理論をよくわかるように説明された 26 48 44 9 0 5 58%
D話し方が聞き取りやすかった 33 70 20 8 0 1 79%
E授業の内容は興味のあるものだった 55 68 8 1 0 0 93%
Fこの授業は自分にとって価値があった 58 60 11 3 0 0 89%
G授業担当者は学生の参加を促し、学生に十分応答した 38 51 34 5 0 4 70%
H授業担当者は、学生に適切に助言を与え相談にのってくれた 7 28 77 13 0 7 28%
I授業担当者は授業の際、クラスをうまくまとめた 9 47 60 12 1 3 43%
J私はこの授業によく出席した 59 49 19 4 1 0 82%
K私はこの授業に意欲的に取り組んだ 20 61 39 12 0 0 61%
L私はこの授業をほかに学生に薦めたい 36 69 24 3 0 0 80%




 評価項目が多いので、またSFC用紙の説明にも「この授業に該当しない場合、あるいは不明の場合には、空欄のままにしてください」とあることから、項目によっては無回答も少なからずある。


 ところで、この表2のなかで、表1の評価項目とほぼ、あるいはまったく同じと言ってよい項目は、E「授業の内容は興味のあるものであった」、F「この授業は自分にとって価値があった」、L「私はこの授業をほかの学生に薦めたい」である。


 それぞれ、表1の@「たのしかった(興味深かった)」、A「ためになった」、B「受講を薦める」に対応する。表2にある回答の選択肢「強くそう思う」と「そう思う」は、5段階評価の5と4に当たることは言うまでもない。



 そこで、その合計を見ると無記名でも、E「興味のあるものであった」93%、F「価値があった」89%、L「薦めたい」80%、となり、やはりとても高い評価なのである。


 だから、評価が無記名だと低く、記名にすると高くなる、とは言えない。


 さらに、ほぼ同じ授業内容であっても、この3年の間に、私自身の講義の仕方に改善や工夫があったことも考慮される。


 たとえば、〈登校拒否〉や〈いじめ〉の問題について、学生のなかにもともとある様々な考え方を尊重しながらも、教員である私の考えを押しつけることなしに、どうしたら新しい見方や考え方を伝えることができ、多くの学生にわかってもらえるのか。


 そういったことについても、私の場合は板倉氏の発想法やものの見方・考え方を適用することによって、講義内容がいっそうわかりやすくなってきているように思っている。


 されば一部にいい加減な回答があったとしても、全体として否定的な評価が一段と少なくなり、項目によって肯定的な評価がさらに増えていることは、私自身十分に了解できることである。 




2 授業感想文は「書かせる」のか「書いてもらう」のか



 記名式の評価も全体的には十分に信用できる第3の理由として、じつはこの理由こそが無記名の場合も同じく決定的に大切なことで、私がもっとも強調したいことなのだが、その調査アンケートへの回答が教員の命令によりなされたものではなく、教員が頼んでお願いをしておこなわれたものであるならば信用に足るものであることを指摘したい。


 私の場合は、別に開講時から、成績評価の方法(上記科目の場合、期末試験70・出席30といった配点ウェート、レポート提出による加点、再試験受験資格、成績評価への質問、異議申し立て、教員の説明責任など)を明らかにする一方で、授業評価が成績に影響するものではいっさいないことを説明しつつ、かつ「お願い」をして評価してもらっている。


 先にも少し述べたが、仮説実験授業は絶えず子どもたちの評価を聞きつつ、子どもたちの圧倒的な支持を得ながら発展してきた授業である。


 そのことにかかわって、同授業の実践者の一人は次のように述べる。



 「子どもたちのため」と言いながら、ほんとに「子どもたちのためになったかどうか」を調べてこなかったのが、今までの教育でした。


 仮説実験授業が、初めて「子どもたちのためになったかどうか」を子どもたち自身に聞くということを言い出したのです。


 ところが、ボクは、一方でそう思いながら、もう一方では、どうしても「授業の評価は子どもが決める」ということを納得できなかったような気がします。


……(中略)……



 ところが、こうやって、仮説実験授業が子どもたちに大歓迎されるようになって、ボクはだんだん「授業の評価は子どもが決める」という考えを受け入れることができるようになりました。


 子どもたちに「こんどの授業もよかったよ」と評価してもらえることが、教師の幸せだと思うようになりました。 


 こういうことって、実際に評価してもらえて初めて、「評価されるっていいなあ」という気になります。だから、授業書があって、だれでもたのしい授業が実現できる方法が具体的にできて初めて「授業の評価は子どもが決める」と言えるようになったんでしょう。



(藤森行人「授業の進め方入門」、前掲・板倉『仮説実験授業のABC』第4版、160ペ)



 普通、「子どもたちのため」と言わない教育者や教育研究者は、ただの一人もいないだろう。


 なのに、ほとんどの場合、子どもたち自身に評価してもらおうとしないのは、なぜだろうか。


 「子どもたちのため」ということがたんなるかけ声であったり、建て前にすぎないということも考えられるが、根本において、評価してもらいたくなるような、教師が教え子どもたちが学ぶに値するような授業内容がそこには用意されていないからである。


 私の場合も、大学で仮説実験授業を本格的におこなうようになってから初めて、「たのしかった」かどうかを、ずばり5段階で評価を聞くことが教員としての楽しみにもなってきた。


 関連して、評価の一つの内容でもあるが、板倉氏は子どもたちに書いてもらう授業感想文のことについて、次のように述べている。


 私はこれまで「子どもたちに感想文を書いてもらう」ことの大切なことを力説してきましたが、似たことをときどき「感想文書をかせる」と言う人がいることが気になっています。


 こういうと「教師は子どもたちの指導者なのだから、〈子どもたちに○○をさせる〉という表現をして何が悪い」と反発されるかもしれません。


 しかし私は、感想文に限って絶対「書かせる」と言ってはいけない、と思うのです。


 授業感想文というものは、頼んで「書いてもらうもの」であって、命令して「書かせるもの」ではない、と思うからです。


 そういえば、普段は威張っている代議士先生方でも、ひとたび選挙となれば、平身低頭の姿になるではありませんか。
 授業感想文を書いてもらうときだけは、教師は平身低頭の姿をとるべきだ、と思うのです。


 教師がそういう姿勢を保ってはじめて、子どもたちは教師におもねったり卑屈になったりすることなく、授業について自分の感想・意見を率直に書くことができると思うのです。


 教師が、子どもたちに「授業感想文を書かせる」などと命令的に考えていると、子どもたちは感想文を書くことを嫌がるようにもなるでしょう。
 注意してほしいことだと思います。


 子どもたちに「書かせた授業感想文」は信用できないかも知れないのですが、「書いてもらった授業感想文」はほとんど信用できるのです。


そのことは、大部分の人は、感想文を読んだだけですぐに気づくことです。


 そこで素晴らしい感想文を読んで驚いた人々の中には、「仮説実験授業の人たちは、子どもの感想文を書き変えているんでしょう?」という質問をする人さえいます。

 
 子どもの読書感想文など、教師がしばしば書き変える習慣があってのことに違いありませんが、そんなことをしなくても、というか、そんなことをしないから、素晴らしい感想文が現れるのです。」



(板倉「子ども本位の教育思想と感想文」、初出・仮説社『たのしい授業』1994年2月号、板倉『教育が生まれ変わるために』仮説社、1999年、87〜88ペ。下線、内沢)



 大学でも「感想を書かせる」「書かせた」などの言葉をときどき耳にする。
 「書かせた」ものは信用できないが、「書いてもらった」ものはほとんど信用できる。


 5段階での授業評価も同じことである。
そのとき、教員はあきらかにいわば「被告」の立場にある。


 その立場を明確にして、平身低頭、学生に「お願い」をして「評価してもらった」結果は、そのほとんどが信用できると思う。




3 「発言しない自由が自由の第一歩」


 先に、私の授業が学生から高い評価を得ている理由の一つとして、授業における押しつけを排除していることをあげた。


 しかし、かつての私の授業はそうでなかった。たぶんに押しつけ的なところがあった。
教員である私の考えを学生になんとか理解してもらいたいと思って、説得を試みることもしばしばであった(思い出せば恥ずかしい限りだ)。


 仮説実験授業をおこなうようになってから、それが徐々に変わっていった。


仮説実験授業はいっさいの押しつけを排除した授業である。そこでは、普通、問題が選択肢をともなって提示され、子どもたちに予想を立ててもらう。


 その後、その理由を発表してもらったり、討論があったりするが、決して発言は強制しない。
予想の理由は「なんとなく」でもかまわない。


 「となりのクラスでは討論がもっと活発だったぞ」などと討論を押しつけることは絶対にしてはいけない。


 最後は実験で正答を確かめるが、そのときも「だれ君の考えが正しかったね」と言う必要はない。


 わかっていない子どももいるから言わなければと思うかもしれないが、言えば押しつけになる。
 押しつけなくても、いや、押しつけをしないからこそ、同種の問題についての予想、討論、実験を繰り返しおこなうなかで、大多数の子どもたちが基本的な原理・法則などを理解するようになる。


 そのような仮説実験授業に力を入れてきた私の授業は、他の授業場面でも変わらざるを得なかった。


 7〜8年くらい前からだろうか、学生の授業感想文のなかに「先生の授業は、どんな考えや意見も認めてくれるからうれしい」といったものが目立つようになってきた。


 先に、板倉氏の発想法などを適用して、〈登校拒否〉や〈いじめ〉についての講義もおこなうようになってきたと述べたが、今年度前期末試験では次の問題を出した。


 下記〈ことわざ・格言〉のうちの4つ以上について、授業内容とかかわった説明を加えながら、この授業から学んだことを1000字以上記されたい(字数は一字一字数える必要はありません。
ある程度書いたら、一行だけ字数を数え、掛ける行数でおよそ1000字以上の見当をつけてください。


 字が大きい人やたくさん書く人は、答案用紙の裏面も使ってください)。
それぞれの〈ことわざ・格言〉については、個別的に説明を加えてもよいし、またいくつかを関連させて述べてもかまいません。


 答案のなかの〈ことわざ・格言〉部分には、アンダーラインを太く引いてください。(配点70点、出席点30点とあわせて100点)


・発言しない自由が自由の第一歩

・アタマがいいから間違える

・馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうどいいのは俺の足

・なんとなくも理屈のうち(なんとなくも立派な理由)

・悪事は善意から

・ビリッかす、向きを変えれば先頭に

・どちらに転んでもシメタ

・「なのに」と言ったら「だから」

・束縛によって得られる自由もある

・自由は必然性(法則性)の洞察

・最後にだますのは自分(「他人の評価の影」におびえない)

・いい加減はよい加減



 この問題に対する一人の学生の答案の一部分を続いて紹介する。


 
「発言しない自由が自由の第一歩」。この格言を授業で聞いて、私は、はじめて発言しない自由があるということを知りました。


 私はいつも授業や会のなかで指名されたり、意見を求められたりされると、なにか言わなくてはならないものだと考え、よく頭をひねりながら無理に発言をしていました。


 発言する内容がなくても当然に答えるべきだと思っていたからです。


 私は指名という行為に対しても深く疑問をもっていました。
 しかし、授業で先生が、「分からなければ“パス”でいいんですよ」とおっしゃられたのには、私のこれまでの常識をくつがえすものがありました。
 指名をうけて答えなくてもいい? そんなんで授業が成り立つのだろうか、とはじめは思いました。


 変わった先生だなぁとも思いました。


でも、実際に授業を受けてみると、それほど「パス」の声は聞かれず、けっこう多くの人が自由に発言しています。なんでなのか? そのことについて私なりに解釈してみました。


 先生は私たちに「発言しない自由」を与えてくれた。
そのことで発言することに対する今までの重い考え方が軽く考えるようになったために、逆に発言することを自然にできるようになったのではないだろうか、という結論にいたりました。


 「発言しない自由が自由の第一歩」という格言には、単に発言しない自由というだけではなく、それに加え、新たな考え方の転換というべきものが含まれるのではないかと私は考えます。


 発言をもし強要されたのなら、逆に自由を奪われ、自由な発想を遠ざけてしまうのではないでしょうか。


 「たの授」の授業では、大学の授業のイメージとは全く異なったものがありました。
 自分の意見とは異なった他者の意見をもっとも多く耳にすることができたし、とても新鮮味がありました。


 これが一般の中学、高校などの授業でためされたのなら、発言しない自由=発言する自由の2倍効果で、小学生なみの発言力が生まれる。
私はこの授業をとおしてそう確信しました。(後略)



 私の授業では、大教室での多人数授業であっても、この学生が書いてくれているように、けっこう多くの学生が自由に発言している。


 なぜだろうか。それも学生が述べる通りである。「発言しない自由」が保障されていたからこそ、「逆に発言することが自然にできるようになった」と考えざるをえない。


 学生自身が積極的に参加してみようと思える授業の実現のためには、まず前提として授業内容そのものに、学生が学び、考えるに値するものがなくてはならないが、あわせて発言を強制しないことなど〈押しつけの排除〉を欠くことができない。





4 個々の仮説実験授業についての評価


 上記科目「たのしい授業と教育の諸問題」のなかでおこなった個々の仮説実験授業に対する学生の評価結果についても、その数値だけ報告する。表3を見ていただきたい。


<表3> 個々の仮説実験授業についての評価(2001年度前期「たのしい授業と教育の諸問題」)

5 4 3 2 1 無記入 合計人数 5と4の合計%
とてもたのしかった(とても興味深かった) たのしかった(興味深かった) たのしかったともつまらなかったとも言えない(どちらでもない) つまらなかった まったくつまらなかった
ものとその重さ 73 128 23 1 0 1 226 89%
月の満ち欠け 53 136 79 3 0 271 70%
世界の国旗 61 123 68 8 1 1 262 70%

(「無記入」とは、評価感想文用紙に感想は書いても5段階評価をし忘れたものをいう。以下の表でも同じ)



 後に報告するものも同じであるが、一回一回の仮説実験授業については、「たのしかった」かどうかだけを聞いている。


 〈ものとその重さ〉については、5と4の合計が89%でとても高い。
それに比べると、〈月の満ち欠け〉と〈世界の国旗〉については、同じく70%で、評価が下がる。


 しかし、過半数ははるかに超えており、否定的な評価をした学生も一けたであり、もちろん基本的には成功である。


 なお、〈ものとその重さ〉のときの出席者が少ないのは、ゴールデンウィーク中の授業だったことによる。


 関連して、他の2回の出席者数と先の表1の合計人数はだいたい同じであることに少しご注目いただきたい。


 日頃授業にはあまり来ないで、試験直前の最後の授業に出席してアンケートに適当な回答をする、そういった学生は、このことからもいたとしてもごく僅かであったと考えることができ、先に紹介した全体評価の信頼性を高めているものと思われる。


 この授業をおこなっている教室は、前期の場合1階にあり、外からも比較的見えるところなので、これまで私の授業について、同僚から「内沢さんの授業は学生が減らないね」などと言われることが度々あった。


 大学の授業は、教養科目の場合は特に「最初と最後が多い」ということをよく耳にするが、私の場合は、ほぼ一定している。





5 教養科目「仮説実験授業」について


 この科目は、内容がすべて仮説実験授業であり、同授業を比較的少人数で楽しんでもらおうと、上限45人に受講制限(抽選など)をしておこなっているものである。


 一回一回の授業についての評価を多めに聞いた(後述)昨年度(2000年度)後期の授業全体に対する、学生の5段階評価の結果は表4の通りである。


 所属学部や氏名は、「書いても書かなくてどちらでもイイです」と調査用紙に記していたが、8割方の記入があった。



 @全体を通して授業は「たのしかった」かどうか、Aこの授業を受けて「よかった」かどうか、Bこの授業を他の学生にも「薦めたい」と思うかどうか、を聞いたものであるが、5と4の合計は、それぞれ95%、95%、87%と非常に高く、否定的な評価をしたものは、@での1人にすぎない。


<表4> 「仮説実験授業」の全体評価(2000年度後期 38人)

5 4 3 2 1 5と4の合計%
@ とてもたのしかった たのしかった たのしかったともつまらなかったとも言えない(どちらでもない) つまらなかった まったくつまらなかった
人数 25 11 1 1 0 95%
A 受けてとてもよかった 受けてよかった よかったかどうかは言えない 受けたことを後悔している ひどく後悔している
人数 29 7 2 0 0 95%
B 強く薦めたい 薦めたい どちらとも言えない 薦めない  まったく薦めない
人数 19 14 5 0 0 87%



 あわせて書いてもらって感想文についてもいくつか記しておきたい。学部名(「無」は記入がなかったものである)の後の数字は、@、A、Bについての、5段階評価である。


◎仮説実験をうけて、そして、最後の授業をうけてみて、考えたことは、今までは、仮説実験授業は、楽しくて分かる授業だと思っていましたが、それは違って、楽しいが分からない→楽しく分かる、への授業だったのだなあと思います。とても楽しかったです。(医 5-5-5)


◎この授業は、今までとった教養の授業のなかで一番面白かったと思います。(工 5-5-5)


◎変な言い方だけど出席すれば単位がとれるので楽でした。でもそれはあくまで付随的なもので実際たのしい授業でした。(無 5-5-5)


◎今までこんな変わった授業は受けたことがありませんでした。授業というものに対する考え方が変わりました。(農 5-5-5)


◎楽しかったです。意見を求められたりするのも小学校か中学校以来で、どきどきしました。(理 5-5-5)


◎大学の講義となると、先生が一人でしゃべって、黒板にいろいろと書いていくというのが多いなかで、この講義は、いろいろな質問に考えて、自分の考えを一回一回発表するもので、自分が満足できたもの、他の人の意見を聞いたり、ためになることが多かった。(工 5-5-5)


◎普通の講義に全くでない私が来ているのだから、やっぱりスバラシイ授業だと思う。
 実験や体育しか、後期は行っていないのだが、やっぱり楽しいから行っているし、この講義は何か楽しい。(理 5-5-5)



◎学校教育でのあるべき授業がこの授業だと思う。
 こういった授業をもっと受けて来たかった。大学にきてから受けられたことは逆に考えれば残念なことである。(理 5-5-5)



◎この授業を通して感じたことは、自分で考えるということの大切さ、周りに合わせた意見なんてあかん。
 自分の意見を出す、考えを明らかにすることは大変重要である。
 この大学に入って一番楽しい授業でした。(理 5-5-5)



◎毎回来る度に新しい発見がありました! ほんとにたのしかったです。
 この講義は抽選だったので受かってよかったとほんとうに思いました。(法文 5-5-5)


◎自分はこの授業を受けて楽しいと思ったし、受けてよかったので、友人にも薦めたいけど、人の自由なんで強くはすすめようとは思わないかな?(理 5-5-4)


◎とにかく、この授業は、私にとって今までにない授業であった。
 わかっているようでわかっていなかった事がたくさんあるということに気付かされたと思う。


 自分が知ろうとしたり、確認したり、受け身でない授業のおもしろさを知った。
 これをもっと早くに知っておきたかったと思う。(工 5-5-4)


◎大学の授業の中でもめずらしい種類の授業だった。
 知識の再発見と「授業」というもの自体を考えるものだった。
 終わってしまってで遅いけど、もっと人とうちとけられたら、意見とかももっと活発に出てきたのかもしれない。(無 4-4-4)


◎自分の習った知識というのが、全くあやふやであり、一つ二つの事例でしか生かされない事が多々あり、その事にショックを受けたが、部分的な事だけで全体を見ることの難しさを知ったのはよかったと思う。


 この授業は特に押し付けもなく、必ず理解させるという姿勢ではないのが、個人的にかえって自分の意欲を増大させる結果につながったので、楽しかった。(無 4-4-4)


◎この講義は他の講義と違って知識を教えるだけでなく、自分の考え方が広まると思う。
また、自分が今まで信じてきていたことが、実は間違っていたことを知って大きな発見ができると思った。この講義を受けてよかったと思う。(無 4-4-4)


◎俗に伝えられている話が間違った知識だとか自分が勉強してきた学問(特に理科)が日常何気なく見ている物事にどう生かされているのかが分かったことが自分にとって一番この授業を受けて良かったと思うところだった。(工 3-4-4)


◎この授業をうけて、何となく考え方の転換というか、あーこういう見方もあるのかと思った。楽しかったですよー。とても。(医 5-3-3)



 以上がこの科目全体を通しての評価と感想であるが、先に同じく個々の仮説実験授業についての評価結果も記しておきたい。


 次の表5をご覧いただきたい。
全体に対する評価に比べると少し下がるものが多いが、5と4の合計が70%台にとどまるものは一つだけで、他はすべて8割以上というように、やはり高い評価を得ている。


なお、これらはすべて記名式の評価結果である。



<表5> 個々の仮説実験授業についての評価(2000年度後期「仮説実験授業」)

5 4 3 2 1 無記入 合計人数 5と4の合計%
とてもたのしかった(とても興味深かった) たのしかった(興味深かった) たのしかったともつまらなかったとも言えない(どちらでもない) つまらなかった まったくつまらなかった
自由電子が見えたなら 19 19 1 1 0 40 95%
もしも原子が見えたなら 11 25 5 0 0 1 42 88%
生類憐みの令1  18 18 3 0 0 39 92%
生類憐みの令2 9 20 3 1 0 2 35 88%
2倍3倍の世界 16 17 4 3 0 1 41 83%
迷信はどのようにして広まるか 10 19 9 2 0 40 73%
光と虫めがね 17 14 3 1 1 36 86%
おかねと社会 7 24 7 0 0 38 82%
ものとその電気 28 10 2 0 0 40 95%





6 教職科目「教育学T」について


 上記2科目は途中で名称を変えたりもしたが、ほぼ同じ内容で10年以上続けておこなってきている。


 同じく長きにわって担当してきている科目に、教育学部以外の学生を対象とした「教育学T」という教育職員免許法上の科目がある(私の場合、後期のみ開講)。


 私はこの科目を通して、中学・高校の教員免許取得希望者に対して、教育の理念や目的といったことをできるだけ具体的に考えてもらおうとして、やはり仮説実験授業の紹介に力を入れつつ、教員になれば必ず出会う生徒指導上の問題を取り上げてきた。


 後者については、数年前から「たのしい生活指導」という考え方も鮮明にして講義をおこなってきている。


 終講時のこの科目全体に対する学生の評価は、表6の通りである。先に述べたように無記名での調査結果である。



<表6> 「教育学・」の全体評価(2000年度後期 216人)

5 4 3 2 1 5と4の合計%
@ とてもたのしかった(とても興味深かった) たのしかった(興味深かった) たのしかったともつまらなかったとも言えない(どちらでもない) つまらなかった まったくつまらなかった
人数 87 111 16 1 1 92%
A とてもためになった(とても役立ちそう) ためになった(役立ちそう) ためになったともためにならなかったともいえない(どちらでもない) ためにならなかった(役立ちそうにない) まったくためにならなかった(まったく役立ちそうにない)
人数 140 65 10 0 1 95%
B 1800円の価値は十二分にあった(ある) 1800円の価値はあった(ある)  価値があったともなかったとも言えない 価値はなかった(ない) 価値はまったくなかった(ない)
人数 60 105 41 8 2 76%




 @は、これまで同様に私の授業が全体として「たのしい(興味深い)」授業であったかどうかを聞いたものである。5と4の合計は、92%でとても高い。


 Aは、「ためになった、また将来教職についたときに役立ちそうな授業でしたか?」と聞いたものである。
 5と4の合計は、95%でさらに高い評価である(5の評価が65%にもなっている)。



 Bは、授業全体に対する評価ではないが、この科目の必読図書についての貨幣価値的な評価をあわせて聞いたものである。


 東京で中学校教員をしている小原茂巳氏の著書『たのしい教師入門』(仮説社、1994年初版)について、授業期間の中途までに簡単なレポート提出を求め、そこで出された意見や疑問、感想をもとに後半の講義をすすめた。


 4分の3ほどの学生が購入した模様であるが、1800円(税別)の価値があったか、なかったか(購入していない学生の評価は、あるかないか)を聞いた。


 金銭をともなった評価であることを考えると、5と4の合計が76%(例年、だいたい8割前後)というのは、とても高い評価と言ってよい。


 この小原氏の著書、そして氏の数々のたのしい授業やたのしい生活指導の実践があればこそ、それらを私が授業で紹介することができ、@、Aで90数パーセントという高い評価を得られたという関係にある。


 次に、この科目のなかでおこなった個々の仮説実験授業についての評価結果も記しておきたい。表7であるが、教養科目「仮説実験授業」においてもおこなっているものである。


 受講生の重なりは、例年一けたの人数でほんの数パーセントである(「2度目だけど、やっぱり仮説実験授業はたのしい」などと感想を書いてくれる)。
 200人前後の多人数授業でも、5と4の合計が70〜93%というように高い評価を得ている。



<表7> 個々の仮説実験授業についての評価(2000年度後期「教育学T」)

5 4 3 2 1 無記入 合計人数
とてもたのしかった(とても興味深かった) たのしかった(興味深かった) たのしかったともつまらなかったとも言えない(どちらでもない) つまらなかった まったくつまらなかった
自由電子が見えたなら 61 114 21 4 1 2 203
2倍3倍の世界 41 124 32 4 1 4 206
光と虫めがね 92 96 12 2 0 5 207
おかねと社会 35 103 51 9 0 2 200
ものとその電気 70 76 27 5 0 2 180





7 オープンキャンパスでの仮説実験授業


 学生による授業評価ではないが、未来の学生とも言える高校生による大学の授業評価を最後に報告する。


 「オープンキャンパス」などとネーミングされた、高校生や受験生に対する大学紹介事業が各大学において取り組まれている。


 鹿児島大学の場合、夏休み期間中におこなう全学部がそろっての、しかも大規模な取り組みは始まってまだ3年であるが、私はこの間連続して「たのしい授業への招待」というテーマで、1回90分の大学の授業紹介をおこなってきている。内容は、もちろん仮説実験授業である。


 1999年は「自由電子が見えたなら」、2000年は「ものとその電気」、そして2001年(今年)は「光と虫めがね」をおこなった。高校生の評価の結果は、表8である。


 @は、「今日の授業はたのしかった」かどうかを聞いた。
 Aは、「今日のような授業を大学入学後に(鹿児島大学に限らず、他の大学でも同じような授業があれば)、受けてみたいと思いますか?」と聞いたものである。


 いずれの、どの年の評価も、5と4の評価の合計が86%以上というように、とても高い。
仮説実験授業が、未来の大学生からも期待されている授業であることは間違いない。



<表8> オープンキャンパスでの高校生の仮説実験授業に対する評価

5 4 3 2 1 無記入 合計人数 5と4の合計%
@ とてもたのしかった たのしかった たのしかったともつまらなかったとも言えない つまらなかった まったくつまらなかった
1999年 86 89 24 2 2 203 86%
2000年 83 112 22 0 1 1 219 89%
2001年 95 133 21 4 0 253 90%
A 是非とも受けてみたい 受けてみたい 受けてみたいとも受けてみたくないともいえない 受けてみたいとは思わない 受けてみたいとは全く思わない
1999年 86 88 21 5 2 1 203 86%
2000年 74 115 27 1 1 1 219 87%
2001年 87 130 28 8 0 253 86%




 今年8月に高校生が書いてくれた感想文をいくつか紹介して、本報告を閉じたいと思う。


◎本当に授業かな?と思うほど楽しかったです。(伊集院高校)


◎私は昨年もこのオープンキャンパスに参加していたので、授業が始まる前に黒板に書かれたテーマを見て、「去年と同じか・!」と思ってしまいました。
 けれど、昨年とまったくといっていいほど内容が違い、昨年よりもさらにおもしろい授業でした。(国分高校)


◎高校の授業とは全くちがって、とても楽しい授業でした。
 こんな授業だったら毎日の学校が楽しいものになるなと思いました。
 是非、鹿大に行きたいです。(鹿児島純心女子高校)


◎大学の授業というと、すごくむずかしいものだと思っていたので、こんな楽しい授業があるなんて、すごく驚きました。(鹿屋高校)


◎「楽しいでした」って言うより、感動の連続でした。
 いつもふつうに過ごしていることが全く知らないことばかりで‥‥。
すごく良かったです。(志布志高校)


◎大学の授業というと退屈なのかなあと思ったけど、とても楽しかったです。
 すごく早く時間がすぎました。おもしろかったです。(鹿児島純心女子高校)


◎この前、他の大学の講義を受けたけど、話を聞いているだけでつまらなかった。
 けど、今回この授業を受けて、とても楽しかった。
 小さいころからずっとあこがれていたので、是非とも合格して、楽しい大学生活を送りたい。(鹿児島中央高校)


◎鹿大、最高!! 絶対合格してやるゼ。(鹿屋高校)


◎たくさん発言の機会があって楽しかったです。
 こんなに分かりやすくて、フレンドリーな授業は初めてだったので、すごく自分のキャラもだしやすく、少しも緊張せずに取り組めて、非常に実り多いものになりました。
 今日は本当にありがとうございました。(加治木高校)


◎難しいと思っていた授業も、すごく楽しくて、90分がすごく短く感じました。
 知らないことを知ってすごくためになりました。でも、先生にあてられないか、ドキドキしました。(鹿児島南高校)


◎大学の授業はなんとなく堅苦しいというイメージがあったけど今日の授業を受けてみて、とても楽しく分かりやすいと思いました。早く大学生になりたいです。(福島高校)


◎本当に楽しくて、あっという間に時間がたっていた。また、実験などもして今まで解らなかったこともわかり楽しく勉強できた。またこういう授業を受けてみたい。(日向工業高校)






(1)以前、私が大学でおこなっている仮説実験授業・たのしい授業について報告をしたものは、次の拙稿である。「仮説実験授業と教育学」(仮説社『たのしい授業』第101号、1991年3月臨時増刊号、170〜182ペ)、「教育における“子ども主権”を“たのしい授業”でつらぬく思想と方法」(『鹿児島子ども研究センター研究報告』第7号、1992年、9〜28ペ)、「大学でたのしい授業」(仮説社『たのしい授業』第167号、1996年4月号、59〜64ペ)。



(2)登校拒否の考え方については、拙稿「不登校と“教育を受ける権利”」(『日本教育法学会年報』第26号、有斐閣、1997年、88〜97ペ)、同「子どもの不登校と教育を受ける権利」(日本教育法学会編・講座現代教育法2『子ども・学校と教育法』三省堂、2001年、44〜57ペ)を参照願いたい。なお、私が世話人をしている「登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)」の会員向けにまとめた「ことわざ、格言(発想法)と登校拒否(不登校)」(未発表)がある。



(3)学生による授業評価の結果を授業感想文(十数人分の縮小コピー)とあわせて、プリントして次回以降の授業で配付している(他の科目の授業でも同じ)。



(4)「たのしい生活指導」の考え方とその実際については、「たのしい授業」編集委員会編『たのしい「生活指導」』(仮説社、1999年)を参照願いたい。



*鹿児島大学共通教育委員会『共通教育履修案内・シラバス』(2001年度)に記載がある私が担当している2科目について、以下に授業概要などを記す(開講期・曜日・時限などは略す)。




「たのしい授業と教育の諸問題」


授業の概要:


 知らないことを知ることは楽しい。意外なことを知ることはもっと楽しい。原理的・法則的なことを知ることはさらに楽しい。


 学校の授業は、だいたいにおいて「つまらないもの」というのが相場です。個人の努力によって、「勉強して分かるようになったから楽しい」、また「成績が上がったからうれしい」ということはありますが、学校で学ぶこと、授業自体が楽しいということはあまり聞きません。


 しかし、これからの学校教育、とくに教養教育は、「たのしい授業」の創造なしにはその活性化が期待できないでしょう。


 そういった意味あいで「たのしい授業」は、今後の課題でもありますが、じつはすでに相当の実績があります。


 この講義では、板倉聖宣さんが提唱した仮説実験授業をはじめとして、その具体例をいくつか紹介します(「磁石の魅力」「ものとその重さ」「ばねと力」「月の満ち欠け」「世界の国旗」「詩の授業」など)。また、「いじめ」や「登校拒否(不登校)」のことなど、教育の諸問題をどう考えたらよいのか、通り一遍ではない、「意外な」切り口で講義をしていきます。


 これまでの知識や理解では十分でない、また「反対のことを考えていた」ということも度々あるでしょうが、気にする必要はありません。


 「えっ、そんな見方や考え方があったの?!」と新しい発見をしたとでも思ってください。この講義に、学生のみなさんの、いまとこれからの人生に役立つ、なにかがあればと思います。



レベルと履修要件:

 この講義に、むずかしいことはなにひとつありません。「そのままの君で!」参加してください。


テキスト:

 なし。計50枚ほどのプリントを講義資料として使います。


参考書:

 板倉聖宣『未来の科学教育』(国土社)ほか50点ほどを開講時に提示します。


授業の進め方:

 ビデオや小道具も使います。マイクでインタビューします(言いたくない時や言うことがない時は「パス!」で、OKです)。何度か簡単な感想文と授業評価をお願いします。


成績評価の方法:

 期末の筆記試験の評価をもって行います。
 出欠も評価に加えます。(「なんで不合格なの?」など、評価に対する質問や異議申し立ては、遠慮なく、ただちに。)




「仮説実験授業」


授業の概要:


 〈仮説実験授業〉とは、科学上のもっとも基本的な概念と原理的な法則を教える授業です。


 1963年に板倉聖宣さん(もともとは物理学史など科学史が専門の方)によって提唱され、その後着実に領域を広げてきました。


 今では自然科学のみならず、社会の科学や数学・国語・道徳などについても、小学生から大人まで誰もが楽しく学ぶことができるたくさんの(100を超える)「授業書」があります。


 この授業では、内沢が担当するもう一つの教養科目「たのしい授業と教育の諸問題」では扱わなかった授業書を取り上げます。


 @「もしも原子が見えたなら」A「ものとその電気」B「光と虫めがね」C「自由電子が見えたなら」D「科学と迷信」E「2倍・3倍の世界」F「生類憐れみの令」G「お金と社会」などをもとに、〈仮説実験授業〉を徹底的に楽しんでもらおうと思っています。


 受講を通して、科学や学問・教育についてのイメージをあらたなものにしていただけたらと考えています。


 「パタリン蝶」のものづくり(工作)もします。
また希望者には、番外で「誰もが30分で回せるようになる“簡単!皿回し”講座」もおこないます。



授業のレベルと履修要件:

 
 予備知識は一切不要。
 「科学、大好き!」、「いや科学は苦手!」という方、ともに大歓迎。
 歴史や社会の勉強も楽しくなります。
 授業中は、頭のノーミソをいっぱいに使ってください。


テキスト:


 なし。主要な教材は毎回配布する「授業書」のプリント。


参考書:

 板倉聖宣『科学的とはどういうことか』(仮説社)、同『日本史再発見』(朝日新聞社)、塩野広次『頭がいいからまちがえる』(民衆社)など。


授業の進め方:

 「問題」→「予想」→「討論」→「実験(検証)」。


成績評価の方法: 出席状況とレポートによる。

(2001年11月13日脱稿)




このページの一番上に戻る→


「たのしい授業」評価・感想(02年度前期)へ← / TOPページへ→ / 大学での楽しい授業へ→



Last updated: 2003.9.14
Copyright (C) 2002-2012 「たの研」内沢達のホームページ