「たの研」内沢達のホームページ
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 以下は、2004年5月22〜23日に佐賀市でおこなわれた「たのしい授業ゼミナール」第2日目の内沢達の講演の記録です。

 佐賀仮説サークルの中尾浩章さんがテープ起こしをしてくださり、第1日目の若松透さんの講演とあわせて、12月にはガリ本「南風」にまでしていただきました。

 中尾さんには、深くお礼を申し上げます。小生の「あっちとび、こっちとび」の話を上手に起こしてくださっただけではなく、味わいのあるカットも多数入れていただき、とても読みやすくしていただきました。本当にありがとうございました(このHPでは挿絵は省いています)。

 当日は「いつも笑顔でにこにこ、“生活指導”もたのしく」の題で話しましたが、内容的には、ものの見方・考え方の話が中心です。初めのほうでは、物事を「法則的に考える」ことの、中頃から終わりのほうでは物事を「根本的に考える」ことの大切さについて話しています。

 後者は「AはAであってAでない(非Aである)」という話が中心です。このHPではそれをタイトルにしました。なにかむずかしい抽象的な話のように思われるかもしれませんが、けっしてそうではなく、具体例も豊富なわかりやすい話です。1時間10分ほどの講演で、手前味噌ながら相当に中身のある話ができたものと思っております。

 それではしばし、「たっちゃん節」をお楽しみください。(2005年6月10日UP!)




AであってAでない


 みなさん、2日間、ごくろうさまです。
 (テープレコーダーがぞくぞくと前の机におかれるのを見て)
 もう満足です。(笑)
 みなさん、今回の「たのしい授業ゼミナール」はいかがでしたか? 感想文の用紙はお手元にありますか? 僕は、「たのしかったですか」の問いに、「5.たいへんたのしかった」に○をつけました。


 (松野さん)「まだ終わってないでしょ。全部は」(笑)


 いやもう、ほとんど結果はでています。宮地さんの「肉まん」はおいしかったし、昨日、日吉さんが用意された大きな体重計(授業書体験講座<ものとその重さ>)を見ただけでも、僕は感激しました。さすが、佐賀仮説サークル! 加えて、わが鹿児島サークルもたいしたものだ! 昨日の僕の講座<お金と社会>もよかった。今日の若松さんの講座<技術入門>もすごくよかった。もう、きまりです!


 僕は昨晩、3時間しか寝ていません。授業中に学生が寝るというのはよくありますが、教員の僕もごくたまにですが寝ます。講義しながら寝ることがあるんです。(笑)コンマ何秒かなのですが。しゃべっているんですけど、一瞬、寝ているんです。睡眠不足が続くと今まで何度かそういうことがありました。


 今日もそんな感じがちょっとあります。いろいろしゃべりますが、途中で僕の目を覚まさせてください。「おかしい!」とか、「なに言ってんだ!」とか、「真面目にやれ!」とか言って。


 昨年暮れに、中尾さんから「世界の教育改革」について話してくれと連絡がありました。それもいいんですが、僕にも選ばせてほしいということで、今日のような演題になりました。資料を配ります。すでにお持ちの方もいらっしゃると思いますが、今年の冬の大会(栃木県塩原町)のとき、講演に使ったものです。


 「たのしい“生活指導”の課題 ─ いつも笑顔でにこにこ ─ 」
という題の資料です。


 お持ちの方も、また持って行って下さいよ。お願いします。「鹿児島にこんなやつがいるよ。これを読むとかしこくなるよ。人生がたのしくなるよ」と言って、お友だちにもお渡しください。


 鹿児島仮説サークルは、なかなかいいサークルでして、僕は得しています。冬の大会で何か話さなきゃいけないはめになって、僕が「冬の大会では、たのしい生活指導の話をするつもりだ」と言ったら、サークルで、僕がとても信頼している人なのですが、こんなふうに言いました。「そんな話はやめろ。そんなことは大学の教員、研究者の課題じゃない。もっと大きいことにこそ答えるべきだ。生活指導については、全国的に、小原さんをはじめとして、いろんな人がやっているし、内沢さんの仕事ではない」と。


 でも、僕は「全国的に活発な仮説実験授業の実践のなかでも、生活指導については原理原則がまだまだはっきりしていないのではないか」と思っていたものですから、「たのしい“生活指導”の課題」は何なのかということでまとめてみました。冬の大会での講演はサッパリでしたが、この資料はなかなか好評です。大会が終わって、千葉のある方からメールをいただきました。「仮説社の竹内社長に、かけこんで交渉した。内沢さんのこの資料はとても良い。『たの授』に載せてはどうか。すごくいい資料だ」と。竹内さんは、「いや、載せるには長すぎる」と答え、その方は「じゃあ、研究会ニュースにはどうか」というようなやりとりもあったそうです。その後どうなったのかわかりません。まだどこにも載っていません。(笑)


 東京に「ニコたのサークル」というのがあるのでしょうか。先日、その関係の方からもお手紙をいただきました。「じつは、自分も内沢さんが書いたようなことを、まとめてみたかったんだ。こういうことでやっているんだけれども、時々うまくいかなくなって壁にぶつかることもある。そういうときにこの資料を開いて、いろいろ確かめながらやっていけばよさそうだ」とありました。そういえば、若松さんがこれを最初に読んでくれた時もそのような感想を言ってくれました。ありがたいことです。


 それで今日は、その話をしようと思っていました。でも、ここに書いてあることは、読んでいただければわかります。カンタンですね。以上で講演を終わります!!(笑) それでは話にならないので、とてもイイ資料なのですが、できるだけここに書いていない話をしたいと思います。


 ○ 生徒指導、人間関係と皿回し


 生徒指導、人間関係は皿回しでもあると言ってよいと思います。
 (皿回しを始め、皿を回しながら話を続ける)
 棒が皿を回しているようですけど、そうでもないんですね。お皿によって棒も回されているんです。


 子ども、いや子どもだけではありませんね。大人もそうとうあぶないです。大人のほうが危険かもしれない。少年犯罪がなんかさわがれていますけれど、日本の青少年は全体としてとても健全です。


 皿回しのコツは、お皿の動きにあわせて棒を回すというのがポイントですね。子どもってあぶなっかしいんですけれど、あぶなくなってきたら、そうした子どもの状態も大人が尊重できるかどうかが大事なところです。お皿に勢いがなくなり、揺れはじめて今にも落っこちそうになってきたら、あわててはいけません。そのゆっくりとした皿の動きにあわせて、棒もゆっくり回せば、このようにお皿はまた元気をとりもどし安定して回ってくれるようになります。


 皿回しのコツと生徒指導や人間関係の原理、つまり相手を尊重するということは、同じです。


 皿回しはちょっとしたコツさえ分かれば、早い人ですとものの2、3分で回せるようになります。大学で授業外に「誰もが30分で回せるようになる! 簡単皿回し講座」をやっていますが、だいたいみんな回せるようになります。


 いま、棒で皿を回していますが、この棒を手のひらの上に立ててみます。


 この状態は、お皿が棒を回しています。お皿が生徒、棒が教師だとすると、われわれ教員も、子どもや学生のおかげで仕事ができているということになります。
 皿回しとその先をいく「ざぶとん」回しの原理は同じです。


 先ほど若松さんが<技術入門>の講座で言っていました。原理、技術がわかったということと、実際にできるようになるという技能は違います。


 「ざぶとん」回しについては、僕の場合、技能の習得はこれからです。今日のために、座布団であろうが、絵本であろうが、ノートであろうが何でもまわすことができる学生から何回か特訓を受けたのですが、まだダメです。冬の鹿児島大会のときには、回せるようになっていたいと思っています。


 ところで皿回しができたからといって、生徒との人間関係がうまくいくというわけではありません。でも、考え方は同じだということを言いたいわけです。お皿の、つまりは生徒の動きにあわせて、生徒の状態を尊重してやるということです。みなさん、言葉では「子どもを尊重することは大事なことだ」とおっしゃいます。でも、ほんとうのところ尊重しているのかどうかはあやしい。このことについてはまた後でお話します。


 ○ ものごとを法則的に考える


 ここは佐賀県です。4年前(2000年5月)の17歳の少年によるバスジャック事件について、僕が書いたものを配ります。


 まず、ものごとを法則的に考えることが大事だという話を今日はしたいと思います。仮説実験授業が勉強になるのは、法則を学べるからです。法則を知ってこそ人間はかしこくなれるし、世の中のいろんなことが見えてきます。ところが、人間のことになると、多くの人はなかなか法則的に考えようとはしません。「人間は一人ひとり違うんだ!」とか言ってね。


 みなさん、個性を大切にしますね。一人ひとりを大切にします。それはそれで大切な、結構なことでしょう。でも、じつはほとんどの場合、A君にあてはまるということは、B君にもあてはまらなきゃだめだと思います。「A君は気が強いし、がんばりやだから、きびしい指導をしてもだいじょうぶだ。他方、B君はやさしくて、ちょっと自信なさそうだから、やわらかくゆったり接してあげなきゃだめだ」なんていうことを聞くと、「あー、そうかもしれない」と思うでしょ。でも、僕に言わせると、そういうのは、ウソッパチですね。


 「お前が言うことのほうがオカシイ!」というような声があったら出してほしいのですが。


 人間は誰しも、うれしい時はうれしいんです。かなしい時はかなしいんで、法則的です。そのうれしさ、悲しさの表し方が、一人ひとり少しずつちがっていて、そこが個性的といえば個性的かな〜という程度の違いがあるだけです。おおもとは同じなんだということを見おとしてはいけません。


 お配りしたプリントは、佐賀バスジャック事件について僕が書いたものです。これは学生に配布したものは別にしても、この4年間に2、3千枚は印刷していて、九州方面では相当に知られているかもしれない。


 あの事件で亡くなった塚本達子さんとバスに同乗していて、ご自身も大変な傷を負われた山口由美子さんが、このプリントをどこかで手に入れられ、後日僕に言ってくれました。「ここに書かれている通り」ですと。


 ああいう事件が起こったりすると、17歳のあの少年は特別だと考えがちですけれども、じつは特別でもなんでもないんです。事件自体は特別ですよ。だけど事件の背景といったらよいのか、あの少年が追いつめられていった過程は、特別でもなんでもありません。事件前は、強制入院前までは、あの少年はどこもおかしくなかった。あの少年も不登校でしたが、まわりの大人たちの無理解のために、追い詰められている少年はざらにいます。


 教師にはたくさんの仕事があるかのように見えます。まず授業をしなきゃいけない。これが中心ですが、そのほか生活指導もある。学校ではいじめが大なり小なりあったりしますね。あるいは、若松さんも昨日言いましたが、不登校の子どもがいます。そういう生徒にどうかかわったらいいのか。その他、どういうことがあるでしょうか? ちゃんときまりを守らないとか、遅刻をくりかえすとか、授業中用もないのに立って歩いたりするとか、教師としていろいろ対応しなきゃいけないことは山ほどあります。


 だけど、課題はたくさんあるようですが、じつは全部同じように考えられると思っています。発想法カルタにあるように「真理はわかってしまえばごく簡単」です。それは仮説実験授業をやっていたらわかります。<ものとその重さ>をやると、ものには重さがあってなくならない、だから重さは足し算できるという法則がわかります。


 社会にも法則があります。僕は先週の授業で、300人近くを相手に<世界の国旗>をやりましたが、これも法則的です。三日月の旗を見つけたら、それは全部イスラム教の旗です。イスラム教の国が全部が全部、三日月を国旗にしているわけではありません。「逆は必ずしも真ならず」ですけれど、三日月を国旗に取り入れている国は、全部イスラム教です。国旗に限らず、政党やグループの旗でも、テレビのニュースなどを見ていて三日月の旗を見つけたら、「あっ、これはイスライスム教の人たちの行動だ」と思っていいんですね。この間のイラク戦争でも、バクダットでは、赤新月社の、赤い三日月のマークをつけた車が走っている。そういう場面をテレビで何度か見ました。


 昨日のナイター(資料発表)で配ったプリントのなかに、<ものとその電気>についての学生の感想文があります。1回90分、2回かけてこの授業をやりましたが、一番上に理学部学生のたった2行の感想を載せています。


 「今回の実験で、あらゆる物質は原子や電子でできていると実感がわきました。」


 理学部の学生ですから、原子や電子のことをまったく知らなかったわけではありません。でも、仮説実験授業を受けると違うんですね。実感できるんです。ほんとうに原子や電子の働きなんだ、すべてそうなんだ、すべての物質は電気的な性質を持っているんだ、とういうことが感動的にわかるんですね。だから、たのしい授業をやっていくと、みんな、法則がわかる。みんながかしこくなっていく。


 ところが、人間対人間(たのしい授業も人間対人間なんですけれど)、生徒指導のことになると、「法則はない。ケースバイケース」といったもっともらしい考え方があります。ケースバイケース、これは大変です。やっていられません。1クラス30〜40人に、一人ひとりに違う、その子その子に「合った」指導をしなければならない、そんなことやっていられますか?


 僕の考えは違います。


 A君にあてはまる指導は、B君にもあてはまる。それが法則というものです。A君にしかあてはまらない指導というのはウソッパチです。そんなのは指導でもなんでもありません。教師の思い込みが言葉になっているだけです。


 ○ 僕の経歴 ─ 「子どもの人権」から「仮説」へ ─


 ここで僕の経歴にちょっとふれますと、仮説実験授業を本格的にやるようになって、15〜16年です。少し取り上げ、紹介するくらいはもっと前から、28年前に鹿児島大学の教員になったときから始めています。


 初めはちょっとだったのに、その後どうして本格的になったのか。仮説実験授業にのめりこむようになったのか。僕の場合は、「仮説実験授業ほど、子どもの人権を大切にしている教育理論、教育思想は他にない」ということを知ってからです。


 僕は鹿児島に来て、驚きました。学校で教師がうちの息子、娘を殴るんです。これは親として、放っておけません。僕は、北海道の生まれ育ちで、小、中、高の12年間、ただの一度も殴られたことはありません。僕がないだけではなく、友だちが殴られている、ひっぱたかれている、こずかれているということも、僕は見たことがないんです。地域だけでなく、時代の違いもあると思います。それが鹿児島に来て、驚きました。教師はあたりまえのように、生徒を殴っている。学生を調査しても、99パーセント、ほぼ全員といってもよいほどに、殴られた経験がある。


 わが子が殴られて、これは絶対にだまっておれません。そこで親として動き始めました。また、学生がひどい目にあっていたこともわかって、教育学の教員としていろいろと発言をし始めました。


 今に至るも行政のほうからはただの一度もお声がかかったことはありませんが、以前、教職員組合のほうからは結構呼ばれました。とくに高教組から「今年は○○支部で話をしてくれ」というように依頼があって、毎年のように出向きました。1年に支部をいくつか回ったりもしました。これは高教組が僕のことを深く支持してくれていたからではありません。県外から講師を呼ぶとお金がかかるからです。(笑)


 そこで、僕は「体罰は止めてほしい。なんと言おうがそれは絶対に暴力だ!」と話すわけです。そうしたらどうだったと思いますか? あるとき、体育館に、「鹿児島県高等学校教職員組合○○支部教育研究集会」というようにして、200人くらい集まっていました。20年ぐらい前のことですけどね。僕の講演が一区切りついたところで、会場から「ハイ!」って挙手があり、「講師に質問あり!」って言うんですよ。僕は当然「なんですか?」って聞き返しますね。そうするとその教師いわく、「講師はそんなことを言うけどね。現場は殴らないとやっていけないんだ。鹿児島では、昔から、“ゆってきかんもんは、うってきかせ”と言うんだ!」と開き直るんですね。20年前のことです。支部教研の主催者はそんなことはありません。全体会が終わってから、支部長さんだったかが「いやあ、今日の先生の講演はよかったです。やっぱり体罰っていけませんよね。」と言ってくれました。ところがです。続けて「体罰は最後の手段ですからね」と言う。(笑)なにもわかっていない! 「今日の僕の話を聞いていたの?!」と聞き返したいくらいでした。


 僕はそういう教師の体罰であったり、学校のくだらない校則であったり、そういうものを何とかしようと、動きを始めたんです。そうすると、教組の方だけではなく、日教組の反主流派、今の全教系の教師ともぶつかるようになりました。「内沢さんは、学校や教師批判が強すぎる。それじゃあ教師を敵視している」って言われました。「内沢さんは、大学の教師だから好き勝手なことが言えるんだ。現場はむずかしいんだ。そう簡単には行かない」などとも言われました。僕は今も昔も黙っていられない性分で、「そんなことはない。現場のどこがむずかしいというのだ」、「生徒指導はむずかしくない!」と、冬の大会の僕の資料の冒頭にあるようなことを20年も前から言ってきたんです。


 そうこうして、僕はだんだんと仮説実験授業に力を入れるようになっていきます。学ぶに値するものを誰もが教えられる授業書の存在と、子どもたちへのいっさいの押しつけを排除している仮説実験授業の授業運営法に魅かれました。板倉さんの文章を読んでいて、「あー、仮説実験授業ほど、子どもを大切にしている理論、考え方は他にない」っていうことを知ったことが大きいんです。


 教育学者や教育評論家とかが言うのはウソだって、僕は言うんですよ。「教育ってむずかしいね」とか、「子育てってむずかしいね」と言うのはね。


 何もむずかしくない。むずかしい、むずかしいって言うけど、できないことをしようとするから、むずかしいんですよ。「すべての子どもを100点に」とか、「すべての子どもが勉強をよくするように」とか、「すべての子どもがきまりをよく守り、親や教師の言いつけも守るように」とかね。それは、できない相談です。僕もできません。絶対にできません!


 その設定がおかしいんです。要するに、人間を改造しようとするから、むずかしいんです。みなさんは笑っていますけど、みなさんも改造しようと思っているんですよ。(笑)


 みなさんは、そんなことは絶対にないと思うかもしれませんが、麻原彰晃とじつは変わりません。「佐賀たのしい授業ゼミナール」も2日目です。今日はいい天気だし、「陽気に浮かれてか、内沢さんはあんなこと言っているけど、自分は絶対に違う!」と、みなさん思っていることでしょう。ところがじつは、原理的に言ってオウムと変わらないところがあります。いや、かく言う僕もそうなんですよ。無意識のうちに、学生を変えようとしているんです。 


 ○ 外国の人も同じ ─ 娘の体験から ─


 「お前のことを話せ。私たちのことは言うな!」という批判が出そうなので、僕自身のことを話します。自分のことを話せば、「しょうがない。アイツはアイツの世界で考えているのだから、仕方ないな〜」ということになりますので、僕のことを語ればいいんですね。


 僕はときに、原理的に言って、オウムであったり、金正日であったりするんです。キム・ジョンイルは、人間を改造しようとします。横田めぐみさんの子どもさん、へギョンさんは、そうとう改造されているかもしれない。だから、横田滋さんと早紀江さん、おじいちゃんとおばあちゃんは訪朝に慎重なわけですね。


 オウムの世界や北朝鮮では、人間改造がありえます。それは恐ろしいことですね。だけど本来、人間改造なんて、できないですよ。人間というのは主体的だから。それを改造しようとするから、むずかしいだけなんです。できないことをやろうとするから、むずかしいんです。やれないこと、またやらなくていいことを一生懸命やろうとするから、むずかしいと言って大変になっているだけなんです。他方、やるべきことをやっていないから、むずかしいだけなんです。


 自分のことにかかわって、私事を少し話します。うちの娘は今、25歳で、引きこもり中です。そう聞くと誤解される方もおられます。「それはおかわいそうに」と口にはしませんが、同情のおつもりか、ケーキまで焼いてきてくださった方もいらっしゃいます。世間の常識からすると無理からぬことですが、引きこもりっていうのは、じつは明るい話です。引きこもりなんて、すごくイイことなんですよ。そんなことを聞くと「内沢さんの話はあんまりだ」と、ちょっとついて行けなくなりますね。「勝手にやってくれ」といった感じでしょうか。


 今日は、その話はしませんけどね。僕のホームページはその娘が作ってくれています。そこに僕がいっぱい書いています。「内沢達」の検索で簡単にアクセスできますので、興味のある方はご覧になってください。先ほどの若松さんの<技術入門>の講座についても、鹿児島大学で一日かけてやってもらったときの様子が写真入りでポイントがわかるように載っています。僕は娘にはいろいろなことで感謝しています。


 その娘、小さいときからずっと勉強嫌いです。あとで言いますけれど勉強嫌いな子はスバラシイですね。娘は高卒後、フリーターをしていました。7年前になります。そして英会話学校にも1年くらい通ったんです。親に似ているのか、ちょっと無鉄砲なところがあります。僕はもうちょっと先にしたらと言ったんですが、本人は言い出したら聞きません。一人でアメリカの西海岸、サンフランシスコあたりに旅立ちました。ひと月近く向こうにいました。ところが英語が思うように通じなかったということが大きかったのか、ショックを受けて帰ってきました。


 その後、勉強して会話がかなりできるようになりました。インターネットのボイスチャットで韓国や台湾に友だちもでき、今度はアジアに目を向けるようになりました。「アメリカはだめだったけど、アジアはいい」ということだったかもしれません。とくにタイはいい、今度は「ほほ笑みの国タイ」に行きたいと言い出しました。


 アメリカに行ったのは、20歳のときですが、その1年後にタイに行くんです。タイの、どいなかもどいなか、日本の地図帳にはのっていない小さな村です。ちょっとおもしろいエピソードもあったのですが、とにかくそこで、日本から若い女の子がたった一人で来たということで、ものすごい歓迎を受けました。ひと月ほどその村で暮らし、それはたのしい毎日だったようです。満面に笑みを浮かべて帰ってきました。アメリカから帰ってきたときとは大違いでした。そして、「タイはスバラシイ! やっぱりほほ笑みの国だった」って言うんですよ。


 それでタイをとても気に入って、22歳のときに、「今度は長期に行く」と言って、また行ったんです。だけど、3ヶ月、4ヶ月たつと、どうだったでしょうか? 娘は、むこうで働くわけでもなく、学校に通うわけでもない。毎日ブラブラしているんです。それこそ自分が望む生活で、「タイの人たちはあくせくしていない。タイでは時間がゆっくりと流れる。だから自分もゆっくりできるはずだ」と思って行ったのですが、タイの人たちは娘にどう接したでしょうか? 1年前の最初のときは大歓迎だったのに、滞在が長期になった2回目は違いました。タイの人たちのなかにも、善意から、「あなたはどうして働かないの?」「どうして学校に行かないの?」って、口うるさく言う人が少なからずいたのです。そこで、うちの娘は壁にぶつかりました。途中で村を離れ、バンコクに移ったりもしました。9ヶ月の滞在をへて帰国してから、外国ではなく日本で、しかもわが家で「ほんとうにゆっくりしよう」という気持ちになって、引きこもりに入ります。


 僕がこの話から言いたいことは、タイの人も同じだっていうことです。お節介なのは日本人だけじゃないということです。(笑)


 みなさんのなかに、「自分だけが心やさしい人間だ」と思っていらっしゃる方はおりませんか? 「自分だけ」とまでは言わなくても、「あの人はそうじゃないけど、私は・・・」などと思っていらっしゃる方は?


 そう思っている方だけではなく、みんな、心やさしいんですよ。そして、みんないじわるなんです。


 でも、「自分はいじわるじゃない!」って思っている人がいるでしょ。ここにも。


 みんな、やさしい人なんですよ。僕は、おべんちゃらで言っているんじゃない。本心からです。そして、みんないじわるなんですよ。僕もいじわるです。そう、それが人間なんです。みんなやさしいし、みんないじわる。このことがわかったら、大概の問題はどうっていうことありません。つまり、むずかしくないんです。


 生徒指導もこれでやれます。


 ○ 人間、みんな同じ


 知っている方も多いと思いますが、初めての方もいらっしゃるでしょうから、みなさん、ここで実験予想問題におつきあいください。


 「あ〜、それ知っている!」という方もおられるでしょうが、いろいろとバージョンがあるのが僕流です。


 まず、これはアルミのパイプです。パイプですから、中が空洞になっています。指先に松やにをつけて、こすると音がします。


 「 キーン 」


 こういう音がします。これは、僕に才能があるから音を出せるのではありません。誰にでもできます。パイプの真ん中あたりを親指と人差し指か中指で軽くもって、もう一方の手の親指と人差し指に松やにをつけ、ゆっくりこすってやると音がします。


 さて、今度はアルミの丸棒です。


 中がつまっています。パイプのように空洞はありません。同じように持ってこすって、実験をします。音がすると思いますか?


 (参加者)「しない」


 じつはするんですよ。しかも、


 「 キーン 」


と同じ音、同じ高さの音がします。


 今のはアルミの丸棒ですが、次はアルミの六角柱です。見るからにがっちりしています。今度はどうでしょう?


 「 キーン 」


 やはり同じなんです。形格好は違っても、全部同じ高さの音なんです。
 平板も同じ高さの音なんです。


 「 キーン 」


 今までのは全部アルミでした。長さもいっしょです。
 ところが、これは真ちゅうです。長さは同じですが、物質が違います。


 「 ギーン 」


 真ちゅうになると、音がちがうんです。
 これは、銅です。


 「 ビーン 」


 また違う音ですね。


 音というのは振動です。今やった実験は同じ長さの金属棒の金属原子に固有な振動の結果生じたものです。アルミと真ちゅう、銅というように、物質が違うと音も違います。ところが、同じアルミだと、穴があいていようが、つまった棒であろうが、また平べったかろうが、六角柱のようにがっちりしていようが、同じ音なんです。


 それで、僕は言いたい。人間も、みんな同じです、と。


 これ、疑う人がいるんですよ。でも、「俺は人間じゃない。私は人間じゃない」って言う人はいますか? いませんよね。これが、ベースです。つまり、アルミ二ウムで、同じ1mの長さだったら、丸かろうが、穴あいていようが、平べったかろうが、ガッチリしていようが、みんな同じ音がしたでしょ。人間も同じなんですよ。同じ人間だったら、みんなうれしい時はうれしいんですよ。悲しい時は、悲しいんですよ。そのうれしさなり、悲しさなりを表す、表し方が個性という形で、ちょっと違ってくるだけなんです。


 人間の心理や行動にも、法則性があるんです。その法則をつかめば、何もむずかしくはない。皿回しと同じなんです。


 ○ 子ども時代を思い出す、「僕もそうだった」


 僕は、不登校、いじめ、その他生活指導のことなど、違うように見えるいろんなことも、じつは同じなんだ、同じ原理で、対処できると思っています。


 僕は、長年、不登校の相談も受けていて、「うちの息子、娘はこうです。ああです」っていう、親御さんから話を聞いてきました。そのうちに、僕自身の子ども時代のことをどんどん思い出すようになりました。


 人間は、自分が辛かったこと、大変だったことを忘れていくものです。まるっきり忘れるわけではありませんが、元気に生きている人、幸せに生きている人は、辛かったこと、大変だったことを、かなり忘れているんです。元気に幸せに生きていない人は、おぼえていますよ。


 僕は子どもの頃、相談に見えた親御さんが子どもさんの様子を言うように、そう言えば自分もイライラしていた時期があった。同じように○○していたということをどんどん思い出すようになりました。それで、親御さんに言います。「僕もそういうことがあったし、お父さん、お母さんだってきっとそうじゃないですか。息子さん、娘さんの状態は何もおかしくないですよ」と。


 人間、大変な時に暴れるっていうのは、きわめて正常な反応なんです。大変なときというのは、いわば異常なんです。異常なときに「異常な行動」をするというのは正常であることの証明です。人間、「とっても辛いな〜」という時に、多少ひどい言動があるのは、きわめて正常です。ときに家庭内暴力というものがあり、めちゃくちゃ物や人にあたったりしますが、家庭内だから、家族に対してだから暴れるんです。辛くて、わかってほしいから暴れるんです。


 暴力はされるがままではいけませんが、何も心配ないですね。拒食・過食だって、そうです。人間、多少の期間、食べなくたって死にません。水だけでも、相当生きられます。食べたいわけではなくても、食べずにはおれないのなら、食べてどんどん太ればいいんです。深夜徘徊などの非行もそうです。ほとんどのケースは他に害を及ぼしているわけではありません。子どもや若者たちは、そう悪いことをしているわけではありません。


 辛さや苦しさがベースにあるというのが法則的なところで、そのあらわれ、あらわし方が家庭内暴力なのか、はたまた拒食や過食なのか、さらには非行、引きこもりというように違うだけであって、表にあらわれることだけに目を奪われてはいけません。それぞれも法則的ですが、違うように見えること全部を法則的に考えることができます。


 登校拒否のことについて、もう少し話します。文部省でさえ、もう10数年も前に「登校拒否はどの子にもおこりうる」と見方を転換しました。それまでは違ったんですね。登校拒否になったその子の性格や家族の養育態度のせいにしていました。


 ところが、登校拒否がどんどんと増えてきて、「こういう子がいけなくなる」「そういう家庭だから行けなくなる」というようなことが全く言えなくなってきたわけです。甘えん坊も行けなくなっていますが、しっかりしている子だって登校拒否になっています。気が強そうか弱そうか、勉強やスポーツの得手・不得手、友だちが多い・少ない、そういったことに関係なく登校拒否になっています。親が甘かろうが厳しかろうが、共働きか否かも、もちろん関係ありません。


 「登校拒否は、どの子にもおこりうる」。「どの子にも!」ですから、「登校拒否になりそうな子は、こういう性格や傾向の子である、という法則はない」という法則があるんです。


 これは、誰が登校拒否になっても不思議ではないということです。じゃー、「たまたま運が悪かったんだ」という見方にもなりかねませんが、そもそも登校拒否は、おかしいことでも悪いことでもないという根本的な見方が必要になってきます。おかしいことでないどころか、登校拒否も明るい話です。そして、ここでも、そうした子どもの今を大人は認められるかどうかが大事なところです。皿回しと同じです。


 僕自身のことを言うと、僕は、ばあちゃん子で、祖母から「おまえは素直でイイ子だ。イイ子だ」って言われて育ってきたんです。幸せですね。「イイ子だ。イイ子だ」って言われると、そうじゃないと普通思いませんよね。まるで「窓ぎわのトットちゃん」のように、「そうです! 私はイイ子です!」っていうように育ってきたんです。


 ところが、登校拒否の相談にのっていくうちに、僕の別な一面をどんどんと思い出すようになりました。僕は、ばあちゃん子だから、ばあちゃんが大好きだったんですが、同じくその祖母から「お前みたいな、聞き分けのない意地っ張りな子はいない」「お前のようにアマノジャクで、ひねくれた子は見たことない」とも言われていたんです。(笑)


 40歳を過ぎたころだったでしょうか。法事などで親戚が集まりますね。そこで、おじ、おばたちが僕をつかまえて、言うんです。「お前がちっちゃかったとき、どれほど苦労したかわからない」って。(笑)


 子どもって、僕だけじゃなくて、みんなそうじゃないですか。みんなイイ子で、イイ子じゃないんです。いや、イイ子じゃなさそうで、みんなイイ子なんです。


 ○ ぼくらはガリレオ、私もファラデー


 僕の専門は、教育行財政、教育法学ということになっています。日本国憲法には、国民の「教育を受ける権利」というのがありますが、板倉さんは、「教育を受ける権利」よりも「教育を受けない権利」の方が重要だって言うんです。僕が板倉さんを好きなのは、ひとつはこれですね。板倉さんは、普通、多くの人が否定的にしか見ないことを根本から捉えなおして肯定し、明るい展望を与えてくれます。


 僕の所属学会、教育法学会は、みんながみんな「教育を受ける権利」が大切だって言うんです。「権利」という言葉さえを使えば、「権利」が実現するとでも思っているようです。考えが浅いとしか言いようがありません。受けるに値するものが用意されてはじめて、その主張は意味をなします。


 「読み、書き、計算」は別にして、現状は受けるに値するものがほとんどないでしょ。小学校高学年から中学校、高校で習うことの大半は、生きていく上で必要なものでは必ずしもない。今は分業化された社会ですから、だれかができればいいんですね。それらは高校や大学の入試、その他公務員試験、入社試験くらいにしか役に立たないんです。


 受けるに値するようなものがない状況のもとでは、受けない権利を確認するのは、とっても大切なんです。板倉さんは、登校拒否が大問題になるはるか前から「教育を受けない権利」について言っているんです(1974年の講演「楽しい授業への招待」、『科学と教育のために』180ぺ)。板倉さんが「登校拒否は明るい」って言ったのは1994年で、今から10年前ですけど。「受けない権利」っていうのは、言いかえると、登校拒否を積極的に認め、これを肯定することです。


 昨日の朝、鹿児島をたつ前にメールをチェックしたら、愛知の竹田美紀子さんが発行している「メールde資料」の最新版が届いていました。そのトップは沖縄の喜友名さんのガリ本の巻頭言でした。喜友名さんのホームページ(「樹楽庵」)はとっても刺激的です。喜友名さんは、板倉さんの「天才という概念は存在しない」という話を紹介しています。


 板倉さんは、「天才というのは、たまたまその人の主要な仮説があたった人だ」と言うんです。一般的に「天才という種類の人間がいる」かのような考え方が強いけれど、そんなのは違う。科学史の研究で「天才」を認めることは敗北だ。「天才というものは普通の人にははかりしれない」なんていう見方があるけれど、「計り知れるんだ!」。


 だから、板倉さんは、『ぼくらはガリレオ』や『私もファラデー』といった本が書けるんですね。


 今回、僕のゼミ生、この3月に大学院修士課程を終えた片岡美穂子さん(愛称「カタちゃん」)の修士論文「板倉聖宣と仮説実験授業」の写しをいくつか持ってきています。彼女は、学部4年のときに、教育実習とは別に、「たのしい授業」を研究授業としておこないました。『たのしい授業プラン国語』のなかから、「おおかみ」をやってもらったのですが、予想のたび毎に授業が盛り上がって、小学校の2年生から途中「オレたち、天才だー!!」なんて声がでてくるんですね。


 すごいのは天才と呼ばれる人間だけではありません。普通の人間もすごいのです。「内沢君もなかなかやるじゃない」。僕もたいしたもんだ、なのです。そして、他方では悩まなくてもいいことでも悩んじゃう。それが人間というものです。


 ○ 生徒指導はむずかしくない


 あと12〜13分ですね。配った資料「たのしい“生活指導”の課題」についてまったくふれていないので、ちょっとだけふれます。


 2〜3ページ、「1生活指導は“いい加減”がよい」、4〜5ページ、「2 生活指導をおこなう諸問題には軽重がある ─ 優先順位を逆にしてはいけない ─ 」、6〜7ページ、「3“子どもとイイ関係”(“悪くない”関係)が生活指導の最大の目標」、8〜9ページ、「4他に害をおよぼす問題行動は“即妨げるが、指導は急がない”」、10ページからは「5いじめは人権侵害、犯罪」というように続いています。


 読んでいただくとわかると思いますけど、生徒指導はむずかしくない。


 本当は「指導」なんていう言葉は、そんなことに使うべきじゃないと僕は思うんですけど。大変な技術と技能を要するとか、相当な知識や経験が必要だったら、指導という言葉を使ってもいいかもしれませんが。お花を教えてくれる先生の場合とかね。生活指導に「指導」という言葉を使うのは原理的に言ってどうかと思いますが、まあ、そこは妥協します。


 原理・原則的なことをいくつか、この資料には書いたつもりですけれど、どうして生徒指導はむずかしくはなく簡単かというと、子どもにやってほしくないことは妨げればいいだけなんです。それ以上教師がやったら、だめです。みなさん、すぐに、しかもとことん「指導」したがるからうまく行かないんです。たしかに子どもは悪いことをしたかもしれない。でも、それは聞いてみなければわからないことも少なくないですよ。たとえば、他の生徒を殴っている。それは明らかに悪い。そこで、「何でそんなことしたんだ!」っていうふうになっちゃうわけですが。


 それはいじめによくありがちなことです。他のもっと強い生徒からしむけられて、そうしている場合だってあるわけです。大河内清輝君がまさにそうでした。担任の教師には、彼はグループの一員で、問題の生徒としか見えなかったんです。彼はクラスの他の子をたたいているんです。でも、彼はしむけられていた。だから、そういうことはうわべを見ているだけじゃわからないでしょ。「そんなことしていいの!」って注意したって、何も解決しないでしょ。けれど、たたかれている生徒が、他方ではいるんですから、それは子どもどうしにまかせていいことじゃなくて、教師が入っていかなきゃなんない。妨げ、やめさせなければならない。


 教師が入っていけば、少なくとも被害を受けている生徒が、教師の介入によって助かるわけですね。それを続けていけばいいんです。それだけの話なんです。そして、「他に害をおよぼすことは絶対に許されないんだな〜」ということが徐々にわかるようになっていけばいいんです。そんなことを書いています。


 ○ イコールは等しくもあり等しくもなし


 さらに、資料の終わりのほうでは、僕流の「わがまま」論について述べています。


 「仮説実験授業をされる方は、相当わがままな人だ」というのがだいたい定説ですね。


 わがままじゃない人は、仮説実験授業をちょっとやっても、たぶん続きません。自分を一番に大切にしている人じゃないと仮説実験授業はできません。それは、僕に言わせれば、仮説実験授業の根本思想が「わがまま」にもあるからです。自分が一番気持ちよくなろうと思ったら、子どもたちのことを大切にしないわけにはいかないんです。自分は無理をしてでも、また犠牲になってもいいから、「子どもたちのために」というのは偽善で、ウソッパチです。そんな教育を子どもたちはけっして歓迎しません。


 保護者からよく思われたいとか、管理職からよく見られたいとか、まわりからいい評判を得たいとか、そういったことを第一に考えて、自分自身がたのしむことを忘れている人は、仮説実験授業ができません。「わがまま」っていうと、普通は悪い響きしかありませんが、語源的にも、それはきっと「われ、あるがままに」ということでしょうから、もともとは悪いことではありませんね。わがままっていうのは自分を大切にしている、とても大事なあらわれでもあります。


 15ページに、作家・五木寛之さんの言葉を紹介しています。「人間的な長所とは、反対側の欠点によって支えられている」と。「わがまま」は欠点でもあるのですが、それは同時に長所でもあるのです。


 昨年の豊橋での40周年の会のとき、僕の話に「何を言ってんのか、全然わかんない?」っていう反応が途中でありました。僕は板倉さんが好きです。板倉さんの哲学、発想法がとくに好きです。僕なりにその核心を一言でいうと「AはAであってAでない」ということになります。「AはAであってAでない」。それだけ聞くと「なんのこっちゃ?」となるのは当然ですね。「AはAである」。それはいい、あたりまえだ。だが「Aでない」(非Aである)とはいったいどういうことだ? となりますね。


 板倉さんが著書で明らかにしている発想法=ことわざ・格言では、「イコールは等しくもあり等しくもなし」がほぼそれに該当します。


 A=Aなんていうのはナンセンスです。あたりまえのことなんですから。左辺と右辺が違う。つまりAとBというように、違うものが、あるところから見たら同じだよということに等号の意味があるんです。だったら、逆にA=Aも、等号で結ばれているけれど、AとAはひょっとしたら違うかもしれない、ということにもなりませんか。


 今日は、途中から、人間ってみんなやさしいけれど、みんないじわるだ、つまりやさしくない、つまり「AはAであってAでない」という話をずっとしてきています。


 たとえば、普通に考える「よい子」っていうのは「よい子です」、けれども「よい子ではない」んですよ。教師の言うことをよく聞いて、勉強もして、しっかり気もつかってくれて、リーダーシップもある。そういう生徒がクラスにいたら、教師としてはやりやすい。「よい子です」ね。でも、無理して他にあわせたり、気づかってばっかりだとしたら、その生徒は本当に「よい子」とは言えないでしょう。つまり「よい子ではない」のです。


 だから、「AはAであってAでない」ということになります。反対に、違うものが、つまりAと「非A」がイコールにもなったりするんです。このあたり、じつは僕もアヤシイ・・・。(笑)


 いや、アヤシクないですよ。僕は確信を持っていて、鹿児島仮説サークルでは、10年も前からこの話をしていて、「もう、止めろ!」とか、「また内沢さんの煙に巻くような話が始まった」という声が出るけれど、やっぱり僕は言い続けるんです。これがわかると大概の問題はクリアできる、すごく大事な考え方なんです。


 板倉さんの発想法というのは、たえずものごとの両面に着目しています。誰もが知っている「失敗は成功のもと」ということわざがありますが、もっと大切なのは反対の「成功は失敗のもと」だよと板倉さんは言います。それぞれの価値に優劣はないんだけれど、「失敗は成功のもと」は誰もが知っているので、あえて後者を強調しているんだと思います。「成功は失敗のもと」については、僕自身の経験でも「そうだな〜。いや、ズバリその通り!」と言えることが少なからずあります。


 「変わるのが社会、変わらないのが社会」というのも、社会の両面について言っていて、同じですね。学生のなかからは、説明を聞くまでは「いったいどっちなんだ!」といった感想も出てくるけれど、両方とも当たっているんだ。それが社会についての冷静な見方で、つまりこの場合でも「AはAであってAでない」ということが成り立ちます。社会の二文字を学校や家族、そして人間にも、その他いろんなことに置き換えることができることわざ・格言です。


 再度、僕の例でいうと、祖母から「お前はすなおだ。いい子だ」と言われ、もう一方では、「ひねくれ者だ。お前のようなアマノジャクは見たことがない」とも言われていたんです。これは違うようでイコールなんですよ。僕はすなおな子でもあったし、ひねくれた子でもあったんです。


 だから、よい子っていうのは、よい子じゃないんです。勉強するっていうことを単純に喜んではいけないっていうことです。


 みなさん、担任をしていて、勉強する子はカワイイって思ったら、それは大まちがいです。板倉さんの考えでは、「くだらない教科書を勉強するような子はよくない」(笑)、「なんで落ちこぼれているのを、落ちこぼれさせないんだ」ということになります。


 もちろん勉強する子はいい子ですね。だけど、いい子ではないんですよ。 


 反対に問題をかかえていると見られている子、いい子じゃないですか。僕は、さっき不登校の例でしか話さなかったですけれども、家庭内で暴れる「子どもと親の関係」と学校での「生徒と教師の関係」は、プライベートな空間とおおやけの空間とでは違いますから、まったく同じではないんですけれど、基本的には同じです。


 ○ 面と向かって生徒から文句を言われたら、じつはイイ線を行っている


 人間対人間ということで同じですね。親に当たるような子は、ダメな子でありません。親に対して期待があるから、わかってほしいから当たるんです。同じように、受け持った生徒から文句を言われて、教師が落ちこむようではいけません。よろしいでしょうか。生徒から面と向かって文句を言われたら、じつは「あー、俺(私)はかなりイイ線を行っている」と思っていいんです。


 同僚にいませんか。ビシッときめている教師。生徒になんか文句一つ言わせない。「あの先生のように学級経営ができたらいいなぁ〜」なんて、ゆめゆめ思っちゃあいけません。(笑)そんな教師に負けないようにと頑張る必要はこれっぽっちもありません。負けてイイの。


 そういう教師が近くにいたら、「先生はリッパですね。先生の学級経営はさすがですね」と言ってあげたらいい。なにも同僚間の関係を悪くする必要はないんですからね。「先生は、私のような仮説実験授業をしているヤワな教員と違う。しっかり指導要領にのっとって教育されている。将来、教頭、校長も間違いないでしょう。僕なんかは、絶対無理ですね」などと言ったらいいんです。


 (若松さん)「子どもから、ほめられたら?」


 それは、すなおに喜んだらいいんです。たとえオチョクリであっても、「それはどうもありがとう」と答えたらいい。


 間違えるのは、ほめられたときではなく、けなされたときです。そのとき額面どおりに受け止めちゃダメですよ、っていうことを言いたい。たしかに額面どおりの場合もありますよ。でも、子どもがほんとうに「どうしようもない教師だ!」と思っているとき、子どもは言う気さえおきません。われわれの子ども時代をふりかえってもそうじゃないですか。そうした教師のことは、かげで「あのバカ、アホ」と散々悪口を言います。本当の悪口はカゲで言うんですよ。そうではなくて、面と向かって言われたら、じつは期待されている、頼りにされていると見なきゃいけないんですね。


 もう一つ、具体的なことを話します。鹿児島サークルの若手の一人、Hさんがこのゼミナールに参加しています。4年ほど前ですが、彼は職場でいじめを受け大変でした。その2〜3年前、初任のときは超順調でした。1年目から仮説実験授業を何本もやったんですね。中1の学年、クラスの授業を受け持って、子どもたちから大歓迎をうけます。感想文にも「H先生の授業はすっごくタ・ノ・シ・イ!」といったものがたくさんありました。本人も満足していました。


 ところがです。中学生も2年、3年になると必ずしも素直に気持ちをあらわしてくれませんね。とくに女子の場合はそうです。1年のときはあれほど喜んでくれた生徒たちが、2年、3年になると違ってきたんです。


 僕に言わせれば、それは表向きの変化です。それには、子どもたちどうしの関係や、子どもたちからはよく見えるHさんの「同僚との関係」も作用していたようです。同僚は初任のHさんが生徒から歓迎されていることを知っていました。彼は1年目から授業がうまくやれた「のに」ではなく、うまくやれた「から」こそ、同僚との関係がいい方向になっていかなかったのです。同僚のネタミですね。とくに管理職がひどい。職場の組合をやつけられないものだから、その鬱憤を若いHさんにぶっつけ、いじめ続ける。組合は組合で「組合に入ったら助けてやる」といった感じでした。


 そういうなかで、彼は深く悩むこともありました。ほんとうは、生徒たちだけは味方をしてくれていたのに、そのことに気づく余裕もありませんでした。


 あるとき、僕の研究室に飛んできて、「センセー、見てください! 評価はほとんどが2と3。5はひとつもなく、4は数えるほどです」と落ち込んで言うんです。1年目に比べると明らかに悪いといえば確かにそうだ。


 僕が「でもね〜、生徒たちは4や5にしたくても、他の先生方との関係を知っているから、できないんだよ」と言っても、上の空です。「感想文はどうなの?」と聞くと、「これもひどいんです! たとえば評価は“2”の女の子なんですが、“先生なんて、大大大キライ!”と書いてあるんです!」と。


 数字も大事だけれど、感想文はもっと大事ですね。


 ほんとうに嫌いだったら、わざわざ「大」の字を三つも続けて、しかも用紙いっぱいに大きく書くものですか!


 中学2年のころはとくに「ビミョウ」です。「嫌い」ということは「好き」ということも少なくありません。とくに「大キライ!」ということは「大スキ!」という可能性がそれこそ大です。だから、ここでも「AはAであってAでない」ということが言えるんですね。そういう発想法でものごとを見て、大事なことについては予想を立ててのぞんでいく。そうしていけば、いろいろなことをいつも楽しくやっていくことができます。


 Hさんは、いまの勤務校は2校目ですが、初任校の卒業生たちからもメールをもらったりしていて、子どもたちから慕われている教員です。


 ○ 学級崩壊が起こらないためには


 時間になったけれど、もう1点、話をさせください。


 東京に中一夫さんっていますね。精力的にお仕事をされているすごい人です。僕の大学の授業でもたくさん使わせてもらっています。中さんは、今年の『たの授』1月号に、「学級崩壊が起こらないためには」「<授業>と<子どもとの関係>どちらが大事?」という記事をまとめています。


 昨年11月に朝日新聞で紹介されたのですが、福岡教育大学の教育社会学の教授で、いまは大阪大学の方が、福岡県や熊本県でおもしろい調査をしています。子どもたちからは、小学校の高学年と中学生約700人に答えてもらっています。教師は、小、中学校の教師約1150人です。あとで、その新聞記事、現物の写しよりも、インターネットで検索したもののほうが横書きで数字も縦横がそろっていて見やすいので配ります。


 中さんは、その調査結果を答えとして二つの問題を作りました。


 中さんはそれぞれ3択で予想を聞いていますが、僕は2択にして学生から聞いています。


 調査は、子どもたちに対しては、学級崩壊は
 @「授業が楽しかったら、起こらない」
 A「先生が好きだったら、起こらない」


 教師に対しては、学級崩壊は
 @「いい授業をしていれば、起こらない」
 A「教師と子どもたちとの関係がよければ、起こらない」
を聞いています。


 @Aのどちらかを選ぶのではなく、それぞれについて「とても思う」「やや思う」「あまり思わない」「まったく思わない」から選んでもらっています。「とても思う」「やや思う」の合計が設問を肯定した答えで、結果として子どもたちも教師も、@Aの肯定の割合により多いより少ないという差が出ました。その結果を予想してほしいのです。


 では、お願いします。まず、子どもたちの肯定の割合からです。


 @「授業が楽しかったら」のほうが多かったと思う人? 挙手をお願いします。


   あ〜、大勢ですね。


 A「先生が好きだったら」のほうが多かったと思う人?


   こっちは少しですね。


 次は、教師の肯定の割合です。
 @「いい授業をしていれば」のほうが多かったと思う人?


 お一人です。


 ということは、A「教師と子どもたちとの関係がよければ」の人が圧倒的大多数なのかな?


   はい。ありがとうございます。


 理由をお聞きする時間がありません。学生は「内沢さんがたのしい授業をずっとやってきて、わざわざ最後に聞くんだから、答えははっきりしている」などと、なかなかわかったことを言ってくれたりもします。では、答えのプリントを配ります。いずれも、みなさんの予想の多数派が当たりです。


 「とても思う」「やや思う」の合計は、子どもたちの場合、「授業がたのしかったら」が73%、「先生が好きだったら」が63%で、10%の差があります。教師の場合は、もっと歴然とした差があって、「いい授業」が53%に対して、「子どもたちとの関係」が88%にもなっています。朝日新聞記事の見出しに、「生徒は“授業”、先生は“良好な関係”」とあるように、結果は対照的です。


 この調査の結果から、実際にできているかどかは別にしても、「いい授業」を意識している教師が半数ちょっとにすぎず、多くの教師が「子どもたちとのよい関係」といった漠然とした考えしか持っていないことが明らかです。「よい関係」は、「いい授業」と関係なく生まれるとでも思っているのでしょうか。設問が異なっているとはいうものの、これでは、「いい授業」、なかでも「たのしい授業」を子どもたちが求めていることに気がつくはずもありません。


 私たちの場合は、いっそう確信をもってたのしい授業に取り組むことができる、そういう根拠も与えてくれている調査結果だと思います。


 ○ いつも笑顔でにこにこ


 はい、まとめです。


 教師の仕事はむずかしくありません。簡単です。「教育とはむずかしいものだ」と教育学者は言いますが、それは実際のところほとんど研究していないからです。簡単なものをあたかも複雑でむずかしいものであるかのように言うのは、エセ学問です。そういった学問を勉強しない学生は健全です。僕もしなかったし、今もしていない。


 教師の日常のことですが、ほんとうに留意しておこなわなければいけないことは、そう多くはありません。僕に言わせると、それは次の三つです。


 まず、一つ目は、子どもたちが学ぶに値する「たのしい授業」をすることです。


 二つ目は、生活指導のことですが、子どもたちの命や安全を守ればいいんです。


 三つ目、最後は、「いつも笑顔でにこにこ」です。


 これは、留意もなにもあったものではありませんが。たのしい授業をしないで、「にこにこ」というか、いつも「にたにた」していたら、「あの先生、ちょっとオカシイ?!」と思われますよ。(笑)そうではなくて、たのしい授業をして、かつ子どもたちの命や安全を守ることに気をとめていたら、自然に「にこにこ」としていられるんです。


 何度もお話したように、「AはAであってAでない」のですから、悪いことのように見えることでも、「オー、そうか、よしよし」とかまえておれます。


 ほとんどの問題はたいした問題ではないんです。「いや、これは絶対に問題だ!」というのは、問題の見方がおかしいんです。問題でないものを問題だと騒いでいるだけです。たとえば、「勉強しない子は問題だ」と。勉強しない子は健全なんです。ああいうおもしろくもない教科書の勉強を一生懸命しているようだったら、逆に心配してあげた方がいい。そういうおもしろくない勉強に一生懸命な子がいたら、そこは妥協ですから、現実的には「よく頑張っているね。感心だね〜」とほめますよ。でも、本当は「あんまり無理しないでね〜」と心配してあげた方がいいんです。


 反対に「つまらない勉強はしない」という子がいたら、心底「たいしたもんだ」とほめてあげたらいい。現実的には「さらっと、軽く」ですが。


 いずれにせよ、勉強が好きな子も嫌いな子も、たのしい授業のときには、トコトン授業を楽しみ、みんなが賢くなっていく。これこそ、人間的です。


松野さんが見えられて、鹿児島大学はいまとても刺激的です。昨晩も言いましたけれど、若松さんがいる国見中、となりの国見小にも仮説の会員がいて、事実上ペアでやれています。下町さんの川内北中には、3人も仮説実験授業をやる教員がいます。鹿児島大学も2人になって燃えているんです。すごいですよ、鹿児島は。20代の若い人が増えているのがとくに心強い。


 松野さんからはいろいろと教えられていますが、感想文を書いてもらうときには、文だけでなく、イラストも書いてもらうっていうのがイイですね。さっそく真似してやっています。プリントにあるように、学生の感想文がさらに生き生きとしているでしょう。


 また、授業の進展にアクセントをつけると言ったらよいのか、大教室の場合は学生の私語対策にもなるのですが、松野さんは問題を出した後にすぐ予想を挙手してもらうのではなく、ときに「ちょっとまわりの人と相談してみて、意見交換してみて」って彼は言うんです。僕は、「あー、これいいなあ」って思ったんです。大教室って私語がうるさいんです。当然、注意しますが、90分間まったくしゃべるなというのも非人間的です。


 そこで、これを聞いたときから、僕はこういうふうにやっています。


 「はい。私語は止める! でも、しゃべりたいよね〜。少し待ってね。もうちょっとしたら、おしゃべりの時間を作るから。それまでは待つ!」って言ってね。そして、そのときになると「はい。問題で〜す!」「さあ、どうでしょう。おしゃべりしよう!」ってやるんです。


 小、中学校でも参考になるんじゃないかな〜。大学の大教室じゃないから、私語がうるさくて教師の声も聞き取れないということはないでしょう。けれど、やっぱり私語はあるだろうし、なくてもボーっとしていたり、なにか手遊びしていたり、前の席の子にちょっかいを出したりしていて、授業に集中していないっていうことはざらにあるでしょ。そんなとき、否定的に見ちゃあ、だめなんですよ。集中していなかったら、「あー、人間的だなあ、この子らは」って見るんです。そしたら、授業中も「にこにこ」していられるでしょう。


 子どもたちに対する限りない信頼があるんですよ。仮説実験授業には。
 僕は、いい話をしたなあ〜、今日は。(笑)


 時間をオーバーしてすみませんでした。終わります。
 冬の大会に、鹿児島に是非いらっしゃってください。(拍手)




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最終更新 : 2012.4.29
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