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2010年度 「教育行政概論」
第2回中間 レポート


目次


1 仮説実験授業の必要性  教育学専修 Hさん
2 「本格的な模倣」とスポーツと教育  保健体育専修 U君
3 物事の見方を少し変える  家政専修 Sさ
4 授業「なのに」楽しい 授業「だから」楽しい!  家政専修 Mさん
5 片岡さんの授業のことと「ことわざ・格言」 保健体育専修 Z君
6 たのしい授業が意欲を育てる  保健体育専修 I さん
7 模倣と実行  数学専修 W君




仮説実験授業の必要性

2009入 教育学専修 Hさん 



最近の講義で最も印象に残っているのは,徳田さんの講演です。まず,前の週に徳田さんの授業の様子をビデオで見てから,その次の週,徳田さんに来ていただきました。ビデオを見たり講演を聞いたりしたことで,仮説実験授業が実際に行われている様子を知ることができました。今まで,内沢さんの講義で自分が仮説実験授業を受けたことはありましたが,実際に現場で行われている様子を見たことはなかったのです。

ビデオの中の子どもたちは,若干騒がしい様子でしたがとても楽しそうに授業を受けていました。やはり仮説実験には,他の授業とは違う魅力があるのだなと改めて感じました。仮説実験の魅力の一つは,教科書には載っていない,その内容だと思います。徳田さんは,「教科書にない内容をするので,周りの目は気になる」とマイナス点もおっしゃっていました。しかし子どもたちにとっては,教科書にない内容であることでより新しいこととして興味をそそられるのではないかと思います。人間,小さいときほど好奇心が大きいものです。教科書に載っていないのに,先生がたくさんの教材を運んできて楽しそうに実験を始めたら,非常に気になることだと思います。また,小学2年生に原子の勉強なんて難しいのではないかと感じますが,徳田さんのクラスの子どもたちは,とてもよく理解していたようでした。仮説実験のように楽しく教えることができれば,子どもたちはちゃんと学び,理解してくれるのだと思いました。

しかも,ただ原子がどんなものかを理解するのではなく,さらに発展した考え方をしていました。例えば,「みんな同じように原子でできているのに,どうして戦争なんてするんだろう?」といったことです。私が原子について学んだのは高校生くらいだったと思うのですが,こんな発想は浮かびませんでした。もしかすると,この仮説実験を受けた小学生の方が原子についてちゃんと理解しているのかもしれません。ここまで発展して考えることができたら,世の中を見る目が変わってくるだろうし,科学の世界を身近に感じることができると思います。子どもたちにこんなに考えさせることができるこの授業は,とても良い授業だなと思いました。

他にも,水の循環の話を聞いた子どもが,「汚い水が降ってくるのは嫌だ」と言っていて,本当に感心してしまいました。大人でも,自分たちが実際に使う水については心配しても,降ってくる雨のことまで考えているでしょうか。酸性雨がひどくなり,環境問題にもなっているのに,それを意識して生活で気を使っている人は少ないと思います。私自身,自分の使う水や飲み水については考えますが,それがきれいになる前の状態までは考えていなかったことに気づかされました。「使う水は浄水場できれいになっているから問題ない」と無意識に思い,自分とは関係のない話であるように感じてしまっていたと思います。仮説実験で扱う内容は,このように,大きくなってからでは思い浮かばないことを子どもたちに気づかせていると思います。子どもたちの無限の発想力を引き出してくれる授業だなと感じました。

それから最初に,ビデオを見て騒がしいと感じたと言いましたが,徳田さんによると「あれは良い騒がしさだ」ということでした。ただの雑談だったらそれは注意するべきことですが,授業に関係することを話しているのだったら,それは良いことなのだから認めてあげるべきだということでした。私は,騒がしい授業にはあまりいい印象を持っていませんでした。しかしその話を聞いて,子どもたちが無反応な授業より一生懸命自分の考えを述べている騒がしい授業の方が,子どもたちは自主的・積極的に学べているのではないかと思いました。いくら見た目が落ち着いていても,子どもたちを抑えつけて知識を詰め込むのは良い授業とは言えません。いかに子どもたちの考えや発想を引き出すかだと思います。徳田さんの授業はそういった面で良い授業なのではないかと感じました。

それから,PISAについて取り上げた授業も印象に残っています。今回の調査の報道で日本は順位を上げ,学力低下に歯止めがかかったとしています。それは確かに良いことかもしれません。しかし,内沢さんは「日本は本当に学力が低下していたのか?そんなことはない。低いのは成績ではなく意欲だ」とおっしゃっていました。PISAの調査に参加する国は年々増加しているし,日本より上位にいる国のほとんどは,人口の少ない国です。日本ほどの人口がある国でこれだけ上位にいることはすごいことだと思います。それなのに,そこにはほとんど触れず,ただ順位だけを気にしているのはどうかと思います。内沢さんのおっしゃる通り,順位よりも学習意欲の有無にもっと焦点を当てるべきです。先進諸国のなかでも日本の子どもたちの学習意欲が特に低いことが,調査結果を見てよくわかりました。特に科学への関心は低く,科学系の職に就きたいと思っている子どもたちは驚くほど少ないです。

このような現状からも,仮説実験授業のように楽しく意欲的に学べる授業が必要とされているような気がします。他国の教育方法も参考にしながら,日本にあった教育方法を模索していくことになるのでしょうが,その一つとして,仮説実験授業を私も試してみたいと思いました。




「本格的な模倣」とスポーツと教育

2009入 保健体育専修 U君


内沢さんの授業で最近印象に残っているのは,「まねも主体性のうち」です。「学力問題の考え方とたのしい授業の意義」のプリントに「たのしい授業は真似れば誰にでもできる。いや,真似しないとできない」とありました。さらに,「中途半端な『独創』よりも,本格的な『模倣』のほうがはるかに創造的だ。『まねの限界が独自性』」そして,「授業書や授業プランのかたちで,その通りおこなえば,誰もが相当の成果を上げられる。」とあります。

僕は学友会のラグビー部に所属していますが,ラグビーをするうえで大事なのはまさに“まね”です。世界にはいろんなチームやいろんなプレイヤーがたくさんいます。自分たちの考えの中でラグビーをするのは実際のところ無理があります。そこでいろんなラグビーの試合のビデオを見ておもしろそうなプレーや,使えそうなプレーを探して,練習で試してみて,本当に使えそうか,自分たちがそれをするのが可能なのかを確かめて,実際に試合で使います。チームとしてのサインプレーはこんな感じですが,個人的なプレーでも,身体動作であったり,キックの蹴り方であったりもそうです。「日本代表が,海外のビッグクラブが,こんな練習をしているから自分たちもこれをしよう」ということもよくあります。なぜこんなにもまねをするのかというと,自分たちがまねをしたことをもともとしていたチーム,プレイヤーがそれをすることで成功しているからです。プリントに書いてある通りでした。中途半端な『独創』よりも本格的な『模倣』のほうがよっぽどいいんだなあと思いました。そして,これがスポーツの場面だけでなく教育の場面にも当てはまることを知りました。個性のある授業をと思って試行錯誤して計画して実際にやってみて子どもたちにとって勉強にならなかったりつまらなかったりするよりは,仮説実験授業のように子どもたちが楽しめる授業を真剣にまねする方がいい気がしてきました。

また,まねることの大切さを知るにつれて,教育とスポーツの間とも言える部活動の場面も当てはまるのかなと思いました。僕が中学生の頃のサッカー部の顧問の先生はサッカーゲームのフォーメーションを部活動でまねしていました。そのゲームは海外の有名なチームのデータであったりするし,そのサッカー部はそれで県である程度のところまで食い込んでいました。当時は「そんなテキトーでいいのかよ」と思っていましたが,今考えると「あながち間違いではなかったのかな」と思ったりもしています。

次に,勉強になったのは小原茂巳さんの「この4つで,子どもたちとちょっぴりいい関係」です。まずその4つは,@授業延長しない,A急に指名しない,B注意するときはしつこくしない,C「大人に失礼かな」と思うことは,子どもにもしない,です。このなかで特に印象に残っているのは,@とCです。@授業延長しない,で小原さんは,「生徒にとっては,授業終了のチャイムだけが待ち遠しい…… 終了チャイムを(先生が)守ってくれるってだけでも,『いい先生』『気に入った先生』の部類に入れていたもんなんですよ。反対に,守ってくれない先生は,『先生自身の熱心さはわかるけど,肝心の俺たちの気持ち,何も分かってない先生』『いやな先生』って思っていたね」とあります。僕の今までの学生生活を振り返るとまさにこの通りです。「次体育なのに終わらないし!!」と体育が好きな僕はいつも思っていた記憶があります。先生は「あれも教えなきやいけない,これも教えなきやいけない」と教師になるための勉強をしている今でこそ「大変だったんだろうな」と思えます。でも,子どもたちはそうは思ってはくれないので,悪くない関係を作りたいならチャイムは守るべきだなと思いました。あと,思ったことが,先生がチャイムを守れなくなったのも,『星の王子さま』の冒頭の「おとなは,だれも,はじめは子どもだった。しかし,そのことを忘れずにいるおとなは,いくらもいない。」という言葉に表されるのかなあと思いました。

次のC「大人に失礼かな」と思うことは,子どもにもしない,でも小原さんの言葉の中の,「たとえば,相手が大人だったなら,会議のとき,急に指名なんかしないと思うんだ。そして,司会者は会議終了時刻を気にしつつ,司会進行しているはず。もし,時間延長してしまったら,フツーは『ごめんなさい』ってあやまるか,あるいは『今回は時間延長させてほしいんですけど,いかがでしょうか』って,出席者にたずねるんじゃないかな。それに職場の同僚の失敗に対しても,本人の前で『また,おまえか!』とか,『また,やったの!』などと露骨に過去の事例まで持ち出して,お説教なんかしないよね。お互いドロドロしたイヤ〜な関係になっちゃうんじゃないかな。」,「『大人に対して失礼かな』と思うことは子どもにしない。『子どもに対して失礼かな』と思うことは大人にもしない。」とあります。「大人同士ならよろしくないけど子ども相手になら大丈夫だなんてことはない。長い時間付き合う子どもたちとイイ関係になりたいなら失礼なことはできないんだな」と考えられるようになりました。

教師になるうえだけでなく,大人になるうえで学ぶべきことはまだまだたくさんあるなと思う毎日です。




物事の見方を少し変える

2009入 家政専修 Sさん



「学ぶ」ということに関して,板倉聖宣さんの新聞記事を読みました。板倉さんの考え方はとても面白いと思いました。「理科離れ」という話題についての記事でしたが,子どもたちが授業についてこないからといって内容の程度を下げるということは,授業をさらにつまらないものにしてしまうということに,とても納得しました。板倉さんが言っているように「程度をあげて楽しくする」ということはとても難しいと思います。しかし,楽しくすれば創造性も高まります。一言で「内容を楽しくする」といっても難しいですが,様々な工夫を取り入れつつ,授業を楽しくしていけば,程度を下げなくても,逆に程度を上げながら授業を楽しくしていくことができるのだと感じました。そのための技術をしっかりと身につけたいと思いました。

また,「難しい本が読めない」ということは,読めない自分が悪いのではなく著者の書き方が悪い,という考え方は斬新で面白いと思いました。本を読み始めても,少し難しいと感じてしまうと,その本を読み続ける意欲は急激に低下してしまいます。すると,その本だけでなく本そのものを嫌いになってしまう人も少なくないでしょう。そういったときに,この考え方はとても効果的だと感じました。「この本は難しくて読めなくても,他の本を読んでみよう」という気持ちになれるような気がします。やはり,考え方を少し変えることで,見えるものは大きく変わってくるということを改めて感じることができました。

そして,「よい教材は学年・学校段階を問わない」ということに,とても納得しました。子どもがどんな学習段階であるにしても,よい教材は子どもにとって吸収しやすいものであるということでしょう。同時に,教材選びをきちんと行うことの大切さも学ぶことができました。

たのしい授業を行うということに関連して,「おおかみ」に関する講義もとても印象的でした。この講義では参考資料の映像を観ましたが,研究授業を行っていたクラスの子どもたちの様子が,とても意欲的ですばらしかったです。「〇〇〇」の中に入ることばを必死になって考えていました。当たり前の答えでも,正解したとき「俺たち天才だ!!」と言っていた児童がいました。児童の心をしっかりとつかみ,児童が楽しいと感じ,意欲的になれるような授業がつくられていたのだと強く感じました。子どもたちの感想文からもそれは感じとることができました。私も来年度は,教育実習を行う側の立場になります。いかに児童をひきつけられるような授業を行うことができるか,様々な工夫を取り入れながら授業を行いたいと思っていますが,不安はとても大きいです。ですが,様々な方々の授業をお手本にし,良い部分を取り入れていきながら,児童が楽しいと感じられるような授業づくりをしていきたいと感じました。

また,1月14日の講義でことわざ・格言ビンゴをしましたが,私がこれまでしてきたビンゴゲームでは,上がるのが早い人から良い景品をもらったりするのが普通でした。ですが,このビンゴゲームでは「最多列賞」「0列賞」というものがありました。楽しみが最後まで残っているゲーム,という感じがしました。子どもの前で実際にしてみても,通常のビンゴゲームよりも,より楽しみながらビンゴゲームをすることができるだろうと思いました。こういった新たな発想が,教育の場を楽しいものへと繋げていくのだと感じました。

「なのに」といったら「だから」という学習に関しても,得たものはたくさんありました。ここでも板倉さんのことばに納得させられました。「なのに」ということばを使うその背景には,「こうあるべき,という前提にあてはまらない事実がでてきた」という思いがあります。ふとした時,いろいろな言葉に「なのに」ということばをつけてしまいますが,「だから」ということばに置き換えることで,新しい真理が見つかるかもしれないということを学ぶことができました。「なのに」を「だから」に置き換えてみるというきっかけにより,その前提が間違っているかどうかを,改めて考え直してみることができます。こういったきっかけがないと私たちは,誤った認識を持ったまま物事を見続けてしまう恐れもあるでしょう。「なのに」を「だから」にまず置き換えてみてから,物事を判断しても遅くないということを,この学習で学ぶことが出来ました。

「なのに」ということばは,否定的な文章につけることが多い気がします。もちろん肯定的な文章につくこともありますが,私がもつイメージの「なのに」は,屁理屈っぽさを含め,少しマイナス的なことを感じます。ですが,これを「だから」ということばに置き換えてみたとき,なんとなく肯定的なイメージを感じることができました。

物事は少し見方を変えることによって,様々な新しい考え方を見つけ出すことができるということ,そしてそれは,いくらでもプラスにつなげていくことができるということを学ぶことができました。




授業「なのに」楽しい 授業「だから」楽しい!

2009入 家政専修  Mさん



私は,この講義を通して,1年生の時,まだ時間に余裕がある時期に共通教育の「たの授」を受講しておけばよかったと後悔しました。内沢さんが口頭でもシラバス内でも「きびしい」と言っていたこの教育行政概論も,最初は覚悟して臨みましたが,私は,今までの講義のなかで「きびしい」と感じたことは一度もありません。むしろ,新しいことを発見できる面白さがあります。そして,たのしい授業の「たのしさ」に気づきました。これまで,何度も自分の固定観念が覆されてきました。そして幅広く多面的に物事を見ることができるように,少しは成長できたような気がします。各論第2としては,主に「学力問題の考え方」や「たのしい授業の意義」について学びました。

印象に残っているのは,徳田ひろみ先生の講演です。徳田先生の講演では,その講演の前の講義で観たVTRの仮説実験授業の様子の実態を,現場にいる方として数えていただきました。映像を観ただけでは,騒がしく,教室を立ち回る子などもいて,「先生の話なんて真面目に聞いていないのではないだろうか」という印象しか受けませんでした。しかし,その予想ははずれていました。あのうるささは「いい」うるささであると徳田先生はおっしゃっていました。授業に関するうるささと,ただの私語でのうるささとでは,まったくもって違います。徳田先生のお話を聴いた後,今回のうるささは,子どもたちがたのしく授業を受けている証拠なのだなあと思いました。その時,これこそ「たのしい授業」なのだと気づきました。そして,しっかりと子どもたちの発言に耳を傾けたり,行動を観察したりすることは,その授業が子どもにとって楽しい授業となっているのか見きわめることにつながると患いました。

また,「もしも原子がみえたなら」を小学校の授業で取り扱うことに関して,「小学生に原子などを教えて理解できるものなのだろうか?」と疑問に思っていました。実際に私も興味を持ち,内沢さんから『もしも原子がみえたなら』の絵本を借りましたが,「こんな内容を子どもたちが読んで果たして面白いのだろうか?」と思っていました。しかし,その時期だからこそ存在する,子どもたちなりの理解や解釈があり,驚かされました。特に印象に残ったのは「同じ原子なのにどうして戦争するの?」という小学2年生の考えです。これをきいて感動しました。このような考えが生まれてくるとは教師側は予想もできないのではないでしょうか。少なくとも,私が教師側の立場であれば,圧倒されてなんと受け答えすればよいのか分からなくなりそうだと思いました。予想した通りの答えがたんたんと返ってくるような単純な授業ではなく,子どもたちのひらめきや思いつきが活かされるというところが仮説実験授業の魅力だと感じました。徳田先生もおっしゃっていましたが,子どもたちの素晴らしさを感じることができるという点で,この授業で,誰よりも驚かされるのは教師側であると思います。

このようなたのしい授業こそが,子どもたちの意欲を育てるということがわかりました。そこで意欲・関心・自信の低さ,最下位レベルの低さが日本の本当の学力問題だと知り,たのしい授業が現代の日本には必要なのだ,ということが分かりました。そして,いくら高い学力を持っていたとしても,意欲がなければ,その学力を発揮することはできないのではないかと思います。たのしい授業が意欲に,意欲が学力の向上につながるのだと私は解釈しています。

たのしい授業。私の受けてみたい楽しい授業,それは,「『なのに』といったら『だから』」です。「たの授」の中でこれを取り扱ったということで,本講義でも触れましたが,実際に行ってみるととても面白く,現在,私の中での流行になっています。あらゆる言葉を「なのに」から「だから」に変身させることができます。たった3文字言い換えるだけで,これほど考え方が変わるのかと驚きました。普段何気なく使っている「なのに」や「だから」も,言い換えて使ってみようと思いました。

これも,発想を豊かにする「ことわざ・格言」の一つです。ことわざ・格言が自分の人生を変えるなど,それほどことわざ・格言に偉大な力はないと思っていましたが,発想の転換は,ものごとをいろいろな視点で見たり,考えたりさせてくれます。特に,自分の人生は自分が主人公であること,それを気づかせてくれるものが多く,前向きな気持ちで自信をもって自分の人生を歩む後押しをしてくれているように思います。思っていたよりも,意外と言葉の力は偉大なのかもしれません。

固定観念にとらわれない考え方を教えてくれる内沢さんの授業は,本当に病みつきになりそうなほど「たのしい」授業だと思います。そのような考え方を普段の生活のなかでも行えるようになりたいと思います。




片岡美穂子さんの授業のことと「ことわざ・格言」

2009入 保健体育専修 Z君



前回のレポ一ト提出から今回のレポート提出までに,自分が感じたことや,学んだことはたくさんあった。今回自分が特に学ぶことが多かったのは,片岡美穂子さんの「おおかみ」の授業と,ことわざ・格言だ。

「おおかみ」の授業では,実際に片岡さんが授業をしているビデオを見せてもらった。それを見て,去年の夏に自分が教育実智に行って,3年生の授業や現場の教師の方々の授業を観察したときと比較してみると,まず違ったことは,教科書を使わなかったということ。片岡さんの授業の1番最初に,教室には「おおかみ」の詩が書かれた大きな紙があるだけだった。

ビデオを見て最終的に学んだことは,こんな授業もできるんだという,新たな発想と,学生にもこんなに素晴らしい授業ができるんだという発見だ。この授業でもう1つ教育実習の時の授業と大きく違ったことは,授業中の教室の雰囲気だ。片岡さんの授業中,子どもたちの大声は絶えることはなかった。片岡さんが子どもたちに説明しているときも子どもたちはずっと話していた。こんな雰囲気で授業ができるものなのかなと思いつつも,なにかあるから内沢さんはビデオを見せるんだろうなと考えながらビデオを見た。たぶん,ほとんどの先生がそうするように,自分も教壇にたてば,ワイワイガヤガヤした教室の中で授業はしたくない。自分は,まず,自分が子どもたちに伝えたいことを,子どもたちに教えることが,子どもたちに学んでもらう1番の方法だと思っていた。そのためには,なるべく自分が話しているときは静かにしてもらいたいし,それが当たり前だと思っていた。

しかし,このビデオを見て席を立ち,身を乗り出して,先生の話を遮るまで,自分の考えや意見を言おうとするその子どもたちの学習に対する姿勢が,自分が伝えたいことを伝えるために1番重要なことじゃないのかと学ぶことができた。実際に,その授業を受けた子どもたちのほとんどが,とても楽しかったと答えていた。いくつもある問題のうち,ひとつだけでも解けて嬉しかったという子どもの感想を読めば,この授業をいかに楽しみながら学ぶことができたかが分かるし,片岡さんが2年3組のみんなに書いた手紙の中の,子どもたちのいろんなことを考えている様子が,伝わってきましたという文章を読んでも,この授業の充実さやこの授業をしてよかったという気持ちや子どもたちからも学ぶことができたという気持ちが伝わってきた。

今回のビデオは自分が授業をするときに大事なことは,ただ授業の大事なところを,子どもたちに教えるだけではなくて,授業をする本人も,子どもたちと同じように楽しみながら,また,同時に自分も学べるような授業をするということも大切だということを学ぶことができた。

ことわざ・格言は,最初の授業から何度か出てきていたが,再び意識したのは,マッキーノだった。マッキーノは他の講義でもやったことがあったので知っていたが,マッキーノは毎日やることでちょっとした単語や知識を覚えることができるので効果的だと思った。

格言の中で印象に残っているまず1つ目は,「できないおかげでできもする」。自分はこの言葉が大好きになった。これは,授業でも習ったことだが,不登校だからってそれは悪いことではない,不登校だから出来ることもたくさんある,と学んだが,自分に置き換えてみると,現在自分もあまり学校には行っていない。別に体調が悪いとか,用事があるということではなく,単に授業がめんどうくさいからである。学校に行かない間何をしているかというと,ただゲームをしたり,漫画を読んだり,音楽を聴いたり,料理をしたりなど,どうでもよいことだが,自分はこの時間が大好きだ。「学校に行かないおかげで自分のしたいことができる」。授業で「できないおかげでできもする」を学んでからは,自分でこのように考えるようになった。実際に今日はたくさん自分のしたいことができたのだから,明日は学校に行こうという気持ちになっている。

2つ目は,「まねも主体性のうち」という格言。まねをするということは,一見楽して,自分はなにもしていないように見えてしまうけど,片岡さんの授業のような楽しい授業をしたいと思うなら,まねをするのが一番よいと内沢さんの話を聞いて学んだ。他の人の授業をまねしてしまうのはやってはいけないことだと思っていた。けど,まねをすることによって,そこから学ぶことだってたくさんあると思う。授業だけではなく,自分はサッカー部に所属しているが,周りには自分よりも上手な人はたくさんいる。その人たちからサッカーの技術を見て学びその技術を使うことは,決して悪いことではないと思っているし,そうしたことによって,自分がもっとうまくなることを考えれば,とても良いことをしていると感じる。それは,授業とも一緒なのではないかと自分は考えた。まねすることは悪いことではないと自分の考えを改めさせられた。




たのしい授業が意欲を育てる

2009入 保健体育専修 I さん



私がここ4回ほどの授業で一番記憶に残っているのは,なんといっても「もしも原子が見えたなら」です。鹿屋養謹学校からわざわざ講義のためにいらっしゃった,徳田ひろみさんの講演,すごく印象的でした。最初,徳田さんのクラスの授業風景をビデオで見たときは,「なんて自由な生徒たちで,騒がしいクラスなのだろう…このまま授業を続けていていいのだろうか…」って思ったのが,本音です。しかし徳田さんが私達に講演をしている時の,生き生きと楽しそうに話している姿を見ていて,そしてその話を聞いていて,私の考え方は間違っていたのだと気づきました。

騒がしいと見えるクラスでも,それが自分の意見を自由に言える雰囲気であり,その雰囲気の中で,授業をしっかり聞いて積極的に学んでいる姿があり,先生を含めてクラス全体がこの授業を楽しんでいたのだということに気づけました。仮説実験授業は私達,大学生が体験しても,すごく楽しいものなので,当然,小学生がしても楽しいものですよね。しかし私達,大学生とは全く違う予想や考えが出てくるのも当然のことです。そういった発想は小学生のほうがすごいのでしょう。小学2年生が原子の話を理解している時点で,私自身すごく驚きましたが,その話が戦争・平和に繋がっていったのには,本当にびっくりしました。

騒がしいクラスで,ちゃんと勉強をしているのか…?と思いがちですが,子どもたちは他の授業よりも多くのことを学んでいるのだと思います。今,大学生の私達も,楽しいこと・面白いことには,すごく興味を示し,内容もしっかりと覚えています。子どもたちにとっても,それはきっと同じことなのでしょう。そういった授業を私も教員になった時はできるようにしていきたいと思いました。そのために今のうちに,内沢さんの授業から多くのことを学んでいきたいと思います。

次に印象に残っていることとして,「なのに」といったら「だから」があります。私は1年生の時に,この授業を共通教育の「たのしい授業と教育の諸問題」で受けました。その時に出てきた多くの名言,「友達なのに殴る,友達だから殴る」や「犬なのにお父さん,犬だからお父さん」などを思い出したのも,すごく懐かしかったですが,今回はそれを上回る,ナイフだから切れないものとして「人の心」だったり,大きいから見えないものとして「夢」だったり,同じ体育科の人の意見を開くことができて,すごくよかったです。その内容がどのように教育に関わっていくのか,すごく不思議だったりもしたのですが,そう言い換えてみると,今までは気づかなかった新しい視点に気づくこともでき,すごく奥が深い話だと患いました。実際に「不登校なのに元気,不登校だから元気」のように,今まで否定的な見方をしていたことが,肯定的な見方になったりもしました。「なのに」から「だから」に変えるだけで,自分の見方は180度変わることもあるのですね。勝手に私達が否定的になっているだけで,見方を変えれば肯定的になるということを,これからも自分の頭の中に入れておきたいと思いました。

最後に,「学力問題の考え方とたのしい授業の意義」について,書きたいと思います。まず,学力の本当の問題は,意欲・関心・自信の低さにあるということに,私は改めて気付きました。学力低下の問題と青われたら,ただ勉強ができなくなってきていると考えがちですが,意欲・関心・自信について,もっと考えていかなければならないし,改善していかなければならないこともたくさんあるのだと思いました。また,学校教育の成果は,学力と意欲の足し算で決まるか,掛け算で決まるかというところでは,もし掛け算だった場合,意欲が0であれば,学力がどんなに大きくても,その教育成果は0になるということで,もっと意欲を高める授業をすることが必要なのだと感じました。その意欲や自倍を高めるような授業をするためには,「他人との競争に勝つ」という外発的な動機は限界に来ているので,「学ぶこと自体が楽しい」という内発的な動機を大切にしながら授業をしていかなければならないのだと思います。

教科書を丁寧に教えても,多くの場合,それは自己満足に過ぎず,意欲は育たないという事実も見えました。だからこそ,「マッキーノ」や「モルQ」,「たの授」のような授業が生徒にとって大切になってくるのだろうと思います。ところどころで一所懸命になり,覚えたり身につけたりしてほしい大事なことは,楽しいドリルをして宿題にはしない,そういった工夫を多く取り入れながら,授業を行える教師になりたいと思いました。しかし,そんな授業は,私自身の発想力やアイディアだけでは,できないのが現実です。『中途半端な「独創」よりも,本格的な「模倣」のほうがはるかに創造的だ。まねの限界が独自性」』という言葉が,プリントには登場しました。どんどん真似をしていきたいと思いました。




模倣と実行

2003入 数学専修 W君



「たのしい授業は誰でもできる−まねも主体性のうち」の講義で出てきた,教育ではマネをしてはいけないと言われているが,スポーツや芸術を見れば分かるように,真似をしないと身につけられないことがあるというのは,分かりきっているはずだという言葉が実に納得できました。

自分のやっている分野が数学ということもあり,卒論で取り組んだ参考書でも「問題を解くことは水泳やスキーやピアノ演奏と同じように実技である。貴方がたは模倣と実習によってのみ学習できるのである」という言葉があり,卒論ということもあり普段読む本よりも集中して読んでいたので,内沢さんの言葉がすんなりと納得できました。また,既にある優秀な方法を真似るというのも自分の意思で真似るという選択をしたのだから,それも主体性のある行動であるという格言もすんなりと納得できました。数学の問題でいけば,教師がその場で思いついた問題は既に教えるべき内容を熟知しているはずなので発展問題には向きますが,その理屈を知らない生徒が考える題材としては向かないことが多いです。その場合は,素直に考える題材として用意されている例題のような問題のほうが向いています。まさに中途半端な「独創」よりも,本格的な「模倣」のほうがはるかに独創的だ。の言葉の通りだと思います。数学という学問の高等数学以前で学ぶ内容はそれこそ過去の偉人たちが作り上げた技術を真似していくということがほとんどです。真似をして法則性を理解し,ある程度自分たちもその考え方を理解するという数学の形式上,まねも主体性のうちというのは納得しやすかったです。

また,卒論の参考書でもこれは考え方・発想法が主眼であり,数学以外にも活かせるようにしましょう,ということが謳われていましたが,なかなか難しいなあと個人的に思っていました。しかし,内沢さんの講義でたのしい授業は真似でしかできないと言われ,ああ身近に数学以外の実例をちゃんと学んでいたのだなあといまさらながらに思いました。既存概念を捨てるのが講義で伝えたいことのひとつと言われていましたが,よくよく考えると確かに数学に限らず先人の技術思考法によって学問は成り立っているので,どの有効な方法を真似するか,まねに限界が来たら独自性で新しい方法を考えればいいのだな,と思えました。

また,ゴッホの浮世絵の真似の絵を見たときに,陶器の包み紙に使われていた浮世絵を見てゴッホはその浮世絵の真似をし,技法の習得をしたというエピソードを知っていたのに,ゴッホの描いたその絵及びそのモチーフになった絵を初めて見たということに気づきました。エピソードそのものを知ったのは多分今から10年以上前だったはずですが,10年間その話題をしたことがあっても実物の確認というのを怠っていたのだなあと妙な笑いがこみ上げてきました。多分話のネタとして知ってはいても実物を知らなかったり,理屈は理解していてもそれが実際に使われているという現場の知識が抜けているだろうという自覚はあったのですが,直接的に分かりやすい例示を見ることで多分あるのであろうという考えが,確実にまだまだあるな,下手をすると理解していたと思われる内容もまだまだ掘り下げが足りないのだろう予想できたのがその講義で主題とは離れたところで学んだことでした。

また,意欲と自信の話で思ったのが,PISAの調査で意欲・関心・自信の低さが本当の問題で,順位そのものは未だ上位であるということを考えると問題ではないという話は,以前他の先生が言っていたのを覚えていたのと,その科目の成績がよかったとしても,将来その勉強をする必要がなくなったときに,まだ学び続けたいかと思えるかは成績ではなく,意欲の有無にしか依存しないのでこれも納得できました。逆に,たのしい授業等で学んだことを活かせる内容,例えば「もしも原子が見えたなら」の授業で化学方面に興味を持った子なら成績があがらず仮にそちら方面の職につけなかったとしても,化学方面の記事に興味を持ったり,その人に子どもができた時に化学の面白さを伝えることをすると思えます。勉強でいやいややっていた子が親になった時に子どもに伝える言葉は逆に成績のためだから頑張れとしか言えないでしょうから,その子どももいまのいま役に立つ知識にしかならず悪循環になってしまうような気がします。実際は,興味をもてばいやいや勉強するのではなく,楽しい知識の蓄積をやるのですから法則的に成績はあがっていきそうな気もしますが。

そして意欲の話で真似の講義の時登場したビデオの話が実に記憶に残っています。国語の授業でしたが,予想しそれが当たったときの子どもたちの反応がまさに充足感・自信・意欲がよく現れていたものだと思いました。与えすぎてはいけない,与えすぎるとやる気を失う,まったく与えないのもいけない,前提の情報が抜けているのは論外だが,指針そのものがないのは何をすればいいのかが分からない,言葉としては知っていても難しいと思うような事柄ですが,その言葉を頭に据えた上で楽しい授業のビデオを見ると実に上手くやるものだなあというも感心します。



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最終更新 : 2012.5.3
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