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2009年度 「教育行政概論」
第2回中間 レポート


目次



1 本当に大切なこととは?  保健体育専修 A君
2 「子どもらしさを大切にする」ということ  教育学専修 Oさん
3 受け入れるということ  家政専修 Uさん
4 本当の授業  健康教育専修 Sさん
5 たのしい学びのすばらしさ  教育学専修 F君
6 二人の自分  家政専修 Yさん
7 発想を変えることで見えてくるもの  国語専修 M君



本当に大切なこととは?

2005入 保健体育専修 A君



 今よく言われている学力低下問題、それは多くのところではOECD加盟国の学習到達度調査などの成績の低下が原因で言われている。しかし、本当の問題はそこではなく、意欲・関心・自信の低さこそが本当の問題であることを学んだ。ただ学力が下がっていることだけが問題ではない、という話は他の場面でも聞いたことがあったが、この講義でそれが自分の予測を遥かに超える深刻な問題であると知ることができた。講義で配られた資料からも読み取れるが、興味関心や動機付け、自己概念への肯定的な割合は低いなんてものではなく最下位のものも多く見られる。これはただ成績が低いこととは問題の重大さが違うだろう。興味も関心も持てずにただ勉強を強いられ、さらにはそれが身についたという実感さえ持てない。これでは子ども達の将来にまで深刻な影響を与えかねないだろう。子どもが将来、いつでも学びなおすことが出来るように意欲と自信を高める教育こそが今もっとも必要なことなのだと知ることができた。

 今回までの講義でもっとも印象に残っているのは徳田ひろみさんの仮説実験授業のビデオ、講演である。ビデオを見た際にもっとも驚かされたことは、子ども達の意欲の違いだ。自分が実習で授業を行った際に、あんなにも目を輝かせて楽しそうに授業を受けている子どもはいただろうか。そして、あんなにも自然な姿でいてくれた場面があっただろうか。ビデオの中での子ども達は、授業を受けさせられているような姿は一切見られず、さまざまな発言をし、つねに「自主的」であった。この講義を受けるまで自分の中には「授業中に子どもがお喋りをしない」「席を立ちうろつく子どもがいない」「先生の言うことをよく聞く」ことができる子ども、そうさせることのできる先生こそが凄いのだと思っていた。この講義の前半でそういった固定観念は崩されていたが、実際に目にするとやはり圧倒されるものがあった。あんなにも子どもが楽しそうにいきいきとできる授業を自分に出来るのだろうかとも感じたが、内沢さんがよく言う「たのしい授業は簡単だ」という言葉や、「たのしい授業は真似をすれば誰にでもできる、いや真似しないとできない」という言葉を思い出し、自分もいつか教壇に立ち、たのしい授業をしてみたいと強く感じた。
 
 また、子どもの「ありのままを受け止める」こと、そして子どもの「言いなりにならない」ことの両立の考え方を学ぶことが出来た。「異常視しない」「はれ物扱いしない」この二つはまだ難しくはない方かと思われる(現場ではやはり難しく感じてしまうのかもしれないが)。しかし、「ありのまま」と「言いなりにならない」の二つは一見あまりにも矛盾しているため、これは不可能なのでは?とずっと思っていた。そこで大切なことは、ありのままを受け入れるということは、全てを許すわけではないということだった。大抵のことは問題ないが、「他人に害を及ぼすとき」その時だけは受け入れてはならない。そのことを忘れてはいけないのだとわかった。また、ありのままを受け入れる際に、子どもの本当の願いに気づかなければならないのだと知った。ビデオの中でK君がうろつき、徳田さんの側に行っていた時、彼の本当の願いは何だったのだろうか。それはこっちを向いて欲しいという願いからきた動きであったのだろう。そういった、子どもの本当の願いに気付くことができていれば、子どもの言いなりにはならずともありのままを受け入れることはそう難しくなくなるのであろう。

 また、もう一つ印象に残っていることがある。それは、教師もまた自分の教師人生の主役であるといことだ。教育の現場ではどうしても主役は子ども、「生徒」だけであり、教師はそのサポートを行うものという印象が強い。事実、実習という短い期間だけで教師とは「・・・しなきゃいけない」「・・・でなければいけない」という印象を強く感じ、またそれを当然のものとして受け入れている自分がいた。しかし、教師であろうとも自主性をもって、自分が自分の主人公として生きていいということに気付くことができた。また、そういった自主性を持った教師がいなければ、子どもたちの自主性を伸ばすことなどできないだろう。大人の言うことをよく聞く子どもこそが良い子という考えが充満し、自分なりの教育を奪われた現場で、子どもが教室中を動き回るような授業を行えば周りからの非難も多いだろう。しかし、本当に子ども達のために必要な教育を考え、また自分らしさをだせる授業を行うことこそが本当に必要なことであろう。講演後に徳田さんにお話を伺えば、やはりビデオでの授業のあとに少しだが非難もあったらしい。しかし、そういった現場の中でも仮説実験授業を行っている徳田さんの姿はこれから教師を目指す人の希望にも見えたのではないだろうか。「ありのままを受け止める」「異常視しない。言いなりにならない。腫れ物扱いしない」といった、現場を思えば現実的ではないかに思われることを実践している教師もいるのだと知ることができた。

 この講義の第二の柱「学力問題の解決とたのしい授業の意義」について学び考えることで、学力問題や現場での授業、教師のあり方の本当に大切なことは何なのかについて気付くことができた。残りの講義では自分は何を学び、気付くことができるのか今から楽しみで仕方がない。



「子どもらしさを大切にする」ということ

2008入 教育学専修 Oさん


 この教育行政概論の講義を受けて、また内沢さんと面接をしたことで、少しずつ「こういう物の見方、考え方もありだな」「なるほど!」と、私は最近思うようになりました。これが内沢さんの言う、「二人の自分を認める」ということなのだと思います。もちろん、「でもやっぱりこうじゃないか」と思う自分もいますが、以前よりも、今まで自分の中になかった考え方に対して、一度その考え方の立場に立っていろいろなことを考えることが出来るようになったのではないかと思います。
 
 今年度の参加観察実習で、実際に小学校の子どもたちと接し、また教員の方の授業の様子や指導の様子を見る機会がありました。本実習生の授業も見学させてもらい、授業後の研究会にも参加しましたが、実習生同士の意見交換や、指導教員からの評価など、想像していた以上に厳しい意見が言いかわされていて、「大変そうだな…。来年は私が授業をしなければいけないのか…」と、とても不安でいっぱいになってしまったのを覚えています。指導案も細かいところまで作りこまなければいけないし、教師の働きかけに対する児童の反応をイメージしたり、教材・教具の準備など、用意しなければならないことは山のようにあります。「うまく授業ができるだろうか」という不安はそれからもずっと続いていましたが、そんなときに知ったのが、この講義のビデオで見た「おおかみ」の詩の授業でした。この授業は、詩を書いた模造紙を一枚準備して、○に入る言葉を子供たちに予想させてから、多数決をとって詩を完成させていく、というシンプルな授業なのに、子どもたちが身を乗り出して授業に参加し、たくさん発言していたのには驚きました。○に入る言葉を一生懸命考えたり、完成した詩を元気に読みあげている、子どもたちのわくわくした表情、楽しそうな様子がビデオを見ていても伝わってきました。また子供たち自身が楽しめるだけではなく、教えている教師の側も子どもたちと一緒に楽しめるというのがこの授業のよさだと思います。参加観察実習のあとは「授業って大変だな…」と思っていた私ですが、このおおかみの授業は「私にもできそう!」「楽しそう!」と思えました。

 内沢さんが話していた、「学ぶ」の語源は「まねぶ」。つまり、真似をするということ。だから、教師だって「うまい授業だな」「この授業いいな」と思ったら、どんどん真似をしていけばよい。スポーツや、音楽の世界では、うまい人のやり方を真似することを積極的にすすめるのに、なぜ教育の世界では、真似することよりオリジナルですることを求めるのか、という話がありました。「いい授業はまねをすればいい」と言う先生は内沢さんが初めてでしたし、私も今まで授業というのは、実習生一人一人が指導案を作るように、教師一人一人がそれぞれに工夫を凝らして、児童・生徒の実態に合わせた授業を考えなければならないのだ、という固定概念を持っていました。でも今回、「おおかみ」の詩の授業をビデオで見たり、内沢さんの話を聞いて、「そうか! いい授業はそのまま真似をすればいいんだ!」という新しい発想が生まれました。私も中学・高校時代に吹奏楽でフルートを吹いていたときは、とにかくうまい演奏のCDを聞いて、「こんな音が出せるようになりたい」「こんな演奏がしたい」というイメージを持って練習をするようにしていました。オリジナリティというのは、きっとそうして積み上げていった練習の成果として、あとから生まれてくるものだと思うし、教育の世界でも全く同じことが言えると思います。自分が「いいな」と思える授業をどんどん真似して、自分のものに出来るようになったころに、「じゃぁ次はこうしてみよう」「ここを変えてみよう」という自分なりの工夫ができるようになるのだと思います。それに「ただ真似をすればいいんだ」くらいの気持ちで授業をすることが出来れば、私もきっと楽な気持ちで、授業をすることを楽しめると思います。

 また今回は徳田さんの「もしも原子が見えたなら」の授業をビデオで見たり、実際に徳田さんから仮説実験授業についてのお話を聞くことが出来ました。講義で仮説実験授業を受けてみたことが何度かありましたが、現場でそれを実践されている方のお話を聞くのは初めてだったので、ここでも「なるほど!」と思うことがたくさんありました。まず、席を立ったり、何か授業とは関係のないことをしたりしている子どもがいても、注意をしたり、座らせたりしないことには、正直驚きました。私は今まで授業というのは、席に着いて集中して教師の話を聞くのが正しいと思っていましたし、実際自分の小学校・中学校時代を振り返ってみても、私語をしたり、立ち歩いている人は、真っ先に先生に注意を受けていました。内沢さんはよく「子どもを心配するより信頼しなさい」とか「子どものありのままを受けとめる」とおっしゃいますが、私は「その言葉いいな、大事だな」と思っても、心のどこかで「でもそれを現場でやりすぎたら、秩序やけじめのない学校や学級になってしまうんじゃないかな」と思っていました。「楽しむときは楽しむ。でもやるときはやる」。そんなふうにするのが大切なのではないかと思っていました。でも実際、「楽しむときは楽しむ。でもやるときはやる」とけじめをつけて生活するのは、二十歳になった私でも難しくて、日々悪戦苦闘して、出来なくて自己嫌悪におちいっているのに、それを小学校の子どもたちにやりなさい、と言うのは大人の勝手な言い分かなと最近思うようになりました。勉強でもそうですが、なにかを「やらなきゃ!」と思って本気でやるときというのは、人に言われたときではなく、自分でそう思ったときです。(←内沢さんが私に以前おっしゃったことです)だからきっと、子どもたちだって「今は先生の話を聞こう」と思えば、聞いてくれるし、「席に着こう」と思えば着いてくれると思います。「先生の話を聞かないと、先生がまた怒るんじゃないのかなー」と、子どもに気を使わせて、授業を受けさせるのは、やっぱり「子どもらしくない」子どもの姿になってしまうのかなと思います。なので、「子どもらしさ」「その子らしさ」を大切にして、日々子どもたちと接している徳田さんは、本当にすごいなと思いましたし、私も将来そんなふうに温かく子どもたちを見守っていけるような教師になりたいと思いました。

 また、徳田さんがK君についておっしゃっていたことに、「異常視しない。いいなりにならない。はれ物あつかいしない」という言葉がありました。これはきっと、必要以上に「こうしなさい、ああしなさい」と言う必要はないけれど、いけないことはきちんと「いけない!」と叱ることが大切だという意味なのかな、と私は思います。以前、ボランティアの活動で自閉症を持つ5歳の女の子と遊んだことがありましたが、「その子のしたいようにさせてあげよう」と思うあまり、ロッカーの上に登ってしまったことを注意出来ずに、そのままになってしまったことがありました。登っては危険な場所でしたし、その時は保護者の方がきちんと注意をして、無事に降りることが出来たのですが、やっぱりそれは私がきちんと注意するべきだったのだと今でも思います。「子どものありのままを受け入れる」「子どもらしさを大切にする」ということと、確かに矛盾しているようにも思えますが、子どもはしてもよいことといけないことを判断する力がまだ十分には備わっていないし、それをきちんと教えてあげるのが、私たち大人の役目であると思います。そして徳田さんがおっしゃっていた「他人に迷惑にならない限り、人は自由だし、子どもも自由。教師も子供も人間だし、感情もある。おたがいさまです」の言葉のように、教師と子どもがお互いを尊重しあって、一緒に楽しく生活していくことが大切なのだと思います。

 今回この教育行政概論の講義を受けたからこそ、わかったこと、納得できたことがたくさんありました。これらのことを忘れず、また「二人の自分を認める」ことも忘れずに、これからも講義を受けていきたいと思います。



受け入れるということ

2008入 家政専修 Uさん


 わたしはこの授業を受けて、自分の中には「受け入れるということ」が足りなかったなあ、と感じました。徳田さんの授業の様子を見た第一印象は正直に書くと、生徒が口々に好き勝手発言し、教室中がどこかざわざわした雰囲気で、なんだか落ち着かないな・・・という感じでした。特にある男の子の自由な行動を、徳田さんは叱ることもなく、いつものことのように授業を進めていました。わたしは、徳田さんは叱らずに我慢しているのであり、いつその怒りが爆発するのだろう・・・と少しはらはらしながらビデオを見ていました。

 しかし、ビデオを見ている途中で気付きました。違う視点から徳田さんの授業を見てみると、生徒たちがありのままの姿で授業を受けていることに。生徒たちが勝手に席を立ったり、ほかの子供たちにちょっかいを出している様子は、一見違和感があるものですが、そのビデオでは違和感がなかったのです。なんだか、それを含めて徳田さんの授業の「雰囲気」、「空気」なのであるなあ、という感じがしました。そして、そこには徳田さんと生徒たちの間に信頼関係があるからだ、ということに気付きました。徳田さんが生徒達のありのままの主張を受け入れ、それを生徒達も実感しているから、うるさくても、いい感じの授業がそこにはありました。

 わたしは、自分が他人にどう映っているのかがすごく気になります。だから、研究授業などであんなに生徒達が騒いでいたら、冷や汗が止まらず、授業の内容に集中できず、どうやったら子どもたちが静かに真面目に授業を受けてくれるのかでいっぱいになり、自信がなさそうな様子もすぐ顔に出てしまうと思います。しかし、生徒たちが好き勝手に騒いでいる、イコール、生徒たちが好き勝手に自分の意思表示を出来ている、という風に変換できれば、何の問題もないんだと思いました。

 仮説実験授業をしているときの、子どもたちの素直な反応を徳田さんは楽しんでいるように見えました。わたしは「いい授業の風景」とは、こんな授業のことをいうのだな、と思いました。今まで、いい授業とは、生徒たちが勝手に立ち上がったり、私語をしたりすることがなく、静かに真剣に先生の話を聞いていて、発表をするときは元気よく手を挙げて発表する生徒が多いクラスの授業のことを言うのだと、勝手にイメージをつけていました。しかし、徳田さんの授業はわたしが作っていた「いい授業」のイメージに一つもあてはまるところがありませんでしたが、先生も生徒も楽しそうに授業していました。生徒が笑顔で、それを見ている先生も笑顔である。そのような授業が理想的な授業であると、わたしの頭の中で今までの考えと新しい考えが入れ替わりました。

 また、話は変わりますが、内沢さんの授業の中で出てきた言葉の中で、「なるほど」と納得させられた言葉があります。それは「心配するのではなく、信頼しなさい」というものです。確かに、わたしは心配されたことで嫌な思いをしたことが今までに何度かあります。その代表的なエピソードを挙げると、大学受験です。わたしは今までに3回大学受験を経てきましたが、その度に母親が心配するのが嫌でした。親だから、子どもの心配をするのは当たり前のことなのですが、母親が何か口を挟もうとしてくると、自分でも何でかよく分からないけど、とても機嫌が悪くなり、「うるさい!だまっててよ!」と、怒鳴り散らすことがありました。母親は、受験勉強をしている間も、いつもわたしの心配をしていましたが、センター試験が終わって受験校を決めるときにいつも、確実に受かる大学の名前を提案して「ここを受けなさい。」と言ってきたのです。わたしは、無謀かもしれない、と分かっていても、今まで勉強してきた頑張りを第一志望の大学にぶつけたかったのです。しかし、結果的には受験に落ちてしまったので、母親が言うとおりにしておけばよかったのかな・・・という思いも少なからずはありました。しかし、そのような土壇場の場面で、わたしは母親に心配されるのではなく、「信頼」してほしかったのです。わたしは、ゼロパーセントに近い少ない可能性でも、信じてほしかったのだと、時間を置いた今、改めて思いました。時には自分で自信を失うこともありましたが、何度も受験に挑戦して、この鹿児島大学に受かったことによって、「入って、なんとかなるんだ!」と強く感じました。一時期はどん底だった自分でも、こうやって頑張って周りをひと安心させることができました。だから、わたしは今周りの人を「信頼」することができます。

 今、わたしの周りには心配になることが度々あります。例えば、(全く他人ごとではないですが)経済状況がすごく悪いうちの家庭、学校に全く来ない友達、自分の将来について、などです。しかし、わたしはこの授業を受けて「心配」をするのはよそう、と思いました。心配をすることは自分も含め、その人たちに失礼であるからです。学校に来ていない友達も、今は休憩しているだけであり、いつか立ち直る時が来るであろうし、もしそのまま学校を辞めてしまったとしても、その人にはその人の道で頑張る力を絶対に持っているのだと信じます。家族においても、経済的にあまり迷惑はかけないようにするし、協力もするけど、心配はしていません。わたしの父と母ならきっとどうにかなる!と思っています。自分の将来についても、先が見えなかったり、迷いが生じたりして不安になることがよくあります。しかし、自分が自分を信じないで、心配ばかりしてどうするんだ!と思いました。それに見合う努力はしなければ意味がないけど、自分を心配することはもっと意味がないと思いました。わたしは、周りも自分も受け入れ、信じたいと思いました。今すぐそれを出来るわけじゃありませんが、これからの大学生活でいろんなことを学び、教師になっても生徒たちを通して自分も成長し、いろんなものを受けとめられるような器の持ち主になろう、と思いました。

 この授業で、自分の価値観やこれからを決めるようないろんな深い言葉に出会えてよかったです。これらの言葉は今から生きていく上での糧になるはずです。そして内沢さんの授業みたいに大学生にとっても飽きずに夢中になれるような楽しい授業を出来るようになりたいと思いました。



本当の授業

2008入 健康教育専修 Sさん



 小学校のころ、授業中によく聞いていた言葉。それは「静かにしなさい!」「席を立たない!」「こっちを向きなさい」などの「授業を静かに集中して聞きなさい」という児童へのメッセージが含まれた言葉でした。私も何度か注意を受けたことがあります。私の場合、友達とのおしゃべりが楽しくて、授業そっちのけでおしゃべりをしていて怒られたのですが。小学校の低学年のころは特に、これらの言葉を頻繁に聞きました。一番印象に残っているのは、チャイムが鳴っても先生が来ておらず、男の子の何人かが席を立ってふざけあって遊んでおり、先生が来たときに「こら−!ちゃんと席について教科書を読んで待っとかないとダメでしょうが!」とものすごい剣幕で怒っていたことです。まだ先生の言うことは絶対で、何でも素直に従って疑うことを知らなかった私は、「チャイムが鳴ったら席について教科書読んどかなくちや」と思っていました。教科書を読んで待っておくまでは至りませんでしたが、きちんと席に座って先生を待っていたのは覚えています。そういったことは覚えているのに、授業でどんな事をしたとか、何を勉強したとかはあまり覚えていません。知識として残ってはいても、どんな授業で学んだのかなどは覚えていないのです。

 徳田ひろみさんの国見小学校の2年生に行った仮説実験授業のビデオを見せていただき、お話も聞かせていただくと、私の授業に対する考え方が180度変わりました。徳田ひろみさんの仮説実験授業では、子どもたちは一時も静かにしていないし、席も平気で立ち上がります。おまけに教室を歩き回ったりもします。私が小学校のころは1クラス40人。徳田さんのクラスは20人いかない程度でした。少人数のクラスだから子どもたちが静かにしなくても、ビデオで写っているほどはうるさくないのかな、など考えていましたが、徳田さんは子どもたちに向けて話すときはいつも大きな声を出していました。叫んでいるというわけではないのですが、そのまま授業の1時間を話し続けては、声が枯れてしまうのではないかと思いました。しかし、徳田さんはそんな子どもたちに一切「静かにしなさい」「先生の話を聞きなさい」とは言いませんでした。席を立つ子に対しても「座りなさい」とは言いませんでした。

  これはあとでお聞きした話なのですが、席を立った子は、興味を持ったからよく見ようとしていたから注意しなかったのだとおっしゃいました。そして不思議なことに、あんなにおしゃべりをしているなかで徳田さんは話しているのに、子どもたちはその話を聞き洩らすことなく聞いていて、徳田さんの言うことに逐一反応していました。なぜなんだろう?と思いました。聖徳太子?とも思いました。私が子どものころ授業中におしゃべりをしていた時は、先生の話など耳に入っていませんでした。そんなことを考えながらよくよく見ていると、そのうちあることに気づきました。子どもたちが話しているのは、すべて授業に関することだったのです。しゃべったり、席を立ったりしていても、授業への集中が途切れる様子はなかったのです。というよりも、授業にのめり込んでおり、次が知りたい、もっと知りたいなど興味は尽きない様子でした。私はこのことに気づいた時、授業の本当のあり方って、実はこういうことなんじゃないかな、と思いました。

 私は、小学校の頃の授業はあまり覚えてないと先ほど述べました。それは、授業に興味をもって臨めていなかったからなのだと思います。授業中に関係ないおしゃべりをしていたのも、授業よりもおしゃべりの方に興味を持ってしまっていたから。現に、私が覚えている授業といったら、朝顔の種を植えたり、買い物を実際に街に出てしたり、図工や家庭科でものを作ったりという授業しかありません。また、授業ではないのですが、4年生の時の「自学」という宿題が特に印象的で、自分で1冊ノートを作り、A・B・Cそれぞれの項目の中から一つずつ毎日やっていくというものでした。やりたい子は一つと言わず、複数やっても構いませんでした。それぞれの項目の中には自分の苦手なものもありましたが、違う項目の好きなものと組み合わせたり、先に全部やってしまって後に好きなものばっかりするなど、自分で考えながら楽しく宿題をすることができました。自学のノートは今でも大切に家に保管してあります。このように、興味を持ったり自分から学習しようと思えたものに関しては、しっかりと記憶に残っています。

 授業というのは、子どもたちにいかに興味を持たせながら、また、引き込みながら行えるかが大切なのだと徳田先生の授業を通して感じました。ただ学ばせたり、教えなければいけないことを教科書通りに淡々と教えていくのではなく、子どもたちが興味を持って学んでくれるにはどうすればよいのかをしっかり考えて授業を工夫していくことが大切だと思いました。「チャイムが鳴ったら席について教科書を読んでおく」というこの言葉。違和感があるのは、チャイムが鳴ったら授業の始まりだと言っているからなのだと思いました。

 授業の始まりは、先生が授業の内容に入った瞬間から、子どもたちが興味を持ち始めた瞬間からなのではないかなと思います。それが本当の授業の始まりなのはないかと感じました。私は教師を目指すにあたって、「自分はちゃんと子どもたちに教えられるだろうか。教科書通りやれるだろうか」とそんなことばかり不安に思っていました。しかし、今では、子どもたちに教えていくのに教科書の内容をどのように工夫していこうか、そんなことを考えるようになりました。たっちゃんの授業を受けて、授業に対する考え方を変えることができました。



たのしい学びのすばらしさ

2008入 教育専修 F君



 私は今まで、日本の子どもは国際的に学力が低いのに無気力でだらしないと思っていた。しかし実際冷静にデータを分析してみると、何かが違うことが分かり始めた。新聞などメディアでは、国際学力調査の上のほうだけが切り出されている。これでは、たくさんの参加国があるのに日本が低いレベルにあるかのような錯覚に陥ってしまう。何の気なしに眺めていたら、単純に学力が下がっている、大変だと動揺するばかりである。全参加国を比較してみたら、日本は確かに世界のトップクラスに位置しているし、むしろここまで長い間それを維持していることに感心してしまった。ところが、意欲・感心・自信の低さは私の想像を大きく超えていた。せいぜい世界でも中の下くらいだろうと推測していたのに、なんと本当に世界最下位ではないか。内沢さんが提示した資料は、私に衝撃を与えた。冒頭の、日本の子どもは「無気力でだらしない」という感覚は、私が高校生までの当事者であったころから抱いていたものだ。授業中は眠ったり、携帯電話をいじったりする。今思えば、問題なのは、生徒たちが学びという営みに興味を示さないということだ。第2の柱のレジュメにあった、国際学力調査を「学力コンクール」のように大人たちが捉えている風潮は、学校の塾化につながり、家庭、ひいては子どもの勉強イコール受験の武器というイメージを無意識に根付かせる。最近では中学受験のために塾に通う子どもも少なくは無いし、塾と提携を結ぶ中学校もあらわれた。これが時代の求める学習の側面であることは事実なのかもしれないが、学びのたのしさを教える場が少なくなってきていることもまた事実なのだと実感した。

 「学力が高いのに意欲が低い」「学力が高いから意欲が低い」。このように発想してみたら、日本の教育が抱える問題がみえてきたように感じた。板倉さんの学習意欲逓減の法則、「学習意欲というものは、その事柄についての教育が普及し、学習の物質的条件がととのえばととのうほど低下する」「教育が普及してくると《先駆者効果、エリート効果》が期待できない」この二つは、最初は得心がいかなかったが、講義が進むにつれ理解は深まったし、結果もこれを裏付けていると思う。また、学びの原点が真似ということには納得だが、板倉さんの言うとおり国家単位としての日本は真似される側になってしまったようだ。にもかかわらず、国民性としての「みんな一緒に」精神を払拭できないまま、これからを担う子どもたちに活力がないなんて、学力以前の大問題だと思う。ふと、子どもの立場に立ちかえって、自分はどんな授業だったらやる気が出たかなあと考えたことがある。両親や先生が褒めてくれたとき、野外活動や社会見学など外へ飛び出したとき、みんなで予想を立てて、実験したとき等が浮かんだ。そこには、学びの楽しさと何らかの興味・感心があったはずだ。「もし原」や「おおかみ」の授業は、それらを刺激する手立ての一つになり得ると感じた。

 私は理科が嫌いだった。今も正直嫌いだ。なんとなく大嫌いという表現は適当ではないかもしれないけれど、なんとなく大嫌いだった。きっと教師が嫌いな分野の授業は、教師もおもしろくないのだから、子どもたちにも伝わって、たのしくなくなってしまうだろう。それはつまらない。昨年内沢さんの授業でも「もし原」をやったが、「小学生に原子分子なんて、今の自分でも無理だ!」と思った。しかし、徳田さんの講演や授業風景を観て嬉しくなった。教育の副主人公といえる徳田さんも、もちろん主役の子どもたちも、みんな楽しそうだった。そのうえ、捉えるべきところはきちんと捉えている。子どもたちの好奇心の深まりや、戦争や環境問題に渡る想像力の豊かさには舌を巻いた。原子・分子は小学校の低学年でも無理なく扱え、なおかったのしい。これは今まさに必要とされている内発的な動機づけに一役買いそうだ。

 また、仮説実験授業は理科ばかりだなあと思っていたが、「おおかみ」の授業は詩の空欄を埋めるもので、ここでも最初は小学校低学年に教材として成り立つのか疑問だった。ところが、片岡さんの授業の様子と子どもたちの反応・感想は実に興味深いものであった。確かに子どもたちは空欄を埋めることに四苦八苦していたし、感想でも「むずかしかった」「最初はわからなかった」「できなかった」の言葉が目立つ。しかしそれ以上に、「とてもたのしかった」「一つでも当たって嬉しかった」という感想が多数を占めている。他にも、「発表できなかったけど楽しかった、良かった」というものもあった。片岡さんが分析しているように、子どもたちは正解を求めるよりその過程である考えることに楽しみを見出していた。すべては、「オレたち天才だ」」という言葉が象徴している。これは実は凄いことなのではないか。学年が上がるにつれ、受ける教育が高度化するにつれ、生徒の自己評価は五段階の三以下が増えていく傾向にあると思う。結果として、いま子どもたちの学習意欲の低下が叫ばれているのだ。

 第2の柱はまだ完全に終わっていないということだが、ここまでの講義を私なりに総括するとしたら、それは「たのしさ」の一言に尽きる。察するに、近年の教育界は現状理想を諦めざるをえないという世界観があった。実際の束縛以上に、彼らは自分で自分を束縛してきた。もはや義務感であるかのように錯覚したのかもしれない。教師はいつしか、自分がたのしむことを忘れてしまったのだといえる。「自分の人生を主人公として生きる」感覚は、子どもも教師もたのしい授業につながり、たのしい授業は学習意欲向上につながる一因となる。私もたのしい学びを続けていこうと思う。そう思っていいんだという、確信を得られた。



二人の自分

2008入 家政専修 Yさん



 初めて徳田ひろみさんの仮説実験授業の風景のビデオを見たとき正直「うるさいなあ。なんてクラスだ」と思いました。小学生ですからうるさいのは当たり前ですが、授業中にまであんなにうるさい風景は見たことがありませんでした。しかも、徳田さんはそのうるさい生徒たちを静かにさせるといった行動は一切とらずそのまま授業を進めていました。仮説実験授業は、教科書とノート、筆記用具を使う普通の授業とは違い、実験をして考えたり、実際に実験してみたりして学んでいく授業です。だから、生徒がシーンとなっているのではなく積極的に授業に参加しているという点では元気があっていいと思いました。しかも、相手は小学2年生なのだからこんなものなのかなと見ながら思いました。ただ、1人の生徒が文章を読んでいる時ですらうるさくしているのが気になりました。元気に授業に参加しているのはいいけれど先生が説明している時、文章を読んでいる時ぐらいは静かにすべきだ。他の子に迷惑をかける。ましてや、自分のクラスだけではなくあんなに騒がしいのでは他のクラスにまで迷惑をかけるじゃないか、と思いました。そして、騒いでいる生徒も生徒だが先生も先生だ。徳田さんも注意して授業にメリハリをつけさせたほうがいいのではないかと感じました。

 しかし、徳田さんの授業を違う角度から見てみると生徒たちが「わがままになっていて、いい授業だ」と思えてきました。徳田さんの授業風景のビデオには授業中に勝手に席を立ったり、ちょっかい出してみたり、騒いでみたりする生徒たちが映っていました。しかし、そういった行動ができているのは生徒たちが自分を無理やり抑えていない証拠ではないではないだろうかと思えてきました。また、徳田さんが意思表示している生徒をきちんと受け止めているからわざわざ注意しないのではないだろうかと思いました。

 以前、登校拒否がテーマの講義の時、「登校拒否をしている生徒は、自分の意思をちゃんと表せている。世間や他人に従って生きてるのではなく、自分の人生を自分の主人公として生きている。素晴らしいことだ」と内沢さんはおっしゃっていました。それと同様で、騒いでいる生徒は自分の意思をちゃんと表せて、自分の人生の主人公になれている生徒なんではないだろうかと思います。

 「わがまま」という言葉に私はいい印象を持っていませんでした。しかし、内沢さんの講義を聞いて違う方向からも見れるようになり、「わがまま」というのはいいことなのかもしれないと思えてきて今までとは違うプラスの印象を持てるようになりました。わがままに生徒が授業中に勝手に席を立ったりする。騒いでみたりする。それは、自分の意思を表に出せて、自分にも正直に生きているということだと思います。せっかく生徒が自分の意思表示をしているのに座りなさいとか、静かにしなさいと注意する必要はないのではないではないだろうかと思いました。授業中は静かにしないと先生に怒られると思って、自分を抑え込んで我慢してる生徒もいると思います。そんななかで、自由に動き回ったりできている生徒は素晴らしいと思えてきました。しかも、それを認めている先生方、学校はすごいと思います。やはり、1人の先生が認めているだけでは絶対にああいった授業はできないと思います。徳田さんの回答プリントに、「実際に学校現場に出たときに仮説実験授業ができる環境にあるかどうか」と書いてありました。本当にそうだと思います。いくら、上記で述べたように生徒の意思表示をわがままにさせたくてもできない学校の方が多いと思います。だから、なおさら徳田さんの授業は素晴らしいと思いました。

 いままでなら、一つの考えが出たらそれで終わり。自分の考えに自信があったら、他の意見があっても「そんな考えもあるんだ。でも‥・」と自分の意見はこの1つと頑固なところがありました。しかし、内沢さんの教育行政の講義を聞きながら「発想の転換」をすることで今までの自分の考えだけでは気付かなかった新しい考え、答え、疑問が出てきて面白くということをすることができました。さらに、発想の転換によって生まれた「二人の自分」を認めるということを学びました。というよりも、「二人の自分」と、二人の自分がいることによってうまれる自分の中の「矛盾」を認めていいんだということを知りました。今までは、矛盾が生まれるとすっきりしないし、自分の中で意見がまとまらないから一人の自分は見なかったことにしていました。しかし、認めていいのだと知ることができました。だから、私は徳田さんの授業はいいとも思いますし、よくないとも思います。私は、まだ自分の人生の主人公になりきれていません。自分の人生を時の流れや、親、友達に任せているところがあります。内沢さんの講義を聞いて色々な考え方に触れ、自分を成長させていきたいと思います。



発想を変える事で見えてくるもの

2008入 国語専修 M君



 内沢さんの言葉のなかで印象に残ったものに「〈自由に考える〉とは〈とらわれて考える〉ことである」という言葉があります。最初授業でその言葉を聞いたとき自分は「とらわれている時点で自由に考えられていないんじゃないか」と思っていました。しかし人間は何かにとらわれないと考えられないという事を学びました。発想や考え方を自由にしようとする事は「自由に考える」という考えに束縛されているとも言えるからです。そういう意味でどんな人でも何か自分が信じる常識やルールや考え方に束縛されざるを得ません。本当の意味で「自由に考える」とは今まで自分を支配していた考えから脱却し、また新たな原理・原則に縛られて考えるということです。つまり縛られて考えるということは間違った事ではありません。もし自分が信じる事が間違っていると感じればより理にかなった原理や原則に縛られればいいと聞き、なるほどと思いました。

 第2の柱の講義では、学力問題について自分が今まで知らなかった事や考えもしなかった事を教えられました。最近よくニュースや新聞でもPISA等の学力調査を例に挙げ、学力の低下が問題になっていると聞くことがあります。しかし配られた資料を見て学力調査の参加国が年々多くなっている事に気づきました。それらの国が日本より上位に入ってくると当然相対的に日本の順位は下がります。学力低下の報道はそういう事情を考慮していない事を教えられ、なるほどと感じました。実際日本の子どもたちは同じ水準を保っているにもかかわらず順位ばかりを気にするあまり、大事な事を見落としているんだと思います。しかも下がってきているとはいえ、依然世界の上位にいる事に変わりありません。所謂教育ママのように結果ばかり気にしていては見えない事もあるんだとわかり納得できました。

 実際本当に憂慮すべき事は意欲や関心が世界で最下位レベルだという事です。プリントにあった板倉さんの教育の成果はどのように決まるかの式を見て改めてそれを感じさせられました。正直自分は今まで教育の成果を足し算で考えていました。つまり「学力」+「意欲」で求められると信じていました。しかしこれでは意欲が全く無かったとしても学力がそれなりにあれば成果は出てしまいます。成果だけを見ると正しい教育の方法のように感じます。しかし本当はかけ算で考えるべきなのです。かけ算で考えれば学力がどんなにあっても意欲がゼロなら教育の成果はでません。学力と意欲が両方あって始めて大きな成果になるんだとわかりました。つまりこれからは意欲を高めるような教育が必要だし、先生もそういう授業づくりをしていかなければならないと思います。ここまで話を聞いて思ったのは「確かに意欲を育てる事が大事だとわかったけど具体的に子どもの意欲を育てるにはどうすればいいんだろう」という疑問でした。

 そこでたのしい授業として仮説実験授業が出てきました。この授業では他の子との競争や何かを強制することもなく子どもの好奇心や興味を訴えるような内容があります。子どもの意欲を育てるという意味ではかなり優れていると思います。そして仮説実験授業を実践されている徳田さんの授業の様子を見させてもらいました。最初あのビデオを見て思ったのは授業中も子どもたちが騒がしく途中で泣いたりしている子もいたりして本当にこれが良い授業と言えるのかなというものでした。その後徳田さんの講演や内沢さんの話から様々な事を教えられました。まずあのくらいの年の子どもならあのような興味が湧く授業をすれば騒がしくなるのは当然だという事です。授業への自分の好奇心や興味から出た発言や行動なら別にそんなに目くじらを立てて注意する必要もありません。みんな席に座って静かにしている事が必ずしも良い授業とは限らないとわかり、そういう授業だけがいいんだという考えに縛られていた自分にとっては驚きでした。

 次に先生も生徒と一緒に授業を楽しむ事が重要だと気づきました。徳田さんの授業では徳田さん自身が授業を楽しんでいたような印象でした。その様子が子どもたちにも伝わってより授業に入り込み楽しめていたように思います。内容が原子を題材にしたものなので小学生には難しいんじゃないかと思ったけど予想以上にみんなの飲み込みが早く積極的に参加していたので、これも意欲を上手く引き出せているからではないかと感じました。しかもたのしい授業には多くの効果があるのに自分でやることは難しくないと言われ驚きました。それはただ真似をするということです。確かに言われてみれば中途半端に自分で考えた授業をやるよりはしっかり確立されたたのしい授業をやる方がとても効果的だと思えてきました。また上手い先生や効果的な授業を真似する事で初めて気づく事もあると思います。今回の講義でこのような授業を自分もやってみたいという気持ちを持てました。同時に具体的には他にどんなたのしい授業の実践があるのか興味が湧いてきました。




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最終更新 : 2012.5.3
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