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2009年度 「教育行政概論」
最終レポート


目次



1 すべてはつながっている    健康教育専修  Uさん
2 私のなかの大きな変化        理科専修  H君
3 この講義で学んだことを生かす   社会専修  T君
4 主体的であるということ     国際理解専修  Fさん
5 発想を変えてみる          心理学専修  Oさん
6 生活指導もたのしくできる     教育学専修  Oさん
7 生徒指導=皿回し           社会専修  M君
8 皿回しから気づく          教育学専修  Tさん
9 いっしょに暮らす         健康教育専修  Hさん
10 AであってAでない          社会専修  I 君
11 「幸福論」と「たのしい生活指導」 教育学専修  I さん
12 わたしの「幸福論」          家政専修  Mさん



すべてはつながっている

2008入 健康教育専修 Uさん


 後期を通して教育行政概論の講義を受講してきましたが、この講義を通して、いつも心の中にもっていたい素敵なことばや、自分の外側にあった新しい考え方と出会うことができました。

 最初は、皿回しと人間関係がつながっていると言われてもピンときませんでした。話を聞いていると、わかってきました。子ども(お皿)がいるから教師(棒で回す)という仕事ができること。お皿はときにバランスを崩して、今にも落ちそうになったりします。そんなときも、不安定な子どもの状態をあるがままに受け止めることができるかどうかが大切だというお話でした。お皿(子ども)に合わせることができるかという子とも主体の考え方だと思いました。実際に皿回しをしてみましたが、コツは棒を回すことではなく、むしろ力を抜いてお皿に合わせることができるかどうかだと思いました。不安定な状態になっても、お皿に合わせて棒を動かすと、またお皿は元気を取り戻して回りだします。お皿を子どもに置き換えてみると、おもしろいなあと思いました。

 「心ここにあらされば、視れども見えず、聴こえども聞こえず」ということばは、時計の文字盤やコンセントの例を用いて説明されました。私は、人間関係にもいえるのではないかと思いました。人と接しているときは、本気でその人のことを考えて、本気でその人のことを思わないと、見えてこないことがたくさんあると思います。視えていても見えてなかったり、話を聴いていても聞こえてはいなかったり。だから、それは本当に見ていることや聴いていることにはならないと思いました。その人の立場となって考えることで、初めてその人の状況や、その人自身のことがわかってくるのだと思いました。

 講義はすべてつながっていると思いました。子どもを尊重することができるかどうかという視点で見ると、教わったことは子とも主体の教育を大切にしていると思いました。「問題行動は即妨げるが、指導は急がない」ということばにも表れていると思います。他人に害を及ぼす行動のみ妨げる、妨げる「だけ」というのも含めて、子どものありのままを尊重しているのだなあと思います。教育に関することだけでなく、より楽しく人生を生きていくための発想転換法もたくさん教わりました。そのことばの一つ一つがわかってきたとき、いかにいままで自分が薗定観念に囚われていたかがよくわかります。「自由に考えることとは囚われて考えることである」ということばもあったように、新たな法則に囚われて考えていけるようになりたいと思いました。

 「いつも笑顔でにこにこ」ということばが心に残っています。簡単なことだけど、続けるのは難しくて、でも1番大切なことだと思います。内沢さんの発想の転換で、私はずいぶん新しい考え方ができるようになりました。「たのしい生活指導の課題」を読んでいてそう思います。「おせっかい=他人に親切である」など、A=A≠Aの発想法で、「わがまま」が「自分を大切にしている」のように長所と短所はその人の中に、別々にではなく背中合わせで存在しています。その発想法を知ってから、自分に余裕がなくなって人の嫌な面ばかりに目がいってしまうときは心を落ち着けて、別の視点から見ることを心かけています。そうすると腹が立つこともなくなります。いつも笑顔でにこにこするためのこつだと思います。最初は「短所を長所ととらえるなんて、プラス思考で良い考え方だなあ」とか、「私も結構プラス思考になってきたかもなあ」と思いながら読んでいましたが、そうだと言い切れるものでもありませんでした。

 「もともとがそもそもプラスなのだ」。そのことばを読んで、また衝撃を受け、新しい考え方も知ることができました。マイナスではなくて、プラスもマイナスも存在全てに価値があり、それをマイナスととらえるか、どうとらえるか、どんな経験として自分自身のものにしていけるかも、自分の考え次第なのだと思いました。マイナスにもそれ自体に価値があるなんて今まで思ってもいませんでしたが、視点を変えれば短所も長所だったり、うまくことばにならないけれど、もともとがプラスとは、どちらに転んでもしめた、というか、どんなことにも価値があるということではないかと考えました。

 また、いつも笑顔でにこにこしているためには「そのままの私で」いることが大切なんだと思いました。素敵な授業をありがとうございました。色々な考え方や発想の転換法を知り、これから今までの何倍も楽しく過ごせそうです。私は、周りの人からよく思われたいとか、他人からどう思われるかがものすごく気になるとか、周りからいい評判を得たいとか、そんなことを第−に考えて、自分自身が楽しむことを忘れてしまわないようにしだいと思います。自分の人生の主人公は、他の誰でもない、わたし自身だと胸を張って言いたいです。



私のなかの大きな変化

2006入 理科専修 H君

 私は内沢さんの話を開けて本当によかったと思っています。なにがよかったのかというと、発想の転換、物事の見方という点で私に大きな変化をもたらすきっかけを与えてくれたことです。私は、自分で言うのも何なんですが、小さいころから正義感が強く、自分の思っていることが大抵正しいものだと思って生きていて、自分と違う考えに出くわしたときになかなか受け入れられず否定して結局は相手を自分の考えで丸め込んでしまうということが多かったのです。だから初めのうちは内沢さんの話を聞きながら、言っていることも、普段周りの人たちから言われることとほとんど正反対のことで、何を言っているかさっぱりで、おもしろいことを言っているという思いしかありませんでした。だけど、そのわけのわからないことを内沢さんは真顔で話していました。その真顔からでる発言のせいなのか、私は内沢さんの話を聞くごとに聞いた内容について真剣に考えていました。それを繰り返しているうちに、だんだんと内沢さんの話もなくはないと思うようになってきました。もっと聞いて自分なりに考えてみよう。

 今まで他人の自分とは違う意見を拒否し続けてきた私に最初の変化がありました。私は教師のあり方に関しても自分の考えというものがありました。「教師だからこうでなくてはならない」。この言葉で教師のあり方が完壁に固定されていました。しかし、内沢さんの話はそれとはまったく異なる内容でした。そのなかでも一番印象に残っているタイトルは「登校拒否は明るい話」です。やはり、最初は意味がわかりませんでした。しかし、その話のなかで「嫌だと思えば嫌という能力がある。嫌なことは嫌だと感じる能力がある。嫌なことは、頭ではしようと思っても身体がいうことをきかない。身体がそうなってしまう」という言葉を聞いたとき、そんな考え方したこともなかったと感動しました。これがたくましいのか弱いのか、わたしはたくましいと思いました。たくましいし、すごいことだと思いました。私は自分のいやなことがあってもできる限り我慢してすごすことがほとんどで、我慢強いともいえますが、逆に言うと周りの目を気にしたりして言い出せなかったのです。他にも、「学校に行くのが当たり前」という考えについてなどの話を聞いているうちに、私の中での教師のあり方も真剣に考えることができました。

 「登校拒否は明るい話」以外にも『発想法かるた』やルソーの『エミール』、セブン・イレブンの訓戒など、私は内沢さんの話を聞くたびに、若干の拒否反応を示しながらもそれをはるかに超える驚きと関心で新しいものごとの見方、考え方を学ぶことができました。そして、仮説実験授業の存在を知れたことも私にとって大きなプラスになりました。予想を立てて結果の意外性から何かを学ぶ。十円玉とマッチ箱による重さの感じ方の実験や、パイプによる音の感じ方の実験などが講義で実際に行われましたが、それらだけでも私の興味・関心は沸き立ちました。また、そこから出てくるものごとに対する発想も五感をとおして知ったものなので印象的だと思いました。

 原子が小学生に受け入れられるはずがないと思いながらも、ビデオを観て、話を聞いて楽しそうに原子と触れ合っている児童の姿をみて感動しました。ここでも、わかるわけがないという先入観に囚われてしまっていましたが、うまく覆されてしまいました。固定観念を覆されたときが衝撃がとてつもないこともこの講義を通して勉強になりました。

 今思えば、教師のあり方について自分の考えがあるといいましたが、その考えは決して自分が本当にゼロから生み出して確立したわけではないと思いました。今まで生きてきた中で出会ってきた人々の教えが私の中に植えつけられているだけで、今まであった教師像もそれらに囚われていて生まれたものだと考えることができます。それがあたかも自分のもののように大事に思っていただけなのです。逆に言えば、これから出会う人々から教わることだって小さい頃に教えられたことと何も変わらない自分のものになり得るものです。私は内沢さんの話から、物事を多面的にみることを学びました。内沢さんの紹介してくれた教えの数々も私の引き出しにいれて今後に役立てていきたいと思います。ありがとうございました。



この講義で学んだことを生かす

2007入 社会専修 T君



 この教育行政概論で、私は、生まれて初めての体験をしました。それは、皿回しです。「この講義では、皿回しするんだよ」って友人に言ったら、「何で?」と聞かれると思います。でも、実際にやったのですから、逆に「何で?」ってこっちがなるのが必然です。確かに友人の言うことはもっともです(内沢さんには悪いですが‥‥)。講義で皿回しなんて、ありえない!! でも、内沢さんはありえるのです。もちろんそれには、れっきとした理由があります。それは、内沢さんが、生徒指導、人間関係は皿回しでもあると言うからです。

 皿回しは一見、棒が皿を回しているようですが、実はお皿によって棒も回されているのです。そんな皿回しのコツは、お皿の動きにあわせて棒を回すというのがポイントで、危なっかしい子どもの状態も大人が尊重できるかが大切になります。お皿に勢いがなくなり、揺れはじめて今にも落っこちそうになっても、そのゆっくりとした皿の動きにあわせて、棒もゆっくり回せば、お皿はまた元気を取り戻し安定して回ってくれるのです。こうした皿回しのコツと相手を尊重するという生徒指導や人間関係の原理は、同じといえます。私に置き換えてみると、もし、お皿に勢いがなくなり、揺れはじめて今にも落っこちそうになったら、きっと焦ってしまい、お皿を落としてしまいます。そうなると、生徒指導、人間関係もちょっとした焦りで、上手くいかなかったり、ギクシヤクしたりしてしまうのです。人間焦ってもいいことは無いので、落ち着いて対処することが重要になります。そして、相手を尊重することが大事になってきます。

 生徒指導はむずかしくなく、子どもにやってほしくないことは妨げればいいだけなのです。人が人を変えようとするのではなく、嫌なことをされて困っている子どもがいれば教師が介入する。教師が妨げれば、少なくとも被害を受けている生徒が助かる。それを続けていけばいいのです。そうして、「他に害を及ぼすことは絶対に許されないんだなあ」ということが徐々に分かるようになっていけばいいのです。

 ある理学部生が授業感想文に、「今回の実験で、あらゆる物質は原子や電子でできていると実感がわきました」と書いています。理学部の学生ですから、原子・分子のことをまったく知らないわけではありませんが、仮説実験授業を受けると「実感できる」のです。ほんとうにすべてが原子・電子の働きなんだ、すべての物質は電気的な性質を持っているんだ、ということが感動的に分かるのです。だから、たのしい授業(以下「たの授」)をやっていくと、みんな法則が分かり、みんなが賢くなっていく。

 このことは、生徒指導にも当てはまることじゃないかと思います。「仮説実験授業ほど、子どもの人権を大切にしている教育理論、教育思想は他にはない」という内沢さんの言葉に凄みを覚えました。私にとって仮説実験授業とは、子どもたちが楽しんで行われている授業であるという認識しかなかったからです。でも、子どもの人権を大切にしている教育理論、教育思想だと言われると確かにその通りだなあと納得しました。学ぶに値するものを誰もが教えようと思えば教えられる授業書の存在と、子どもたちへのいっさいの押し付けを排除している仮説実験授業の授業運営法が、その大きな理由です。

 中が空洞になっているアルミのパイプ、中が詰まったアルミの棒、さらに平べったかろうが、がっちりした六角柱であろうが、同じアルミだったら、同じ音がします。人間もじつはみんな同じだと。みんな嬉しいときは嬉しい、悲しいときは悲しい。要は、人間の心理や行動にも、法則性があるんです。登校拒否にしたってそうで、「登校拒否になりそうな子はこういう性格や傾向の子である、という法則はない」という法則がある。

 2回目の中間レポートにも書いたが、当時教育学部4年生だった片岡美穂子さんの行った授業「おおかみ」では、小学校2年生の中から「オレたち、天才だー!!」という声がでてきて、すごく微笑ましい限りでした。板倉さんは、「天才というのは、たまたまその人の主要な仮説があたった人だ」と言う。つまり、天才というのは、普通の人に計り知れるのです。

 内沢さんの言葉で、面と向かって生徒から文句を言われたら、じつはイイ線を行っているというのが気になりました。もし、私が担任で、生徒から面と向かって文句を言われたら、相当へこむと思います。そんなことを生徒に文句を一つ言わせないようなビシッときめている教師なんかに相談したら、何と叱咤されるか知れたもんじゃない。でも、じつは、面と向かって言われたら期待されている、頼りにされていると見なきゃいけないのです。子どもたちは、授業が楽しかったら、学級崩壊は起こらないと思っていて、子どもたちが「いい授業」、「たのしい授業」を求めていることが分かる。一方で、教師は、いい授業よりも、子どもたちとのよい関係が大事だと思いこんでる。

 教師が本当に留意しておかねばならぬことを3つ挙げます。まず、一つ目は、子どもたちが学ぶに値する「たのしい授業」をすることです。二つ目は、生徒指導は、子どもたちの命や安全を守ればいい。三つ目は、いつも笑顔でにこにこです。この3つに留意しながら、教師の日常を過ごしていければいいなあと思います。



主体的であるということ

2007入 国際理解専修 Fさん



 教育行政概論の授業を受けて、受け始めたばかりの頃の自分と、すべての講義を受講した後の自分とでは、まず、内沢さんに対する気持ちが変化しました。初め頃は、「この先生は何を言っているのだろうか」や「学生の人気を取ろうとしているだけなのではないか」と思っていました。しかし、現在は、先生のおかげで自分の考え方を多方向にむけられるようにしてもらえたと思っています。

 講義の中で一番理解できなくて、難しかったのは、「ルソーの逆説的消極教育論」で、講義の中で一番わかりやすくて、簡単だったのも、「ルソーの逆説的消極教育論」でした。とくに私が理解できなかったことは、「それは訓戒を与えずに指導すること、そしてなに一つしないで全てをなしとげることだ」と「あなたがたの教育のあらゆる規則を深く考えてみることだ。そうすればそれらがすべて逆になっていること、とくに美徳とかよい風習とかいうことについてはすべてが逆になっていることがわかるだろう。子どもにとって唯一の道徳上の教訓、そしてあらゆる年齢のひとにとってもっとも重要な教訓、それはだれにも決して害をあたえないということだ。よいことをせよという教訓でさえ、右の教訓に従属していなければ、危険で、間違った、矛盾したことになる。どんなひとにしろよいことをしないひとがあろうか。すべての人はよいことをしている。悪人とても同様だ。悪人は百人の気の毒なひとの犠牲において一人の人を幸福にしているのだ。そういうことからわたしたちのあらゆる災害が生まれてくるのだ。もっとも崇高な美徳は消極的なものだ。それはまたもっともむずかしいことだ。」の全文で、本当にまったく意味がわかりませんでした。

 しかし、講義のなかで内沢さんが話されたセブン・イレブンの「顧客のためにではなく、顧客の立場で」という言葉や、「心配しないで信頼する(「p」と「r」がちがうだけで大きなちがいがある)」という言葉を聞いてから、講義を通して少しずつ理解できるようになったと思います。教師だからしないといけない、という決まったことは無いし、むしろ、することのほうが生徒にとってよいことではないのだということ、生徒だから教師に従わないといけない、というわけではないのだとわかりました。また、皿回しを使った授業では、力を入れすぎてはうまく回らないということから、教師も力を入れすぎてはいけないのだということがわかりました。

 内沢さんが「この授業は難しいです。でも簡単な授業です」といった意味が後半になりようやくわかったように思います。それからは、「ルソーの逆説的消極教育論」は、なにも難しいことを書いているわけではないのだということが理解できました。「自分の教師人生を主人公として生きる」ということが一番大事で、その本来の意味がなんであるのかということがわかったように思います。

 次に、授業で印象にのこったことが、「まねも主体性のうち」ということです。それまではなんとなく、真似をすることはよくないことだと思っていました。なぜそう思うようになったのかを考えてみましたが、小学生のころから真似はよくないといった教育や、「主体性」に関する指導を受けていたような気がします。内沢さんの授業を受けてから、本当の主体性はいったい何なのだろうかと、わからなくなりました。そこで、私は今まで本当に真似をしてこなかったのかを振り返ってみました。よく考えてみると、私は本当に多くの真似をしていました。私は以前会社勤めをしていたのですが、そこで私がしてきたことは、多くの先輩方の仕事の真似でした。しかし、それは決して悪いことではなく、真似をするからこそ、スムーズに仕事を進めることができました。そして会社では、それを真似とは言わず「成長」と言っていました。ここでは、真似することは悪いことでは決してありませんでした。しかも、真似をして土台を作るからこそ自分自身の仕事の仕方も生まれました。これが、〈発想を豊かにする〉ことわざ・格言集にある「まねの限界が独自性」ということなのだと感じました。私は、真似をすることをいけないことだと思っていながらも、何の迷いもなく人の真似をしていた自分が滑稽に感じましたが、真似は悪いことではないのだと実感をもってわかることができました。真似をするからこそ、そこでマネしきれなくなったときに自分の個性が出てきて、主体性を持って行動できるのだと思います。真似と主体性は全く逆のことばのように感じますが、実は非常に大きくかかわりあっている言葉であるのだと思いました。そう思えるようになったり、考えるようになったりしたきっかけを与えてくれたのは、この「教育行政概論」であり、内沢さんのさまざまな解説のおかげだと思います。

 教育行政概論を受けて、「教師とはこうあるべきだ」という勝手な思い込みや「生徒とはこうあるべきだ」という決め付けを取り払うことができました。初めは、自分の考えを否定されることに大きな拒否感がありました。しかし今は、授業の内容を、自分なりかもしれませんが、理解することができたおかげで、「主体性」のある教師を目指すことができるように思います。ありがとうございました。



発想を変えてみる

2008入 心理学専修 Oさん

 

 
 この授業を受講する前、教育行政概論という堅苦しい名前を聞いて、難しくてわからない授業なのではないかという心配があった。しかし授業内容はとてもわかりやすく意外なものだった。毎回の授業で自分が全く考えたことのない発想に出会った。当たり前だと思っていたことは、実は自分が思い込んでいただけなのだとわかった。授業が進むにつれて、こうあるべきだという狭い視野でしか考えることができていなかった自分に気が付いた。授業の始めは、例えば「イコールは等しくもあり、等しくもなし」や「不登校は明るい話」などと聞いても何を言っているのかさっぱり理解できないが、授業の終わる頃にはその発想がまるで自分の考えのように納得していることに気付く。様々な授業が印象に残っている。いくつかあげていきたい。

 セブンイ・レブンでは“顧客のために”が禁句になっている。最初はなぜだろうと思った。顧客のためには良いことなのではないかと思った。しかしその言葉には、“顧客とはこういうものだ”という決め付けや思い込みがあることがわかった。子どもに置き換えて考えてみると、親が“子どものために”と思って言っていることが、実は子どものためにはなっていない。親の都合を押し付けていることが多い。本当にその通りだと思った。自分が子どもと接しているときに、子どもからしたらこういう言われ方をしたら嫌だろうなと後で冷静になって考えると思うことがよくあった。サン・テグジュペリの言葉にあるように、「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」ということを実感した。悲しいことだが、いつの間にか子どものときの気持ちを忘れてしまい、子どもの立場で考えられなくなっていた。“子どものために”と“子どもの立場で”は同じように見えて全然違うのだと思った。自分が大人からされて嫌だったこと、言われて嫌だったことを、自分が子どもに対して繰り返さないようにしないといけないと思った。子どもの立場で考えるというのは大事なことである。子どもの立場で考えてみたら、接し方が変わり、子どもの反応も変わるのかもしれないと思った。

 「生活指導は難しくない」これも意外な言葉だった。生活指導は、校則違反がなくなるようにしないといけないものだと思っていた。これも先ほどの子どもの立場で考えるという話と関係しているが、中学や高校で校則について指導をされて良い思いをしたことはない。むしろ服装のことなどで注意されるのは嫌だった。自分がされて嫌だったことは、相手にもしない、これが理想だと思った。しかし学校現場でこの理想を実現するのには難しいところもあると思う。そのような場合は、理想を少しでも実現するなら、妥協することも大事なのだと思った。生活指導は“いい加減”がよいのだと思った。教師の立場では、同僚とも生徒とも良い関係を築くことが大事である。それには、“たのしい生活指導”をすることが良いのだと思った。生活指導には優先順位がある。生徒の安全や安心に関わる問題は、適切に対処しなければならない。指導は軽重を見極めて行う必要があるのだと思った。「規則違反には序列をつけて、人に害を及ぼしたり、人に嫌な思いをさせるものから正していく」ことが大事であるとわかった。他に害を及ぼす問題行動は即妨げるが、指導は急ぐ必要はないのだと思った。このことは、ルソーの「熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ。相手の行動を妨げる場合を除いて、決して急いで行動してはいけない」という考え方に基づいている。ルソーの『エミール』は最初は難しくてよくわからなかったが、段々と理解することができた。このことから学んだのは、大人でも子どもでも相手の気持ちを尊重することが大事だということである。そうすることで良い関係が築けるのだと思った。

 特に印象に残っているのは「教育は難しくない」という言葉である。今まで教育は、教えるもの、育てるものと思っていた。だから教育は難しいと思い込んでいた。しかし、「子どもたちをどう育てるか、どう導くかなんて考えないで、いっしょに暮らせばいいんだ」という言葉を聞いて、そういう風に考えたら、教育は難しいものではないと考えを改めることができた。教師になることに不安を感じていた私にとって、とても印象深い言葉だった。学校で子どもたちを一緒に暮らすという風に考えたら、すごく気が楽になり、楽しそうだという気持ちにもなる。教育しよう、指導しようなどと考える必要はなく、今日一日をどうしたら子どもたちと一緒に気持ちよく過ごすことができるかと考えると、自分にもできそうだと思うことができる。このように発想を変えるだけで、気持ちも変わるのだと思った。

 この授業を通して様々な視点で物事を考えられるようになった。考え方一つで良くも悪くもなるのだと思った。どちらにもなるのなら、良くなった方が当然いい。狭い視野に囚われずに、視野を広げ柔軟に考えられるようになりたいと思う。この授業を受けて本当に良かったと思う。改めて教師になりたいと思うことができた。



生活指導もたのしくできる

2008入 教育学専修 Oさん



 私は、生活指導といわれると今まで嫌なイメージしかありませんでした。たとえば、学年集会での服装チェックです。「違反していたら、その場に残され、指導され、後日服装や身だしなみを整えてまたチェックしてもらう」という行為がすごく嫌でした。周りも嫌がっていたし、きっと昔は先生たちも嫌がっていたと思います。でもなぜか、教師になるとそんな気持ちは忘れてしまい、生活指導をしてしまうというのが現実にあります。わたしもこのまま教師になっていたら、きっと嫌だった気持ちより、生徒を生活指導しなきやという気持ちが無意識に大きくなり、嫌な先生になっていたかもしれないなと思いました。でもたっちゃんの授業や、たのしい「生活指導」の課題を読んで、生徒指導は難しいものではないし、たのしくできるものだということを知り、生活指導に嫌なイメージがなくなりました。いろいろな考え方を学び、そのような発想の転換ができていました。

 まず、理想を掲げて妥協をするということを学びました。最初これを聞いた時は、正直、理想を目指すのになぜ妥協するのかと、謎だらけでした。しかしこの本当の意味が、理想は簡単には実現しないものであり、その理想を実現するためには、理想が直ちに実現しそうもない条件の下ではいくら妥協してもかまわないということだと知り、確かに少しでも理想に近づけるならば、関係ないことに妥協しったっていいと思えました。妥協せずに無理に一生懸命ぶっかって自分の理想を貫こうとしても、それによって理想が現実に近づくとは限りません。それなら、妥協していい加減にかかわることも時には必要だと思いました。このことは、理想に近づけるだけでなく、周りの人とのいい関係を築くことにもつながるということも分かり、理想を掲げて妥協をすることの大切さに気付きました。またこの例として、飯塚さんの「キビシイ指導」を知りました。その指導は、すごくキビシくて、最初知ったときは思わず笑ってしまいました。でも実際にこんな先生に出会っていたら、わたしは大好きになっていただろうなと感じました。すごく信頼できるだろうし、悩みさえ相談できる気がするし、なにより先生を困らせたくないと感じるとも思います。こんな先生とこんな生活指導だったら本当に良い関係が築けそうだなと思いました。ここで生活指導の嫌なイメージや、生活指導って難しそうという固定観念が消えた気がします。

 次に、教師の介入や指導の目標は問題の解決にあることを忘れてはいけないことを学びました。ここでいう問題の解決とは、子供たちの「安心」や「安全」がひとまずではあっても確保されることにあります。つまりその妨害を行った子を叱り、戒めることではありません。しかし、今まで学校に通った中で、授業を妨害した子や、直接妨害にはならない居眠りをしていた子は、みんなの前で、先生に厳しく怒られていた記憶しかありません。だからこれが当たり前だと思っていました。でも実際、たっちゃんの授業を通して、このような授業妨害をする子や居眠りをする子をなぜ悪い子だと決めつけ言い分も聞かずに叱っていた状況はおかしいことだったのだなと気付きました。しかもみんなの前で、恥ずかしい思いさえさせられていて、人権が尊重されていないことにもなるとも思いました。大人の世界でも、人前で叱られたり、恥ずかしい思いをさせられたりするのが嫌なことは当たり前です。なのに、なぜ子供にはさせるのだろう?子供も一人の人間であり、人権を尊重するべきだし、大人が嫌なことをさせてはいけないと考えることができました。だから、教師の介入や指導の目的は、問題行動をやめさせることが一番優先であり、指導することではないのだということがよく分かりました。これにより、生徒ともいい関係が築いていけるだろうし、自然と問題行動も減っていくかもしれないということに気付きました。

 また、子供の様々なありようを認めることの大切さも学びました。わたしはいままで、「一人でいる子は、みんなと遊びたいのに遊べないのだ。かわいそう」という固定概念を無意識のうちに持っていました。でもよく考えると、一人が好きな人もいるだろうし、自分も一人になりたいときがあります。違う方向から考えてみればそれほど問題ではないのに、無意識のうちの固定概念で物事をとらえてしまっている自分がいることに気付きました。だから今までの自分だったら、一人でいる子を見たら「一緒に遊んであげなきや」と思うし、教師になったら子供に「○○さんとも遊んであげてね」と言ってしまっていたと思います。でも確かに大人になった今、自分の考えと合う人、合わない人とのつきあいは違うし、無理やり仲良くしようとは思いません。周りもそうだし、そういう仲良くもなく仲悪くもない関係は結構認められています。大人の世界はそうであるのに、子供には気が合わなくても仲良くしなさいと押し付けるのはおかしいということに気付きました。いじめや、他人に害を及ぼさない限りは子供の様々なありようを認めていくことが必要だということが分かりました。

 今までわたしが受けてきた、あるいは思っていた生活指導は、嫌でとても理不尽なものでした。でもたっちゃんの授業を通して、考え方やとらえ方を変えることで、本当に大切な生活指導ができることに気付きました。しかもその生活指導はたのしいし、難しくありません。こんな生活指導ならわたしも将来できそうだし、たのしそうだなと思いました。そういう生活指導ができるように、無意識のうちにできた固定観念に気付き、いろんな見方から考えられるようになりたいと思いました。また、自分が嫌だったことは決して忘れずに、嫌だったことは絶対したくないと考えさせられました。子供のことを尊重してでも言いなりにはならず、いい関係を作っていける教師になりたいとこの授業を通して自分のなりたい教師の理想がみえてきました。この理想に近づけるよう、時には妥協しながらがんばっていこうと思いました。

 たっちゃんの授業は本当に毎回、最初は驚かされることばかりだけれど、終わってみると、すごく納得していて、いろんな見方ができるようになった新しい自分と出会うことができます。これからもいろんな見方を忘れずに、視野を広げていきたいとおもいます。



生徒指導=皿回し

2006入 社会専修 M君



 この講義で,生徒指導や人間関係は皿回しと同じことだと聞いた時,はじめはよく理解できなかった。生徒指導と皿回し。全くの別物であるのにどんな関係があるのか。皿回しのコツは,お皿の動きに合わせて棒を回すということである。お皿が落ちそうになってきたら,あわてずにその落ちてきそうな皿の動きに合わせて棒を回せば,お皿はまた元気をとりもどし安定して回るようになる。実際に皿回しをやってみると,なるほどと思った。お皿を生徒に,棒を教師に例え,生徒が危なっかしくなってきたら,その子どもの状態を教師が尊重することが大事だということ。また棒があるからお皿は回っているかのように感じるのだが,実はお皿によって棒も回されているということ。生徒がいるから教職があるということもなるほどと思った。皿回しは力が入っているとできない。生徒指導にしても,力が入っていては生徒指導などできず,ただ生徒との関係が悪くなってしまうだけである。

 教育を特別なものだと思い,「生徒のため」だとか,「子どもとはこうあるべきだ」と躍起になり,力が入っていては生徒指導などできるはずもないだろう。生徒のためだとか,相手のためを思って何かするということは,「子どもはこうあるべきだ」という自分自身の押し付けであり,相手にとってはただのおせっかいに過ぎないのかもしれない。さらに,うまくいかないときは「俺はお前のためにやっているのにどうして言うとおりにしてくれないんだ」と思っていらだったり,つらくなってくるだろう。そして,自分の思い通りにならないので子どもを叱ってしまう。まさに「悪事は善意から」である。自分たちがかつて子どもだったとき,大人にされて嫌だったこと,例えば授業時間を延長したり,こどものためといってたたいたりなど,そんなことはとっくに忘れて,「子どものために」とか「子どもはこうあるべきだ」という考えから,結局同じことをしているのである。

 皿回しをやっているときに,講義の最初のほうであったセブン・イレブンの「顧客のために」でなく,「顧客の立場で」ということを思い出した。「顧客のため」といって顧客とはこういうものだと決めつけ,自分の考えや価値観を相手に押し付けるのではよくない。自分が顧客だったらどうしてほしいかを考える。一見皿回しとは何の関係もないように感じるのだが,なぜか似ている,もしくは同じことだと思った。お皿は早く回せばいいだとか,顧客はこうあるべきだとか決め付けるのではなく,相手の状態に合わせて相手を尊重するということ。どちらも力が入りすぎていたらよくなくて,力を抜いていけばいいということが共通していると思った。

 生徒指導は難しいことだと思っていたのだが,生徒指導は皿回しと同じことだと聞いたら,たいして難しいことでもないように思えてきた。「生活指導は“いい加減”がよい」だとか, 「“子どもとイイ関係”(“悪くない”関係)が生活指導の最大の目標」とか「他に害をおよぼす問題行動は“即妨げるが、指導は急がない”」ということを守っていけばいいだけだからだ。

 生徒がほかの生徒を叩いていたり,いじめていたりなど何か問題行動を起こしていたりすると,教師は「どうしてこんなことをしたんだ!」とか「こんなことをしてもいいのか!」などと,すぐに説教をしたがる。すると生徒が反発して指導がうまくいかなくなる。生徒との関係も悪くなる。それで生徒がいうことをきかないのは自分の指導力不足だからだと自分を責めてしまう。もう最悪だ。力が入りすぎである。

 いじめなど何か問題行動を起こしている生徒にだって,何か事情があるのかもしれない。ほかのもっと強い生徒に仕向けられている可能性だってある。かといって目の前で誰かが被害にあっているわけなのだから,その行為を妨げ,やめさせる。それだけで生徒指導はOKなのだ。教師は説教などの指導によって,生徒を自分が思ういい方向に変えてあげるのが仕事ではない。自分の力で他人を変えてあげるなどという考えは思い込みが甚だしいし,ただのおせっかいである。指導をする際に,教師の1番重要な仕事としては生徒の安全・安心を守ることである。教師が入っていくことで,少なくとも被害を受けている生徒が教師の介入によって助かる。そしてその問題行動を起こしていた生徒も「他に害をおよぼすことは絶対に許されないんだな」ということが徐々にわかるようになっていけばいいそうだ。それを聞いて,教師とは本当に特別な職業でもないし,生徒指導も本当に特別なことではないんだなと思った。

 生徒指導や教師というものを特別なものと思い,力が入ってしまい,生徒との関係が悪くなってしまえば,働いていても絶対におもしろくないし,そんなことが毎日続いていたらノイローゼになって体ももたないだろう。やはり仕事は楽しくないと嫌だ。生徒とも毎日のように顔を合わすのに,お互いがいがみ合っていたらそんなの全くおもしろくないし,嫌だ。楽しく仕事をしたい。皿回しと生徒指導,全く関係ないようで実は同じこと。まさしく「イコールは等しくもあり,等しくもなし」。



皿回しから気づく

2008入 教育専修 Tさん



 後半の授業の中で一番楽しかったことは皿回し授業だ。一年生のときもとても楽しい時間を過ごしたことを今でも覚えていのる。しかし、教育の在り方・考え方について学んでいるこの講義の中で、内沢さんが「皿回しをする!」といったときは正直とても驚いた。教育と皿回しにどんな関係があるのだろうか。皿回しをすることで私たちは何か学ぶことが出来るのだろうか。そうすると内沢さんはみんなの前で皿回しをやって見せた。「僕の手を見ていてください。決して手は回していません。上で回っている皿に合わせているだけです。」といった。内沢さんの回している皿や手の動きを見てみると本当に内沢さんの言うとおり、手はほとんど動かしておらず、皿に合わせているだけである。そして皿を回しながら、内沢さんはこう続けた。「教育においてもこの姿勢が非常に大切なのだ。」と。教師が生徒に対して、何かを教え込もうとか、指導していこうといった考えを持つのではなく、子どもたちにただ合わせていけばいいということだ。私はこのことを聞いて、なるほど、と思った。

 そしてこのことは決して、学校現場における生徒と教師の関係だけに限ったことではないと思う。人と付き合うということを象徴しているのではないかと思った。家族との関係、友人との関係、すべてにおいてこのことはあてはまるであろうと思った。相手に合わせるということは、相手の立場で物事を考えることと言い換えることが出来るだろう。どのような人間関係においても相手の立場にたって初めて見えてくることはとても多いだろう。その部分をしっかり考えていくことが良い関係を築いていくためにはとても大切なのではないか、と思う。皿回しを実際に休験してみて、手を回していては本当にうまくいかない。回っている皿に合わせて支えてやることで皿はうまく回っていた。私も棒のような立場で人と付き合っていきたいと思った。

 内沢さんは教育において、「何かを教えようとしてはいけない」と言っていた。教師が子どもたちに無理やり、これを教えよう、これを身につけさせようとしても、子どもたちは何も身に付かないということだ。確かに私自身、中高生のころ、先生に「これを覚えなさい」と言われ、勉強そのものに対して嫌気がさしたことがある。つい先生たちは「今日のこの時間はこれを教えよう。これを覚えて帰ってもらおう。」と思って授業に臨む。もちろんそれも大切だ。目的を持って計画的にカリキュラムをこなしていくことも教師の仕事であるのだ。しかしそのことばかりに集中しすぎて、学習者である子どもたちが意欲を失ってしまっては何も意味のないことになってしまうのだ。だから無理に「今日の授業ではこれを教えよう」と教えるということだけに必死にならず、もっと余裕を持って、「授業は子どもたちが主体だ」ということを忘れてはいけないのだ。

 本講義を振り返ってみて一番思うことは、一つの固定観念のような考え方のみで物事を考え、判断していた自分を改善することができたということだ。内沢さんがこの講義の初めに、「二人の自分を存在させてほしい」と言っていた。最初はあまり意味がわからなかったが、講義を終えていくうちに少しずつ見えてきた。物事には様々な見方、とらえ方があるということだ。それを知った時、今まで一つの固定観念のようなもので物事を判断していた自分がとても怖くなった。多くの情報が行き交う現代社会の中で様々な見方、考え方があるという事実を知ったうえでその場にあった判断をしていくことはとても大切なことだと思う。学力の問題にしてみても子どもたちの結果を正確に分析してみると、様々な問題が見えてくるのだ。ただメディアなどから得る情報のみから判断していくことはとても間違っていると思う。

 どうすれば子どもたちの学力を伸ばすことが出来るのか。やはり子どもたちが意欲・関心をもって臨むことのできる、子どもたち主体の授業が必要だろう。このような考え方に行き着くまでに内沢さんから多くのヒントをもらった。この考え方を実際に現場で自分が実現することが出来るかはまだ分からないが、少なくとも、この時期にこのような考え方を知り、また仮説実験授業というものに出会えたということをとてもうれしく思う。今後も物事を多面的に、柔軟にとらえ、多くのことを学んでいきたいと思う。



いっしょに暮らす

2008入 健康教育専修 Hさん



 後半の講義で私が最も「なるほどなあ・・・」と思ったのが、たのしい「生活指導」の課題のプリントを読んだことです。はじめプリントのテーマを読んで、生活指導を楽しくできるわけがないと、眉間にしわを寄せて毎日のように怒鳴っていた、中学高校の生活指導の先生の顔が思い出されました。しかし、プリントを読み進めているうちに、だんだん「楽しくできるかも…」と、少なからず、大嫌いだった中高の生活指導の先生の顔は消えていました。

 教師は、違反をする生徒には厳しく指導しなければならないと学校という組織に縛られています。でも、校則違反の指導などは、くだらないことなのだから「いい加減にやったらいい」。いい加減はよい加減。私は、これを読んで、とってもらく−な気持ちになりました。先生に「いい加減にしろよ!」と怒鳴れた時、「よい加減です」といえばよかったなあなんて思いました。そして、自分が生徒の立場でされたくなかったことは、教師になってもしない。「したくない(されたくない)ことはせず・させず」。しかし、やはり実際に現場ではこの理想は通用しないようです。そこで大切なのが、部分的であれ理想を実現するためなら、いくら妥協してもかまわないということです。私は「フリ」が大切なんだなあと分かりました。キビシク指導した「フリ」。中学生のころ「はい、分かりました。反省しています」と分かったプリをしていた自分も少しは賢かったのかなと思いました。いちいち一人ひとりの生徒に熱心に指導していたって、実際には生徒には不満しか残らないと思います。きっとこれなら生徒ともいい関係ができて、しっかり指導したのだから、同僚の間でもうまくいくなあと思いました。

 また、「プリ」は教育現場だけではなくて、生きていく中でとても必要で有効な技だと思いました。人の数だけいろんな意見、考えがあって、それに対して、賛成・反対、興味あり・なしがあると思います。.しかし、それにひとつひとつ自分の考えを述べたり、ぶっけたりしていては体が持たないし、きっとうまく人間関係は築いていけないと思います。.だから、人と同じように思っていなくたって、分かった「プリ」をする。これだけで、無理なことはしないで済むし、自分ひとりでため込むこともなくなると思いました。最近学校現場では、子どもたちではなく、同僚との問題に悩まされ、うつ病になったり、休職・退職をする教師が増えていると聞きます。これを知っていれば、そういった先生が減るだろうなあと思います。時には妥協することも大切で、本当に「最後にだますのは自分」だなあと思います。

 また、印象に残っている文章が「教育は間違いなくサービス業である」です。サービス業はお客あっての商売。そのお客が学校では生徒ということです。私は、飲食店でアルバイトをしています。プリントにもあるように、お客さんの不注意であろうとなかろうと、お皿やコップが割れたときに、責めるのではなく、「お客様、おけがはありませんか」と気遣いや配慮は絶対です。だから、子どもたちへの気遣いや配慮もほんとに自然なことだなあと、すっと「教育=サービス業」の考えが入ってきました。また、このことから「皿回し」の理論も分かるような気がします。お皿があって、そのお皿のふちに合わせて棒をくるくるとん一生懸命回すと、お皿が安定します。これは子どもたちに合わせて教師が動く。生徒がいるから教師が動ける。生徒あっての教師なんだと思いました。

 最後に、私は教育行政概論を受講して、初めてこんなにも不登校、いじめについて考えました。「不登校は明るい話」だと内沢さんははじめからおっしゃっていました。最初のころも、内沢さんの考えを理解していましたが、受講を重ねれば重ねるほど分かってきたと思います。いろんな考え、格言がここに結びついているような気がします。わがままになることは自分を大切にしていることであり、そこから自分を犠牲にしないで一番大切にしてよいということだけでなく、自然と他人も尊重できるようになる。私は、小学校の頃、仲の良かった友達が話してくれなくなってから、毎朝のようにお腹が痛くなって、学校に行きたくなくても、親に話すことはできず、いやいや学校に行っていたことがありました。だから、その友達が他の友達にいじめられていた時、私はなにもしてあげず、むしろ自業自得だと思っていたような気がします。きっとこれの悪循環でクラス内でいじめが消えることはなかったのだと思いました。

 それから、最も心に残った「他に害を及ぼさなければ、人間の、子どものありようすべてに価値がある」。私はこの考えを決して忘れずに、教師になったときは、子どもを尊重し、学校で一緒に暮らしていきたいと思います。



AであってAでない

2007入 社会専修 I 君



 後期に行われた内沢さんの講義が終わった。何回も言い続けていることだが、内沢さんが展開する授業は今まで自分が受けてきた授業・講義とは違って本当に刺激的だった。

 最初は正直、この人の授業を受け続けて考え方が染まっていったらどうしよう・・などの不安も抱えていた。しかし、授業を受け続けるにつれて、そういった考え方もできることに気がついたし、自分の今までの考え方は固定観念に留まっていたことを知ることができた。この最終レポートでは内沢さんのホームページにのってあった「AであってAでない」を読んだので、それについてまとめようと思う。

 授業の後半のほうで、皿回しをした。最初は何のために皿を回しているのか全く分からなかったが、このホームページを読むことで理解できた。子供は危なっかしいものだが、危なくなってきたらそうした子供の状態も大人が尊重できるかどうかが大事なところだということ。よく少年犯罪などで子供は危ないと言われているが、大人のほうがむしろ危険なのではないかと自分も感じた。大人、自分本位にものごとを考えるのではなく、生徒の動きにあわせて生徒の状態を尊重すること。言葉でいうだけではなく、行動としてどのように子供のことを考え、尊重していくかが最も大事なことだと感じた。

 また、物事を法則的に考える、ということを学びました。生徒指導の際に生徒一人一人に合わせた指導をすると考えるのではなく、A君にあてはまる指導はB君にもあてはまる。教師の思い込みでそれぞれに指導をするのは間違っていると自分も実感することができました。

 自分がとても気になったこととして、A=Aというのはナンセンス、ということがあった。最初は全く意味が分からなかったし、同じだからこそ=でつながっているのだろうと思っていた。しかし、まず右辺と左辺が違って、つまりAとBというように違うものが、あるところから見たら同じだということに等号の意味がある、といった内沢さんの考え方を目の当たりにしたときに、少しなるほどと思った。この世に全く同じものなど決して存在しないのだと感じることができた。だからこそAとAは等号で結ばれているけど、AとAはもしかしたら違う存在なのでは?ということにもなると思う。

 また、世間的に言われている「よい子」というのは、勉強をたくさんして親や先生のいうことをよく聞いて・・・といのが当てはまると思います。しかし、逆から見てみたら無理して勉強したり、自分では何も考えないでただ単純に言うことを聞いている、とも受け取ることができると感じましたこの具体例を見て、内沢さんの言っていることが、「AはAであってAでない」ということが理解できました。「失敗は成功のもと」だけでなく、板倉さんが言っていた「成功は失敗のもと」という言葉もとても好きになりました。

 また、「面と向かって生徒から文句を言われることはいい」というのも読んでいて非常に納得できる点が多かったです。これは生徒と教師という立場にかかわらず、友人同士でも当てはまる話だと感じました。自分の意見をぶつけるということは、相手に自分の意見を理解してもらいたい、という意思があるからこその行為だと思います。相手はどうせ理解してくれないからと思って意見をぶつけないことは相手との関係を諦めていることの証明だと思います。自分にとってあまり必要でない存在の場合は、自分も話すことを諦めたり、相手の意見が違うと思っても反論したり、言い返すことさえしません。だから、友人同士や家族内、生徒と教師という立場でもお互いに言いたいことを言い合える仲というのは、素晴らしいことだと改めて実感することができました。

最後に内沢さんが考える教師にとって必要なものとして、
・子供たちが学ぶに値する「たのしい授業」をすること
・生活指導においては子供たちの命や安全を守ればいい
・いつも笑顔でにこにこ
これらが挙げられていました。

 「AはAであってAではない」のだから、悪いと思われることでもどっしりとかまえていればいいと感じました。問題とされている事柄のほとんどは、大した問題じゃないのだからあまり騒がずに見守って、静かにまじめに勉強している、いわゆる「良い子」の時ほど、注意深く心配したほうがいいと自分も内沢さんと同じ考えができるようになりました。教育実習を通して感じたことですが、やはり「たのしい授業をすること」これが一番大事なことだと実感しました。自分は教員を目指す立場ですので、内沢さんや徳田さんのように生徒の興味や関心を引き付ける授業ができたらと思います。

 内沢さんから学んだ「逆の立場・視線をもって考えてみる」ということを、忘れずに、実際に教育の現場で実践できる教師になりたいと思いました。約半年間、本当にありがとうございました。



「幸福論」と「たのしい生活指導」

2007入 教育学専修 I さん



 アラン『幸福論』を読んで、勉強になったこと、私が感じたことを、まずまとめてみたいと思います。「だれも選択はしなかった。みんな、まず行動したのだ。こうして、職業は天性と環境の結果である。だから、あれこれ考え込んでいる人はけっして決めることができない」「どんな道もいい道なのだ」という部分では、「どちらにころんでもシメタ」を思い出しました。あれこれと考えるよりも行動が、取り掛かることが大事だと、いつもたっちゃんは卒論演習で話してくれます。卒論のテーマをどうしようか、どんな本を読もうかと悩んでいても、答えは見えてこないし、何も始まりません。たっちゃんが言うように、まず本を手にとってながめてみて、おもしろいと思える内容を見つけたら、「もしかしたら、この内容に興味があるのかも」という発見があるかもしれません。手にとった本の内容に全く興味が持てず、全く勉強にならなかったとしても、この本は自分が興味を持っているものではないと発見できます。「どちらにころんでもシメタ」です。しかし、そのように考えられるようになったのは、つい最近で、今までは、やはりよく考えてから行動しなければいけないという考え方がありました。それは、今までの学校生活で培われてきたものなのだと感じます。学校では、本当に何度も、「よく考えよう。考えたら分かるのだから」と言われてきました。なかなか答えが見えないのに、それでもよく考えることを強いられると、辛くなってしまいます。幼い子どもは、思い立ったら即行動にうつします。学校での学習も、子どもが好奇心のままに、すぐ行動して確かめて学習できる環境があったらいいと思います。

 「人間はもらいものの楽しみにはうんざりするが、自分で勝ち取った楽しみはすごく好きなのだ」。これは、教育ととても関係が深い言葉だと思いました。子どもたちは、教え込まれたことより、自分が楽しみながら、自分で発見した学習の方が印象に残っているし、学習を楽しいものだと感じます。このように、学ぶ喜びを感じられるのは、やはり子どもたちが自由に参加して学習する「たのしい授業」なのではないかと感じました。たのしい授業では、子どもは何を言ってもいいし、また、発言を強制されることもありません。そのため、子どもたちは指名されて恥ずかしい思いをすることがありません。また、自由に発言できる権利もあるので、自分が言いたいことを素直に表現していいのです。私は、子どもたちが勉強することが嫌いになる理由の一つとして、授業のスタイルがあるのではないかと思います。静かに先生の説明を聞いたり、言われるままに課題について考えたり、時には自分の考えを発表させられたりして、勉強はつまらなく苦しいものだと、子どもたちは自然にそう思ってしまうのではないでしょうか。その点、たのしい授業においては、子どもたちはいきいきと授業に参加することができます。教育行政概論でみた徳田先生の「もしも原子がみえたなら」の授業や、片岡さんの「おおかみ」の授業からも、子どもたちがとにかく楽しく授業に参加しているということが分かりました。これらの授業の中で子どもたちは、発言したい時に自由に発言し、授業書の中の設問に対しては、考えさせられているのではなく、自分から喜んで予想を立てているように見えました。通常の授業では、子どもたちのあのようないきいきとした表情を見ることは難しいと思います。新しいことを知るということは、子どもたちにとって本来とても楽しいことなので、それをさらに、楽しみながら学べるということは、子どもたちが学ぶ環境としては最良の状態なのだと感じました。教え込まれるより、自分が主体となって学ぶ方が、子どもたちは楽しいのです。

 「教育者のなかには、子どもを一生の怠け者にしてしまうような者がいる。理由はかんたんだ。いつもいつも勉強させたがるからだ。そうすると子どものほうはだらだらと勉強する習慣を身につけてしまう。すなわち下手な勉強を覚えてしまう」。この言葉にも、とても納得させられました。子どもはとても素直なので、教師の言うことをしっかり聞こうとします。そして次第に、うまく学習を切り抜ける術を身につけていくと思います。私もそうでした。特に、中学生、高校生になると、受験に必要なものだけ身につけておけばいいという考えがあり、要領だけがよくなっていきました。しかし、私は、このような学習は結局、受験のためだけの勉強だと思います。これでは、受験が終わってその後の人生にどう生かせるのか分かりません。自分のためになるからと、自分が主体となって学べるような環境が理想的です。そのためには、子どもが幼いうちから、勉強が辛く面倒なものだと感じることがないように教師が工夫し、学習が楽しいものだと感じられるようにしていくことが必要だと思いました。

 「われわれが耐えねばならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを押しつぶすことはできない」。アランの『幸福論』において、私はこの部分が最も好きです。自分自身、この言葉から多くのことを学び取れた気がします。私は、周りの人たちにはおそらく、楽観的な人だと思われていますが、自分ではとてもネガティブな面があると感じています。特に、過去の失敗については、かなり長い間忘れることができません。また、現在の自分を考えてみると、未来への不安で、いっぱいになっています。大学3年生も終わろうとしていて、進路についても真剣に考えなければいけない時期です。働くということを考えると不安しかありません。そして、最近では、後1年でみんなと離れなければいけないのだということが寂しくて、時間があれば1年後のことばかりを考えてしまっています。そのせいで不安になり、今しなければならないことまで中途半端になってしまっていました。そのような中で、「われわれが耐えねばならないのは現在だけである。」という言葉は、胸に響きました。私が今生きているのは未来ではなく、現在であって、今この瞬間をしっかり生きなければ、どんなに不安に思っても、未来は変えられないのだと分かりました。だから、未来についてあれこれ考えて自分を追い込むのはやめて、今すべきことだけに一生懸命になろうと思いました。

 ここまで、アランの『幸福論』から自分が学んだことを述べてきましたが、次に、「たのしい生活指導」について学んだことを述べてみたいと思います。私が通っていた高校では、もともと校則はやや厳しい方でしたが、私が3年生になる時、さらに校則が厳しくなりました。理由ははっきりしていました。学校が世間から注目される状態になったので、周りからの目を気にしたためです。私はいつも校則って何のためにあるのだろうと思います。学校というものは、子どものためのもので、いつでも子どもが主体でなければなりません。しかし校則は、子どものためのものだとは思えないのです。スカートが短いとか、髪をお団子結びにしたらいけないとか、そんなことが子どもの人生において何の役に立つのか疑問です。でも、教師になったら、学校の規則に沿って、やはり生活指導をせざるを得ないのだろうと感じていました。

 もともとそんな考えを持っていたので、「たのしい生活指導」からの学びは、とてもためになるものでした。まず、生活指導は、「いい加減」にすればいいのだということです。「いい加減はよい加減」です。厳しく指導しているフリをして、子どもたちも、厳しく指導されているフリをすればいいのです。これは一度聞いただけでは少しふざけた考え方だと思う人もいると思いますが、私は、厳しく指導したフリをするというのは、良い方法だと思います。高校3年生の時の担任の先生が、まさにそんな先生で、服装検査の時など、どうしても指導しなければならない時だけ、「ちゃんと直してこいよー」と言うくらいでした。そんな先生なので、私たちはとても信頼していたし、みんな先生が好きでした。「たのしい生活指導」において私が最も勉強になったと思うことは、他に害を及ぼす問題行動は「即妨げるが、指導は急がない」ということです。ルソーのエミールの中での「すべてが逆になっている」で、子どもたちに教育すべきことは「良いことをする」ことではなく、「他人に害を与えない」ことであると学習しました。そのことが、「たのしい生活指導」にもつながっているのだと気付きました。誰かを傷つけたりする場合は教師が全力で阻止しなければいけません。そのことは私もよく分かっていました。

 しかし、今回は、「指導は急がない」という部分が私にとって新しい学びでした。妨げることだけで十分であり、「どうしてそんなことをしたのか?」などと、指導を急ぐ必要はないということです。自分が指導される立場だった時は、先生が感情的になって自分の意見に耳をかしてくれずにする説教にうんざりしていたのに、自分が指導する立場になると、私は、妨げるだけでなく、指導することが当たり前だと考えていました。今回の「たのしい生活指導」で、そんな考え方を持っている自分に気付けました。小学校の頃を振り返ってみると、私はかなりやんちゃな性格だったので、友達とのけんかが絶えませんでした。確かに私が友達を言葉で傷付けてしまうこともありました。しかし、私はその後の先生の説教によって傷付けられたことがあったことを覚えています。私なりの理由があって、聞いてほしくても、全く聞いてくれない先生もいました。だからこそ、「指導は急がない」ということは、とても大切なものだと感じるのです。

 最後に、今回のレポートをまとめてみて、授業においても生活指導においても、大切なことは、「子どもたちが楽しく生活できる」ということのだと分かりました。そのためには、教師自身も子どもたちとの生活を楽しむことが大切なのではないかと思います。子どもたちと楽しく生活するために、教師や大人はどう行動していくべきか、もっと勉強していきたいです。



わたしの「幸福論」

2008入 家政専修 Mさん



 毎週新しい価値観との出会いを楽しみにしていたこの教育行政概論の授業の全講義が終わってしまいました。とても寂しい気持ちでいっぱいです。最後の第3の柱「たのしい生活指導」に入ってからも驚きと感動の連続でした。

 まず、一番驚いたことは、「ルソーの思想が生きる仮説実験授業」のプリントの文中にあった小原茂巳さんの「子どもとちょっぴりイイ関係」になれる4つの方法のことでした。この4つは私の今までの学校生活の中で先生にたくさんされた経験があるし、クラスメイトがされているのを見たという経験も多くあったからです。確かにチャイムが鳴っているにも関わらず「ごめんね。もうちょっと聴いてね」と言って5分くらい平気で授業を延ばす先生、急に指名してくる先生に対してその度に私は漠然と「何か嫌だな〜」と感じていました。生徒がこのように感じる時点で「ちょっぴりイイ関係」が作れていません。現場で行われているのは小原さんが挙げた4つの方法とは逆の方法が一般的です。ルソーも「一般に行われていることとまさに反対のことをすればいい」と言っています。現場の教師たちも一般に正当だとされる価値観に囚われずに、新しい原理原則に囚われて、「子どもとイイ関係」を作りたければ、まず「子どもと悪くない関係」を作ることを優先するべきではないかと感じました。

 また、私たち家政専修は介護実習で1日欠席したので特別に内沢さんに補講をして頂きました。この補講は印象に残った言葉ばかりでした。まずは「最後にだますのは自分」。以前にことわざ・格言のところで学んだはずなのに、肝心な意味をすっかり覚え違いしていました。私はこの言葉を「何事もだまされたと思ってやってみなさい!」という意味だと思っていました。しかし、本当の意味は全く正反対で「自分にだまされないようにすること」でした。内沢さんの解説を聴くと同時にとてもハツとしました。

 「他人の評価の影(勝手に自分が描いた自己評価)に怯えない」「他人は他人のことに関心はさほどない」という言葉がありましたが、私はまさに「人からどう思われているのだろう」「こうしたら嫌われるかな」などと気にしてしまい、自分で自分の行動を制限してしまう時が多々あります。そのように他人の評価を気にして悩んでいるくせに、この言葉を聴いて今日道で通りすがった人たちの顔、友達が着ていた服などをうまく思い出せないことに気がつきました。やはり他人の評価を気にする自分自身も他人がどのような有り様だということはほとんど関心がないのだと感じました。だから、他人も私が思っている以上に私に関心はなく(私が他人にそうであるように)何も怯えることはないのだ、自分にだまされないように気をつければよいのだと学び、心が軽くなったような気がしました。

 また、「負けるが勝ち」も素敵な言葉だと思います。私もつい親や友達の前で良い格好をしようとしてしまいます。授業では「ツンドク」という言葉を習いましたが、私も大学生になってやっと本を読むようになりました。しかし、一回さっと読んだら‥‥「ツンドク」です。「あ、あの本のあのフレーズが読みたい。今の自分に必要だ」と思ったときだけ読み返します。‥‥あとはまた一時「ツンドク」です。私はこれではあまり読まれない本がかわいそうだし、ちょっとしか読まないのだったらお金がもったいないから買わない方が良いかな〜と感じていました。しかし、たまに必要として読む本の中の一節がとても自分のパワーになることがあります。「ツンドク」を知った後ではこのような読み方でも全然良いのだと思えるようになりました。これからも「ツンドク」をし、本を買う余裕がないときには「負けるが勝ち」精神で親にどんどん甘えようと思います。

 また、このレポートを書くにあたって読み直した「アラン『幸福論』抜粋」のプリントの文にとても心を打たれました。特に好きな言葉は「悪い運命などはない」「われわれが耐えなければいけないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを押しつぶすことはできない」の2つです。「悪い運命などはない」はことわざ・格言の「どちらに転んでもシメタ」に通じるものがあると思います。私はよく過去に自分がした選択、将来のことで考え込んでしまう時があります。この言葉たちを聴いてからは「なんで不確実な未来のことで自分はこんなにも悩んでいたのだろう? ただ『今』だけを考えていけば良いのだ!」と思い、今までの悩みがスッと消えてしまいました。この言葉から教えてもらったように将来がどうなろうとも無駄な心配はせずに、この「今」という時をしたいことはしながら、したくないことはしないで(時には「したふり」をしながら)気楽に楽しく生きていきたいと思います。

 この授業は名前の通り「たのしい授業」「不登校」「生活指導」など、教育のことについて学ぶ授業ですが私にとっては今までの悩みを解決する、今とこれからの生き方のアドバイスをもらった授業でもありました。そして自分の嫌いなところも「ま、こんな自分でも良いか」と認められるようになり自分のことが以前より好きになりました。ここで学んだことを忘れてしまいそうになったらこの授業でもらったプリントたちを引っ張り出して読み返したいと思います。内沢さんの授業は内沢さん自身が好きである「たのしい授業」です。これからも少しでも多くの私みたいな人たちが内沢さんの授業を受けて自分の人生の主人公となって生きていけるヒントを受け取ってほしいなと思います。




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最終更新 : 2012.5.3
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