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2010年度 「教育行政概論」
第1回中間 レポート


目次


1 多面的にとらえる  社会専修 C君
2 考える視点を少し変えれば人生が晴れやかになる?!
     地域社会教育専修 M君

3 自分のために  教育学専修 I 君
4 自分を認め,大切にして生きるということ  家政専修 I さん
5 ピンチはチャンス  保健体育専修 Kさん
6 「意味ない」って言わない  保健体育専修 O君
7 考え方一つで未来を明るく  家政専修 Mさん




多面的にとらえる

2006入 社会専修  C君



私は今まで,全くもって物事を多面的にとらえられていないことに気づかされた。まず意外ととらえられていなかったのは「自分」についてだ。内沢さんの「たえず“ふたりの自分”がいる」というお話を聞いたときは,納得したというよりも心が軽くなった気がした。これまでの自分を振り返ってみると,私は「ひとりの自分」しか認めておらず,「もうひとりの自分」は見ないようにしたり,排除しようとしたりして,全く認めていなかった。シラバスにある通り,「両方とも“自分”に違いない」ので,まずはちゃんと「ふたりの自分」を認め,自分が本当はどう思っているのか,どうしたいのかを考えていきたい。

また「“教育が難しい”と思うのは、人が人を変えようとするからだ」というお話も本当に勉強になった。私は現在,塾でアルバイトをしているのだが,塾に来ている生徒の中にはなかなか言われたことを「やらない」「守らない」生徒がいる。私にとっていつもこういう生徒は悩みの種だった。というのも,どう指導すれば言うことを聞いてくれるのか,どう言えば生徒は変わってくれるのか,ということばかりに頭を回していたからである。まさに「人を変えようとするから難しい」の典型的な例ではないか。「変えよう」という一方向でのみ考えていて,「変えなくてもいい」「変わらなくてもいい」あるいは「変えてはいけない」という違う方向からは考えていなかった。確かに,無理やり強制的に言うことを聞かせることはできるが,それは一時的に変わっただけで,本当の意味で変わったことにはならない。

これは「“しない”と不思議と“する”ようになる」という話にもつながる。この資料や内沢さんのお話を聞いたときは目から鱗が落ちた。「しない」という選択肢があることが衝撃だった。およそ教育に携わる人たちは,生徒に何かを「したり」「させたり」することが当たり前で,何も「しない」というのは悪いことだととらえているように思う。そういう人たちにとっては,「しない」ということは「する」ということよりもはるかに難しいことであろう。なぜなら,自分たちが何か援助をしたり,注意をしたりしてあげないと「心配」だからである。しかしそれは生徒(子ども)を「信頼」していないことの表れではないか。私は塾の生徒を信頼しているつもりだったが,実は表面的な信頼に過ぎず,深い部分では信頼していなかったのだと分かった。「“心配”しないで“信頼”する」ことの大切さを実感させられた。

「“心配”しないで“信頼”する」の資料に載っている三原則「第一は,子どもの状態を異常視しない,第二は,子どもの言いなりにならない,奴隷にならない,第三は,ガラス細工を扱うような,腫れ物に触るような接し方をしない」は,家庭での親子の関係だけではなく,学校での先生と児童・生徒の関係,塾での講師と生徒の関係にも当てはめることができる。学校と塾とでは,同じ教育機関ではあるが,多々違うところもある。まして家庭と比べたらなおさらだ。だが,「学校=牛乳」にあるように,「イコールは等しくもあり,等しくもなし」という考えで見方を変えると,「大人と子どもの関係」という本質的なところは同じである。

「セブン-イレブンでの禁句」のお話も同様である。「顧客のために」ではなく「顧客の立場で」考え,行動する。少し上でも述べたように,家庭での親子の関係,学校での教師と生徒の関係,塾での講師と生徒の関係にそっくり当てはめることができる。また塾を引き合いに出すが,私が「生徒のために」やってきたことが本当にその生徒のためになっていたのか。ただの自己満足になっていなかったか。「悪事は善意から」にもあるように,親切ではなくお節介になっていなかったか。塾であれ,学校であれ,普段の生活における人間関係であれ,全ては結果でしか判断できない。相手の「ために」あれこれ考えて行動すると,その行動した結果があまり良くなければ,往々にして相手の「せいに」してしまう。それは相手にとってはといい迷惑だ。だから,相手のことを相手の「立場で」考え,自分のことを自分の「ために」考えて行動することが大事だと分かった。夏目漱石と同じく,私もこのお話を聞くまで「他人本位」だった。これから私自身強くなるのかどうかは分からないが,自分が主人公であるという 「自己本位」の言葉を常に意識して,自分で考え,自分で選び,自分で行動していきたい。

12/4(土)に11/18の授業の補講を受けた。その授業でマッチ箱を使った実験を行ったのだが,身近で分かりやすい「二面性」を体感した。「人間の感覚の頼りなさ・すばらしさ」だけではなく,あらゆることに「二面性」はあるのではないかと思った。最初に述べた「ふたりの自分」も然り,「長所は短所に支えられている」という話も然りだ。だから,何でも一面的にとらえるのではなく,二面的,多面的にとらえることが真に物事を理解することにつながるのだと分かった。

物事を多面的にとらえることは,あらゆる場面で必要となる。特に逆境になればなるほど必要である(この「逆境」という言葉も周囲の人から見ればそう見えるかもしれないが,多面的にとらえられている当人からすると「逆境」という言葉自体ないのかもしれない)。「ビリッかす 向きを変えれば先頭に」や「負けるが勝ち」などはこのことを端的に面白く表したことわざ・格言だと言える。したがって,あることに対してすぐに判断するのではなく,少し立ち止まっていろいろな方向から検討した上で判断・行動したい。




考える視点を少し変えれば人生が晴れやかになる?!

2007入 地域社会教育専修 M君



自分は,1年生の時に共通教育の「たの授」を受けていて,それ以来久しぶりに内沢さんの授業を受けている。自分は久々に内沢さんの授業を受けていてとても有意義で勉強になっているなと強く感じている。それは,内沢さんの授業スタイルや教え方などからそう感じているんだと思う。大学の授業は知識を教えてもらったりする授業が多いなかで,内沢さんの授業は「たの授」でもこの教育行政概論でもはっきりした答えを明確に用意せずに自分達で考えてもらうような授業形態で,内沢さんも「僕が言ったことに同意する必要はない」と書っていた。そういった授業のスタイルが自分にとってとても有意義な授業になっているんだと思う。授業を受けていて思うのは,自分の頭が固いなということである。内沢さんの柔軟な考え方とか普通とは違った方向から物を見ることとか自分に無いところだと感じるので,この授業や自分の頭の固さを認識して,少しでも柔軟な考えになるようにと必死で授業を受けています。

柔軟な考えができるようになれれば,自分の考え方なども広まっていくんだろうなと感じるのが,ことわざ・格言を用いるときである。「たの授」の時は正直1年生の浮かれていた時期で,しっかり考えながら「ことわざ」など見ていなかったが,この授業で内沢さんの話を聞いていると,自分のなかで固定されていた考えがどんどん覆されていって,そういう風に考えることもできるのかと感じる場面が多々ある。また,本当に今まで自分が固定概念に縛られて,物事の一側面だけ見てそれが正しいと思い込んで生きてきたんだなと痛感させられる。

今までの授業の中で自分が一番印象に残っていて,考えさせられたことは,ことわざ・格言の「どちらに転んでもシメタ」で扱われた不登校についての話である。まず,何故「どちらに転んでもシメタ」で登校拒否が扱われるのか自分は不思議だった。そのように不思議に思っている時点では,自分は登校拒否をマイナスなものだと思い込んでいた。しかし,内沢さんの話やプリントを見ているうちに,自分の中でそういう風な考え方があるのかと驚きとともに嬉しい気持ちがこみ上げてきた。

何故嬉しい気持ちになったのかというと,自分は実は高校1年の時に登校拒否になった経験があったからである。学校の先生にも何度も学校に来るよう説得されたし,親も学校に行って欲しいと言っていたこともあり,登校拒否に良いイメージを持っていなかった自分は,この経験を隠していて誰にも言わなかったし,消したい過去のように思っていた。しかし,この授業で内沢さんが登校拒否は必ずしも悪いことではなく,メリットも少なくないと言ったのを聞いてから,そんな風に考えることが出来るんだ,すごいと思い,自分が登校拒否をしたのが間違いじゃなかったと言ってもらっているように感じ,自分が登校拒否をしたことが現在の自分に良い影響を与えているに違いないと,とてもプラスに考えられるようになったのだ。

この授業を聞いてから,この「どちらに転んでもシメタ」という言葉が自分のなかでとても好きな言葉になった。登校拒否に限らず,誰にでもあの時こうするべきだったとか,世間一般的にこうするのが普通だったとか考えてしまう出来事があると思う。しかし,この「どちらに転んでもシメタ」というように思えれば,自分の経験してきたことでマイナスだったことなど一つもなく思える。それどころか全て少しでも良い影響になっているように感じられるはずである。それがもし間違っていても,そう思えることでこれから先のその人はとても前向きに成長出来るのではないかと思う。そういう風に強く感じたのでこの「どちらに転んでもシメタ」のときの講義は強く印象に残った。

他にも「イコールは等しくもあり等しくもなし」では自分が落ち込んだり,やる気が出ない時など無理にやろうとするのではなく,そういう自分も認めるという考え方に気づかされた。他にも内沢さんが授業でとりあげる格言は自分の常識や固定概念の外から投げかけられるようなものばかりで,今日はどんな格言で新しい発見が出来るのかと楽しみにしている。

自分は大学4年生で今期が大学で受ける最後の授業である。そこで内沢さんのこの授業を受講できたのは社会人になる自分にとってとても良かったと思う。この授業の趣旨である「教育の自主性」についてはもちろんだが,人生をより良く生きていくうえでのヒントみたいなものも毎回の授業で教えてもらっている。これからあと半分の授業も新しい考え方や柔軟な発想を多く学んで,固くなっている自分の頭を柔らかくして,いろんな物の見方ができるようになって大学生活を終えることができれば良いと思う。




自分のために

2009入 教育学専修 I 君



自分は今,ボクシングをしています。試合1カ月前から,追い込み期に入ります。この時期は毎日スパーリングをして,頭はおかしくなりそうです。おまけに減量で少しずつ体重を落としていかなくてはいけないので,食べたいものもあまり食べられません。この時期に気持ちが折れてしまったら,試合の前に自分に負けたことになります。いかに気持ちを保ち続けられるかとても重要です。そんな中,私は内沢さんの考えに共感するところがありました。1年の時から「たの授」でもお世話になりました。「明日できることは今日しない」など,楽観的すぎるようにも聞こえますが,聞いていてすごく心に余裕をもてる言葉を知ることができました。またボクシングの話ですが,追い込み期を過ごすにあたって,常にイライラしながらとんがって心に余裕のない人と,穏やかで心に余裕を持っている人とでは,あきらかに後者のほうが同じ時間練習をしても効率があがると思います。余裕をもつ技術というのもひとつの強みになります。この講義の前半では,そういう技術を得るためのヒントをもらいました。

この講義ではまず初めに,教育は難しくない,特別じゃないというのをやりました。私は初め,教育はとても難しく奥の深いものだと考えていました。しかし,内沢さんの考えは私のとは全く正反対でした。簡単に言うとこうです。「大人の社会でもできないことを子どもに押しつけている。それが教育を難しくしている」。私はこの言葉を聞いたとき初め何のことかわからなかったのですが,解説を聞いているうちにすごく共感することができました。大学生の私にも苦手な人がいます。誰と誰が今けんか中だとかよく聞くこともあります。大人はそういうことがあっても、あまり騒ぎ立てないで、なんとか付きあっています。子どもの社会でも,人間どうしなのだから、ときに争いやけんかがある程度起こるのは当然なんだ,という視点で見ると今まで見えていなかったものも見えてくるのではないかと思います。

大人の社会でのルールや法則は,基本的はそのまま子どもの社会でも使えるという考えにいたった時,気が楽になりました。あまり堅苦しく考える必要はないのだなと強く感じました。学校はみんな仲良く元気にという理想があります。そういうのは正しいし,間違っていないと思いますが,教師はしっかりとした視点を持っている必要があると患いました。理想は大事にしますが,人間だれしも疲れているときや喧嘩するときだってあります。そういう状態も認めてあげることができれば、心に余裕が生まれると思いました。

次は,セブン-イレブンの禁句についてでした。「顧客のために」というのは,じつは売り手の都合を押しつけた文句で,大切なのはどれだけ「顧客の立場で」、顧客の目線で物事を見られるかでした。学校でもそうだと思います。学校や教師は子どものためにといって,子どもを無理やり授業に参加させたり,座っておれない子には大きな声で叱ります。しかし,それは学校側の都合であることが多いように思います。それが「子どものために」なっているとは言い切れないと思います。本当に子どもの目線にたって,授業を組み立てたりしている教師は少ないのではないかと思います。自分が児童,生徒だった頃こういう授業はいやだ,こういう先生は嫌いだとかいろいろあったと思います。しかし,大人になった今,そのことを忘れてしまっていて,厳しくしすぎるところがあるのだと思います。

この講義では,「自分のことを一番大切にする」というのがテーマです。「自分のことを自分のために」と発想していくとありました。教育について考えるときも,難しく考えるより,簡単に考えるほうが心に余裕ができて自分のためになります。また,子ども目線というのも結局は自分の教材研究にもつながるし,子どもたちからの評価も上がります。きつい練習のときも,自分のことばかりではなく,練習をみてくれる会長をはじめ,トレーナーの人,一緒に汗を流すジムメイトの立場で少し冷静になって考えれば,周りが見えて練習も手伝ってくれたりします。練習はスムーズにいくし技術の向上につながります。これも結局は自分に返ってきます。

自分以外の誰かの立場にたって,物事を考えられるような習慣が身に着けば,今よりも多少,心に余裕を持って生活できると思います。その際大切なことが,自分のために,自分の立場で考えるのでなく,「自分のために相手の立場になって考える」ことだと知ることができました。相手のために,相手の立場になって考えるというのはなかなかしんどいことだと思います。見返りを求めないのは美徳とされていますが,それだけではいつか精神的にも,肉体的にもパンクしてしまいます。自分のために,相手の立場でという意識で生活できれば,徐々にプラスのほうへ変わると思います。それに気づかせてくれた内沢さんに感謝です。




自分を認め,大切にして生きるということ

2009入 家政専修 I さん



この中間レポートを書くにあたって,わたしがこれまでの教育行政概論で最も印象に残ったことはなんだろうかと考えました。そしてそれはやはり「登校拒否・引きこもり」についての話だと思いました。初めに「登校拒否は明るい話題」と聞いた時には「いくらなんでもそれはないだろう」と思っていたのですが,講義を受けていくうちに,私も今では「登校拒否ができる子はスゴイ」というような肯定的な見方に変わりました。それは,登校拒否をする子どもは嫌なことを「イヤ!」と拒否することのできる「たくましい」子どもなのだという考えを知ることができたからです。「嫌なことは嫌と言うこと」。これは簡単そうに見えてとても難しいことだと思います。多くの人は嫌なことがあっても少しガマンします。そのガマンしたことをなんとも思わなかったり,ガマンしてよかった,という風に思えたら別に何の問題もありません。でもガマンすることが苦しいのにずっとガマンし続けて,最後にはどうしようもなくなり,自分が壊れてしまったら取り返しがつきません。だからそうなる前に嫌なことは「イヤ!」と拒否することができたら,それはすぼらしいことです。自分が壊れてしまう前に自分を大切にして,自分らしく生きるための道を自ら選んだということなのだと思います。主体性を持って行動した,とも言えます。このように,登校拒否をした子どもは自らの考えで主体的に行動したのに,それを親の勝手な考えで無理やり学校に行かせようとすることは,全くもってナンセンスなことだと思います。プリントにも書いてあるように,「子どもが元気かどうか」ということが一番大切なことです。不登校の子どもが学校に行けない自分自身を責めて自己否定的になっているときに,親が本心から「学校には行かなくていいよ」と言えたら,子どもは家でのびのびと過ごすことができると思います。

この親子の関係は学校における教師と生徒の関係とも同じだと思います。教師がいくら生徒のことを思って叱ったり指導したとしても,それを子どもがどう受け止めるか分かっていなければ意味がありません。「子どものために」ではなく「子どもの立場」になって考えなければならないのだと分かりました。教師は常に「子どもにとって一番いいことは何か」ということを考えて行動しなければならないと感じました。

静は変わりますが,私は内沢さんのこの講義を受けてとても救われました。講義を受け始めたころの私は,ちょうど個人的な理由でサークルを辞めた後でした。そのことで自分を責めていて,「自分はなんてダメな人間なんだ」と思っていました。後悔していても何も始まらないことは分かっていたけれど,やりたいことも見つからず,ただただ今の自分が嫌でたまりませんでした。かといって何もする気も起きず,だらだらと毎日を過ごしていました。そうしていると,だんだん将来についても不安になっていきました。今何もしていない自分はこのままでいいのか,何かしなければ…と思っていました。そんなときに内沢さんに出会いました。内沢さんは教育や登校拒否についての話題を話していましたが,それらすべてをひっくるめて私には,「あなたは今のままでいていい。ありのままの自分でいていいんだ。」ということを教えてくれたような気がします。「何もしたくないのであればしなくていい」。そんな風に考えると,気持ちが楽になりました。そして,「やらなくていいんだ」と思うと,不思議とと「少しずつでもやろうかな」という気持ちになりました。

また「将来が不安」なのは,「今現在が不安だから」ということを聞いてとても納得しました。今の自分の生活が満ち足りていたら,将来のことなんて考えないと思います。今の自分が不安だからこそ「このままではどうなるのだろう」と,不確実な未来を気にしてしまうのだと思います。しかし講義を受けて,そんな不確実なことをいくら考えても仕方ない,そんなことを心配するよりも私が生きているのは「今」なのだから,今現在に一生懸命になることが大切なんだと思えるようになりました。

私は〈発想を豊かにする〉ことわざ・格言の中の一番目の「馬鹿の大足,間抜けの小足,ちょうどいいのは俺の足」ということわざが特に好きです。初めてこれを知ったとき,「なんてポジティブな考えなんだろう」と思いました。そして今までの自分はこの考えを持つことができなかったのだと分かりました。私はいつも自分に自信が持てなくて,他人と比較しては落ち込んでいました。他人のいいところばかりに目がいき,自分に対しては悪いところばかりを気にしていました。けれどもこのことわざのように、私の人生は私が主人公なのだから,自分の基準を一番大切にしていけたら,自分に自信を持って生きていくことが出来ると思いました。今までの私には,「自分を認める」ということができていなかったのだと思います。だからこれからは,自分の長所や短所も全てひっくるめて,あるがままの自分,自然体の自分を認めていきたいです。今後の講義でも,私の知らない新しい考えに出会えることを楽しみにしています。




ピンチはチャンス

2008入 保健体育専修 Kさん



最近まで実感がわかなかった教師という立場。しかし教育実習が終わり,教師とは何か,教育とは何かを考えるようになってきた。教育実習ではもちろんいい先生でいよう,求められている先生像を求め試行錯誤してきた3週間。言葉は悪いが良い成績を付けてもらえるような先生を演じていたのではないかと教育行政概論の授業を受けて思った。なぜなら授業を妨害するような子にはきつく注意し,みんなと同じように行動しなさいと制止し,体育という授業であったためかは盛り上がりはしやぎだすとなかなか収集がつかないと私自身,指導力不足だと悩み苦しんだ部分があったからだ。自分は教師に向いていないのではないかと自分を否定しながらも,でも頑張ろうと後ろ向きな考えが混ざりつつ,行動は前向きに頑張っていた。

教育行政概論ではそんなダメだと思っていた自分と向き合ういい機会にもなった。「“ダメな自分”も認められるようになると元気になる」=肯定と否定の関係,「人間的な長所とは反対側の欠点によって支えられている」という五木寛之さんの言葉,欠点が〈最良の部分〉に根ざしているという言葉はとても自分にとって力になり,素敵な言葉だと思った。実習中のダメな授業も,実は子どもたちがはしゃいでいたのは自分の指導力不足ではなくて,自分のしていた授業があまりにも楽しく素晴らしい授業だったから,いつもなら先生の言いなりで静かな生徒が,私の授業でははしゃいで自由にしていたんだ!!と思えた。否定的な考えを肯定的に視点を変えて考えてみると案外気持ちが楽になるし,自分に自信が持てるような気がして,ことわざや格言について講義を受けて学んだ価値があったなと思えた。

また「登校拒否も暗い話題ではない〜どちらに転んでもシメタ」も印象深かった。私はたのしい授業を受けていたから登校拒否について聞くのは初めてではないけれどそれでもやはり,興味深い話題だと思った。確かに学校現場では登校拒否の生徒やクラスになじめない生徒に対してマイナスな印象を持っている(かつての私もそうだった)。きっと自分自身が登校拒否になったら…自分自身を責め周りからの目も気になって自分の部屋から出てこられなくなる気がした。この話題を考える上で一番大切だと感じたことは〈家族の理解〉だと思う。登校拒否になったわが子に対する接し方,考え方を親が変えなければ,登校拒否の子どもはいつまでたっても自分は他の子とは違う,ダメだと責め続けると思うからだ。「登校拒否は悪いことじゃない〜学校に行かないおかげでたくさんのことができる」などと考えられるようになると,なんだか自分は得した気分になれるし親子ともに明るくなれるんじゃないかなとも思った。教師も,そのような考え方を持っているだけで生徒と明るく向かい合っていけると思う。

良い方向に向かえばそれでよし,悪い方向に転んだとしても,自分の人生,それはそれでなんとでもなる。一番悪いのは人のせいにしたり,自分と向き合わないで後悔ばかりしてしまうことだと思った。講義中にも内沢さんが話題にしていた在籍8年の学生のことがすごく気になりました。自分ならその人に対してどんな助言やアドバイスをしてあげられるだろうか,講義の前だと,その学生に対して「何が何でも頑張って卒業しよう」と言っていたと思う。でも講義が終わってみると,内沢さんのように「どっちに転んでも,素晴らしい人生ではないだろうか」と言ってあげられる気がした。初めは,自分の中にやっぱり社会の中で成功した人や大学を卒業して立派に働いている人が優れているという固定観念が頭の中のどこかにあったから,そんなことしか考えられなかったのではないかと思った。でも人生の中でどんなピンチな状況でも,見方を変えると這い上がるチャンスだということを内沢さんの言葉を聞いて思った。他人の目や世間体に左右されるのではなく,人生良いも悪いも自分次第だと思った。「どちらに転んでもシメタ」は、この先の人生の中で教訓にしていきたい言葉だと思った。

確かにこの教育行政概論やたのしい授業の中には,「本当にこんなに楽観的に物事を考えていいの?」ということが多数あるけれど,それでもやっぱりいろんな考えにふれることができて,授業を受けるたびに自分の考えってある一つの考えにすぎないと思うことがたくさんある。ことわざ・格言や様々な文章に触れ,多様な価値観・思考に触れることがこの授業のいいところだと思う。今までの経験から学んで教訓にすることももちろん大切だと思うが,いつの間にか世間や社会の中でどうか? という考えが強く自分の人生の中を左右する要素になっていたかもしれない。もう一度自分の感性や考えを見直すいい機会だと思うので,様々な考えを素直に吸収していきたいと思った。これから授業も後半になっていくにつれてまだまだ学ぶことや,疑問に思うこともあると思う。それらを含めて自分にとっていい刺激になることは間違いない。自分のなかでの引き出しが増えるように授業を楽しみながら受けていこうと思う。




「意味ない」って言わない

2009入 保健体育専修 O君



この授業を今まで受けてみて,学んだと思うことはたくさんあったと思います。一つは物事はなんでも重く考えすぎてはならないということを学んだと思います。ちょうどこの授業を受け始める前に自分は参加観察実習に行っていました。そこでその時自分が思っていたのは,もっと頑張らないととか,もっとしっかりしないととか思っただけで,自分に余裕がなかったです。なんでも完壁にしなければという気持ちが強くなりすぎていたと思います。その時に,この授業でセブン-イレブンの禁句の授業がありました。「顧客のために」は禁句で,「顧客の立場で」で考えなければならないという内容でした。その時に,自分の考え方が変わったと思いました。今まで自分は「生徒のために」と思って考えていたけれど,そうではなく「生徒の立場で」考えるというのを意識するようになりました。そうするとこの授業で今まで意味がわからなかったことでも,なんとなくわかるような気がしてきました。例えば,「悪事は善意から」というのも,人のために,良かれと思ってやったことが,相手にとっては迷惑だったということです。「相手のために」と勝手に自分が思い込んで,相手がどう思うか,「相手の立場で」考えないと,「相手のために」ならない。「相手のために」というのは、気をつけないと自己満足になりかねないのだと初めて感じました。

二つ目に,物事はいろいろな見方ができるということを学んだと思います。不登校の話で,不登校は今まで自分の中には何か問題がある子が不登校になると思っていました。不登校って普通じやないという意識が自分の中にあったけれど,不登校やひきこもりも学校に行かないだけで,家で元気にしていたら,それでいいじゃないかという考え方もあり,確かにと自分も納得してしまいました。不登校「なのに」元気,不登校「だから」元気,ただ言い換えただけなんだけど,意味は全然違います。この物事をいろいろな見方で見るということは,いろいろな所で使えると思いました。例えば,自分は柔道をやっていてこれといった得意技がないと自分でよく感じます。それも言い換えると,いろいろな技ができるということにならなくもないし,そう考えると落ち込まなくてすむし,実際そう考えて楽になりました。でもよく考えていくうちに,なんでも見方を変えて肯定的にとらえてしまったら,人間は成長しないんじゃないかと思うようになりました。人間だれでも,過去の失敗を反省して繰り返さないようにすることや自分の欠点を補おうとすることで成長していくと思います。なのに,自分の欠点を見方を変えて,なくしてしまったりすることって自分から成長するタイミングを逃してしまっているような気がしました。そこで考えて考え疲れて,もうどっちでもいいやと思った時に,自分は初めて何にもとらわれずに,物事をいろいろな見方で見るということができた気がしました。このとき自分にとって物事をいろいろな見方で見るということは,どうでもいいという気持ちで,物事を眺めるということが物事をいろいろな見方で見ることができる方法だと感じました。今では自分はいろいろな時にこの方法を使っています。

この自分なりに見つけたどうでもいいという考え方に似たことわざが授業の中に出てきました。「いい加減はよい加減」ということわざです。初めてこの言葉を開いて,それからずっと心の中に残っていて,太好きな言葉です。この言葉が心に残って好きになったのは,自分自身がとてもいい加減な人間だからだと思います。でも,いい加減な自分でも,なんだかんだで今まで20年間人生を過してきているのはやっぱり「いい加減はよい加減」だからなのかなと思ったりもします。そもそも自分の経験から,人間常に頑張り続けることって多分無理だと自分は思います。頑張りすぎると,肉体的にも,精神的にも,どこかでガタがくると思うし,自分にも少しはそんな経験があります。そういう経験もあって今の自分があるからこの言葉にすごく共感できました。この言葉から学んだことは,「意味のない」ものなんてないということです。見方を変えて物事を見るのと似ているけど,いい加減にやったら意味がないとよく自分も先生から言われたけれど,いい加減だから見えるものもあるということ,いい加減だから意味がない,なんてことはないということを感じました。「意味ない」というのは自分のよく使う言葉だったけれど,もうあまり使わないようにしようと思いました。「意味ない」って言うのは,物事をいろいろな見方で見るのを放棄しているからです。そしてさらに自分の意味ないという言葉を聞いた人が,意味ないと思ってしまうかもしれないからです。そう思わせてしまったら,悪意はなくとも,他人が物事をいろいろな見方で見る機会を奪ってしまったという悪事に至ります。そうしないために,今度から「意味ない」って言うのはやめようと思います。レポートを書いていてこの授業は一つ一つがつながってないように見えて,つながっているんだな。と思いました。


考え方一つで未来を明るく

2008入 家政専修 Mさん



私はこの講義の初めにシラバスを読んだとき,正直意味が分からず,どんな講義なのか見当がつかなかった。きびしい授業であるとなんとなく感じ,不安だと思った。しかし,実際この講義を受けてみると,きびしい授業というより予想以上に驚きと発見の連続だった。

まず,私が特に驚いたのは,「登校拒否は暗い話題ではない」ということだ。私は今まで登校拒否についてメディアで取り上げられているのを観る度に,暗いニュースだと感じ,憂鬱な気分になっていた。私自身は登校拒否をしたことはないが,私の周りには何人か学校に行かなくなった人がいた。その中には親しい友人もいたが,なぜ登校しないのかについて尋ねたことがなく,友人の気持ちを理解することができなかった。現実逃避をしているのだと勝手に決めつけていた。しかし,実際には登校しないということこそ意思表示の一で,自分の意思を貫いていることだったとは驚きだ。私は学校に行きたくない時もあったが,無理して学校に行っていた。周りの目や親の目を気にしすぎて,学校を休む勇気がなかった。そう考えると,確かに登校拒否ができる人は相当勇気がある人なのだろう。嫌なことを嫌だと自己主張できているということは立派なことだと思う。たとえ登校拒否が,家庭内暴力や暴言,深夜排絢などの非行に繋がったとしても,それが,親が親らしくなっていき,子どもが変わっていく絶好のチャンスだという捉え方をすれば,これも明るい話題となる。物事をマイナスに捉えるよりもプラスに捉えたほうがよっぽど明るい生き方ができると思うし,前に進めると思う。この講義では,登校拒否は考え方によって,暗い話題になってしまうが,逆に言えば,考え方次第で明るい話題に変えることができるということを学んだ。そしてその発想の転換は登校拒否だけでなく,子どもたちを認めることにもつながると感じ,とても勉強になった。

次に,私がなるほどと思ったのは,「イコールは等しくもあり等しくもなし」という板倉さんのことわざ・格言だ。この一文を数学的に考えるとありえないことだが,言葉として捉えると納得である。学校=牛乳という言葉をみてみると,この意味を文字だけで捉えればイコールになるはずがないから,おかしなことを言っていると思われるだろう。しかし,どちらも必要なものだが,唯一無二の存在ではないという点ではイコールの関係が成り立つ。牛乳はカルシウムを摂取するために必要である。摂って損をすることはほとんどないと思う。しかし,飲まなかったからといって死ぬわけではないし,他の食品からでも十分カルシウムを摂ることができる。学校は勉強をしたり,社会性を身に付けたりするために必要である。行って損をすることはほとんど無いと患う。しかし,行かなかったからといって死ぬわけではないし,学校の役割は学習塾やその他の施設でも補うことができる。違うものがある点からみると確かに等しくなっているということがわかった。

そして,「“ダメな自分”も認められるようになると元気になる」ということについても,私はなるほどと思った。普通,“ダメな自分”というのは認めたくないし,誰にも知られたくない部分だと感じるだろう。しかし,実際その“ダメな自分”を認められない感情こそが自分を苦しめていたのだ。そのことに気づける人はあまりいないだろう。「長所が欠点によって支えられ,欠点が“最良の部分”に根ざしている」ということを参考にしてみると,“ダメな自分”もその人にとっては重要な部分だということがわかった。さらに,どんな自分も自分であることには変わりなく,そのかけがえのない自分に愛着を持つことが大切だということを学んだ。私は“ダメな自分”を認めろと言われても,“ダメな自分”を嫌い,その嫌いな部分から目を背けている以上,それはとても困難に感じていたが,ダメな部分があることは当然のことで,それが現在の自分なのだと考えれば,いまの自分を少しでも認められるような気がした。むしろ,“ダメな自分”があるからこそこれからもっと向上していける,つまり,のびしろがあるのだ,ということに気ついた。そのようにして,いまの自分を認めることで“ダメな自分”も認められるようになりたいと思った。私は将来,自分がなりたい職業につけるかということに不安があり,漠然と将来を思い煩っている状態だった。きっとこれはそのときの“いまの自分”,“ダメな自分”を認められていなかった証拠だと思う。この講義を受けてから,私は今の自分を認め,現在の課題に一生懸命になりたいと思えるようになった。

固定観念に囚われがちな私は,偏った考えばかりで,考え方次第で明るい話題に変えられることも知らないうちにマイナスな方向へ進んでしまっていたが,この講義で,今まで考えたことのないさまざまな考え方を取り入れることができた。今後また新たな驚きと発見を求めて学んで行きたい。



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最終更新 : 2012.5.3
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