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2009年度 「教育行政概論」
第1回中間 レポート


目次


1 したくないことはせず・させず  教育学専修 Sさん
2 物事をいろんな視点で見てみる  美術専修 Yさん
3 人間って、みんな同じ  特別支援教育専修 N君
4 考え方  特別支援教育専修 T君
5 簡単だけど難しい、発想の転換  教育学専修 T君
6 今と向き合う  音楽専修 Kさん
7 自分の考えの変化  教育学専修 N君



したくないことはせず・させず
─ 相手の立場になって考える ─

2008入 教育学専修 Sさん


 私は内沢さんの授業を受けるたびに、頭が痛くなる。教育学専修で、1年生のときから内沢さんの授業を受けてきたにもかかわらず、内沢さんの言っていることを理解したり、納得したりするのに時間がかかる。発想の転換をすることも得意どころか、大の苦手である。情けなくなるほどだが、内沢さんの今回の授業を受けながら、自分の中で少しずつ内沢さんの教えて下さったいろいろなものの見方・考え方ができるようになりたい。今までの自分の考え方に縛られることなく、内沢さんのようなものの見方・考え方ができるようになれば、毎日が楽しく自信を持ってすごせそうな気がする。

 まず、はじめの授業では、「教育はむずかしくない、教育って特別なことじゃない」ということについて学んだ。はじめてこれを聞いたときには、なんて楽観的すぎる考えだろうかと思ってしまった。教育がむずかしくなかったらどんなにいいことかと思ったが、内沢さんの授業を聞いたら、納得してしまった。教育という営みは、命令や強制になじまず、子どもの自主性や教育関係者の主体性が尊重されて初めて、その効果が期待できる納得的な活動と言えば、だれもが認めるが、むずかしいと思うはずである。私もむずしいと思う。しかしなぜむずかしいと思うのか。それを内沢さんの授業で解決することができた。自主性とはどういうことか。自分が主、自分が主体、主人公、主役…ということである。子どもに何かを求めるということが教育にあってはならない。子どもを無理やり教育しようなんて誰も考えていないはずなのに、そうしてしまっているのが現状である。「そのまま」の子どもたちを大切にしていかなければならない。子どもを無理やり、自分が良いと思っていること・方向、ともすると間違っているかもしれないこと・方向に導こう、変えようと思っているから教育ってむずかしいと思ってしまう。子どもたちを意のままに、自分の都合のいいように動かそうとするから教育ってむずかしいと思ってしまう。「そのまま」の子どもたちを認めていくことこそが、教育の常識であるはずだ。

 子どもも教師も、人生の主人公として生きることが大切なのである。人は変わることができる。しかし、人は誰か他の人に変えられてはならないのではないか。板倉さんのことば「したくないことはせず・させず」─ そのとおりである。私たちは誰もが、他の人に変えられたくはないはずである。だから、教師になる私も子どもたちを変えようとしてはならないし、変えたくないと思う。私たちが自分で正しいと思っていることは、もしかしたら間違っているかもしれない。そんなことに気づかないで、教育の道に進もうとしていた自分のことを考えるとすごく怖い。内沢さんの授業を受けていてよかった。そして、内沢さんの授業で学んだことを踏まえて教育はむずかしいのだろうかと考えると、そうではない。教育はむずかしくない、教育ってなにも特別なことではないと思った。相田みつをの言葉に「そのままでいいがな」という言葉がある。本当にそのとおりである。何も子どもたちを変える必要はないということに気づかされた。

 次に学んだことは、セブン・イレブンの禁句から考えられることである。セブン・イレブンの禁句は、「顧客のために」であるそうだ。なぜこれが禁句なのか。一見すると、「顧客のために」とは、いいことなのではないか。しかしこの考え方には、「顧客とはこういうものである、顧客はこうあるべきである」という決めつけや思い込みがある。「顧客はこういうものだ」という決めつけや思い込みのもとに、何かをしていてはだめであるという考えから、「顧客のために」は禁句になった。常に「顧客の立場で」考えることが大切である。「顧客のために」と「顧客の立場で」─ この二つは同じように見えて違う。

 「顧客」を「子ども」に置き換えるともっとわかりやすい。親が子どもをしかるときを考えてみる。親は子どものためにしかっていると思っている。親は自分の経験から、「自分の子どもはこうあるべきだ」「子どもはこうあるべきだ」と、これまた決めつけたり、思いこんだりしている。子どもが親から叱られても言うことを聞かないのは、「お前のために」といいつつ、それが親の都合であり、それを押しつけられていることを見抜いているからである。「子どものために」良かれと思ってしていることが、「子どものために」なっていない。まさに、「悪事は善意から」である。「○○の立場で」考えることは、誰もが容易にできるはずである。「子どものために」そう思うことで、何か自分の思いだけが強くなり、空回りしてしまい、うまくいかないことが多い。セブン・イレブンの禁句からも「したくないことはせず・させず」だなと思う。

 前半の授業で特に印象に残ったことを述べてみた。これからももっと多くのことについて学んでいきたい。



物事をいろんな視点で見てみる

2006入 音楽専修 Yさん


 最初は内沢さんが「子どもはわがままの方がいいんです」と授業中に話しているのを聞いて、何でそういう考えなのか、その言葉の意味がわかりませんでした。ですが内沢さんからもらったプリントを読んでみるとその言葉の意味が見えてきました。内沢さんのプリントには「他人を尊重することの大切さが分かるのは、自分がわがままになってこそです」と書いてありました。まったくその通りだと思いました。自分の人生を自分が主人公になって自分の選んだ道を歩いているならば、そのことがどんなに充実していて大切なことか自分自身がよくわかっているはずです。だから周りにいる人にも、その人の人生をその人が主人公になって生きていくことを応援し尊重することができるのだと思います。それぞれが自分の人生を主人公になって歩きお互いのことも尊重できるなんて、なんて良いサイクルなんだろうと思いました。

 ただこの授業を受けて実感したことですが、私たちは自分達が思っている以上に固定観念に縛られて一方的な側面からしか物事を見られなくなっています。ですから、たとえ自分の人生を主人公になって歩いていてその素晴らしさを分かっていたとしても、いつのまにか染みついた固定観念を無意識に相手に向けているところがあるのではないかと思いました。なので、私自身もっと気をつけて考えて、相手と向き合わなければいけないと考えました。

 全体を通して特に登校拒否に関するプリントを読んで感じたことは、子どもの視点に立って読んだら子どもの気持ちがすごく分かるし、親の立場になって読むと親の気持ちもわかるという自分のなかでの葛藤や矛盾がたくさんありました。まだそれらはキチっと明確には整理されていませんが、今までの考え方を大きく変えていきました。例えば登校拒否の子が心の病気なんだと言われることについて、私は今まで登校拒否する子は精神的に弱い子なのではないのだろうかという考えがどこかにありました。ですが、内沢さんのプリントを読んでみると、学校に登校している子もしていない子もどちらも普通で健康な子なのだと分かりました。精神的に苦しいことがあって大変な状況にあるのに、無理して元気なふりをしたり、無理に学校に行っているならばその方が心配になります。精神的に苦しいという思いで「学校に行きたくない」という考えをもつのは当たり前のことなんだと気づきました。

 そしてとても納得したのが、今を生き続ければどんな将来の「今」も生きることができるという言葉でした。よく将来を考えて不安になりますが、結局今の延長線上に将来があるのですから、今をどう生きるかによって将来が変わってくるのだと思います。ならば私は私が生きたい将来になるよう今を一生懸命生きたいです。周りの年上の方々からは私の進路を否定されたり理解されないことも度々ありますが、それでも私の人生なので私がしたいと思える道を歩もうと改めて思いました。

 授業の中で出てきた「自己本位」という夏目漱石の言葉は私の中で不思議な言葉でした。少し開いただけだと自分勝手な言葉のように聞こえますが、そうではない。自分にもなんとなくそこに書かれていた文章の意味が分かるような気がしました。それはきっと絵を描く上でも「自己本位」という考え方が必要だと思っているからだと思います。ただ絵を描いて数年しかたっていない私が夏目漱石の言っていたことに共感するなんて、何だか恐れ多くて私がなにか間違っているかもという不安を抱いて、とても不思議な気持ちになりました。

 次に講義の中やプリントを読んでいて、今までの考え方と新しい考え方とがぶつかってあまり整理できないときに使う言葉が「どちらに転んでもシメタ!」です。この言葉を聞くと今までとは違う側面を見れたということが分かり、新しい考え方を自分の中にすんなり入れることができます。内沢さんが話をされたラストチャンスの在籍8年生の話もこの「どちらに転んでもシメタ!」の話でしたが、この話を聞いてから、私の大学生に向ける考え方が変わりました。私の同級生には大学をやめて自分の将来に向けて動き出そうとしている友達がいました。結局その友達は現在も大学に在学し卒業することを決め、最後の単位取得に向け頑張っていますが、私は友達から進路の話を聞いたとき固定観念の固まりで、「卒業した方がいいんじゃない」と言ってしまいました。今思えば友達はどちらの道を歩もうと素晴らしい人生になったのだと思います。ひとつの見方しかできなかった自分を反省しました。

 私は大学4年ですが大学生活で一番実感したことは、自分の生き方は自分で決めて自分で歩むことが一番いいということでした。最初は自分に無理をして他人の目を気にして、他人が望むように生きていこうと無意識にしていましたが、そしたら息詰まって何も楽しくありませんでした。悩んだ末に、自分をそのまま受け入れて自分の好きなように生きることをしてみたら、とても明るく元気に過ごせるようなりました。それから絵も描けるようになりました。内沢さんの講義は前向きに生きられるヒントがたくさんあると思います。講義の中で身につけたいろんな視点から物事を見れる力をこれからも活用していきたいと思います。そして残りの講義で更に鍛えたいと思います。



人間って、みんな同じ

2007入 特別支援教育専修 N君



 内沢さんはいつも何か例外を探しているのか。それとも、世の中の不思議が好きなのか。まったくわからない。しかし、それを教育に持っていくその力はさすが。「イコールは等しくもあり、等しくもなし」。そんな格言から、A=Bは同じようであって同じでないと訴えた彼は、松ヤニを取り出しながら、パイプを滑らせた。同じだからイコールであって、同じではないからイコールではないと、論理的にしか考えることができなかった僕は、そのあとの彼の話に耳を疑った。「人間は一人ひとり違うけど、じつはみんな同じ、一緒だ」。

 なぜそんなことを言い出すか。と、初めは疑問しか抱かなかったが、形状は違ってもアルミという素材が同じならの音も同じで、これを人間に置き換えたら、うれしいことや悲しいこと、苦しいことは確かにみんな同じで一緒だ。ただし表し方が違う。だから人間なんだ、と考えると、不登校での表現のしかたも人それぞれだととらえられる。世間一般の人間は、不登校=逃げという消極的概念が染みついていて、不登校にいい顔をしない。メロンについては、あんなにおいしいメロンを、食べたくないという人がいる。このことに対してみんな深く干渉しようとしないが、学校に行きたくないということに対しては、認めようとどれくらいの人間がするのだろうか。そこから考えると、僕はどれだけ一方通行な考えしかもっていなかったことか。学校に無理をして頑張って行っている子は、「学校には行かなくていいという選択から逃げている」。そこまで言った内沢さんが、学校=牛乳と言っているのは、すごく納得がいくことなのかもしれない。僕が、学校=牛乳、牛乳からしかカルシウムを摂取できないわけではない。それと同じで、学校で学べることは学校以外でも学べるではないか。なんとも内沢さんらしい。

 第一の柱の講義が終りを迎えて、一番大切なこと、まあ、大切なことはいくつもあるが、その中でも、「今を生きる」、今、現在のことに一生懸命になる。何かを「する」ということだけではなく、「しない」ということにも一生懸命になれるか。ここが、内沢さんの研究室を訪れた在籍8年生の事例からも、大切だと言い切れる。8年生に、「どちらに転んでもシメタ」なんて言えるのはすごいと思ったが、頑張れるなら頑張ればいいし、それができないならできないで新しい人生の一歩だ。ここから、「今」の大切さが伝わる。長い文章を誇らなくても、言いたいことを言っているだけで、こんなに説得力があるのは不思議だ。今を大切にするから、「わがまま」になれるのだろう。わがままについても、すごく熱く教えてくれた。われわれが、「子どもの立場に」なって考えているから、子どものために、が生まれてくるのである。「子どものために」しか考えていなかったら、それが果たして子どものためになっているかは、子どもしかわからないわけで、やっぱり大切なのは、子どもの気持ちになっていることかな。

 じゃあ、親はどうすればいいの? 子どもを、こんな風にしたいとか、こういう子どもが立派とか、それぞれ希望があるだろう。でも、実際論、不登校になった子どもにそういう教えをするのは、ただの「子どものために」という思考であり、解決に結びついていない。一緒に暮らせばいい。指導しようなんて考えるからうまくいかない。お互い気持ちよく過ごすだけでいいんだよ。と五味太郎さんがいっている通り、現代の人々は、少々気負いすぎている部分もあるのだろう。だがしかし、そこも、またいい部分であるから、本当に、考え方次第だなあ。内沢さんは、主人公とか主体性という言葉がお好きな気がします。この講義も、主体性について触れているし、わがままについて、このことわざがあります。

 「馬鹿の大足、間抜けの小足、ちょうどいいのは俺の脚。」今の子どもはなんでも言うし、今の親もなんでも言います。世間ではモンスターなんとかみたいに扱われているけど、よく考えると、素晴らしいんですね。わがままでないと、やさしさが生まれてこない、とあるだけに、もしかしたら、わがままという自分を大切にするこの行動が、何かの表現の一角になっているのではないか、とも考えられるかなって。そのわがままを受け止めてあげられれば、やさしい、人間になれるのかなって思うと、教師ってすごい職業だと思います。今の日本は、ほんとに自主性がないのかもしれないですね。ちょうどいい足幅がわからないから人の幅に合わせちゃって、疲れていくんだって言われると、わがままに振舞わないと損じやないかって思ってしまいます。

 言葉の力、考え方の力って、ものすごい能力を持っているような気がします。いかに僕が一方通行の考えしかもってなかったのかとわかると、今まで生きにくい人生を送ってた理由がよくよくわかります。柔軟な考え、そして、間違ってしまう人間のユニークな感性を大事にして、これからもこの講義を受けていきたいと思っています。



考え方

2005入 障害児教育専修 T君



 私は、登校拒否や引きこもりは教育の問題としてニュースなどにもよく取り上げられ、よくないことだと思っていました。周りの人たちも当然同じようにそうとらえているものだと思っていました。しかし、授業を受けプリントを読み、内沢さんは登校拒否や引きこもりは明るい話なのだと考えていて驚きました。それは、子どもたちが自分を大切にして生きて自分で学校に行かないことを貫ける強い子なのだということがわかりました。それに経済が発達した現在では学校に行って就職してという道を選ばなくても色々な生き方ができる。いつの間にか普通は学校に行き卒業したら働くということに縛られ学校に行かない働かないことが怠惰で悪いことと考えていた。その縛られた考えから抜けると登校拒否や引きこもりをしていても全然たいしたことないなと思えました。

 それに加えて登校拒否が明るい話だと感じられたのは、登校拒否を考える親の会の例会に参加させてもらった時だ。行く前は授業で登校拒否や引きこもりは明るい話と勉強したけれども、親の会は沈んだ雰囲気で行われるのではないかと思っていました。しかし皆さん明るい方たちで挨拶だけでなく話しかけていただいたりしました。つらい話は一緒に涙する場面もあったけれどもそれ以上に面白いことに対しては、声を出して一緒に笑っていました。だれも下を向いて歩いている人はいなかった。自分の家族のことを大切に思っていることも伝わってきて、自分が登校拒否や引きこもりを暗いことやいけないことと誤解していたことを申し訳ない気持ちになった。

 内沢さんのところに現れた8回生の話を聞いた時に、私の最初の予想は内沢さんであっても「最後のチャンスだからがんばれよ」と言うと思った。しかし、「どちらに転んでもシメタ」だった。この学生ががんばって卒業できようができまいが、大卒という履歴がつくかつかないかだけで、彼が彼であることに変わりない。どちらになっても、どちらにも苦しみはあるし良さだってあることに気がついた。

 私は、何をする時も人がこう思うからやめておこうとか他人をすごく気にして行動をしていた。自分が勝手に作った「他人の評価」にびくびくし、人を怖がりながら生きていた。授業でフランス人権宣言やエミールで言われているように「他人を害しさえしなければ、人は自由なのだ」ということを学び、自分は人を傷つけていないし、自分の人生なのだから自分が主人公として生きていこうと思った。夏目漱石の『私の個人主義』の「自己が主で、他は賓であるという信念は、今日の私に非常に自信と安心を与えてくれました」の「自己が主で他人は賓である」ということを忘れずにいようと思いました。

 他の授業では、授業を受け感想を書いたら終わりだった。内沢さんは、同じ授業を受けた人の感想文やレポートを配ってくれる。自分では、気がつかなかったことが書かれていて、先生からだけではなく同じ学生からも学ぶことの重要性も学びました。私は、教育行政概論の授業を受けるまで狭い考え方の中で生きていたことに気づかされました。登校拒否や引きこもりのように一般的にこう捉えられているといったことのなかには誤解しているものもあると思う。決めつけたり目をそむけたりするのではなく、柔軟な頭で考えていきたい。

 板倉聖宣さんのことわざ・格言のようにいろいろな見方や考え方ができると、もっと自分の世界が広がっていき人生を生きていきやすくなり、今まで気がつかなかったことにも気づくことができると感じました。そのことわざ・格言の中の「押してだめなら引いてみな それでも駄目なら回すんだ」を活かしていきたい。自分は、すぐあきらめてしまうのでもっと色々なことを試行錯誤しなければならないと思った。そして考えるだけではなく行動に移そう。行動できたら「どちらに転んでもシメタ」の精神で生きていきたい。教育行政学概論は教育に関してだけではなく、これからの人生を生きていくための力を養う授業でもあると感じました。




簡単だけど難しい、発想の転換

2008入 教育学専修 T君


 私が内沢さんの授業で特に好きな講義は、「“発想を豊かにする”ことわざ・格言」についての授業です。私は今まで、一般に世間で言われている方のことわざしか知らず、考え方も偏っていました。しかし、内沢さんの講義を受けてからは、いろいろな見方で物事を考えることができるようになりました。

 中学校の時、私は部活でサッカーをしていました。そんなにサッカーは好きではありませんでしたが、友達や先輩から強く誘われたため、なんとなく入部してしまいました。私は昔からおっとりとした性格で、いろんな事に対して消極的で、人の前に出るのは好きではありませんでした(現在もややそうですが)。サッカーは積極的に動かなくてはならない競技です。私は練習や試合でいつも失敗ばかりして怒られていました。先輩は「もっと積極的に動け!!」と言い、監督も「君の協調的な性格はいいけど、もっと自分からチャレンジしてごらん」と毎回私に言っていました。今思うと、先輩や監督は自分やチームのために言ってくれていたんだと考えることができますが、当時はどうしたら積極的になれるのだろうかと、言われるたびに落ち込んでいってしまいました。かなり悩んで、とても苦しかったのを覚えています。そんな時、私の担任の先生が悩んでいる私を見て一言、「今の自分を好きになってごらん。消極的って本当にダメなことかな?」。私はこの一言でだいぶ救われました。「無理して積極的にならなくてもいいんだ。積極的にならないといけない、ではなくて、あくまでも積極的さも加わればもっと良い自分になれる、くらいの考え方でいこう」。そう思えるようになりました。むしろ消極的なのも、協調性があるということではないかとも考えられるようになりました。そう思うとなぜか肩の力がスーッと抜け、楽にプレイができるようになっていました。担任の先生の一言がなければ、私はきっと中学校の3年間、部活を続けることはできなかったでしょう。とても感謝しています。

 この出来事を、内沢さんの「ダメな自分も認められるようになると元気になる」というプリントを見て思い出しました。これはことわざ・格言集にも載っていた「イコールは等しくもあり、等しくもなし」という言葉にもつながります。消極的と積極的、短所と長所。これらは全く別のことように思えますが、実は表裏一体の関係にあるということをこの講義から学ぶことができました。人間は誰にでも短所があり、長所はその短所によって支えられています。「自分を好きになる」とは、その自分の短所も受け入れて、ありのままの自分を好きになるということなんだと改めてこのプリントを読んで気が付きました。

 最近実は、ちょっと悩み事がありました。夏休みに、参加観察実習に行きましたが、とても楽しかったし教師はとてもやりがいがある仕事だ!と感じると同時に、たくさんの課題も見つかりました。実習を受けさせてもらうということで、受動的になってしまうことが多く、来年の実習では3年生のように、子どもとのコミュニケーションを上手にとったり、授業をうまく進めたりできるのかという不安もとても感じました。自分は本当にこのままで先生になれるのだろうか・・・とまで考えてしまいました。そんな時、内沢さんが講義で、「教育が難しいと思うのは、人を変えようと思ったり意のままに動かそうとしたりするからではないか」とおっしゃいました。ちょうど、「教育って難しいな〜」と思っていた私は、なぜかドキッとしてしまいました。確かに、私も実習で子どもたちに言うことを聞かせようとしたりうまく誘導したりしてしまったと思います。ルソーの授業は始め、とても難しく感じました。

 しかし、著書の『エミール』の「子どもの状態を尊重するがいい」とか「熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ」という記述が印象的でした。私はこれらの言葉から「子どもを尊重する」ということはとても大切なことで、子どもと教師の良い関係を作るためには必要不可欠であることを学びました。講義中に紹介された五味太郎さんの述べるように、「子どもたちをどう育てるか、どう導くかなんて考えないで、一緒にくらせばいいんだ!!」と考えると、教育に対して必要以上に身がまえる必要もないのではないでしょうか。これなら今の私にもできるかもしれません。物事って発想しだいで、考え方も見方もずいぶんかわってくるのだなぁと感じました。このことを来年の本実習の前に知ることができて良かったなと思います。もしこのまま悩み続けていたら、子ども達の前で空回りしていたかもしれません。来年は、「どうしたら子ども達と1日1日楽しく明るく元気に過ごせるか」を考えて実習に臨みたいと思います。

 「発想の転換」はとても簡単なことですが、とても難しいことでもあります。「これは絶対こうだ」と思っているときにはなかなか発想をかえることはできません。しかし、発想を変えた時に見えてくる新しい側面にはとても驚かされます。悩み事だって解決してしまうこともあります。まだまだ、この講義を全体の半分も受けていませんが、このことを強く学ぶことができました。残りの時間もきっと見えてくる新しい世界を楽しみに、この講義を受けていきたいと思います。



今と向き合う

2007入 音楽専修 Kさん



 今回、教育行政概論で内沢さんの講義を初めて受講しました。教育行政概論では、登校拒否や引きこもりに焦点を当て、それらは決して否定的な行動ではないのだということを学びました。実は、私も学校に行っていない時期があります。高校2年の半ばから、高校卒業まで、ほとんど学校には行きませんでした。学校に行かなくなった原因は不明です。勉強が嫌いなわけでもなく、部活が嫌になったわけでもなく、とにかく学校に行きたくなかったのです。今の世の中の風潮が「登校拒否、引きこもり=悪いこと、だめなこと」となっているので、当然、両親や担任の先生からも「学校に行け」「お前が学校に行かないのは怠慢だ」と言われ続けました。当時は私もそう思っていて、「私って何てだめな人間なんだろう」と自分を責める日々でした。

 しかし、私は運良く無事に大学へ入学し、このまま順調にいけば無事に卒業もできそうです。言い方は悪いかもしれませんが、学校に行かなくても進学することは可能だし、高校当時のことを思い返してみると、良いこともたくさんありました。例えば、学校の時間割に拘束されることなく、自分が好きな教科を勉強することができました。さらに、好きな時間に寝て、好きな時間に起きて、私自身はストレスがほとんどない生活を送りました。学校に行かなくても、楽しく生活することはできると思います。

 ただ、こう思えるようになったのは内沢さんの講義のお陰です。内沢さんの講義を受講し、当時のことを振り返って、上記のように思えるようになりました。教育行政概論を受講するまでは、そのような過去を受け入れることができず、「なんて長い時間を無駄に過ごしてしまったんだ」「あのとき学校に毎日行っていれば、もっとたくさん友達ができたかもしれないのに」と、登校拒否を否定的に捉えていたのです。確かに、私は友達が少ないです。でも、友達が少なくて困ったこともありません。むしろ、友達が多いと、争いごとに巻き込まれる可能性も自ずと高くなるので、少ないほうが良いのかもしれません。友達が多ければ多いで、楽しいこともたくさんあるでしょうが、少数派もなかなか良いものです。

 結局、学校に行っても行かなくても、「どちらに転んでもシメタ」ということだと思います。人生、二者択一の場面がたくさんありますが、どちらを選んでも、考え方次第で必ず自分に都合の良いチャンスになっていると考えたほうが、きっと楽しく生きていけるはずです。

 私が最近読んだ本(永井均『道徳は復讐である ─ ニーチェのルサンチマンの哲学』河出文庫)に、狐と葡萄の寓話が載っていました。狐は葡萄に手が届かず、葡萄を食べることができなかったのですが、もし狐の中に「甘い葡萄を食べない生き方こそが良い生き方だ」と、自己を正当化する価値意識が生まれたとしたら、これこそがニーチェが問題にするルサンチマン状態に陥ったことになります。私はこの部分を読んで、やはり「どちらに転んでもシメタ」を思いだしました。ルサンチマンがどうこうというのは置いておき、狐が葡萄を食べることができたなら、それはそれで狐は空腹を満たして満足するし、食べることができなくて、新たな価値意識が芽生えても、それはそれで一つの生き方だと思います。

 「将来何が起ころうとも、“どちらに転んでもシメタ”精神で乗り切ってやろう」と思いはするものの、ふと「ちゃんと就職できるのかな」とか「就職しても、職場環境にうまく馴染めるのかな」とか不安な気持ちになることがよくあります。人間は今しか生きられないのに、まだ来ない未来のことを想像して、不安で夜も眠れなくなってしまいます。しかし、未来は不確実なので、不確実なことをいくら考えても確実なことにはなりません。「私は、僕は、今、どうしたらいいの?!」を読み、そのことに気付かされました。

 未来のことをあれこれ思い悩んで、不安を大きく育てることをやめ、今、現在のことに一生懸命になることが大切だと学びました。不安が大きいなら、大きいことを認めることが、今の自分自身を肯定し、不安の成長を止める第一歩だと思います。そして、今したいことがあるなら、そのことに一生懸命取り組み、何もしたくないなら、何も「しない」ということに一生懸命になることも大事なのだと以前より素直に思えるようになりました。



自分の考えの変化

2008入 教育学専修 N君


 この講義を受けていて自分は多くのことを学んだと思います。それを説明しろと言われると困るのですが、自分の中で整理をしています。内沢さんの講義は1年生のとき以来でとても懐かしい感じがいつもします。内沢さんは初めはわけの分からないことを私たちによく言います。私たちは理解するのに時間がかかったり、結局分からなかったときもありました。しかし、それは私たちが固定概念にとらわれているだけで、見方を変えると「あぁ、そんな考え方もできるんだ〜」といつも気づかされます。これから私の学んだこと、考え方が変化したことを述べたいと思います。

 やはり印象深いのは登校拒否についてです。「たの授」でやった内容をあまり覚えていなかったので自分の考えが初めの頃に戻っていました。その考えは「登校拒否=不登校はいいものではない」です。私がイメージする不登校の生徒は、いつも家の中にいて、ゲームなど自分の好きなことしかしない、とても暗いイメージでした。現に私が中学生のときの友達が急に不登校になって、ゲームをしたり自分の部屋から出て行こうとしなかったのです。私は複数の友達を連れて会いに行ったり、学校に来るように説得をしたのですが、結局再び学校に来てくれることはありませんでした。その子を私は弱い子だとかダメな奴だとか思っていました。みんな学校に勉強しに来るのが嫌でも来てるのに、自分のわがままで来ないとか、逆に腹が立ったのを覚えています。しかし講義を受けてから不登校になった友達はダメな奴ではなく、逆にすごい奴だと考えるようになりました。しっかりと自己主張ができ、強くたくましい人間だと知り、登校拒否は明るい話だということに納得しました。よく考えると自分は学校を休む度胸もなかったし、勉強が分からなくなることを恐れていたのだと思います。親や社会の制度に流されていて、自分の意見をしっかり持っていなかったのでしょう。そう考えると不登校の友達を尊敬しますし、弱い人間は自分だったのに、その子を弱いと決め付けてしまい申し訳なかったと感じています。

 学校に行きたくなくてお腹が痛くなったり吐き気がしたり体調が悪くなったりする症状は異常ではなく正常な証拠でしょう。学校に行くことによりストレスがたまったり、苦痛を受けるのならば当たり前のことである。普通のことだから体が反応してくれるのです。だから登校拒否もその子を異常ととらえるのではなく、正常だととらえる。こう明るく考えると親も子どもも気が楽になると思いました。

 また、ものの見方考え方、発想を豊かにする言葉として「馬鹿の大足 間抜けの小足 丁度いいのは俺の足」ということわざを学びました。これは他人と比べるのではなく、自分がいいと思ったらそれでいいという意味でした。誰の基準でもなく、自分のペースで生きていこうと、心にゆとりが持てるようになりました。私はよく他人と比較して、自分のできなさに落ち込んだりすることが小さいときありました。両親が教師で厳しく育てられてきて、他人ができるのに自分ができないと無性に悔しくて腹が立っていたのを覚えています。なんで自分にはできないのか、できて当たり前と思っていたのでしょう。今考えると自分のプライドの高さには驚きます。大人になった今でもたまに見栄をはったりしてしまします。他人は他人、自分は自分で違っていていいのになぜか比べてしまうこの性格をどうにかしたいです。

 このことわざに出会って私は自分のペースで頑張ればよいのだと考えるようになりました。他人のペースに合わせるのはとてもきついですし、ストレスを感じてしまいます。人生の主人公は自分なのだからもっと力を抜いて、自分らしくあってよいのだと、もっと思うままに生きてよいのだと気づくことができてよかったです。以前よりずっと心が軽くなったようで、学んだ価値がありました。

 私はとてもネガティブ思考なのですが、「どちらに転んでもシメタ!」ということわざが自分に必要な考えだと講義を受けていて知りました。いつも些細なことを気にしてしまい、次の日まで引きずってしまったり、ひどいときには食べ物がのどを通らないこともありました。こんな自分が情けないです。しかしこのことわざを知り、もっと楽観的に、何とかなるさ精神を身につけても良いのだと解釈しました。ネガティブに考えだしたらきりがないし、自分が辛いだけです。この先に人生がどうなろうと、これが運命なんだ、こうなってよかったと思えるようになります。そうなるともっと精神的に強くなれそうだし、人生を楽しめそうです。

 内沢さんの講義は「たの授」に続き教育行政概論でいろいろ難しいことや簡単なことを学んで、本当に自分のためになる講義です。分からないことがあったら素直にコメント用紙に書き、教えてもらい理解できるように頑張ります。これから自分は頑張りすぎず、程ほどに努力していきます。・・・(笑)





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最終更新 : 2012.5.3
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