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2010年度 「教育行政概論」
最終 レポート


目次


1 教育は難しくない  社会専修 K君
2 アラン『幸福論』から学んだこと  教育学専修 J さん
3 自分自身と向きあって  保健体育専修 Hさん
4 自分の考え方の変化  保健体育専修 H君
5 皿回しの意味  保健体育専修 S君
6 大人はみんな子どもだった  国語専修 Oさん
7 いじめは絶対に許さない  国際理解教育専修 Eさん
8 教師への反抗は期待の裏返し  国際理解教育専修 Mさん
9 みんな自由 家政専修 Oさん




教育は難しくない

2007入 社会専修 K君



「一人称でいつも自分自身について話す」のプリントを読み、一人称で話す大切さがわかった。私たちはつい、人と話す時二人称の「あなた」から会話を始めることが多い。特に教師はそれが非常に多いだろう。内沢さんの講義を受講する前までは、私も教師は教育を行うことによって、子どもたちを変えることができると考えていた。しかし、人が人を変えることはもともとできない。子どもの頃、先生の説教を受けながら別のことを考えていた自分を知っているのにもかかわらず、教師になったら、同じような説教をしてしまうとは改めて考えてみるとバカなことだと思った。相手のためを思ってやることが、本当は相手のためになっていないことが多いということを自覚していると、自分自身を一番大切にし、相手のことは相手に任せるという考えがすんなり自分の中に入ってくると思う。

私がこれまで出会った教師の中で、二人称から始めず、一人称から話す人はいなかったと思う。しかし、一人称で話す先生を想像してみると、嫌な感じはせず、むしろ自分のことをもっと話したくなると思う。教師の考えを子どもに押し付けるのではなく、「自分は」と話し始めることによって、子どもは、先生はそう思っているんだなあと、知ることができる。それによって子どもが何かを感じ取ったり、感じ取らなかったりしてもそれは子どもの自由である。大切なのはもっとわがままになることが大切であることが分かった。

加嶋祥造さんの『求めない』のプリントと内沢さんの話を聞き、「求めない」のその意味がわかった。人間は求める存在である。私はいつも何かを求めている。求めても求めてもその欲求は無くなることはなく、人間関係においても、仲良くなりたい信頼してほしいという求めは、いつまでたってもなくならないと思う。しかし加嶋さんは、その人間の欲求に対して、「求めない」ことは素晴らしいと言う。その詩を見ながら、求めないことでより多くのことが見え、そしてより自然な生き方ができるのが分かった。教師になっても同じである。教師は子どもに多くのことを求めようとする。その求めることは留まることを知らずに、どんどん大きくなっていく。昔は、それはいいことだと思っていたが、求めることが大きすぎることによって、見えなくなるものも多くなると思う。例えば受験でもそうである。教師は子どもにより多くの知識をつけさせ、よりレベルの高い学校へ進学させたいと、子どもに求める。子どもがその求めに応じると、さらに大きなものを求めていく。そうやって受験は成り立っていると思うが、一番肝心なこと、例えばその子どもにとって一番幸せなことは何だろう、という根本的なものが見えなくなるのではないかと思った。私自身高校時代にどのような生き方が幸せなのかなど、考えたこともなかったし、それを考える環境ではなかった。求めることは子どもたちのためになっていると教師は思いがちだが、逆に求めないことで、子どもたちのことがよく見えてくると思った。そこに「求めない」ことの意味があると思った。

これまで内沢さんの講義を受けてきて、最終的に感じることができたのは「教育は難しくない」ということである。もちろんまだまだ勉強しなければならないこともたくさんあるが、教育の難しい問題は、その間題自体が難しいのではなく、教育の中で常識と化している考え方が教育の問題を難しくしていることが分かった。教育の問題にはいじめ、不登校、学力問題などがある。どの問題も教師になれば避けては通れない問題になってくると思う。しかし、とても難しいと思われる問題であっても、考え方を変えるだけで、視野が大きく広がることを内沢さんから学んだ。

これまでの講義のなかで一番感動した言葉は「どちらに転んでもシメタ」である。この言葉は大学に入り、内沢さんの講義を受講しなければ絶対に出会わなかったと思う。何に感動したかというと、これまで言葉を聞いただけで悩みが吹っ飛ぶような経験をしたことがなかったからである。私たちが悩んで考え込んでいる悩みの多くは、実はこうならないといけない、その道以外はだめだと勝手に決め付けているものが多いのではないかと感じた。とりわけ教育にはこの根拠がない絶対的な考えが本当に多く存在していることに改めて気づかされた。どちらに転んでもシメタ、できないからやれることもあると声を掛けてあげるだけで、救われる子どもは少なくないと思った。一見無責任に見えるこの言葉は、人生の本質を示しているのではないだろうか。人生に正解はなく、自分がやりがいを持って幸せに生きることができることが一番大切なことだと考えることができるようになった。

これまで私が中学校、高校と過ごしてきて常に疑問を感じていたことは、なぜ眉毛や靴下のことで怒られなければならないのかということである。その疑問に対しても内沢さんはそれを解決するもっとも単純で、分かりやすい対処法を教えてくれた。「厳しく指導したふりをする」である。最初この言葉を聞いた時には、なんて内沢さんは無責任なことを言っているのかと思った。しかし話を聞いているうちにその考えはなくなった。本当に「いい加減はよい加減」である。私は自分がその理由をちゃんと説明できないものを、子どもたちに教えたくはないという考えを持っている。社会科の教師を目指している私が、社会認識教育学のゼミを希望したのもそのような考えからである。私はなぜ地域の特産品の名前を覚えないといけないのか、「良い国作ろう」鎌倉幕府と覚えることに何の意味があるのか、という問いに以前は全く答えられなかった。それと同じように、なぜ髪を短くしなければならないのか、なぜ短い靴下をはいてはいけないのか、いまでもその問いには答えられない。やはり、そうした教師でもきちんと理由を説明することができないものを、子どもに強要するべきではないと思う。しかし現実はそうはいかないため、内沢さんの厳しく指導したふりをするのが一番である。そうした指導を続けることで子どもから信頼されてくるのだと思う。

「他に害を及ぼす問題行動は、即妨げるが、指導は急がない」という言葉も生徒指導のむずかしさを取っ払う、非常に明確で分かりやすい対処法だと思った。自由とは何か、他に害を及ぼさない範囲では何でも自由と内沢さんは言った。本当にその通りだと思う。他に害を及ぼしている、あるいは及ぼしそうな時に、これを即妨げやめさせる。その場で指導を急ぎ、すぐに注意して問題を二度と起こさないように指導をするよりも、他に害を及ぼす問題行動を即妨げ、やめさせるだけの指導をすることによって、その場の雰囲気は緊張せず、教師への信頼も厚くなり、教師と子どもとの関係は非常に良いものとなるだろう。私も教師になったら、生活指導を難しいものとしてとらえるのではなく、楽しいものだと考え、生徒との信頼関係を築いていきたいと思う。

内沢さんは講義の中で、「本を読んでよくわからなかったら、自分の頭が悪いと考えずに、著者の頭が悪いと思いなさい」と言われた。これも私の中で非常に感動した言葉の一つである。私はルソーとか昔の哲学者の話など少しも興味もなかったし、その本など読んでみようとも思わなかった。それは私の頭が悪いから、そのような偉人の言葉が分からないのだと思っていたからである。しかし、内沢さんからその言葉を聞き、本当に興味のあると思ったものから読んでみようと思い、さまざまな本を探し、今ニーチェの本を読んでいる。この講義を受けなければ、絶対に手を出さなかった本である。しかし実際に読んでみると、内沢さんの講義で毎回受けるような、新しいものに気づかされる感覚を味わうことができる。今ではニーチェがすごく頭がよく尊敬できる友達のような感覚に陥っている。そう思えることができたのも、内沢さんのおかげである。言葉をかけることによって人はこんなに変わるものだと自分でも驚いた。私が教師になったら、内沢さんから学んだ言葉をたくさん子どもたちにかけていきたいと思う。大学の講義はつまらないものばかりと思っていたが、内沢さんの講義は私を内面から成長させてくれたと思う。ありがとうございました。




アラン『幸福論』から学んだこと

2009入 教育学専修 J さん



この教育行政概論では「たの授」と同様,いろいろな物事に対する見方・考え方を教えてもらった。それは,今までの自分の偏っていた考え方を変えてくれるものだった。周りに影響されて,あるいは先入観にとらわれすぎていて,いろいろな観点で考えることがあまりできていなかった。15回の講義を通して多くの言葉が印象に残っているが,アランの『幸福論』を読みながらとても納得できたものを4つ挙げたい。

一つめは「いったいだれが,行く道を選んでから出発したか。みんな歩き出している。どんな道もいい道なのだ。」という言葉である。最初は,何か行動するときはある程度の決心があって始めるのではないかと思った。私自身,高校卒業後の進路を決めるとき,教師になりたいという思いがあったから教育学部に入ることを決め,受験勉強をしていた。しかし,考え直してみると,人は必ずしもすべての物事についていろいろ考えてから行動するわけではないという答えが出た。何かをやりたいと目標を立てたとしても,その実現のための方法は一つとは限らず,多くの道がある。同じ目標に向かっている人が他にいても,道は人それぞれだと思う。まさにみんな歩き出しているということなのだと感じた。

そしてどんな道もいい道という表現は,発想を豊かにすることわざ・格言集の中の「どちらに転んでもシメタ」にぴったりな言葉だと思った。自分が予想していた良い結果と逆になってしまったとき,この言葉を知る前の私は,悪い結果になったことを悔やみ,どこが悪かったのかと悲観的になってしまっていた。考え方を変えてみれば,こんな失敗も悪くないなと思うようになれば,きっと成功に近づくのだ。そう思い始めてから,少し落ち込むことがあっても,前向きに捉えるようになった。失敗したときに学んだことを役立てられる機会が何度もあった。臨機応変に対応できるようになるのは簡単ではないが,経験を積むことで成長できる力を,人は子どもの頃からもっていると思う。あれこれ考え込むのではなく,たまには成り行きに任せてみて楽しむのもいいのかなと思った。

二つめの言葉は「人間は自分からやりたいのだ。外からの力でされるのは欲しない」である。「したくないことはせず,させず」と一緒で,自主性を大事にしなければならないことを改めて感じた。教育の現場にこそ,子どもの自主性を育てることは必要である。講義では,子どもの前にまず教師が主体とならないといけないということに少し驚いた。生徒が主役だから,教師が裏で頑張らないといけないと考えていたが,生徒がしたくないと思ったことを強制的にさせても意味がない。教師だって自分がやりたくないことを無理矢理やらされるのは好きではないのだ。だから,生徒が自ら何か学びたいという気持ちをどのようにもたせるか,生徒に何を学んでほしいのかを考えることは授業づくりで最も大切なことだと思う。

そして三つめは「過去も未来もわれわれを押しつぶすことはできない。現在のことを考えよ」である。「いまを生きる」,今ではこの言葉が私の一番好きな言葉である。単純な言葉だが,過去も未来も考えないようにするのはできないかもしれない。分かってはいても,過去に起きたことを悔やんだり,未来に起きることを不安に思ったりすることは,絶対にあると思う。だからこそ,いまのことを優先して考えることは必要である。過去のことを後悔するなら,それをバネにしていまを過ごす。直すところが少しぐらいあった方がその分,自分に自信をつけさせてくれるだろう。将来のことを不安に思うなら,それにそなえて,いま,努力すればいい。いまに一生懸命になれば,未来のどのような状況にも対応できるだろう。

最後の四つめが「自分自身と仲良くなる」「われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは,自分が幸福になることである」という言葉である。ダメな自分を認めることは何も恥ずかしくないということを講義で学んだ。自分の短所を責めるだけでなく,ときにはそれを受け止めてあげるのは気を楽にすることができると思う。アランは自分に対して親切に,自分の友人になるという表現をよく使っている。前に述べたいろいろな言葉を通して,アランが人に伝えたかったことはこれだと確信した。自分中心に考えてみるということは,一般的にはあまりよく思われない自分勝手な考えと捉えられるかもしれない。しかし,見方を考えれば自分を大切にしているという証拠である。自分がされて嬉しかったことを他人にしてあげると,他人も喜んでくれることも少なくない。そうやって,周りの人を幸せにしていくことができると思う。

『幸福論』と〈ことわざ・格言〉からは,楽しく生きるコツのようなものを教わることができた。教師になったら,国語算数などの力だけではなく,このようなことも生徒に教えられるようになりたいと改めて思った。他の人に幸せになってもらうために,まずは自分のために,いまを大事に生きるということを心がけていきたいと思う。




自分自身と向きあって

2008入 保健体育専修 Hさん



自分がもったクラスにいじめられている子どもがいたらどうしよう。と今まで何度も考えた事があったし、どうやっていじめをやめさせたらいいのだろうと考えたこともありました。結局、自分の中で納得のいく答えは出せないままでありましたが、この教育行政概論の授業を通してやっと答えが見つかった気がしました。「学校に行くなら死んだ方がまし」。この言葉はいじめられていた子どもが最後に残した言葉ですが、そこに答えがありました。行きたくないのに、来たらいじめられてしまうのに無理やり来させる必要はないし、来させるのは教師側の都合だと思いました。いじめられている生徒にとって学校は危険地帯であるのに、どうして無理やり来させようとするのか。これまでの授業でも「登校拒否」は決して暗いことではないという事を学びましたが、いじめられた子どもたちには自殺以外に「登校拒否」という選択肢があったのです。その選択肢を知らずに亡くなってしまった子どもたちを思うと悲しい気持ちになるし、「学校に行かなくてはいけない」「学校は休んではいけない」という考えが当たり前であると思ってしまっていた、自分を含めた周りが残念で悔しいです。

知覧中いじめ自殺事件の資料を読んでいると、想像するのが恐ろしいような事実や気持ち、行動が書かれていますが、これらのことを読んで終わるのでなく、広めていかなければならないと感じました。内沢さんが言う通り、自殺は究極の自己否定です。中学生がどんな気持ちで自殺を選んだのか。「自分が死んだらいじめがなくなる」と考えた勝己くんの気持ちを完全には理解することはできませんが、いじめ自殺が繰り返えされないために教訓として伝えていきたいです。資料で勝己君の両親は学校に行かせたことを後悔されていますが、同じような後悔を他の両親にもさせないために「学校に来なくていいんだよ」と言ってあげたいです。

この授業では徳田さんの授業のビデオも見させていただきました。感想文にも書きましたが、正直最初は「さわがしいなあ」という印象を受けました。しかし、授業は誰が静かにするものと決めたのかと言われると、確かにと思ったし見方を変えると、児童が主体的に取り組んでいる姿だとも思いました。きちんと椅子に座って前を向いて先生の話を聞くのが良い授業の定義でもないし、もしかしたら主体性を欠いているのかもしれません。また、邪魔する生徒がいたり、反抗的になる生徒がいるとつい注意してしまいがちになりますが、それは本当の気持ちの裏返しであり、その人にかまってほしいという期待からだと考えると、向きあい方も変わってきます。今思えば、納得できるようなことも、自分ではなかなか気づけませんが、それは自分が固定概念に囚われているからだと気づかされました。

最後に、皿回しを授業の中でしましたが、人間関係につながっていると内沢さんが言った時、「皿回しと人間関係??」と思ってしまいました。しかし話を聞き、皿回しをしているとなんとなくわかってきました。お皿を安定させようとして、一生懸命力をつかって棒を回してもお皿は安定しません。安定するどころか、どこかに飛んでいってしまいます。どうしたらいいかというと、グラグラしたお皿に合わせて、棒を回してあげると安定を取り戻しました。人間関係に置き換えると、バランスが崩れたお皿を不安定な人間とし、それを支える棒を自分とします。不安定な人間を力づくで、相手にも合わせず対応しようとすると、受け止めることができません。不安定の状態をあるがままに受け止めることができるかどうかが大切だと気づかされました。実際に皿回しをしてみると、最初は下手でなかなか安定しませんでしたが、時間が経つにつれて安定してきました。時間をかけて相手を知り、知ろうとすることで、相手との接し方を学びよりよい人間関係も築かれていくのかなと感じました。

15回の授業を終えて思ったことは、最初に内沢さんがおっしゃった通り、今までの自分になかった考え方ばかりで、自分との葛藤でした。しかし、毎回の授業で得られる知識や考え方のおかげで、物事一つ一つと向き合うチャンスを得ることができ、「ふたりの自分」を認め、それぞれを大切にしようと思えるようになりました。頭のどこかで自分は型にはまっていないとか、固定概念に囚われていないと思っていましたが、見事に型にはまっていました。さらに、自分で目の前にある暗い出来事や、これから起こるであろう暗い出来事に対して、「暗いもの」としか考えていませんでしたが、この授業を通して見方を変えれば「明るいんだ」と思えるようにもなりました。正直、授業の中で、内沢さんの考えを裏返せるような考えを考えてみようと思って聞いていましたが、授業が終わるころには「なるほどなあ」と納得して終えていました。たくさんの資料やたくさんの素敵な言葉を大切にし、伝えていきたいなと思いました。ありがとうございました。




自分の考え方の変化

2009入 保健体育専修 H君



この教育行政概論では、1回1回の授業で自分の考えが変化していることに気づかされた。内沢さんが話す内容を聞いて本当によかったと思う。発想の転換、物事の見方という点で自分の考え方に大きな変化をもたらすきっかけを与えてくれたことがほんとによかったと思う。自分は結構考え方が世間で言う一般的な考え方で、小さいころからあまり反論もせず、自分の思っていることが大抵正しいものだと思っていても、自分と違う考えに出くわしたときには、あまり反論もせず、周りに合わせ、それをあまり深く考えないようにしようとしていたので、最初の方は、内沢さんの話を聞いていても、普段周りの人たちから言われることとほとんど正反対のことで、何を言っているかさっぱり意味分からず、おもしろいことを言っているという気しかしなかった。だけど、そのわけのわからないことを内沢さんは真顔で話していたせいか、内沢さんの話を聞くごとに、聞いた内容について真剣に考えていた自分がいた。しかも、それを繰り返しているうちに、だんだんと内沢さんの話もなくはないなと思えるようになっていた。

例えば、自分は教師になるためには、こうでなくてはならないというような教師のあり方に関して、自分の考えというものがあった。だから教師になりたいという時期から、教師のあり方の固定観念というのが結構強くあった。しかし、内沢さんの話はそれとはまったく異なる内容で、そのなかでも特に一番印象に残っている内容は、「登校拒否は明るい話」である。その話を聞いているとき、最初の頃は全く意味がわからなかった。意味がわからないというか今まで自分は不登校が明るい話だとは聞いたことがなかったし、普通に考えてみて明るい話ではないだろうと思っていた。しかし、この自分の普通こそが決定的に内沢さんと違うところであった。

内沢さんは、嫌だと思えば嫌という能力がある。嫌なことは嫌だと感じる能力がある。嫌なことは、頭ではしようと思っても身体がいうことをきかない。身体がそうなってしまうと言っていて、そんな考えをしたことのなかった自分は、気づいたときにはこの言葉をメモ書きしていた。単純にこの言葉はすごいと思った。自分は、自分のいやなことがあっても、上で話したように、周りに合わせてしまうので、できる限り我慢してすごすことがほとんどで、我慢強いとも友達からよく言われるのだが、逆に言うと周りの目を気にしたりして言い出せなかったというパターンがほとんどであったので、その考えをできるというのほほんとうに強い人だと思った。他にも、「学校に行くのが当たり前」という考えについてなどの話を聞いているうちに、徐々に自分の持っていた固定観念が無くなっていき、逆に、教師のあり方というのが少し分からなくなったぐらいだった。

その他に、「登校拒否は明るい話」以外にも、「いい加減はよい加減」「情けは人のためならず」などの内容を話してくれた時には、自分の考え方と照らし合わせながら新しい発見や、ものの見方について大いに学ぶことができた。仮説実験授業という存在を知れたことも、自分にとっては大きな発見になった。予想を立てて結果の意外性から教育につなげていく。十円玉とマッチ箱による見た目、重さの感じ方の実験や、パイプによる音の感じ方の実験、最後の授業では皿回しをやった。皿回しは一見、棒が皿を回しているようですが、実は皿によって棒も回されているという説明を受けた。そんな皿回しのコツは皿の動きにあわせて棒を回すというのがポイントで、危なっかしい子どもの状態も大人が尊重できるかが大切になる、と皿回しでさえも教育につなげてしまった。皿に勢いがなくなり、揺れはじめて今にも落っこちそうになっても、そのゆっくりとした皿の動きにあわせて、棒もゆっくり回せば、皿はまた元気を取り戻し安定して回ってくれる。こうした皿回しのコツと相手を尊重するという生徒指導や人間関係の原理は、同じといえる、というのを聞いた時はほんとに思わず嘘〜?とつっこんでしまった。しかし、もし自分がそれと照らし合わせてみて、皿に勢いがなくなってくると、焦って思いっきり強く早く棒を回してしまい、おそらく皿を落としてしまう。そうなると、生徒指導、人間関係もちょっとした焦りで、上手くいかなかったり、ぎくしゃくしたりしてしまう。人間焦ってもいいことはないので、落ち着いて対処することが重要になる。そして、相手を尊重することが大事になってくる。これらの実験をして、そこから出てくる物事に対する発想も五感をとおして知ったものなのでかなり印象的だと思った。

自分は自分なりに教師になるための考えがあると言っていたが、それは元々自分が持っていたものではないと気づかされた。自分は今まで色々な人と出会ってきた先生方の教えが自分の中に植えつけられているだけで、今まであった教師というのもそれらに囚われていて生まれたものだと思えるようになってきた。逆にこれから出会う人々によってまた色々と教わることはたくさんあると思う。内沢さんのような普通の人とは違う視点から物事を見れるような教師になりたいと思う。最後の授業で習った「たのしい授業をする」、「子どもたちの安全を守る」、「いつも笑顔でにこにこ」の3つに留意しながら、教師として色々していけたらいいなあと思う。




皿回しの意味

2009入 保健体育専修 S君



授業で皿回しをやる意味って何があるんだろうと初め自分はわかりませんでした。教育と皿回しにどんな関係があるのだろうか、皿回しをすることで自分たちは何か学ぶことが出来るのだろうかと考えるのが普通だと思います。最終的に、皿回し=生徒指導という結論になるのですが、初めて聞いた人は皿回しが生徒指導につながるというのは全くわからないと思います。実際にやってみると、一見皿回しは棒が皿を回しているようですが、実はお皿によって棒も回されているのです。そんな皿回しのコツは、お皿の動きにあわせて棒を回すというのがポイントで、お皿が落ちそうになってきたら,あわてずにその落ちてきそうな皿の動きに合わせて棒を回せば、お皿はまた元気をとりもどし安定して回るようになります。

これは実際やってみないとわからないと思うのですがそうなのです。なぜこれが生徒指導と同じかと言うと、皿回しが、お皿の動きにあわせて棒を回すというのがポイントで、お皿が落ちそうになってきたら,あわてずにその落ちてきそうな皿の動きに合わせて棒を回せば,お皿はまた元気をとりもどし安定して回るようになるということが、生徒指導ではお皿を生徒に、棒を教師に例えると、生徒が危なっかしくなってきたらその子どもの状態を教師が尊重することが大事だということです。また、棒があるからお皿は回っているかのように感じるのですが、実はお皿によって棒も回されていて生徒がいるから教職があるということもなるほどなと思いました。皿回しは力が入っているとできません。生徒指導にしても、力が入っていては生徒指導などできず、ただ生徒との関係が悪くなってしまうだけだと思います。なので、内沢さんは生徒指導を皿回しに例えて、皿回しのように自分から皿を回してやろうとか生徒を正してやろうとかではなく、上で回っている皿にあわせて手を回してやるといった姿勢がとても重要だとおっしゃいました。

この考えは、決して学校現場における生徒と教師の関係だけに限ったことではないと思います。人とつきあうということ全般を象徴しているのではないかと思います。家族との関係、友人との関係、すべてにおいてこのことはあてはまるものです。相手に合わせるということは、相手の立場で物事を考えることと言い換えることができると思います。その人の立場で考えるというのはできそうでできません。これは何回も内沢さんの授業でわかりました。でも、小さいときや若いときはそれができていたと思うのに、時間がたつにつれて自分の考えを押しつけたり、こうしたほうがいいなどと言い全く相手の立場になって考えていなくなっていたりしていると思います。これでは相手から不平・不満もいっぱい出てくると思います。

なので、セブン-イレブンの社訓にもあるように、相手の立場で考えるというのはとても大切で忘れてはならないものだと思います。どのような人間関係においても相手の立場にたって初めて見えてくることはとても多いと思います。その部分をしっかり考えていくことが良い関係を築いていくためにはとても大切なのではないかと思います。皿回しを実際に休験してみて、手を回していては本当にうまくいかず落としてしまいます。回っている皿に合わせて支えてやることで皿はうまく回ってくれました。なので先ほども言ったとおり、皿回しのような自分も棒のような立場で人と付きあっていきたいと思いました。

内沢さんは教育において、「何かを教えようとしてはいけない」と言っていました。教師が子どもたちに無理やり、これを教えよう、これを身につけさせようとしても、子どもたちは何も身につかないということです。これは何回も言っているように相手の立場で物事を考えていないからです。本当にこの講義ではそれに尽きると思いました。

講義を振り返ってみて一番思うことは、一つの固定観念のような考え方だけで物事を考え、判断していた自分を変えることができたと思います。内沢さんが言っていることは、初めて聞くと全く理解ができないと思います。自分もそうだったのでその気持ちはわかると思います。ですが、最初はあまり意味がわからなかったけれど、講義を終えていくうちに少しずつ見えてきたというかわかってきたと思います。物事には様々な見方、とらえ方があるということで、それを知った時、今まで一つの固定観念のようなもので物事を判断していた自分がとても小さいなあと思いました。多くの情報が行き交う現代社会の中で様々な見方、考え方があるという事実を知れたのはとても大きいと思います。その場にあった判断をしていくことはとても大切なことで、ただメディアなどから得る情報のみから判断していくことはとても間違っていると思います。なので、メディアからの情報も大切ですが、相手の立場になって考えることが大事だと思いました。




大人はみんな子どもだった

2006入 国語専修 Oさん



「この休み期間中は4つの車に気をつければいい。怪我をして救急車に世話にならない。火事を起こして消防車に世話にならない。悪いことをしてパトカーに世話にならない。死んで霊枢車に世話にならない。この4つの車に気をつけて、楽しく休みを過ごしましょう。」なんとも単純明快、小学生から高校生まで、誰もがわかる言葉である。こんな簡単な言葉だけれども、生徒指導の的をしっかりと得ている。まさに目から鱗の生徒指導法だった。

第2免許実習で川内中央中学校に行った。中学校になると、小学校と比べると校則が一気に増え、生徒指導が大変そうだと思っていた。自分が中学生の頃、「なぜ靴は白い靴、しかも底がきちんとクッション性のあるものでないといけないのだろうか。なぜ靴下は白じゃないといけないのだろうか。」など、多くの校則に対して疑問を持っていた。確かに納得するような校則もあった。例えば「自転車通学の生徒は、ヘルメット、タスキを必ず着用すること。」など、生徒たちの安全に関する校則である。しかし、靴は白い靴を履かなければ怪我をするなどということはないし、別に誰に迷惑をかける訳でもないのになどと、ずっと思っていた。しかしながら、先生たちにしかられるのは嫌だったから、不満を抱えてはいるものの、一応校則に従って生活をしていた。

2週間の教育実習では、担当クラスが1年生で、校則に違反しているような生徒もいなかったこともあり、実際に生徒指導をする場面はなかった。そのような場面がなく、ほっとしていたのが本音である。なぜならば、生徒指導は難しいと勝手に思っていたからである。実際に自分が教える立場になって、生徒たちになぜ白い靴じゃないといけないのかと問われると答えられないと思った。なんて生徒指導は難しいのか、指導講話を聴きながら、頭を抱えた。自分が中学生だったときに納得していなかったものを、どう説明しろというのだと思った。

しかし、内沢さんの授業で、「理想を掲げて妥協する」という話を聞いて、まさに道が開けた。学校現場という一つの組織の中で、いつも自分の思う通りに行動はできない。こうしたい、ああしたい、と思っていても、実際にはできないことがたくさんあると思う。生徒指導だって、別に白い靴じゃなくても赤い靴だろうと、黒い靴だろうといいじゃないかと思っていても、校則というものが存在して、教師はそれを守らせなければならないという状況に置かれる。その状況が嫌だと言って、校則なんかくそくらえだ、なんて言ってしまったら、最悪辞職に追いやられてしまうだろう。そうなってしまったら、食い扶持がなくなって、生活できなくなってしまう。

そんなときに、生徒指導をする「ふり」をすれば大丈夫なのだという、内沢さんの言葉になるほどと思った。そうすれば、自分の気持ちを曲げてまで、無理やり嫌なことをする必要もない。「ふりをする」ということで、生徒指導が簡単になるように思えた。不登校の生徒に対しても、学校では学校に来てほしいといろいろ手を尽くすふりをして、生徒に対しては、学校に来ないで、自分を守ればいいと伝えればよい。しかし、もしその不登校がいじめを原因としているのならば、いじめに対して取り組まなければいけないというのも忘れてはならない。いじめは犯罪であり、絶対に許してはならないからである。一方、保護者との連携も大切であると思った。保護者としては、学校に行ってほしいという気持ちがある。そんな保護者に対して、不登校は悪いことではない、無理やり学校に行かせるような姿勢をとらないでほしいと、伝えるべきであると思った。

最後に、サン=テクジュペリの「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」という言葉について触れたい。最初にも述べたが、私のように中学生や高校生のときに、多すぎる校則や生徒指導に不満を持っていた大人はたくさんいると思う。しかし、自分たちが教える側に立った途端、その不満を持っていたときの頭の片隅に葬り、生徒指導や授業をしている教師は非常に多くいると思う。

14回目の講義の最後に皿回しをした。皿回しは学校と同じであるということを聞いて納得した。生徒と教師、両方が存在しないと皿回しは成り立たないし、どちらかの力が強すぎると皿はうまく回らない。教育現場でも、一方的に教師が指導するのではなく、自分が子どもだった時のことを念頭に置きながら、教師と生徒が一体となって学校を創っていくことが大切なのだろうと、皿回しから学んだ。

私は、このサン=テグジュペリの言葉を人生の教訓として、これから生きていきたいと思う。また、@たのしい授業をする。 A子どもたちの安全を守る。 Bいつも笑顔でにこにこ。この3つを念頭に置きながら、教育現場で働きたい。

この教育行政概論を受講して、様々な固定概念を打ち破ることができました。この講義を受けていなければ、固定概念を持っているということにも気づかなかったかもしれません。学生最後の講義の締めくくりが内沢さんの講義でよかったです。本当にありがとうございました。




いじめは絶対に許さない


2008入 国際理解教育専修 Eさん



内沢さんの授業は、これまでの固定概念の打破につながったと思う。自身の思い込みや先入観を一度捨て去ってから物事を捉えてみると、これまで見えてこなかった考え方や見方がそこにはあった。また、自分自身と向き合う時間が持てた授業だったと思う。どんな自分だってそれは自分自身。いつだって自分が主人公。誰よりも自分自身と仲良くし、どんな自分でも認め、人生を楽しく幸せに生きて行こうと思った。

全授業を通して最も印象的だった講義は、「知覧中いじめ自殺事件から学ぶ」である。前期のある授業で、「不登校の現状−いじめ問題との関連−」というテーマを立て自身で調査を進めたこともあり、シラバスを手にしたときから楽しみにしていた。胸が締め付けられるような悲しい事件だったが、そこから学ぶことは非常に多かった。そして「登校拒否は暗い問題ではない」の講義と密接に関係していることが分かった。

「登校拒否は暗い問題ではない」。登校拒否は子どもたちが良くなってきている証拠である。それは「おかしいことをオカシイ。嫌なことはイヤ。」というようにしっかりと自己主張ができるようになった、すなわち自分を大切にしている証拠である。いつだって自分が主人公なのだから、自分を一番大切にするということは最も重要なことである。だから、「学校に行かないで生きる」ことも立派な生き方の一つなのだと感じた。

しかし、このように肯定的に捉えられる人の方がごく少数で、ほとんどの人が登校拒否を暗い問題、ダメなことだと思っている。以前の私もそうだった。本人は「学校に行かない・行けない自分はダメな子なんだ」などと自分を責め、否定してしまう。そして親や教師も子どものことを理解しようとするよりも、何とか学校に行かせようということに必死である。だからこそ、親や学校現場に「登校拒否は明るい話題」という新たな考え方が提供できれば、救われる人が大勢いると思う。救われた命もたくさんあったと思う。

これまで何となくは分かっていたつもりだったが、いじめ自殺事件から、登校拒否が暗い問題ではないことを完全に理解することができた。なぜなら、いじめを苦にした子どもたちの自殺は、登校拒否という選択肢を知らずに亡くなっているからである。どんなにいじめられても学校に行かなければならない、休んではいけない、と子どもたちは絶望してしまった。もし彼らが「登校拒否」という選択肢を取ることができていれば、救えた命だったに違いない。しかしそれは結果論であり、私は学校に対して強い憤りを感じずにはいられなかった。

「知覧中いじめ自殺事件に関する陳述書」に目を通すと、いかに校長をはじめ、教師全員に「いじめは絶対に許さない」という認識がなさすぎるのかがうかがえる。生徒を守るという責任感や使命感、生徒に対する愛情も彼らからはこれっぽっちも感じ取れなかった。暴力・暴行や恐喝はもちろんのこと、嫌がらせやからかい、いたずらなどにより肉体的・精神的苦痛を与えるいじめは、どう考えても人権問題である。また、それらの行為は犯罪とも見なすことができる。しかし、「いじめられる子にも問題がある」という見方がいまなお相当ある。これはいじめを人権問題としては捉えない、部分的であれ合理化してしまい、結果的にはいじめを見過ごし放置してしまう考え方である。人権とは、人間が人間らしく生きていくうえで不可欠の権利であり、各人の「その人らしさ」が100%認められなければならない。「そのままの・ありのままの君で」いいのである。しかしこの際、他人を害してはならない。ルソーは、あらゆる人にとってもっとも重要な教訓は、誰にも決して害を与えないことだと述べている。また、フランス人権宣言でも、自由は他人を害しないすべてをなしうることに存すると述べられている。

このように自他の権利の尊重が大切であることを述べたが、これまで教育界では「短所をあらため、長所を伸ばす」ことが教育の重要な仕事の一つだとまじめに考えられてきた。しかし、長所と短所というものが、一人の人間の中に別々にあるとは思えない。「人間的な長所とは、反対側の欠点によって支えられているとも考えられます」「努力しても直らない欠点は、多分その人の最良の部分に根ざしているのではないかとぼくは思います」と五木寛之さんは述べている。なんて素敵な表現なんだ、と思った。と同時に自身の短所に、ありがとう、と礼を言いたくなるような気持ちになった。教育の世界でもこのような人間の見方が自然にできるようになると、学校はずいぶん変わってくるに違いない。

いじめは犯罪である。いじめられる方には何の責任もなく、いじめる方が絶対的に悪い。私は絶対にいじめを許さない。教師になっても一貫してこの強い認識を持ち続けたいと思う。そして生徒を心から愛し、守ってあげたい。最終レポートは「知覧中いじめ自殺事件から学ぶ」の講義に関して主にまとめたが、どの回をとっても、全ての講義がつながっていることが分かった。今回、教育行政概論の授業を受けて本当に良かったと思っている。内沢さんは私に、物事の様々な考え方や見方、新たな視点、そして教師になりたいという気持ちを改めて提供してくださった。特に「登校拒否は暗い問題ではない」という考えに対しては、これまでと180度見方が変わった。内沢さんとの出逢いに心から感謝しています。本当にありがとうございました。




教師への反抗は期待の裏返し

2008入 国際理解教育専修 Mさん



私は、約半年間、内沢さんの「教育行政概論」という講義を受けて、自分の心の中に大きな変化が生まれた気がする。私が小・中・高と、これまでの人生で受けた授業の中で初めて、これほどまで主体的に自ら学ぶことができたと感じる。内沢さんの授業は、まさに、私の意欲と自信を高め、私を授業の主人公に仕立て上げてくれたものであったに違いない。毎回、内沢さんは、常識では考えられないような奇想天外なことをおっしゃり、聞いた直後はそのことが理解できずに疑っていた私も、90分後にはなぜかいつも納得していた。全15回の講義を通して、私自身が心から納得できたこと、本当に勉強になったことを以下に述べてみたい。

内沢さんの話の中で、生徒による教師への反抗は、その教師に対する期待の裏返しであり、必ずしも悪いことではないというものがあった。つまり、生徒が教師の言うことを聞かず反抗することは、生徒がその教師を信頼し、甘えようとしている証拠だということである。この話を聞いて、一般的に、自分の言うことを生徒たちが反抗もせず、よく聞くような教師は「指導力がある」が、生徒たちが自分に対して反抗ばかりして言うことを聞かなかったりすると、その教師は、「指導力がない」ダメな教師だとみなされていることを思い出した。私もこの講義を聴くまでは、そのように思っていた。特に、教育実習に行ったときにそのことで悩んだ時期があった。私は、教育実習のときに、自分の担当学級ではないクラスで、自習の監督をする機会があった。私が監督をしたクラスは、先生方からも落ち着きがなく、時間が経つとすぐ騒がしくなることが懸念されていた。私は、その話を担任の先生から聞いていただけに、そのクラスに向かうときは不安でいっぱいだった。ついに、私の「今から一時間自習をしてください。」という掛け声とともに生徒たちはそれぞれ自習を始めた。最初は、それぞれの机で静かに自習をしていて、静寂に包まれた教室だったが、10分ぐらいすると、後ろのほうから女子生徒数人のひそひそ話が聞こえてくるようになった。私は、その生徒たちのところに行って注意をし、一旦は静かになったのだが、しばらくするとまた彼女たちの話声が聞こえてくるようになった。最終的には教室中が騒がしくなり始めてしまった。私は、クラス全体に向かって、勉強している他の友達に迷惑がかからないように個人で自習をしましょうと再三注意をしたのだが、なかなか静かにはならず、困り果てていた。

そんな時、普段から生徒指導が厳しいことで有名な女の先生が廊下を通り、廊下から生徒たちに向かって大声で注意した。その瞬間から、あれだけ騒がしかったクラスがし−んと静まり返り、生徒たちは話をやめ、再び自習を始めた。私は、その女の先生は、「指導力があって」さすがだなあと思う反面、自分は実習生とはいえ、なんて「指導力がない」のだろうかとすっかり落ち込んでしまった記憶がある。しかし、内沢さんは、生徒たちが先生の言うことを聞くのは、その先生に「指導力がある」からではなく、その先生のことをただ単に恐れているからだとおっしゃっていた。その話を聞いて、落胆していた自分がなんだか救われたような気がした。それと同時に、生徒が自分の言うことを聞かず、反抗していたのは、彼らが自分に対して「先生なら私たちの気持ちをわかってくれるはず」という信頼感を抱いていたからなのかなあと思った。一見、生徒と私の間には信頼関係がないように思われたが、あれは私が生徒と、壁を取り払って真剣に向き合えるチャンスだったのかなあと思えるようになった。

また何といっても、講義全体を通して私が一番好きだったことわざが、「どちらに転んでもシメタ」である。教育と関連づけると、生徒が登校拒否になることは、決して悪いことではなく、学校に行くことと同様に喜ばしいことだということである。なぜなら、生徒たちが、学校に行かないという選択をすることによって、「嫌なことはイヤ!」と自己主張できるようになったからであると言える。また、学校に行かなかったとしても、家にいて学べることはたくさんある。よって、生徒たちが登校しようが登校しまいが、「どちらに転んでもシメタ」ということに変わりはない。私は、このことわざは、今後の私の人生の中で決して忘れることはなく、人生のターニングポイントに立った時にふと思い出すだろうなあと思う。私は、今まで、こちらの道に進んだことはもしかしたら間違っていたのではないかと思うことがあり、もう一つの人生に思いをはせることが多々あった。きっと、大学を卒業してからも、人生の岐路にたち、どちらか一方の道を選ばなければならない状況に遭遇することがあると思う。そんな状況に陥ったら、内沢さんの「どちらに転んでもシメタ」ということわざを思い出したい。そしたら、果たしてどちらの道が正しいのか、どちらの道に進むべきなのかと思い悩むことはなく、自分の思いのままに自分らしい選択ができるような気がする。そして、その道を選んだことで人生がどのように転んだとしても、決して後悔しないと思う。私は、内沢さんの講義で、すばらしいことわざの数々に出合えたことに改めて感謝したい。

最後に、約半年間、内沢さんの「教育行政概論」という講義を受けて、私は自分の中にある価値観が大きく変わったと思う。またこの講義で、これからの人生を歩む上で、困った時の救世主となるべきものを数多く手に入れた気がする。私は、人生の節々で、内沢さんがおっしゃられたことを思い出し、自分の未来を切り開いていく手助けにしたいと思う。半年間、非常に中身のある講義をしていただき、ありがとうございました。




みんな自由

2008入 家政専修 Oさん



各論第3でも,たくさんのことを学び,改めて考えさせられた。今まで自分の中で当たり前だったことが,実は違ったり,新たな発見があったりして,毎回とてもたのしく授業を受けることができた。今回改めて認識し,一番心に残っていることは,「人は自由である」ということだ。今までわかっていたようで,本当の意味での「自由」がわかっていなかったのだと感じた。自由というのは,何でも好き勝手やっていいということではない。何事においても人はみな自由なのだが,一つだけ条件がある。「他人を害しない」ということである。「自由は,他人を害しないすべてをなしうることに存する」とフランス人権宣言第4条にもある。人は自由だが,他人を害することだけはしてはいけないということだ。他人に害を与えることは決して許されることではないのだ。これは,あらゆる物事を考える上での核になる考え方であると思う。人々が自由の意味を理解し,それぞれが真の自由を求めることができたら,あらゆる問題が解決するように思う。そして,世界中の人がこれを実践できたら,みんなが幸せで,平和な世界になるだろう。

生活指導・生徒指導は難しいと思っていたが,「他人を害さない限り自由だ」という考えに基づけば,何が問題で,何が問題ではないのかが見えてきた。服装や髪形について校則を守らない生徒がいたとしても,他人に害を与えているわけではないので,厳しくしなくてもいいのだと思った。むしろ,生徒の自由を学校や教師が拘束していいのだろうかと思った。わたしの中学・高校も服装や髪形に厳しかったが,そのような指導を好んでいる生徒はいるはずもなく,みんな嫌がっていた。厳しく身だしなみを指導する先生たちも,自分が子どもだったときは,そのような指導は嫌だったはずである。自分がされて嫌だったことは子どもにもしてはいけない。子どもの時に感じたことを大人になっても忘れずにいないといけないなあと感じた。小原さんによると,生活指導の最大の目標は,「子どもたちとイイ関係になる」ことであり,「最悪の関係になることだけは絶対に避ける」ということである。子どもたちとイイ関係になり,そこから信頼が生まれるのだと思った。

しかし,だからといって校則に違反している生徒をそのままにしていたら,考え方の違う他の先生から睨まれるかもしれない。みんなでわかり合えたらいいのだろうが,簡単ではない。そのような問題をどうやって解決すればいいのか,それは,「理想を掲げ,妥協」して,「いい加減」に「テキトー」にしたらいいということだった。飯塚さんの「キビしく」指導するというのは,とてもおもしろく,思わず笑ってしまった。どんなときでも理想に向かって全力で走ればいいというわけではなく,頑張りすぎて疲れてしまわないように,そして,周りの先生たちともイイ関係でいるために,「いい加減」にすることが大切なのだとわかった。

生徒指導の方法で具体的でわかりやすかったのが,他に害を及ぼす問題行動は「即妨げるが,指導は急がない」ということだ。悪いことをしたのには,理由があるかもしれないのに、頭ごなしに叱ってはいけない。また,「なんでこんなことをしたの?」と問い詰めるのも良くない。子どもたちみんなを尊重することが大切なのだ。問題行動は,妨げるだけで,子ともたちの「安心」や「安全」がひとまず確保される。それだけで,まずは十分なのである。指導を急ごうとすると,子どもたちとのイイ関係はつくれない。子どもたちの安心・安全を確保し,「イイ関係」もしくは「悪くない関係」で,時間をかけて信頼関係を築けばいいのだと思った。

子どもたちの問題行動のなかでも特に大きな問題は「いじめ」である。「知覧中いじめ自殺事件」について詳細を知ったが,大きなショックを受けた。悲しいことに,日本では,いじめを苦に自ら命を絶つ子どもが少なくない。わたしは,いじめられたことも,いじめたことも,いじめを見たこともなく,平和な学校生活を送ってきた。だから,いじめがどういうものなのか,その本当の恐ろしさもわかっていなかった。将来教員になりたいと思っているのに,いじめを経験したことのないわたしが,いじめに対応できるのだろうかと思っていた。しかし,実際に経験したことがなくても,過去の?事例などから多くのことを学ぶことができ,教訓にすることができるのだ。完全に不安がなくなったわけではないが,知覧中の事件から,多くのことを学ぶことができ,勝己くんの死を無駄にしないためにも,今後に生かさなければいけないと思った。

わたしが学んだのは,「学校には行かなくてもいい」ということだ。わたしは今まで学校は行かなければいけない場所だと思っていた。子どもも大人も,多くの人がわたしと同じ考えであると思う。今となっては,どうしてあれほどまでに学校に行かなければならないと思っていたのかわからないが,学校は行かなくてもいい場所なのである。そのことを知らずに,子どもはつらくても無理して学校に行き,親も何とか学校に行かせようとしている。まずは,そこの意識を変えなければいけないと思った。まず,子どもたちの安全を確保し,それから,じっくりいじめと向き合っていこうと思った。



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最終更新 : 2012.5.3
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